「当事者」の時代 (光文社新書)

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  • 光文社
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  • Amazon.co.jp ・本 (468ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334036720

感想・レビュー・書評

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  • 現代の日本のメディアが抱えている問題を、思想的な部分から切り込んだ本。

    キーワードとなっているのは「夜回り共同体」と「マイノリティ憑依」で、この二つが盾と剣の役割となって70年代以降の日本のメディア空間を支配してきたが、もはや時代がその欺瞞を許さなくなってきており、一人一人が当事者としての自覚を持つことが求められてきている……という内容。佐々木俊尚さんの記者時代のエピソードや、学生運動の中から「マイノリティ憑依」の方法論が醸成されていく過程など、かなり具体的に書かれている。

    佐々木俊尚さんはITジャーナリストとしての有名だけれども、ここに来て本格的にジャーナリズムのインサイダーにして、21世紀的な情報発信者のありかたについて模索しているようだ。今作の場合、インターネット上で何百万回も繰り返されている「それ、被災者の人に言えるの?」的な言動の本質がどこにあるのかを、かなり的確に指摘していると思う。メディアが「マイノリティ憑依」することは2chなどで厳しく批判される世になったけれども、今はソーシャルメディアが「マイノリティ憑依」の主戦場になっている。

    佐々木俊尚さんがジャーナリストだと思うのは、エピソードを積み上げて論を組み立てていく上手さにある。特にベトナム戦争や学生運動から、メディアが「マイノリティ憑依」を作り上げていく様子は圧巻だった。分量も多く、前作『キュレーションの時代』と比べると、桁違いの情報量だけれど、それだけに無視のできない主張が含まれている。

    東日本大震災で言えば、私は九州に住んでいて地震を少しも感じなかった。震災の情報はほとんどテレビからだったし、日々の生活を送る中で、積極的に関わることは距離的にも時間的にも難しいことだった。感覚的には傍観しているような感じ。でも、最近、市が瓦礫受け入れを表明して、ようやく私自身も震災に向き合うときが来たのかなと思う。

    大震災は日本人に「当事者」の意識を目覚めさせたというけれども、私のように「当事者」になりえない人々も沢山いる。その西と東の分裂のようなものが今度は起きるのではないか? そんな気もする内容だった。

  • この本で鮮やかに分析されているところの「マイノリティ憑依」という言説の有り様って、自分個人を振り返ってみてもものすごく思い当たるところがあり、納得。僕は90年代前半に中学生〜高校生で、その頃に身に付けた、いわゆる“社会問題”に対する態度ってこういうものでした。どんなことであっても、「弱者」や「被害者」の立場から見ているつもりで批判すれば正しくいられる、という思考法。それは教師達やメディアの態度をそのままコピーしたようなものだったわけですが、当時はそれが気持ち良かった。大学生になってから、自分は大概の場合そんな「弱者」や「被害者」ではないしそれに寄り添うことも勇気が無くてできないことを思い知らされて、他者を勝手に代弁することの傲慢さや不可能性に気付くわけです。まあ10代のうちにそう気付けたのは高校時代にさんざん「マイノリティ憑依」的な言説に触れていて免疫があったからだと今になって思うので、大学生になってから初めてそういうものに触れて道を誤ってしまうようなことが無くて良かったと思っていますが…。なので、他者への「憑依」ではなく「当事者」となる自分の立ち位置を見失わないことが重要だとする筆者の主張には実感を持って同意できます。でもそれってすごく難しいですよね…。「憑依」もできずに怠惰でいると、単に何も言わないし何もやらない人間になっていく危険性がある。なかなか大変です。

  • 佐々木俊尚『「当事者」の時代』を読んだ。

    私はいつの頃からか佐々木俊尚信者になっていて、最近は全然追えていないけれどかつては毎朝のツイートを読むことが習慣かつ楽しみだったし、今でも週一のメルマガを読むために毎月1000円を払っているほどで、自分でもいったい何のつもりなのかさっぱりわからない。最近は以前ほどの興味はないのだけど、それでも新刊が出たなら早く読むぞ、ということになっている流れに従って読んだ。



