他者の自伝 ――ポストコロニアル文学を読む

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  • 研究社
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  • Amazon.co.jp ・本 (364ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784327481513

作品紹介・あらすじ

ラシュディ事件、9.11テロ以降のポストコロニアル文学最前線。ラシュディ、クッツェー、ナイポール、サイード、スピヴァクなどの大家から、アミト・チョードリ、ヤスミン・アリバイ=ブラウン、ジャミーラ・シディキ、ゼイディ・スミス、デイヴィッド・ダビディーン、サラ・スレーリといった新鋭まで、英語圏のポストコロニアル文学・批評を、「自伝」をキーワードにして精細に読み解く。

感想・レビュー・書評

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  • 大好きな友人がポストコロニアル文学の研究をしていて、少しでも話についていけるようになりたくて関連本を探してみた。本書は絶版になっていて、購入しようと思うとびっくりする価格だったので初めて他自治体の図書館から取り寄せるという技にチャレンジしてみた。

    正直に言うと門外漢の私には難しくて、特に導入部は何回か寝落ちしそうになりながら読んだけど、だからといって面白くない訳ではなかった。

    元々「植民した側からの目線で語られる」という受動的な形でしか文学に登場してこなかった被植民地の当事者が、自ら語り出す。それがポストコロニアル文学だと考えられている。しかし、例えば、植民地出身とは言え英国の高等教育を受けて英国的教養を身につけた作家が被植民側の物語を語り出したとき、本当に当事者の語りができるのだろうか?こういった、「他者の自伝」を書くこと、また読むことの不可能性を前提として、作家・批評家・読者はどこまでできるのか?

    この難問に取り組むために、まずテクストをよく読もう、と著者は続ける。

    「実のところわたしは、いわゆる「自伝的読解」の誘惑にはできる限り抗いたいと考えている。テクストの指示性を無批判に受け入れ、定式化した自伝的、歴史的解釈に安易に身を委ねてしまいたくはない。個々のレトリック、単語一語にまで注意を払ってテクストが実現を夢見る構造を自分なりに再構築するという、文学研究特有のあの謙虚な野心を忘れたくはない。」
    この誠実さが、つまりは難しかった。

    面白かったポイントとしては、ポストコロニアルという枠組みを意識せずに積読中だった(つまり興味津々な)ラシュディ・ナイポール・サイード・クッツェーについて論じられていて、得した気分。ラシュディとナイポールの印象が私の中でダブっていたのだけど、その作品のキャラの違いがわかって面白かった。

    ただ読む気が増したかというと…
    ・ラシュディの作品は色んな文化へのオマージュが豊富で、これは高度な教養がないと読み解けないやつ…!と恐れ慄いた
    ・ナイポールの『イスラム再訪(Beyond Belief)』がポリコレに欠ける(政治的に正しくない)という指摘があったのは残念だった。この本、実家にあったのを借りてきて積読中だったけど、これを機に序文を読んでみたら確かに偏見の塊で読む気持ちが削がれてしまった…
    ・サイードは読みたい!
    ・クッツェーとは興味関心があまり被らないと感じてしまった。

    それにしても、ラシュディの『悪魔の詩』事件にせよ、ナイポールの『イスラム再訪』のポリコレ問題にせよ、ポストコロニアル文学がイスラム世界と西洋の軋轢を体現しているというのは面白い発見だった。
    ラシュディ事件が冷戦終結と同年代で、対共産主義から対イスラム教への、新しい世界秩序の幕開けのプロパガンダになったという指摘にもハッとした。植民地政策の後遺症が癒えていない中で、文学もその影響を受けるのは当然と言えば当然なのだけど、そう言うふうに捉えたことがなかったので。逆に言うと、イスラム教を仮想敵とするときに、それは自ら蒔いた種だということを西洋は自覚するべきだろう………

