「当事者」の時代 (光文社新書)

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  • 光文社
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  • Amazon.co.jp ・本 (468ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334036720

感想・レビュー・書評

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  • 言いたいことはよくわかるし、元新聞記者だけあって文章もうまい。でも、主題に至るまでずいぶん遠回りしたなあという印象も。考えさせられる点も多かったが、充分に論証されていないところもあったように思う。

  • 近現代の左翼思想の変遷と,それの大衆化.
    特別であろうとするために視座をマイノリティに憑依しているにすぎない.
    結局のところ,自分自身の視点から出来る事をやっていくしかない.

  • 早稲田大学政治経済学部中退から、毎日新聞記者を経て、と我々の世代の絵に描いたようなマスコミ人経歴を持つ、フリージャーナリストである佐々木俊尚氏が1970年代からメディアの報道姿勢を決めてきた「マイノリティ憑依」について述べている本である。

    新書判460ページを超える大著である。
    前書きにまず述べられる三つの物語。1927年世界初のトーキー映画の主役が顔を黒人のように黒く塗っていたこと、1964年高校生高野威の中国訪問と南京大虐殺の発見、そして古代日本で崇神天皇六年笠縫邑への天照大神の移転。呆然とするぐらいに脈絡のない三つの話しから本書はスタートする。本書は著者が自らの報道する者としての経歴にそって、自らの思索の末の結論を多く述べようとしてるため、見方によっては散漫な印象を受ける。「マイノリティ憑依」というテーマで、いろいろの現象や考察を紡いでいるが、マーラーの交響曲のように空中分解すれすれの印象も受ける。

    第一章は事件記者の舞台裏を書き、記者クラブの実態に触れ、当局と新聞の、なれ合いでもないが明らかにインサイダー同士としての関係「二重の共同体」のありようを暴く。それは、私たちがとおりいっぺんに思っている、当局とマスメディアの癒着と言うなれ合いではないが、お互いに建前に忠実に胸襟を開かずに維持されている共同体である。

    第二章は「市民」という概念がどのように形成されてきたのかについて述べている。「市民」という概念は幻想であるという認識から出発して、プロ「市民」の実態についてまで考察している。新聞記者は市民運動が嫌いだということは、はじめて知った。これは新聞を読んでいてもわからない。報道する人間にとってはみずからの欲する「幻想の市民」の意見を代弁させる者として便利だから市民運動を使っているだけだと告白している。
    これほど新聞読者にとって失礼な話はないが、新聞記者は「市民」にも「大衆」にも「世論」にも「体制」そのものにも自分はなれないし、またなろうともしないで、アウトサイダーとして、すべてを見下した視座を維持するために、市民運動は使える便利な道具だということを述べている。
    マスメディアの報道は確かに茶番であることがわかる。しかしそれは私たちが想像しているものとはちょっと違うということが第一章につづいてこの章でも知ることができる。

    第三章は、1970年夏のパラダイムシフトについて述べている。それはだれもが「被害者でもあり加害者でもある」という60年代の発見に対して、直接「弱者」を支援することよりも「自己否定」によって、自らの罪を認識して自らの環境に対して行動することが真の弱者支援であるという思想の展開があったことを指す。著者は当時の思想家や若者が、自らが反省することで免罪符を手に入れ、それにより何の権利も無く他者を批判する視座を確保しようとする醜い心理をみごとに暴きだしている。彼らの「行動」とは「自己否定」に至っていない他の人間を非難して攻撃することでしかなかった。自己否定のあとに自分がどのような当事者になるのかという問いに対する答えは当時のオピニオンリーダーの誰も答えることができなかった。

    第四章は異邦人への憑依について語っているが、これは「弱者」や「被害者」の発見とそれに対する同化の歴史について述べている。在日朝鮮人の発見から始まりつぎつぎと新たな「弱者」を作り出しつつ、その過程を通じて誰をも批判できる司祭の地位を固めて行った戦後知識人の姿について述べ、最終的に「マイノリティ憑依」の概念にたどり着く。

    第五章は穢れからの逃避というタイトルで、マイノリティへの憑依が、自らが加害者であることを先に認め、被害者の立場に立つことによる原罪のような現実からの逃避であることを示唆している。