    あとがきによると小熊英二『1968』、加藤典洋『敗戦後論』、原研哉『白』に強く影響を受けて書かれたという本書は「<マイノリティ憑依>というアウトサイドからの視点と、<夜回り共同体>という徹底的なインサイドからの視点の両極端に断絶してしまって」「この極端に乖離した二つの視点からの応酬のみで」成り立ってしまっているという日本の言論の成り立ちを、著者の新聞記者時代の経験談、「異邦人」としての戦後の在日朝鮮人、6、70年代の学生運動、古くからの日本人の宗教観、世界初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』に宿るユダヤ人問題等、だいぶレンジの広い話題を横断しながら分析していくというものだった。



    その日本に巣食っている言論の状況に対して著者は「今こそ、当事者としての立ち位置を取り戻さなければいけない」と熱っぽく語っていて、その処方箋は「メディアの空間に脚を踏み入れる者が、インサイダーの共同体にからめとられるのではなく、そして幻想の弱者に憑依するのでもなく、つねに自分の立ち位置を確認しつづけること。完全な<加害者>でもなく、完全な<被害者>でもなく、その間の宙ぶらりんのグレーな状態を保ちつづけること」とのこと。至極まっとうで、まあ、なんか、そうだよな、と思った。新聞記者時代の経験から書かれた一章、二章が特に面白かった。



    思い出すことが二つあって、ひとつは震災直後のタイムラインで、誰もが深刻なツイートをしているなかで年下の知り合いが友だちとご飯食べてきた楽しかったぴょんぴょん的なツイートをしているのを見て、これはなんか場違いというかちょっとどうなんだと思って今はそういうのはやめといた方がいいんじゃないのというダイレクトメッセージを送った私で、もうひとつは最近は見ないというかミクシィならではの現象だったのかもしれないけれど殺人事件の記事に対して加害者に信じがたいほどの強さの憎悪コメントをぶちまけるたくさんの人々で、どちらについても、いったいお前は誰なんだ、誰の言葉を代弁しているんだ、と思っていたのだが、あれこそがまさに憑依だったんだなと。私は被災者に憑依することで単純にいま自分が見たくないものを排除しようとして、ミクシィの人々は被害者遺族に憑依してどれだけ罵っても反撃できないサバルタンとしての殺人犯を糾弾し日頃の鬱憤か何かを晴らそうとしていた、ということだったのだと思う。マイノリティ憑依というのはたしかに便利で無敵でだからこそ非常な暴力装置として機能する。これはよくよく注意しないといけないなと、そう思いました。



    それで、当事者としての立ち位置を取り戻せということだったのだけど、当事者としての立ち位置の難しさということはやはり震災のときに強く感じたものだった。同じ国の地続きの場所でどうしようもなく大変なことが起きていて、でもそのことを私が知れるのはパソコンのディスプレイを通してだけで、西日本に住んでいる身としては生活になんの変化もなくて、圧倒的な日常が続いていて、そういう状況のなかでどんな当事者意識を持って、どんな振る舞いが可能なのか、悩んだとは言わないまでも困難さを感じていたことを覚えている。実際あのころ、震災の非当事者という当事者性を引き受けて体現できていた人なんてどこにもいなかったような気がする。誰もが「被災国日本の国民である自分は震災の当事者である」というような顔をしていて、本当に、本当にそれをあなたはちゃんと心底で感じられているのですかと私は問いただしたかった。自分だけがこんなにぼんやりとした恥知らずな人間なのかと、そこまでは思わなかったけれど、一枚岩のような「国民」のみなさんの言動は私を大いに戸惑わせた。

    当事者性を獲得する最後の手段のような感覚だったのか、数万円分の金銭および物資の寄付をしたものの、結局それで得られたのはちょっとした免罪符だけでしかなくて、偽装の当事者性すら得られないまま震災は自分のなかでどんどん薄くなっていった。店を始めてから震災後の移住者の方々と知り合う機会が何度もあったけれども、この人たちと自分には決定的な断絶があるように感じ続けていた。そんな中で今年の3月11日の午後に感じた奇妙な緊張と泣きそうな感覚は、あれは一体なんだったのだろうか。一体なんのつもりなのだろうか。



    それはいいとして、本書は面白かったは面白かったのだけど、たぶん私が佐々木俊尚という人に求めているのはこういうものではないんだろうなというのはよくわかった。『「キュレーション」の時代』や『2011年新聞・テレビ消滅』や、あるいはメルマガで書いているような、現状の分析から来たるべき未来を投射するものを読んでマジっすか、そんなことになっちゃうんすか、それはちょっと楽しみかも、という感じでワクワクさせてもらいたいだけなんだろうなと。

