ただ坐る 生きる自信が湧く 一日15分坐禅 (光文社新書)

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  • 光文社
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  • Amazon.co.jp ・本 (273ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334036928

感想・レビュー・書評

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  • 単に座るだけ、というのは実に難しいことか。そのとき、座るという行為は、私が座るという行為をするのではない。坐禅が坐禅をすると表現するような、私の力みがなくなったところに存在する。坐るという行為の奥深さ、禅の世界の奥深さを垣間見せてくれる、初心者向けの良書。

  • 坐禅の深い心境が少しわかったような気がする。 禅僧の方がドイツ人だとは知らなかった。 ネルケ無方(むほう) 兵庫県美方郡の安泰寺の住職。 子供といっしょに風呂に入っている写真がHPにあったので結婚して安泰寺に住まわれている。

  • 628

    何で昔から禅が気になるかっていうと、禅て日本文化の真髄的なものであるというのもあるけど、身体的なものだからだと思った。昔からスポーツとかが好きで身体を使うことが好きだから気になるというのもあるんだろうな。

    ネルケ無方
    1968年3月1日、旧西ドイツ・ベルリン生まれ。7才の時、母と死別してから人生に悩む。16才で坐禅と出合う。高校時代から禅僧になる夢を抱いて、坐禅道場に通い続ける。1990年、春は京都大学の留学生として来日、秋から兵庫県の但馬地方にある曹洞宗・安泰寺に上山。半年間の禅修行。大学のドクターコースを中退、1993年から安泰寺で出家得度。8年間の雲水生活を経て嗣法。2001年から大阪城公園で「ホームレス雲水」として毎朝の坐禅会を開く。2002年に師匠の訃報を聞き安泰寺に戻り、檀家ゼロ、自給自足の寺の堂頭(住職)となる。国内外からの参禅者・雲水の指導にあたって坐禅三昧の生活を送っている。

    ただ坐る~生きる自信が湧く 一日15分座禅~ (光文社新書)
    by ネルケ 無方
    第一に、坐禅をダメもとで試したその日、初めて〝身体を発見〟したことが最大の理由だと思います。  七歳の時に母親を亡くしてから、同じ疑問が頭の中でずっと渦巻いていました。 「人は何のために生き死にしているのか」 「人生の意味とは何か」 「本当の私とは……」  それらの疑問への解答をいくら頭の中で追い求めても、見つかるはずもありません。頭の中で空回りしているそれらの思いや考え事より以前に、今ここにこの「身体」という生命現象が起こっているという歴然とした事実に、その日まで私は全く気づいていませんでした。いわんやゲームに没頭している時には、そんな気づきがあろうはずもありません。

    道元禅師は『典座教訓』という書物を残したほど、典座を重要視していたのです。その当番を初めて命じられたときは、さすがに参ってしまいました。決まった時間に限られた材料で、皆に美味しく食べてもらえるご飯を作らなければならないのですが、米の研ぎ方も包丁の研ぎ方も、ましてや 出汁 のとり方など何も知らない私は、とにかく「忙しい、忙しい」という思いでいっぱいでした。そして、「今日のメシはまずくて食えたもんじゃなかった」と先輩に怒られてしまうと、ついつい私は「何も料理の勉強をしに日本まで来たわけじゃない!」と反発したりしたのも事実です。そして、

    ひょっとしたら、(私がそうだったように)外国人が「ZEN」に幻想を抱いて海を渡り山を越えてくるように、日本の若い人たちもタイやインド、あるいはチベットあたりにまでわざわざ足を運び、〝本当の〟禅を求めているのかもしれません。「今ここ」を見つめることなく、「本来」「本当」「真実」らしきものを遠くへ求めてしまうのは、洋の東西を問わず、悩める人間の運命でしょうか。

    欧米人はよく、「日本人は無宗教だ」と言います。お正月は神社で神様にお参りし、結婚式はキリスト教のチャペルで挙げ、お葬式はお寺のお坊さんにお願いする。日本人に「あなたは何教ですか」と聞くと、たいがいは答えに窮します。でも、自ら積極的に「私は無宗教です」と断言する人も少ないのではないでしょうか。それは、日本人が実際のところ、仏教徒でもあり、神様( 神道)も拝み、儒教の影響も受けているからだと私は思います。だからといって、キリスト教を否定するわけでもなく、お釈迦様のお誕生日を知らなくても、イエス様の誕生日であるクリスマスの日付を知らない日本人はいません。

