- Amazon.co.jp ・本 (491ページ)
- / ISBN・EAN: 9784333025503
作品紹介・あらすじ
著者は曹洞宗の僧侶、現在、曹洞宗の外務部である曹洞宗国際センターの所長を務め、日米を往還しています。本書のテーマは、道元禅の真髄「只管打坐」。そこに到る道を、身体感覚を主軸に詳述していくものです。5章立ての構成で、それぞれに対談を付しています。対談者は臨済宗僧侶、調息整体指導者、気功師、ヨーガ指導者、身体感覚教育研究家など、各方面の第一人者です。「坐仏」というときの本当の大乗的意味合いを、「坐る」という行為から明らかにしてゆきます。
感想・レビュー・書評
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骨格や身体のしくみから坐禅の方法を解説してくれます。
坐禅に関する疑問に、分かりやすい語り口、明快な論理で答えを与えてくれます。
各章に付随した 臨済宗僧侶、整体、ヨーガ、気功、身体感覚の指導者との対談も、深みを添えてくれます。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
冒頭パスカルと禅の話は
画期的だった。
「休息万事 放下諸縁 一切不為」をうたう禅は
パスカルの「まったき休息」の答えになるというもの。
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P33
坐禅は、人間の跡形が一切残っていない、
人間が尽き果てたところで行われていなければ
なりません。
「人間が尽き果てたところ」にしか
くつろぎはおとずれないのです。
道元はそういう坐禅のことを
「仏行」と言いました。
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P74
有為の行法は
「ちからをもいれ、こころもついやして」行われる。
必然的にそこには自分、「オレ」という主体的な
意識が出っ張ってきて、全てをマネージ(管理)し
コントロール(統制)して、
所定の目標を達成することを目指すというかたちになる。
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いわゆる「諸法無我」をこう説明されたの初めて。
すごく新鮮に思った。
つまり(人間的な)「求める」から「我」が生じるのであり、
(禅的な)「待つ」「くつろぎ」に「我」はない。
諸法に我はなく、
人間が作り出した概念によって「我」が必要になって
現れた、というわけ。
いままでの靄が晴れて、合点がいった。 -
最初から終わりまで一字一句無駄な言葉はひとつとしてありません。
対談の方々も素晴らしい人達ばかりで非常に学びになりました。
「しよう」とするのではなく「ただ」坐る為の坐禅。
只管打坐の坐禅について理解が深まります。
間違いなく読んで損はない一冊です。 -
読み切れなかった。
でもどうやら瞑想と座禅は全く別物、”姿勢が大事” ということがわかった
そして、「座禅は人間のためにはなんにもなりません」「30年座禅したら30年年を取るだけ」ということに衝撃をうけた -
ひと言で表せば「柔らかい坐禅の本」でしょう。
坐禅について至極当たり前のことが書かれているわけですが、その至極当たり前のことが世間的な考えをベースにしていると難しいのかもしれません。