    それと気にかかったのが、準引用みたいなものだとは思うし書き方の問題でしかないといえばそうなのだけど、たとえば津村喬の『われらの内なる差別』が書かれた経緯を語るところで「早稲田のキャンパスの近くにある下宿の四畳半は、日が暮れてだんだんと薄暗くなってくる。続行しているバリケード封鎖のことを気にしつつ、次の一行をぼんやりと考えていると、李智成の短い遺書の向こう側に、なにか真っ暗な大きな空間がぽっかりと口を開けているように津村は感じた」云々というような描写がされて、こういう感じに登場人物の心象風景が描かれる文章がところどころに入ってくるのだけど、これってまさに憑依してるんじゃないの、というのが違和感として付きまとった。当然、これらは本書で言っているマイノリティ憑依というものとは異なる文脈に属するものではあるとは思うけど、なんだか、そういうところに接近してしまう危険性をはらんではいないかと感じた。何かからの引用ならちゃんと引用として書けばいいのになと。どうなんだろ。そういうもんなんだろうか。

  •  以前書いた「小商いのすすめ」の感想でも、この連続ツイートでも言及しましたが、そろそろ時間も経ったので感想を書こうと思います。

    読書感想:小商いのすすめ
    「「当事者」の時代」に関する覚書

     以下、本文の目次です。

    目次
    マイノリティ憑依
    その問いはおかしいよね?
    無責任な台詞
    当事者の定義
    当事者≒被害者(被災者)
    最後に

    目次

    プロローグ 三つの物語
    第一章 夜回りと記者会見――二重の共同体
    第二章 幻想の「市民」はどこからやってきたのか
    第三章 一九七〇年夏のパラダイムシフト
    第四章 異邦人に憑依する
    第五章 「穢れ」からの退避
    第六章 総中流社会を「憑依」が支えた
    終章 当事者の時代に

    マイノリティ憑依

     本書は、日本人の言論がなぜ現状のようになってしまったのかについてを分析した本です。
     「このように」というのは端的に言えば、例えば「被災者の前でその台詞が言えますか?」とか「被害者の前で言えますか?」といった反論に対する恫喝の台詞のことです。

     最近読んだ武器としての決断思考にあるようなディベート的思考ができないこと。「日本人は議論ができない」という言葉を聞くことがありますが、まさにこの「議論ができない」ことの原因である感情的な反応への一つの答を示しています。

     それを本書は「マイノリティ憑依」と名付けています。
     被災者や被害者などマイノリティに自分の立場を置けば、加害者と考えられる者には何を言っても何をしても良いという考え方。
     「自分は被害者の立場に立っているのだから正しい→加害者は悪いヤツである→悪いヤツには何をやっても良い」という思考です。
     
     では、なぜこの「マイノリティ憑依」が起きるのか。
     それを第一章から第六章までで述べ、終章にこの「マイノリティ憑依」的な考え方に陥らないためにはどうしたら良いのかへの答を提示しています。
     但し、この答は暫定的であり、しかも悲壮なものですらあります。
     タイトルにもある様に「当事者であれ」ということなのですが、当事者であることは楽なことではありません。不都合なこともしんどいことも現実として引き受けて淡々とその時点での最適解をトライ&エラーで見つけ出していこうとしなければならない。

     ですが、今まで日本人はごまかしてきた。当事者であろうとはしてこなかった。いや本当は当事者であろうとした時代もあったけれども、いつの間にか安易に「マイノリティ憑依」という無責任な考え方をするようになってしまった。
     そろそろこの憑依から抜け出すべきじゃないのか?それは苦しいことかもしれないけれど、そうしないといけないのではないか?
     そうじゃないと僕たちの言葉は薄っぺらいのじゃないのか?

     著者のそういう思いが伝わってくる本でした。

    その問いはおかしいよね?