    手に入りにくい本なので目次を書いておく:
    序 「他者の自伝」を読む
    一 ポストコロニアル文学を読む
     (1) フライデイの失われた舌を求めて
     (2) 「読むこと」の倫理
    二 『悪魔の詩』とその後
     (1) 『悪魔の詩』とラシュディ事件
     (2) 「見えない男」の弁明
     (3) 雑種性と女
    三 旅する「わたし」
     (1) コンラッド・アタヴィズム
     (2) ナイポールのイスラム紀行
     (3) ダビディーンと「到着の謎」
    四 他者の自伝
     (1) 自伝と批評
     (2) サイードと自伝
    五 クッツェーの(反)告白
     (1) 「わたし」語りを超えて
     (2) 講演者エリザベス・コステロ
     (3) 『恥辱』を読む

    • 地球っこさん
      shokojalanさん

      「何語で書くか?」、1つ問いが生まれると、また1つと、ポストコロニアル文学の奥深さを知りました。
      なぜだかsho...
      shokojalanさん

      「何語で書くか?」、1つ問いが生まれると、また1つと、ポストコロニアル文学の奥深さを知りました。
      なぜだかshokojalanさんの『なくなりそうな世界のことば』のレビューも思い出して切なくなってしまいました。

      そうですね、朝鮮の詩といえば、尹東柱がいちばんに思い浮かびますよね。
      私は茨木のり子『ハングルへの旅』で尹東柱を知って、とても興味を持ったので、ちょっと彼のことを調べてみたんです……あ、長くなってしまう予感、すみません。

      『ハングルへの旅』にあった尹東柱の「序詩」は、伊吹郷氏の訳です。
      で、その6行目、ハングルを直訳すれば「死にゆく」となる韓国語があって、「死にゆくもの」と訳すのが妥当なところを、伊吹氏は、死を生に逆転させたかのような「生きとし生けるもの」と訳されてるんです。

      ここに民族主義的な理解を優先する立場からは批判があるそうです。
      というのも、極端な皇民化政策が押しつけられ、朝鮮の民族文化が滅亡に瀕していた当時、民族詩人である尹東柱はまずそのことを嘆き、惜しんだのであって、「死」を離れては詩の本質から外れてしまう……というのです(『生命の詩人 尹東柱』から引用しました)。

      私は尹東柱が民族詩人というのは、後づけされた周囲の価値観であって、尹東柱の詩への情熱はまた違うと思っているのですが……

      在日朝鮮人の詩人、金時鐘氏は、編訳『空と風と星と詩』で、この部分は「絶え入るもの」と訳されています。「死にゆくもの」に近い訳ですよね。

      この訳の違いは、支配した側、された側からの詩に対する捉え方の違いなのかなと、思ってたことを思い出しました。  

      朝鮮の詩集は他に、金素雲『朝鮮詩集』が好きで、あの時代にハングルで書き続けた詩人たちの詩集なんです。

      この詩集は、日本に渡り日本の文壇に認められていた金素雲氏が日本語で訳されてるんですが、とても抒情豊かな訳詩で、ある意味日本人が好きそうな訳詩なんです。

      そしてその詩集を、次に在日朝鮮人の詩人金時鐘氏が“原詩に忠実な”訳で再訳されたんです。
      それだけでも、詩集の趣が変わって、びっくりしたんですけど、果たして、時代に抗ってハングルで詩を書いた詩人たちの言葉を、同族の詩人とはいえ、支配した側の言葉で訳したものは、本当に伝えたいことが伝わっているのかなと考えてしまったんです。

      もちろんどの訳詩も素晴らしく、どちらの詩集も私の大切な詩集なんですけどね。
      2022/07/12
    • shokojalanさん
      地球っこさん

      共有ありがとうございます。
      本のことについて、こうやって発散するように語り合える相手がいることの幸せを噛み締めています...
      地球っこさん

      共有ありがとうございます。
      本のことについて、こうやって発散するように語り合える相手がいることの幸せを噛み締めています。

      朝鮮の詩について、さすがの深い読みと分析ですね!確かに、「死」と言って切実さを表現するのか、「生」を朗らかに賛美するのかだと、詩の趣が全く変わってしまいますね。地球っこさんの『朝鮮詩集』のレビューも読んだはずですが、改めてお話を伺って新鮮な驚きを感じました。

