「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス (光文社新書)

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  • 光文社
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  • Amazon.co.jp ・本 (259ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334033439

作品紹介・あらすじ

数字データでは語れないさまざまな現実を、いかに取り出すか。

感想・レビュー・書評

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  • こういう社会学の存在には勇気付けられる。

    岸先生の「断片のない」もよかったけど、これで学問として現実味が湧いた。

    1年後とかに、社会学を少し学んでから読み直すのが楽しみ。そのとき私はどのようなスタンスだろうか。

  • カテゴリー化という呪い。どんどん分節化してなにを明らかにしているのだろう。と研究に対して釈然としない時がある。興醒めというのかな。でもそれは研究者の視点やアプローチの工夫次第なのかもしれない。「世の中を質的に調べる」センス、もっと磨いていきたいなぁ。

  • 面白かった。

    研究者である前に人として忘れてはいけないこととか、情報操作の話とか、「入り込む」ということとか、気になっていたことが丁寧に書かれていて勉強になった。
    フィールドワーク=人類学のイメージがあったけど、社会学でもメジャーなんだということが知れてよかった。
    社会調査士という資格があることも初めて知った。(海外の大学院で学んだ場合は取れないのだろうか?)

    P.62-
    興味深いフィールドワークのひとつに、新潟県巻町の1996年に原子力発電所建設の是非をめぐって、条例による住民投票が初めて行われた際の研究がある。運動を進めてきた人に話を聞くと、「反対だという人たち」のほかに「イヤだという人たち」がいることが研究者の山室さんは気になり始める。はじめ、山室さんは原発建設の「賛成ー反対」の枠から完全に自由になっておらず、賛成でも反対でもない「会」の運動を捉えられないでいた。しかし、たまたま発見した会への賛同者名簿のファイルに書かれた「匿名希望の賛同者」の印である×印を発見し、「しがらみ」があって表立って賛同の声を挙げたり、賛同する姿を見せることはできないが、決して住民投票することに反対ではない多くの町民の姿が浮き上がってきた。
    もちろん「しがらみ」に配慮することは少し考えればわかることではあるが、山室さんが名簿を「たまたま」見ない限り確かめることは難しかっただろうし、さらにどのような内容の「しがらみ」なのかは直接「聞き取る」ことからしかわからない。
    社会学者が運動に「はいりこみ」、そこで「語られない部分」を実感することから、人々の問いを構成していくことが〈実践的〉だ。

    P.74-
    社会学者が「はいりこむ」時に自覚しておく必要があること
    ①どのような理屈を建てようとも「はいりこむ」人は、人々の暮らしや現実にとって"余計な存在"であるということ
    他人には入り込んでほしくない、触れてほしくない私の部分に、調べたいと直感する何かがあろうと、社会学者はすぐにあがりこむのではなく、いったん立ち止まり、自らの存在を見直す必要がある。
    ②「はいりこむ」なかで、自分自身に生じる微細な変化を感じ取り、起こるであろう自らの姿の変貌を心地よく受け止めよ、ということ
    よくわからない現実に「はいりこみ」、調べれば調べるほど、その姿は良く見えてくるが、同時に、調べる営みは社会学者がそれまで当たり前だと感じ、考えていたこと、自分たちが生きてきた日常生活を危うくさせる。

    P.121
    差別問題を研究したいと真摯に思い、熱意に溢れていた。今もその思いに変化はないが、若い頃と大きく異なっている点がいくつかある。そのひとつが”正義”の側に立ちたいという思いへの硬直した囚われだ。
    20年前、被差別部落に聞き取りに出かけたときのこと。「〇〇さんは、これまでどのような差別を受けてきましたか」。「そんなん、差別なんか受けたことおませんわ。ここはええ村やし」と微笑みながら、私の問いかけを軽くいなすかのように無視をして、自分が小さかった時の村の様子やこれまで生んで育ててきた子どものことを女性たちは語っていった。
    私が、あたりまえのようにこともなげに女性たちに問いかけた言葉。この言葉や私の振る舞いは、いかに相手に対して失礼で、傲慢であっただろうか。
    社会学の大学院に進み、差別問題の社会学を専攻しようと決め、多くの専門書、調査研究も読んでいた。そうした経験から私の中でできあがっていたイメージ。それは、いかに狭く硬直したものだっただろうか。
    私は自らが抱いていたイメージや理解に見合う話を「聞き取ろう」「探し出そう」「吸い取ろう」として、うまくいかずに"かたまって"しまっていたのだ。
    こうした私の姿を「あんた、失礼なやつやねぇ」などと批判しないで、微笑みながら、おばあさんたちは見事に私をいなしていったのである。彼女たちの微笑みの語りには、普段の暮らしの中で「差別を受けて、対抗し、生きてきた」経験が詰まっていた。