     ところで、僕もこのマイノリティ憑依的な発言というものには違和感を抱いています。というか、むしろ大嫌いです。

     いつだったか石原都知事の批判めいたことを自分がツイートしたときに「自分のお祖父ちゃんの前で同じことが言えますか?」(正確には違ったかもしれません)とリプライしてもらったことがありました。
     僕は「政治家だったら言えます」と答えましたが、冷静に考えてみるとそもそも問い自体がおかしい。
     そもそも僕のお祖父ちゃんは石原都知事ではないし、もう生きてはいないし、いや生きていたとして、その人に僕のお祖父ちゃんが僕に批判された時の気持ちが分かるのか。
    (このアカウントの方が嫌いだったりおかしいとか言いたいわけではなくて、その問いが嫌いなだけです。念のため断わっておきますが。)
     
    無責任な台詞

     「被災者の前でその台詞が言えますか?」という台詞は無責任です。自分が自分であって、他の人ではないということを忘れています。自己と他者の区別がついていない。
     よほどその人と近い立場(同じ被災者とか)じゃなければ、近い感覚にすら立てない。もし同じ被災者だったとしても、全く同じ状況というのはあり得ないし、同じ状況だったとしても感じ方は人によって違う。

     この台詞は、被災者を「被災者」という一つの括りとして捉えているという意味でも無責任です。

     しかし、この台詞を言っている人が悪い人だとは思えません。被災者(被害者)の立場に立とうと考えることは尊いものだと思います。ですが、そこには必ずつかなければいけない条件がある。

     「自分は被災者(被害者)ではない。」ということです。

     あくまで自分は他者であり、被災者(被害者)のことを考えたり、親身になったり、助けになったりすることはできても、被災者(被害者)自身にはなれない。
     その一線を引かなければ、それは被災者(被害者)を利用して持論を展開するだけになってします。その一線を越えてしまった状態が「マイノリティ憑依」なのです。

    当事者の定義

     ところで、本書ではこの「マイノリティ憑依」から抜け出すための方策として「当事者であれ」と強く言っています。

     「当事者」というのは本書の例から取れば「自分が撮影したバス放火事件の被害者を親族に持つこと」であったり、「東日本大震災の被災者」であったりということです。

     自分が被災者(被害者)の立場になること。

    当事者≒被災者(被害者)

     本書は、日本人の言論劣化について分析しています。そのためにマスコミ言論の構造についても述べているのですが、著者が記者出身であることもあり、「マイノリティ憑依」という文脈の為でしょう。本書で言う「当事者」が被災者(被害者)に限定されてしまっている感があります。
    (もしかしたら僕の誤読かもしれませんが。)

     しかし、僕はこの「当事者」という考え方は別に、被災者(被害者)に限定されるものではないと思っています。
     何かと外野から批判して悦に入りがちな日本人に対置されるもの。「徹底した自分目線」のことを僕は指すことができるのだと思っています。

     以前、感想を書いた「小商いのすすめ」に出てくる「ヒューマンスケール」という考え方。
     「責任のない「いま・ここ」に責任を持つ生き方」
     自分が自分であること。他人とは違うということ。代弁できる者など存在しないこと。自分が分かることは自分のことしかないということ。

     でも、これって本来はそんなに凄いことではないのかもしれないと僕は思っています。
     自分が置かれている立場を、ちゃんと知って、その上で、自分がどうするかを選びながら生きていくということ。「分をわきまえる」ということ。「自分のケツは自分で拭くということ」。そして、その上で、社会とのつながりを持つこと。

     「ちゃんとした大人であれ」ということですな。

     僕が「大人」について考えるとき思い出す本があります。一色登希彦さんというマンガ家の書いた小松左京さん原作のマンガ「日本沈没」の15巻で主人公である小野寺が、日本の重鎮的な人物である渡老人に質問するシーンの台詞です。

    小野寺「ちゃんとしたおとなってなんですか?」
    渡老人「…まっとうに借りたものを返せるという事だよ。」 日本沈没15巻p.109より

     このあと、それがどういうことなのか渡老人は小野寺に説明しますが、ここでは長くなるの引用しませんが、「まっとうに借りたものを返せるという事」。きっとこのことは自分という人間と向き合わないと出来ないことなのだと思います。自分ができることできないこと。得意なこと苦手なこと。したいことしたくないこと…etc.

