- Amazon.co.jp ・本 (244ページ)
- / ISBN・EAN: 9784334033132
作品紹介・あらすじ
本書は、「過去の清算」を軸にしてドイツと日本の六十年間の「戦後思想」を比較するものである。
感想・レビュー・書評
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日独戦後思想を戦争責任や国家といった観点から比較概観している。第二次大戦後、同じ敗戦国としてその後の国家形成はしばしば比較されがちだが、もちろん類似点はあるものの思想・イデオロギーの観点から比較すると違いもたくさん見えてきて面白い。自然な結論にはなってしまうが、やはりドイツのナチズム・ホロコーストは戦後に徹底的な批判検証と自省がなされていることが大きな違いを生み出しているように感じた。
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未開人のうちに、かつての自分の野蛮さの鏡像を見てしまい、自分もまたそこに引き戻されるのではないかという不安に襲われる文明人は、彼らを放っておくことができない。
仲正昌樹『日本とドイツ 二つの戦後思想』p149
日本の戦後思想は、マルクス主義の人々(とマルクスを独自に解釈して実践する左派の人々)が、その時代ごとに「何を考えてどう行動した(しようとした)のか」が中心。この点が詳しく書いていないと、文字通り何が書かれているのかわからないのだが、本書はその点をドイツのそれと比較して読み進められるので読みやすい。
言われてみると過去、新聞では「マルクスっぽい理想郷」というものを共通の概念として持っている、その理想郷に向かって進むことを「前提」として書かれていたようにも見える。
それら新聞や本書から読み取れるのは、なんとなく手に入れた民主主義のもとで、なんとなく自由で、なんとなく社会主義/共産主義っぽい理想郷を目指す日本のうやむやさ。逆に、理性における理想をとことんまで突き詰めた結果、人種絶滅という結果に至った後のドイツの厳格さとの対比が読みどころ。
現在、思想における二国間の共通点は思ったよりも少ないようだ。思想に関しては日本はドイツに対して莫大な貿易赤字を出しているのだが、本書にある感じだと、せっかく輸入してもつまみ食いする程度らしい。ただしお互いに「戦前と戦中に全体を覆っていた思想は全否定する」という点だけが共通しているように読める。この全否定の状態から、だれかが一歩踏み出そうとすると何かしら激しい反応が起こる点も共通している。
この「うやむや感」と「厳格さ」という極端に異なる状態にありながら、共通点が「全否定」と「全否定への否定は許さない」というところが、やはり過去に暴走を許した原因か。
日本においては、こうした「全否定する、しない」「マルクスっぽい理想郷を目指す、目指さない」の二項対立を中心。当然ながらこの前提が、なんでそんな前提になったのかよくわからないというか、そもそも自由主義と民主主義の国で、何でマルクスっぽい理想を目指すのか意味不明というか、なんでそんな他人の理想に付き合わないといけないんだよ、どっちでもいいじゃん的な現代の日本で、左派の発言力というか説得力などの全てが失速して復活の兆しが見えない原因にも思えなくもない。
続きの『戦前思想』も手に入れてあるので、その辺りを気にしながら読んでみる。 -
戦後60年、海外ではイラク戦争が起こった2005年に書かれた日本とドイツが辿った戦後思想についての本。こちらも『日本とドイツ 二つの全体主義』と同じく、思想史について手際よくまとめられている。目次は以下の通り
第一章:二つの戦争責任
第二章:「国のかたち」をめぐって
第三章:マルクス主義という「思想と実践」
第四章:「ポストモダン」状況
第一章と第二章では、日本とドイツで戦争責任についてどう考えられていたのかが書かている。「一億総懺悔」で自国の被害者性を強調して、他国への加害者性が最近まで思考がいかなかった日本と、周辺諸国と隣接する領土を失い、東西に分割されてしまって新たに「国家」として出発したために、改めて「ドイツ」とは何かを考えざるを得なかった戦後ドイツの思想状況が対比的に描写されている。第二章の「憲法愛国主義」の立場を取るハバーマスと、日本の「護憲平和主義」の日本のリベラル左派との対比が興味深かった。個人的な感想だが、戦後ドイツでハバーマスらが参加した歴史論争に比べると、日本で90年代に行われた「敗戦後論」論争は後にほとんど何も残さないしょぼい論争だったなあと感じざるを得ない。
