「気づきの瞑想」を生きる―タイで出家した日本人僧の物語

  • 佼成出版社
4.29
  • (6)
  • (6)
  • (2)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 72
レビュー : 5
  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784333023974

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 実際に、瞑想で人生を改善する方法を模索する行動家である、日本人僧侶
    プラユキ・ナラテボー氏の半生と
    そこで得た上座部の瞑想と、日本人向けのすり合わせの記録。

    彼の言うように、実は現代日本人には、深く集中しすぎるタイプの瞑想は副作用が大きいような感じを持つ。
    (私の場合は、頭で考えてのコトでしかないが)

    腕を動かす、チャルーン・サティは、
    一度他のビッパサナで感覚を掴んだ上でなら、
    毎朝、毎晩おこなって、知恵(というか固執から離れる)練習にイイと思います。
    まさに、生きる上での瞑想だと

    氏の本には、どれにも書かれてますし、
    youtubeで動画も上がってますので、
    やってみるといいとおもいます。
    え?こんなもん?
    ですが、
    おすすめ

  • P.250-251あたりが自分にとって今後に生かせるわかりやすい記述だった。

  • もっと自分の混乱を書いて欲しかった。そういう本じゃないのは分かるけど。俺が私小説読めばいいだけなんだけど。

  • タイの仏教について分かる。

  • p49
    それに目を通しているうちに、なんとも切ない思いが私の胸に込み上げてきた。と同時に、「いよいよ時期が満ちてきたか」とどこか吹っきれた感じで、自分のなかでかんぬきがコトッとはずれたような感じがした。開いた扉から顔を覗かせた思いは、今までの自分ときっぱり別れ、思いっきり自己刷新を図りたいという気持ちだった。

    p56
    出家し、黄衣の僧となってほどなくして私は、よき環境での秩序正しい節度のある暮らしというものが、じつは心身の健康に決定的に大事な役割を果たすということを体感することになる。結局、この基本的なところがおざなりにされたり、おろそかになったり、乱れてきたりしたとき、人間の心身というものは不調が生じやすくなってくるようだ。私自身それをまざまざと体験したし、後に心身を病んだ人たちと関わり、彼らの病とその回復に立ち会う機会が増えるに連れ、その確信はより深まってきた。

    身体が弱っていたり、心を病んでしまっている人に、長時間、足の痛いのを我慢させ、じっと座らせたり、どやしたり、棒で叩いたり、滝に打たせたり、なぞなぞのような難問を考えさせたりするのは少し無理があるだろう。それではかえって症状を悪化させかねない。まずは緊張せずに心安らげる場が与えられ、そこで規則正しい生活を送る。そうして心身の安定が図られたうえで、理に基づいた適切な方法で、より繊細な心というレベルに正しくアプローチしていくことが大切ではないかと思う。

    この世に生まれれば、誰しもが多かれ少なかれ身体になんらかの不調をきたしたり、心に不安や苦しみを抱えていたりするものである。だからこそ、健やかな身体、穏やかな心、明晰な頭脳、自由な精神を得たい。「スキッ!」とクリアで清らかに、「スカッ!」と爽やかで晴れやかに、「スコーン!」と突き抜けて、自由闊達・天真爛漫に生を満喫したい。死に赴くときは、なんのわだかまりもなく、安らかに往生を遂げたい。そういった願いを誰しもがもっている。

    ブッダの教えのなかには、じつはこのような現実のニーズに即した、具体的で理にかなった、実践的な方法が事細かに説かれている。死者のための儀式要綱ではけっしてない。ブッダの言葉にしたがって、心身を調えていく作業に丁寧にコツコツと取り組んでいけば、誰でもが心と身体の健康を回復し、洗練された味わい豊かな幸せを得ることができる。

    p76
    今歩いているこの足は、昨日の足でも、明日の足でもなく、また、どこか他のところにある足でも、イメージによって描かれた足でもない。今ここにある現実の足である。この足に気づく。たとえ想念が過去へ、未来へ、あちらこちらへと漂いはじめて今ここに心あらずの状態になったとしても、この現実の今ここの足に意識を立ち戻らせることによって、その状態から醒めていくことができる。これによって、仏教で言う「如実知見」、すなわち、あるがままをあるがままに見ることが可能になっていく。このような「覚醒」や「気づき」を体得しはじめると、緊張したりボーっとしてしまったりせずに、リラックス状態で高度に集中したり、目覚めた状態でハマり込むことなく感覚・感情体験を味わうことが可能になってくる。それによってあるがままの微細な意識の流れやその法則(タンマ)を観る道が開かれてくる。

    p78
    供養はすべて自由意志。「今日は誰々さんの番」などということはない。もちろん僧侶から「出て来い」もなければ、「あれが欲しい、これが欲しい」との要求もない。軒先に村人が出ていなければそのまま素通り。出てきていれば立ち止まる。

    p92
    断食のような苦行を極めても苦の終滅には至らず、また、感覚の忌避や思念の停止といったサマタ系の集中修行によっても苦の終滅は起こり得なかった。そのような自身の体験により、究極的には極端を廃して「中道」を基本に据え、気づきや観察を中心にしたヴィパッサナー系の修行により苦の終滅へと至ったブッダならではの知見が、この四食の教えとアプローチにおいても如実に現れていると思う。

    p93
    お寺ではこの日課が一年じゅう変わることなく続く。日曜日も祝日もない。外側だけを見たら、朝起きて、読経して、托鉢して、食事を食べて、瞑想して、そして寝る。この繰り返しである。しかし、早起きをする、姿勢を正して腹式呼吸で声を発する、朝の光を浴びながら裸足で歩くなどなど、その作業ひとつひとつのなかに、心身の乱れを調律していくエッセンスが凝縮されている。そして、この繰り返しこそが、私たちの心身パターンを根本的に変えていく唯一の方法なのである。

全5件中 1 - 5件を表示

著者プロフィール

1962年、埼玉県生まれ。タイ・スカトー寺副住職。上智大学卒業後、タイのチュラロンコン大学大学院に留学し、農村開発におけるタイ僧侶の役割を研究。1988年、瞑想指導者として有名なルアンポー・カムキアン師のもとで出家。以後、開発僧として、瞑想指導者として活動

「2014年 『脳と瞑想』 で使われていた紹介文から引用しています。」

プラユキ・ナラテボーの作品

「気づきの瞑想」を生きる―タイで出家した日本人僧の物語を本棚に登録しているひと

ツイートする