なぜ勉強させるのか? 教育再生を根本から考える 光文社新書

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  • 光文社
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本棚登録 : 240
感想 : 30
  • Amazon.co.jp ・本 (254ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334033910

作品紹介・あらすじ

学校不信が止まらない。保護者たちは、右往左往の教育改革を横目に、「わが子だけを良い学校に」と必死だ。そのニーズに応えて、「百ます計算」や「親力」といったメソッドが次々と紹介され、指導法のカリスマが英雄視される。勉強の目的といえば、「得になるから」「勝ち組になるため」に収束した感があり、すこぶるドライな経済的価値観が目立つようになった。だからこそ、本質から問いたい。「なぜ勉強させるのか?」と。本書は、「プロ教師の会」代表の著者が、教職生活四十年間で培った究極の勉強論である。

感想・レビュー・書評

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  • 2007年刊行。

     百マス計算・早寝早起き朝ごはん提唱者である陰山英男氏、あるいは親野智価等(?)氏など、いわゆる知識重視派に対して、本書は批判を加え、人間としての力が学校教育における前提で、学校教育の目標をここに置く立場から論を張る。
     まぁ、良くも悪くも「プロ教師の会」の物言いである。個人的な好悪は別にしても、そもそも彼らの社会的使命は、学生・生徒、あるいは保護者の心性が大きく変わった結果、現行の学校制度では立ち行かなくなる(あるいは、既に立ち行かなくなっている)ことを明白化し、その事実を社会に公知させる点にあるだけなのだ。すなわち、処方箋を作りえるような経験も立場にもなく、その任に堪えるようなモノでもなかったと考えられる。そのことがよくわかる一書である。

     人間力構築が知識受領のために必要だということは否定しないが、人間力構築の任を公務員に過ぎない教員に与えられるべきかは困難をはらむ。そんな社会的コンセンサスがあるとは言えないし、精々1日数時間、そして1年間しか担当しない人物にかようなことまで預けられるわけがなかろうし、教師も責任を負いきれまい。
     社会全体の変貌が現行学校制度の制度疲労の要因ならば、学校だけでの対応は困難を来すだろう。その仕組み全体との兼ね合いで、一定の限定的役割しか負えないのだ。

  • 著者は、教育の目的は「知識の伝達」ではなく「人間的な成長」であるという立場をとっています。

    そして標題の答えは「明確に答えを出さない」でした。

    前著「オレ様化する子どもたち」は面白く読まして貰いましたが、本書は心に響く内容ではありませんでした。
    もっと人間的に成長してから読めば違うのかもしれません。

  • 根拠のない自分の思い込みに基づいた一方的な議論を展開していくが、それでいて途中で一貫性も失われていく。

    新書の分量として仕方のないところもあるが、子供の変遷や外国との対比は著者の経験則に過ぎない。特に西欧の教育論はあまりに神の存在に原因を置き過ぎている。

    教育の結果が得られるかどうかは、万人向けの方法論があるわけではないとして、近代主義から脱却した個性を育むゆとり教育の思想部分では賛成しているとしているが、最後の結論では、子供はとりあえず勉強はするものだとして受け入れろと、?な展開をする。

    80年代に社会的な個人ではない、単なる私論が台頭してきたという辺りから、年配者の愚痴のようになってしまった。

    ただ影山氏等の他の教育論に関する部分は読む価値があった。

  • ありのままの自分を断念し、社会的なあるべき姿に合わせるということ

  • ゆとり教育とは何だったのか、
    よく分かりました。

    子供の変化と家庭教育についても、
    納得できました。

  • 学力至上主義に異を唱える。なんのために勉強するのかということに経済観念で考えるのには限界がある。
    今、君たちが最も関心のあることの一つかもしれない。でも、そんなこと考える前に勉強するっていうのも一つの手です。長山 靖生『不勉強が身にしみる 学力・思考力・社会力とは何か』(光文社新書2005)は勉強する意味が見つかるかも。