第三章では、日本のマルクス主義とドイツフランクフルト学派との比較がされている。この章自体、フランクフルト学派の紹介として良くできており、ネットでフランクフルト学派=極左と短絡的に思っている人たちには是非とも読んで欲しい。マルクーゼは、当時の学生運動の近い立場だけど、アドルノは直接行動に否定的で、日本で云えば丸山真男の立場に近い。なので、日本でフランクフルト学派を敵視する右派は、マルクーゼの印象に引きずられ過ぎだろう。
第四章では、目次の通りに70年代以降のポスト構造主義以降の思想的状況について書かれている。紙面の都合か、この章はやや駆け足気味にその後のポストモダン状況について論じられている。ドイツの現代の思想界の動向について全く知らなかったので、ドイツポストモダン派 vs フランクフルト学派の話は大変勉強になった。あと、東浩紀一人勝ち史観のように感じられたが、日本のゼロ年代の思想のまとめとしては手堅いと感じた。
日本とドイツが「国民国家」として成立後に、現在までどのような思想史が形成されたかが概ね流れとして把握できるので、『二つの全体主義』、『二つの戦後思想』の二冊を続けて読む事をお勧めする。
評点:8.5点/10点。 -
興味深い内容だが、私には難しすぎた。
前書きと第1章で挫折…。 -
大戦の敗戦国である、日本とドイツ。戦後の両国の比較を試みるのがテーマなのか?
マルクス主義思想からポストモダンへ。
法律に厳格なドイツに対し、事後法を適用したことは、傲慢さだろう。-
Note
http://www.evernote.com/shard/s37/sh/90bb7f36-f3d3-4032-97f3-3...Note
http://www.evernote.com/shard/s37/sh/90bb7f36-f3d3-4032-97f3-30cfc9797365/b5258e9d7299f97e454cc4cc79917ff4
2013/09/25
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p.41
「反省」というのは個人の「心の中」の問題であり、独房に閉じ込めて洗脳でもしない限り政治的に強制して”反省させる”ことなどできないので、左右双方とも大前提が間違っている。
p.45
終戦後の責任論のほとんどは、「敗戦という嘆かわしい結果」に至った原因の説明に集中しており、ドイツの場合のように、国家の利害や戦争の勝敗を超えた「人道に対する罪」のようなものが議論の俎上に載せられていたわけではない。
p.68
「敗戦国」という負のアイデンティティ
ドイツの場合、ヒトラーを総統=指導者(Fuhrer)とする第三帝国が「国家」としては全面的に解体して、ドイツ連邦共和国という全く新しい国家が誕生したのに対し、日本では、国家の中核(=国体)である天皇制が政治的な役割は縮小されたものの基本的に維持され、新憲法もその第一条で、天皇が国の象徴であることを明記している。
p.69
少なくとも形のうえでは、国家としてゼロからの出発となったドイツ連邦共和国に比べると、天皇制の下でソフトランディングな体制の転換を通して誕生した日本国は、本当に大日本帝国とは全く別個の国家であると言えるのか疑問に思えるところが多い。
p.98
ホロコーストだけは歴史的に一回的な出来事であり、少なくともドイツ人自身がこれを他の事例と比較するのは許されないという雰囲気のあった当時のドイツの政治文化(1986-87年にかけて起こった「歴史家論争」。時刻の歴史の捉え方という「歴史観」について)
p.113
p.151
身体的欲望を全面的に管理し続けるのは無理であり、無理な努力を続けると、無意識的に抑圧されていたものがどこかで爆発してしまう。ナチス体制は、「内部」に生きている市民たちに対しては身体管理の徹底による秩序化を図ったが、「外部」に対しては、抑圧されてきた欲望を解き放ち、暴力的な残虐行為を行なったと言える。それがホロコーストである。 -
二国の敗戦の受け止め方に生じる違いの、そもそものきっかけを知りたくて手にしてみました。左右に偏りもなく、私なりに整理できそうでよかったと思う。が、後半2章は私のほとんど未知の思想の世界についてだったため、またその補完目的の読書をしなくてはならないハメになってしまったけれど。