    第六章は総中流社会がこれまで述べてきたことを支えてきたと結んでいる。総中流社会は右肩上がりのなかで、体制も反体制も実は裏で手を握って増えたパイを分け合ってきた世界で、結局は思想の対立など(たとえば自民党と社会党の対立など)茶番にすぎなかった。それぞれが立場を温存し、同じスタンスを取り続ける予定調和の世界であったということを述べている。

    さて、私たち50歳代、60歳代の日本人は、小田実、本多勝一といった名前を聞いて種々の感慨をもたずにはいられないはずだ。その感慨は人によって異なるだろうが、1970年代にその名前を聞いて思ったことと、今思うことが違う人が大部分だろう。学生運動に参加した人、「遅れてきた僕たち」の人、いろいろな人がいるが、私たちは私たちの青春に大きな影響を与えてきた、数々のまとめようもないがなんとなく一つの傾向によって共通性の感じられる70年代以降のこの種の日本の社会現象を総括しておきたいという欲求を持っているのではないかと思う。著者の試みはそのような読者に助けになることだろう。

  • とにかく新書にしては長い、分厚いw
    しかしそれだけ'マイノリティ憑依'というものが、この日本社会に深く根強いているのだな、と感じさせられた。良書。

    "マイノリティへの憑依。
    憑依することによって得られる神の視点。
    神の舞いが演じられる辺境最深部。その神域から見下ろされる日本社会。"

    「自分は弱者(の味方)なんだ」ということによって得られる全能感というか、それを全面に押し出して正義ヅラする輩が多いが、一歩間違うと自分もそうなってしまうし、客観性や中立性を保とうとすると「傍観者」になってしまう。

    なら「当事者」であるためにはどうしたらいいのか。
    これに対して佐々木氏は明確な答えは示していない。何故なら、

    "私があなたに「当事者であれ」と求めることはできない。なぜならそれは傍観者としての要求であるからだ。"

    結局、それぞれが自分でやるしかないとのことだ。

    "負け戦必至"だがw うーんやるしかないのか。

  •  難しい。要約する力量はない。だけど、面白かったし、いろいろなことを考えさせられた。新書のページは折り目がびっしり。書き込みや線を引っ張った箇所もたくさんある。
     著者は日本のメディアを、仮想の弱者や無辜の市民の意志を勝手に代弁する「マイノリティー憑依」と、事件記者の夜回りによって生み出される巨大な無意識共同体(=インナーサークルかな。勝手に名付けました)たる「夜回り共同体」の二つの視点の応酬のみで成り立っていると批判している。
     表題となっている当事者を著者は「インサイダーの共同体にからめとられず、幻想の弱者に憑依することのない、宙ぶらりんなグレーの存在」(がっつりと要約)と定義している。
     これらの論考に非常に共感できる。
     マイノリティ憑依という概念が特に目から鱗が落ちたような。日ごろ感じる言葉にできない疑問を呈してくれたようにも思う。
     メディアの報道の中にでてくる「現状を許さない市民」はどこにいるのか?デモで歩き回っている市民団体は、メディアがいうように「市民代表」なのか?
     よく考えるのは「安易に走るな」ということ。落としどころを探したがる。二項対立はわかりやすい。でも、そんなに割り切れるものではない。だから、言葉を尽くすべきだと思う。
     メディアの記者たちがマイノリティ憑依から脱し、当事者性を持つこと。
     メディアが「当事者」となった事例として、身内が被害者となった事故現場を撮影した報道カメラマンと、東日本大震災で被災した河北新報の例が取り上げられる。だが、これらは「否応なく当事者としての立ち位置に巻き込まれたにすぎない」と著者本人が認める。
     当事者意識を持つ方法は自ら探すしかない、と著者は突き放す。でも、方法を提示することが「すでに当事者性が欠如している」という考えも納得できる。探すって、どうやって、とも思うが。

     詳しくは読んでください。

     
     ちなみに、プロローグは「何のこっちゃ」と思う。読み進めていく内に、著者はRPGで範囲魔法が好きだろうな、と勝手に想像する。たくさん現れたモンスターに平等にダメージを与え、全部まとめて叩く。各個撃破が日ごろの仕事だから、慣れるのに時間がかかった。「文脈」の意味がわかったときの「なるほど」感はたまらないし、腹の奥深くにすとんと落ちるけど。