     話がそれました。

     ですが、そうすれば「~の前でそれを言えますか?」とか「君のためを思って」とか、そういう他者と自分の区別がついていないようなことは言わなくなるだろうってことだと思います。難しい事柄についても冷静な議論ができるようになると思います。

     どうも最後はロジックがぶっとんでしまっていますね。まだ、理路整然と語れるほど整理も勉強も出来ていませんが、現時点で直感的に僕はこう思うのです。

    最後に
     
     本書は日本人の言論について。マスコミの構造。学生運動。日本人の宗教観から分析しています。本文では、本書の内容に言及することは避け(内容が濃くて長くなりそうなので)、僕の感じたことを書き連ねました。
     ですが、重層的な構造となっている本書。もっと色々な読み解き方があると思います。ここでは触れていないこともたくさんありますし。
     日本人の「これまで」と「これから」を知る上でとても参考になった本でした。

  • 「それを被災者の前で言えるのですか?」
    勝手に弱者の立場を代弁する『マイノリティ憑依』。
    そういう人は、実は人一倍正義感が強い人だったりするので、とてもやっかい。

    あなたは当事者でないこと。それを認識することが、当事者の時代の始まり。

  • ジャーナリストの視点から描かれた警察とメディアの二重構造は日本の多くの対立構造に適用出来そう。
    マイノリティ憑依とは大胆な呼称だが、その影響の恐ろしさを的確にしめしている。勝手に弱者にのりうつっているわけだ。勝手に傍観者になって批判するのではなく、自分に出来ることをして行こう、と思った読後感だった。

  • 「他人のことを言う前に自分の事をどうにかしろよ。お前にそれを語る資格があるのか」。物心ついた頃から心のどこかで感じてきた違和感を具体的かつ繊細な文章で見事に表現してくれた。読後は正に「腑に落ちた」という感じ。結局、他人に求める前に自分が当事者であることを求めて行くしかない。結論は読書前と変わらないけれど、その過程は驚く程変化をみせた気がしている。

  • #023 当事者の時代
    佐々木俊尚氏新刊、佐々木さんのファンなので迷わず購入。おっさんがおっさんのファンを公言するのもアレだが。Amazon予約での購入だが、今回は配送業者がゆうメールとやらになって、発売後2日で到着。こういう本は予約じゃなくて発売日に本屋で買った方がいいね。渋谷のBook1stでも平積みされてたし。それより、Amazonで買っちゃったので20日のサイン会行けないんだな。ちぇ。
    新書で472ページ。どんだけ詰め込んだんだと読む前から躊躇するも、実際読んでみるとこれまた内容が濃い。濃いと言うよりくどい。前作キュレーションではあらかじめ敷いたレールの上をすっ飛ばすような論調だったのが、今回はケーキのうえにこれでもかこれでもかと生クリームを塗りたくり続けるような感じ、って説明下手だな・・・(笑)。そこまで説明しなくても言いたいことは分かりますよ、と思うのは普段からメルマガ等で佐々木さんの視座に触れているからそう思うのかしら。
    新聞記者時代の経験や、(いつも通り)よくぞここまで広範囲にネタをかき集めてくるなあと感心するくらいの論拠を並べて、自説の裏付けを作り上げて行く。市民運動、人種差別、在日、ベトナム戦争、そして古代日本史。雑然とした感じがしないでもないが、戦後から受け継がれるメディア空間を論じきるには必要なのだろう。
    正直な感想は、「そうなんすかー」しか言えない。「そうじゃないっすよー」と反論できるほどメディア空間に通じているわけでなし、「そうっすよねー」と同調できるほど日本人の言論を憂いてるわけでなし。ちと難しいっす。
    ところでこれ読んでから、ほぼ日の糸井×佐々木対談読み返すと、当事者意識って結構腹に落ちました。これから当事者意識が大切になるかはよくわからないけど。

  • 戦後の思想史・メディア史を振り返りながら、言論のあり方をめぐる著者の考えが語られています。

    戦後の「逆コース」を批判する左翼運動は、みずからのうちにある加害者性に対する批判的なまなざしを欠いていました。しかしその後、エリートの大学生たちによって担われた全共闘運動のなかで、自分たちの立ち位置を批判する「自己否定」が叫ばれます。

    彼ら以上にこの問題を鋭く見つめた思想家として、本書では小田実や津村喬といった人たちがとりあげられています。小田は、彼がリーダーを務める「ベ平連」の運動を通して、日本に戦火が及ぶ悪夢の再来をもたらすかもしれないアメリカ帝国主義を、被害者としての立場から批判するのではなく、加害者としての責任を負う反戦運動へと展開させます。中国で南京大虐殺を知った津村も、遠藤周作の『海と毒薬』があつかったような、われわれ日本市民のうちなる加害者性への告発をおこないます。