    しかし、そのようにはっきりとした宗教観が日本人にないことが、必ずしも悪いことだとは思いませんし、そもそも日本人は特定の宗教を必要としなかったという見方もできます。「宗教がない」というのは、決してモラルが低いということを意味しません。むしろ治安が悪く、社会の秩序が乱れるほど、その地域の宗教心は高くなると言われています。鎌倉時代の日本や宗教革命前夜のドイツしかり、今の南米やアラブもしかりです。

    宗教観が 曖昧 と言えば曖昧ですが、反面、それは日本人の心の豊かさの表れとも言えます。「和」を尊び、他人を思いやる心を養ってきた日本人の精神それ自体が、一つのすばらしい「宗教」とも言えるのです。むしろ、欧米人(というより一神教徒)が大いに見習わなければならない点でもあります。イスラム教、キリスト教、ユダヤ教が崇拝する「神」は同じ。それなのに、なぜお互いを憎しみ、傷つけあってきたのか、日本人にはなかなか理解しづらいはずです。

    禅の意味を一言で聞きたいという方がいらっしゃるかもしれません。  ご自身で坐り、確かめてみるのが一番いいのですが、私に言わせれば禅は「ただする」ことです。 「そんな単純なはずがない」と思われるかもしれませんが、実にシンプルです。しかし、それと同時に、〝ただ〟することほど難しいことはありません。なぜなら、人間は何も考えずに〝ただ〟行為することはほとんどないからです。いつも見返りを期待し、自分中心に考え、損得勘定をしてしまいます。禅は、それらを一切やめて、「ただする」ことなのです。

    人間は、自分の周囲に見えるものを、「敵」と「味方」に分けて考える癖があります。しかし、本当の敵とは誰のことでしょうか。実は、私の敵は私自身にほかならないのです。仏教はこの気づきから出発します。私の悩み苦しみの原因は、物事を二分している「私」なのです。私を取り巻く環境ではありません。仏教の説く解脱(解放)も、何からの解脱かと言えば、「私」という幻想からの解脱です。私を苦しめているのは私ですから、この私を手放すことによって苦しみもなくなるのです。

    何より大事なのは、毎日やり続けることです。たとえ一五分でも、できれば毎朝、顔を洗った後にでもしたいものです。あるいは夜、仕事が終わってから就寝するまでの間に、なるべく時刻をきっちり決めて行ってほしいものです。早朝に坐れば、その日の内容は変わってきますし、一日が終わった後にじっくり坐ると、その日の出来事がきれいさっぱり消化されるでしょう。  朝も晩も一五分坐れたら理想的ですが、何はともあれ無理しないことです。坐禅を本当に好きにならないと、長続きはしません。坐禅はしたくてするものであって、頑張ってするものではないのです。

    まだ留学生だった頃、はじめて永平寺の 吉祥 閣 に参禅して驚いたことがあります。参禅者が寝泊まりし、また坐禅をしているのがなんと地下一階、地上四階のエレベータ付きの近代的なビルです。その最上階に坐禅堂があるのですが、真夏でも寒いくらいなのです。それは、周りの山から風が吹き下ろすからではなく、冷暖房が効いているからです。ですから、冬も風邪を引く心配などなく、ぽかぽか暖かい環境で誰でも参禅をさせてもらうことができます。「冬暖夏涼」というより、まるで電力の浪費が問題になっている日本のコンビニエンスストアのような感じです。

    これに比べて、臨済宗のお寺は参禅者に厳しい傾向です。冷暖房はもちろんなく、夏は意識がもうろうとし、冬はただでさえ寒いのに、障子を開けて外からの冷たい風を雲水たちの背中に浴びせます。いくら何でも、それでは坐禅がたんなる我慢大会で終わってしまうので、道元禅師は「冬暖夏涼をその術とせり」と忠告しているのだと思います。それがまさか、今の永平寺で冷暖房をガンガン効かすことになってしまうとは、御開山の道元禅師も想像だにしなかったでしょう。