      一方で、私の頭に少し浮かんだのが須賀敦子さんでした。彼女は詩の翻訳というのは負け戦であることが定められた仕事であるけれども、それでもあまりにその詩に魅了されて訳そうとしてしまう、という趣旨のことをどこかで述べていた気がします。原文の魅力の全てを保全できないにしても、須賀さん訳のウンベルト・サバ詩集が読めたことは私には幸せでした。

      金素雲氏と金時鐘氏の訳業によって日本語で詩が読める環境が整い、また当時の朝鮮人の想いを読み解く力のある地球っこさんがそれを紐解いて紹介してくださっていることを思うと感謝の気持ちが大きくなりました。
      でも、地球っこさんご指摘の通り謙虚な気持ちで読むことが大切ですね。特に日本人であればこそ。いつか必ず読み比べてみたいです!
      2022/07/12
    • 地球っこさん
      shokojalanさん

      私の的外れなコメントにも丁寧なお返事をしてくださり、本当にありがとうございます(*^-^*)
      そして、shoko...
      shokojalanさん

      私の的外れなコメントにも丁寧なお返事をしてくださり、本当にありがとうございます(*^-^*)
      そして、shokojalanさんとお話できて、とても楽しかったです♪

      私は原語や歴史などがわからないまま訳詩を読むことに、ちょっと怖さも感じてたのですが、須賀敦子さんの詩の翻訳に向き合う姿勢、あまりにその詩に魅了されて訳したくなるという気持ち……をshokojalanさんのコメントで知り、翻訳者さんたちの訳詩に懸ける思いに、やっぱりこれからも読んでいこうと、思いなおしました。

      そこでふと思い出したのが、上田敏『海潮音』のなかのヴェルレーヌの詩「落葉」での「Les sanglots long」の訳し方でした。
      この言葉をふつうに訳すと、「むせび泣き」「嗚咽」で、激しく泣きじゃくることなのだそうです。
      それを上田敏は、日本の「秋」のイメージに合わせたのか、「ためいき」と訳したんです。
      この「ためいき」という訳にすごく衝撃を受け、魅了されたことを思い出しました。
      そう、たった1つの言葉の訳で!

      ああ、なんだか話がずれてしまいました。
      でもこんな話ができたこと、楽しかったです。

      須賀敦子さんのウンベルト・サバ詩集、ぜひとも読んでみたいです。
      ウンベルト・サバ、恥ずかしながら初めて知りました。
      それから須賀さんの本も、少しずつ読んでいきたいと思います☆彡
      2022/07/12
  • ポストコロニアル文学を学んでいる(もしくは志している)人は必読ではないでしょうか。

    著者は「現代批評理論のすべて」(新書館)では、サイードを始めとするポストコロニアル研究を大変分かりやすく概説してくれていて、その知識と力量はトップクラスといってよいのではないでしょうか。
    コンラッドからJ・M・クッツェーに至るまでの作家群と、エドワード・サイードからスピヴァクまでの批評家達の理論的骨組みを大変明確に説明してくれています。

    ポストコロニアル文学(および批評)の今と向かっている未来について知ることのできる一冊です。

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著者プロフィール

1966年生まれ。一橋大学大学院言語社会研究科教授。専門は英文学。オクスフォード大学博士課程修了(D.Phil.)。著書に、『日常の読書学――ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』を読む』(小鳥遊書房、2023年)、『〈わたしたち〉の到来――英語圏モダニズムにおける歴史叙述とマニフェスト』(月曜社、2020年)、『他者の自伝――ポストコロニアル文学を読む』(研究社、2007年)など。翻訳に、ウェンディ・ブラウン『いかにして民主主義は失われていくのか――新自由主義の見えざる攻撃』(みすず書房、2017)など。

「2024年 『エドワード・サイード ある批評家の残響』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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