  • 具体的な実例の提示を積み重ね、いつから日本人の言論が当事者性を失い、弱者や被害者の気持ちを勝手に代弁する『マイノリティ憑依』に陥ってしまったかが理解できる良書。

    当事者意識(自分の立ち位置の認識)は持ち続けたいと思った。

  • 当事者としての報道関係者、一個人になろうとするかどうか。その姿勢がこれからの人の生き方を二分する。

    多くの物語、特に報道写真家の物語が考えさせられた。

    組織としての報道に慣れてしまえば楽にはなる。しかし、それとはすこし距離をおけるようにならなくてはいけないと思う。

  • 1)いつ自分が「当事者」となるのかはわからない
    2)これまで「当事者」として-つまり「大人」として-振る舞うことが、免除されてきた。その方法は、「共同体の成員」であるというフィクションを受け入れかつ、「共同体から疎外された被害者」と自身を規定する言説によるもので、それらは本多勝一など戦後の「民主主義」を標榜してきた作家などがつくりだした。
    3)「当事者」であることを受け入れ、自身ができることを考えて、できることをやることが大切。

    共同体との関係、屹立した自己など、佐々木さんのこれまでの主張を、時事問題と併せて語った一冊。

  • 日本の歴史、民族を踏まえながら、戦後から現在に至る日本人の意識の変遷が描かれている。このジャンルは初挑戦のため難しかったが、メディアがどういった役割を果たしてきたのか、被害者意識からマイノリティ憑依、その破綻。そして当事者意識を如何に獲得するかという現代。自分自身が理解できなかったマイノリティ憑依することでの帰属意識を得るという考え方、一方で、いかに当事者意識をもてばいいのかという自分自身が悩んでいたことに対する日本社会全体からみた立場、今自分たちに求められていることがわかった気がする。

  • 現代の日本のメディアが抱えている問題を、思想的な部分から切り込んだ本。

    キーワードとなっているのは「夜回り共同体」と「マイノリティ憑依」で、この二つが盾と剣の役割となって70年代以降の日本のメディア空間を支配してきたが、もはや時代がその欺瞞を許さなくなってきており、一人一人が当事者としての自覚を持つことが求められてきている……という内容。佐々木俊尚さんの記者時代のエピソードや、学生運動の中から「マイノリティ憑依」の方法論が醸成されていく過程など、かなり具体的に書かれている。

    佐々木俊尚さんはITジャーナリストとしての有名だけれども、ここに来て本格的にジャーナリズムのインサイダーにして、21世紀的な情報発信者のありかたについて模索しているようだ。今作の場合、インターネット上で何百万回も繰り返されている「それ、被災者の人に言えるの?」的な言動の本質がどこにあるのかを、かなり的確に指摘していると思う。メディアが「マイノリティ憑依」することは2chなどで厳しく批判される世になったけれども、今はソーシャルメディアが「マイノリティ憑依」の主戦場になっている。

    佐々木俊尚さんがジャーナリストだと思うのは、エピソードを積み上げて論を組み立てていく上手さにある。特にベトナム戦争や学生運動から、メディアが「マイノリティ憑依」を作り上げていく様子は圧巻だった。分量も多く、前作『キュレーションの時代』と比べると、桁違いの情報量だけれど、それだけに無視のできない主張が含まれている。

    東日本大震災で言えば、私は九州に住んでいて地震を少しも感じなかった。震災の情報はほとんどテレビからだったし、日々の生活を送る中で、積極的に関わることは距離的にも時間的にも難しいことだった。感覚的には傍観しているような感じ。でも、最近、市が瓦礫受け入れを表明して、ようやく私自身も震災に向き合うときが来たのかなと思う。

    大震災は日本人に「当事者」の意識を目覚めさせたというけれども、私のように「当事者」になりえない人々も沢山いる。その西と東の分裂のようなものが今度は起きるのではないか? そんな気もする内容だった。

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著者プロフィール

ジャーナリスト

「2022年 『楽しい!2拠点生活』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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