    P.154-
    では、どのように聞き取りをすればいいのだろうか。
    それは「相手とまっすぐに向き合おうとする」ことだ。「まっすぐに」とは、相手の語りの背後に奥深く、はてなく広がっているであろう”語りをうみだすちから””生きてきた〈ひと〉のちから”に対して「まっすぐ」なのである。
    「生活史の語りを聞くと私たちがこともなげにいうとき、被差別部落のある女性のことばが頭をよぎる。『聞く人としゃべる人の気持ちっていうの、そりゃ、しゃべる人の気持ちって並大抵のもんじゃない。聞く人は何気なく聞くんだよ。(私ら)この何十年かかってやっといえるようになったんだよな』。私たち調査者に向けられる婉曲だが痛烈な批判」

    P.178-
    医療や福祉の世界でのカテゴリーによって、周りから勝手に自分の生きている世界のありようを決めつけられている人々がいる。自分たちは世間の人々が考えているような存在ではない、でも多くの「普通」の人々とは、このように異なる世界で生きているのだ、と。
    ニキ・リンコ『自閉っ子、こういう風にできてます!』という本では、アスペルガー症候群を生きる彼女たちが普段どのように感じ、どのように生きているのかを、対談のかたちでわかりやすく、面白おかしく語り出す。
    この語りを読み、驚いた。私の中にある自閉症に対する勝手な決めつけに、確実に亀裂が入っていったのだ。
    さまざまな状況のもと、人々は自らが生きている世界を少しでも変えていこうとして、語り出す。世の中を調べようとする社会学者は、語り出す力を、出来るだけ敏感に感じ取り、自らの分析や解読に利用する必要がある。ただそれは、人々の語りを読み、自分が感動した部分、重要だと思える部分をそのまま切り取ってきて、引用することではない。
    批判や非難の言葉が強烈で印象的であればあるほど、なぜ、どのようにして、こうした言葉が語り出されたのだろうかと、語り出す力の”源”とでも言える何かに向かって想像力を膨らませ、語った人、そして、語りの背後にある現実を調べようとする営み。それが語り出す力と向き合うセンスであり実践の一端なのである。

    P.214-
    大阪教育大学付属池田小学校に男が侵入し、刃物を振り回し、子どもたちを殺傷するという事件があった。レポーターが、事件に遭遇した子どもたちへの配慮など何もなく、まっすぐマイクを向けている。「どんなふうにして男の人は入ってきたの?」映像で見る限り、子どもの答えは、バラバラである印象を受けた。ただ一点、各局のニュース映像を見ていて、共通したことがあった。それは私の心にくっきりと残ったのである。なんだろうか。各ニュースがある子どものコメントを共通して流していたのである。
    広義では、このあたりに学生たちに問いかけていく。「いったいどんなコメントやったと思う?犯人の男の姿かたちに関わるもんや」と。「まだ当時は事件発生直後で、動機や背景なんかまったくわかっていない段階なんや。」「みんなの中にも、このコメントにあてはまる人もおるで。ほら、そこのあんたもそうやし。そこのあんたもや」
    「金髪やった」
    ニュースで共通に流された子どものコメントだ。なぜ、「金髪」コメントが、事件発生直後のニュースで、各局共通に流されたのだろうか。
    みんな『金髪やった』というコメントを聞いて、どう感じた。どう思った。みんなの中にけっこう髪の毛を染めたり、脱色している人はいる、だからといって、みんな、こんなひどい殺人事件を起こすだろうか。もちろんそんなことはない。
    「私は、こう考える。ニュースを報道する側が、子どものコメントを聞いた瞬間、これは使えると思ったのではないかと」
    『金髪だった』というコメントは、男が『普通ではない』ことを示すかすかな痕跡であったのではないだろうか。『普通の人間』であれば、こんなひどいことするはずがない、と。