  • この本はまず、現在の受験戦争の早期化の時代背景を説明し、その後「ゆとり教育」の目的について話し、学校の必要性について説いた後、「学力向上」を求めるだけでは学力は上がらず、近代的な個人(おとな)になることができないことを述べ、最後にこどもにとって、ひとにとっての垂直的な存在(絶対な存在)の必要性について説明し、本を閉じている。
    筆者は近代を「農業社会的な近代」、「産業社会な近代」、「消費社会的な近代」の3つに分けている。「農業社会」では共同体の力が強く、こどもは自身共同体の1個人であるという感覚を持っていた。自分が勉強し、頑張ることが親のため、家族のため、共同体のためになるという感覚が漠然とあった。「産業社会」では、生活の中に「消費」という概念が入り、裕福な家族像を描きながら、家族の一人一人が「個」としての存在を形成していった。「消費社会」では一人一人が「私」という感覚を持ち、それぞれがお互いを主張する関係性に発展していった。そのような時代に生まれ育ったこどもは、幼い時から「私」という感覚を持ち始めた。「社会」があって、「私」があるのではなく、「私」があって、「社会」があるという感覚だ。
    そのような時代のこどもに合わせて行おうとした政策が「ゆとり教育」である。私は恥ずかしながら、ゆとり教育の目的やヴィジョンを分かっているようで、理解していなかった。教育の有り方を細分化し、こどもに決定権を与え、社会にこどもを合わせるのではなく、こどもたちが選択した道によって社会を形成しようというのが、ゆとり教育の目的であり、それによってこどもたちは一人一人が大切にする「個性」を持った近代的個人に成長し、社会を形成していく、ヴィジョンがあったのだと、解釈した。しかし、結局親、こどもが学校教育のゴールは良い大学に入って良い企業に入るというゴール像に縛られてしまったことや、教育の多様化が義務教育時間の削減と教育の細分化という「科目」の面でしか改革が行われなかったことなどから、失敗してしまった(と認識されてしまった)。細分化されても、結局細分化される前の道をこどもは選択した(させられた)ため、細分化される前の道筋だけが残った。また時間に「ゆとり」ができたため、お金に余裕のある家庭は塾などにこどもを通わせ、教育格差が広がった。「ゆとり教育」が終わった今、またこどもの学力を向上させることが学校、家庭の役割であるという考えが強くなってきている。
    しかし学校はこどもの「学力向上」の機能だけではなく、社会のルールや、コミュニケーション能力など、「生きる力」を学ばせる場所である。学校は塾がなくても存在することができるが、塾は学校がないと存在することができない。学校で「生きる力」を学び、その土台があった上で塾などの教育機関で学ぶことができるからだ。だから、こどもは学校に行かなければいけないし、親もこどもは学校に行ったほうがいいと、直感的に分かっている。
    消費社会的な近代において、こども、ひとは自分の考えを主張し、自分の分かっている範囲内で周りの物事を判断するようになってきている。自分は1人の自立した個人であり「私」であるのだ。しかし、人とはちっぽけな存在であり、社会を構成する一要素(その人がいないと今の社会が成立しないという意味で大事な要素ではあるが)でしかない。その事実を認識させてくれる、絶対的な、垂直的な位置に存在するものが、今の日本には無いと筆者は述べる。筆者は日本の中学校で先生をしていたころ、オーストラリアの生徒が海外から交換留学に来て、その子の「決して自分の主観だけで物事を判断しない姿勢」に衝撃を受けたという。それは彼女にキリスト教という絶対的な宗教が存在し、それによって、彼女は自分自身を客観的に評価し、高められたのだと、筆者は考えている。この考えに、自分の過去に見たり聞いたりした経験が重なり、深く共感した。
    現在の消費社会的な時代において、ひとが自立するというのは、自分が1人では生きていけないことを認めることだと、彼は言う。たしかに、勉強し、新しいことを学ぶということは、一度、そのことを知らなかった自分を否定し、それを自分の中に内面化する作業であるし、内面化した内容によって、「私」という存在が再構築されていく。
    自分は「私」であるというありのままの「私」を一度否定し、私はいろいろなものに依存しながら生き、社会という圧力の中で部分的な「自分らしさ」を失い、自分が大切にしたい(とがりたい)「自分らしさ」を内面に持つこと(たこつぼ的な)。これが近代的な個人なのであり、勉強する意義なのだと思った。

  • 「教育」っていう部分は
    一番、文句がつけやすい「処」ですよね
    自分が「評論」した(文句を言った)としても
    まず、自分自身に危害が加えられることが
    ない「処」でもありますね
    ただ、諏訪さんの場合
    現場の先生であるという
    強みが大きい
    一億総教育評論家の時代の中で
    ちゃんと 傾聴に値する一冊だと思う

    本書の中で「そりゃそうだ!」
    と思った人は次の人に
    この一冊を薦めていきたいもの

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著者プロフィール

1941年千葉県生まれ。東京教育大学文学部卒業。埼玉県立川越女子高校教諭を2001年に定年退職。「プロ教師の会」名誉会長。作家。著書に『オレ様化する子どもたち』『いじめ論の大罪』『尊敬されない教師』など。

「2020年 『学校の「当たり前」をやめてはいけない!』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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