    ところが、こうして生まれた「被害者=加害者」の立場はいっそうその批判性を強め、ついには被害者性を欠落させて、被害者に完全に「憑依」して告発するというスタイルが見られるようになっていきます。著者はこのような論者の代表として、朝日新聞の本田勝一をとりあげます。しかし、こうした弱者ないしマイノリティを「代弁」する批判からは、「当事者性」がうしなわれてしまうことになります。社会の木鐸であるはずのメディアが、大衆から乖離するという現在の状況を招いたのは、こうした「マイノリティ憑依」だったと著者は指摘します。

    ほかのレビュアーによっても指摘されていますが、著者の主張が、「当事者性」を担保しなければ語るべきではないという「禁止」としてとらえられてしまうのは問題であるように思います。「当事者性」への要求はあくまで自戒のことばとするべきで、他者を切りつける刃とするならば、語ることのハードルが上がっていってしまうことになるのではないかという懸念を感じました。

  • もし1、2章を読んで途中でやめようと思った人は、我慢して3章を読んでください。
    または、あえて3章から読み始めるのもいいでしょう。
    本書の真骨頂は3章以降にあります。

    では、本書のエッセンスを少し紹介します。

    1960年代の学生運動の本質は、「ベトナム戦争反対」を叫びながら、自分を安全な場所に置いた「ごっこ」だった。(P267)

    その時期に、思想的には小田実の「被害者=加害者論」、津村喬の「マイノリティ視線」という新たな視座が発明され、さらに1970年代になって当事者としての立ち位置を捨てたマイノリティへの憑依によって、自身を神聖な第三者(神)へという便利な視点を手に入れる。(P292)

    またその思想は20年をかけてマスメディアのみならず日本社会の根底を規定するメディア空間の基調となった。(P421)

    マイノリティ憑依の果実は、被害者でない人たちを全員加害者の側に押しやり、自分は被害者の側に立って、加害者を断罪できること。(P325)

    その体現者である朝日新聞の本多勝一を津村はこう評する。「本多は仮借なく批判の身振りによって大衆の中に入り込み、そして宣教師から司祭へと昇り詰める」(P334)

    そして、終章で語られる否応なく当時者にならざるを得なくなった2例を紹介し、SNSという新たなメディア空間に生きる我々は、インサイドとアウトサイドの境界の無い世界の住人となり、情報の受け手だけではなく発信者となる結果、当事者としてやるべきことをやり続ける以外にないと締めくくる。

    戦後今なお日本にはびこる被害者意識がGHQによるWGIP(戦争犯罪宣伝計画)により巧妙に醸成されたのと同時に、日本人自身も60年代、70年代の学生運動の根底に巣くう「いい人でありたい、そのためにはアジア同胞を殺した加害者として自己批判しなければならない、それを可能にした権力は信用ならない」という反戦と反権力という2枚看板が我々日本人としての良心の免罪符となったともいえそうです。

    そして、いつしか日本人は反戦、反権力を唱えていればいい人になれると信じ、道徳的に正義というその心地いいポジションが放棄できず、現実逃避をしてしまったのではないでしょうか?

    一方的な反戦は軍事的緊張感を損ね、かえって戦争の隙を作り、闇雲な反権力は無秩序なアナーキー状態を生じさせてしまうのに。

    どんな問題でも何となく正義という安易な立場から、再度深く自分の問題としてとらえなおすきっかけとなる本です。

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著者プロフィール

佐々木 俊尚(ささき としなお)
1961年生まれ、兵庫県出身。早稲田大学政治経済学部政治学科中退後、1988年毎日新聞社入社。記者として勤めたあと、1999年『月刊アスキー』の編集部デスクに転身。2003年退職後、主にIT分野やメディア業界に関わるフリージャーナリストとして活躍。大学非常勤講師なども担当している。
代表作として、2010年度大川出版賞を受賞した『電子書籍の衝撃 -本はいかに崩壊し、いかに復活するか?』、『キュレーションの時代』など。近年は『家めしこそ、最高のごちそうである。』といった自宅料理についての著作もある。

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