    P.224-
    「普通」に生かされてしまっている私たちの姿は、エスノメソドロジー的なセンスで「人々の社会学」を調べたいと考えるとき、格好のターゲットになる。
    たとえば、以前、私は障害者フォビアについて論じたことがある。フォビア。すなわち、障害者を嫌ったり、嫌がったりすること。これは私たちの感情に由来するものだろうか。理屈では説明できない生理的な何かに源があるものなのだろうか。無条件で嫌がる人は、実際にどれくらいいるのだろうか。私は疑問に思う。嫌がるとしても、そこには何らかの理屈があるだろう。あるいは、喜んだり、関心を示したり、無関心を装ったりするというような営みの選択肢がなく、ただ嫌がるという反応しかできない結果、嫌がらざるを得ないのかもしれない。いずれにしても、フォビアを感情の世界に閉じ込めるのではなく、私たちが日常、障害者とともにいるうえで用いている「方法」ー障害者と日常どのような関係をつくっているのかをめぐる「人々の社会学」ーの問題として考えてみたいのである。
    私自身、”お風呂でドッキリ”したことがある。
    温泉につかり、湯にとろけながら”無”になることが私にとって最高のリフレッシュだった。いつものように湯船につかり、とろけようと目を閉じる。両手、両足を広げ緊張感をといて、ふと目を開けたところ、湯船のふちのところに、五、六歳くらいの少年が立っていた。”あぁ、かわいい子やなぁ”とまた目を閉じようとした瞬間、私の視線はその子に釘付けになった。彼の両腕は極端に短く、彼はその小さい手で顔をかきながら、そこに立っていたのだ。
    私は、自分が一瞬ドキッとした感触を確かめながら、”無”になることはなく、周囲の様子を観察していた。どうということもなく、ごく自然なふうにみんな湯につかったり、サウナに入ろうとしたり、水風呂でほてった体を冷やしている、でも、何か”つくられた”自然さであり、裏をかえせばとても”不自然な”様子が、そこにあった。特に少年を凝視したり、あれこれ言う人はいない。さりげなく気にならない感じで人は彼のそばを通り過ぎていく。でも、少年のまわりには何ともいえない”戸惑い”がただよっている、そんな雰囲気だ。
    いったい、この”戸惑い”は何だろうか。私の中に生じたドッキリという感覚は何だろうか。
    チラっと見て、あぁ腕に障害がある子なんやなぁ、と見てとった後は、まるっきり他の人に対してと同様に無視すればいいのかもしれない。でも「無視する」とは、ただ相手をみなかったり、相手に関心を向けない、ということではない。「無視する」とは、いま私が相手を”適切に”無視していることを、さまざまな「方法」を用いながら具体的に示すことなのだ。こうしたふるまいはとても微細で、普段、そんなことをしているなんて、気づくことはまずない。でも私たちは、微細なふるまいをさまざまな場面で他者とともに”適切に”実践することで、日常的な自然さをつくりつつあるのだ。他者と出会い、他者とともに日常的な自然さをつくりあげる知識。これは、「人々の社会学」の重要な部分を構成する。
    とすれば、少年を見た瞬間に生じた私の感覚は、少年という他者とともに銭湯という空間を共有する上での実践的な処方が、私の中に欠落していたこと、あるいはその適切な在庫がなかったことに、私自身気が付いたドッキリではなかっただろうか。
    私は、このように”お風呂でドッキリ”した自分の姿に驚いたのだ。それなりに障害者問題を勉強、研究し、実践していたつもりだったが、それでもなお「普通」に呪縛されている自分の姿を突き付けられて驚いたのである。
    私は、障害者フォビアに直接因果関係がある感情などない、と考えている。フォビアの直前に存在するもの。それは、日常のさまざまな場面で、他者として障害者と出会える実践的な処方を、体系的に持ち合わせていない私たちの姿であり、障害者と共に”適切な”関係をつくりあげるうえで、生きた想像力を十分に発揮できていない姿なのだ。

    P.244-
    最近の学生の問題関心をめぐる語りを聞いていると、”自分ごと””当事者性”というものを感じる。端的にいえば、不登校やひきこもりという社会問題に傍観的な立場から関心があるというより、自分自身がそうした問題を生きている磁場に囚われていたり、あるいはかつて囚われていた経験があり、まさに”自分の問題”として悩み、考えてみたいと思っているのではないか、ということだ。
    こうした”自分ごと””当事者性”という視角から、現代の社会問題を考え、現実に接近して調べようとするとき、科学的客観性を装いながら一般的で抽象的な概念や理論を駆使して現実を説明したり、現実から一定の距離をとったり、一段高いところから現実を眺めおろしたりする発想は、調べる本人にとって受け入れがたいものではないだろうか。
    だとすれば、調べる「わたし」のありようまでも捉えなおしていこうとする「世の中を質的に調べる」うえで必要なセンスや、「人々の社会学」というものの見方は、そのまま彼らが”自分の問題”を社会学として位置づけ、考え、実際にフィールドワークしていくうえで、必要なものではないだろうか。

  • 素晴らしい本でした。構成も、文章も明快で読みやすく理解しやすい。おそらく著者が専門家として大事にしていることと通じるからだろうが、必ず「自分がこう思った感じた」ことと、客観的な事実とを、きっぱり分けて書いてある。勝手な押し付けが皆無。これほどクリアなのに、思わず引き込まれて泣いてしまう部分が、いくつもあった。紹介されていた本はどれも読んでみたくなった。とにかく素晴らしかった。ありがとうございました。

  • 社会学のフィールドワークにおいて、研究者自身が自己自身の立場そのものを問いなおされるような経験をすることに目を向け、そうした経験から社会学者はいったいなにを学ぶことができるのかという問題について、著者自身のこれまでの体験を振り返りながら考察をおこなっている本です。

    著者は、近年社会学という営みに注目が集まっているといい、社会調査士という資格制度が進められていることに触れたうえで、そこでは計量的な調査技法にかんしては充実しているものの、質的研究がやや置き去りにされているという問題点を指摘しています。調査をおこなうということは、人びとの生きている現場に踏み込んでいくことであり、調査をおこなう研究者自身が彼らとのかかわりを通じて自分自身が変わっていく過程をたどるとともに、そのような体験を通して研究者自身がこの社会を生きている人びとが生身で体験している真実に触れ、それをともに生きることになるのではないかと考えます。

    本書では、このような経験をもとにしておこなわれた研究の実践例が紹介されています。佐藤郁也の『暴走族のエスノグラフィー』(1984年、新曜社)をはじめ、大衆演劇の世界に飛び込むことで書かれた鵜飼正樹の『大衆演劇への旅』(1994年、未来社)や蘭由岐子の『「病いの経験」を聞き取る―ハンセン病者のライフヒストリー』(2004年、皓星社)など、質的調査における経験そのもののもつ力を示すような例を通して、社会学という営みがもっている、客観的な調査とはべつの可能性が示されています。

    著者の社会学にかける熱い思いがつたわってくる内容でした。

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/699557

  • メルカリ売却

  • 好井さんの社会学のちょうどよいまとめになっている。被差別部落での調査でのやりとり、その具体的なやり取りから自分の立ち位置が明らかになる。

    また、鵜飼正樹さんという大衆演劇に実際入ってフィールドワークしている人がいることに驚く。

    ミクロ社会学って一言でまとめれるけど奥は深い。

  • ビジネス書に慣れてしまうと、とても読みづらい一冊。
    大学時代に受けた「社会学総論二」を思い出した。
    この講義もフィールドワークを専門にしていた先生のものだった。
    書かれていることはむしろ興味がある内容なのに、なぜ読みづらいのか。フィールドワークの世界は対象に一体化することが求められる。
    しかし、それを外の人に伝える時はスイッチを替えねばならない。
    本書は、著者の思いを「好きに語ったもの」だそうだ。ならばよい。
    ただ、社会学(フィールドワーク)が、専門外の人に広く理解されないのは、このスイッチの切り替えが出来ていない点にあるのではないかと感じた。

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著者プロフィール

日本大学文理学部社会学科教授

「2023年 『新社会学研究 2023年 第8号』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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