    坐禅中に悪いことを考えるべきではないのは、誰の目にも明らかでしょう。ところがなぜ、「よい」ことまで考えてはならないのでしょうか? 実際、あえて心の中に「善」なるもの、プラスとなるような思考を浮かばせる瞑想法もあるくらいです。そうすれば、自分の心に〝よい〟効能を与えるというのです。  しかし、この本で私が紹介したい坐禅にはそのような効能などありません。そのような効能を当てにしないことこそ、坐禅だと考えていますから。

    そもそも、人間の「悪い考え」よりやっかいなのは、「よい考え」のほうではないでしょうか? 悪いことを考えている自分に気づいたら、エゴや我見は手放しやすくなりますが、「よいこと」を考えている時はどうでしょうか? 「よいことを考えている自分は、やはりよい人だ」という意識にまで発展しかねません。そうなると、本人は「よいことを考えている」と思っているかもしれませんが、とんでもないことです。悪いことを考えていることに気づいた人より、むしろたちが悪いのです。自分の「我」をたくましくしているわけですから。親鸞聖人の 悪人正機説 ではありませんが、「悪いことすら考えてはいけない、いわんやいいことを」というのが坐禅の心構えです。

    ドイツでは食事について、「朝は騎士のように、昼は王様のように、夜は乞食のように」という 諺 があります。これから勉強や仕事をしようとする時の朝ご飯と、勉強や仕事中の一休みである昼ご飯はしっかり食べなさい、という意味です。そして一日が終わって、この後、寝るだけだという晩ご飯は逆に控え目にしなさい、ということです。

    アップルのスティーブ・ジョブズは、前書きで引用したスタンフォード大学でのスピーチでこんな話をしています。  一七歳の時、ジョブズは、「とにかく毎日を、その日が自分の人生の最後の日だと思って生きなさい」という言葉を本で読み、大きな衝撃を受けました。それ以来、毎朝、鏡に映っている自分に向かって、 「もし今日が私の人生で最後の日だと分かったら、今日やろうとしていることは果たして自分のやりたいことだろうか?」 と問いかけ続けたそうです。「光陰を護惜する」とはこういうことです。

    この本の冒頭で紹介したスティーブ・ジョブズの言葉ではありませんが、死を覚悟してこそ、生きることは楽になるのです。死んだつもりで坐禅をしている時こそ、一番楽に坐れるのです。もはや何の気負いもない状態です。「死んでもいい」、心からそう思えた瞬間、私ではなく、坐禅が坐禅をし、坐禅が私を生かしてくれているという実感が湧いてくるのです。

       腰が入っているか入っていないかで坐禅の内容が変わってくるのは事実ですが、「尻の穴が後方に向く」というのはさすがにウソです。あくまでも、そういうイメージで腰が抜けないように気をつけよう、というぐらいに解釈するべきでしょう。具体的に、腰をどれくらい入れればよいのか、ご自身で実際に試してみなければなかなか分かりづらいと思いますが、背骨の下をなす 腰椎 という五個の椎骨を前へ押すような感じで坐れば、気合いも入り、身体の安定感もぐっとよくなるはずです。胸椎より上の 脊椎 は無理をせず、上へ伸ばすような感じで張ります。

    「坐禅の時に左の手を上にする理由は、基本的には『普勧坐禅儀』に書かれているからです。禅では伝統をとても大切にします。

    インドではどうかと言いますと、右手は「浄」とされ、食事などは右手だけを使って手で食べます。左手は「不浄・穢」とされ、例えばトイレの中で使います。ですから、右手の上に左手をのせていたら、それはインド人の目には極めて非常識に映るのではないかと思います。そして、足も同じかもしれません。悟りを開かれる前後にかかわらず、お釈迦様の右手と右足がいつも上にのっているのはそのためではないでしょうか。現に、インド人のヨガ師やその他の瞑想家を見ても、皆、右が上です。「浄」を「不浄」でかぶせるわけにはいかないからです。インドからスリランカ、ミャンマーやタイに伝わった南方仏教も同じです。悟っていない修行僧も皆、右手が上です。左手と左足を上にのせるのは、中国から朝鮮半島や日本に伝わった大乗仏教のお坊さんだけです。つまり、左手を上にのせるようになったことと、坐禅とは関係がありません。ただ歴史的な、文化的な背景のためです。その背景はインドと中国とで、たまたま正反対な結果をもたらしただけなのです。

    つまり、右足を上にした場合のみ、「坐禅儀」の指示通り、私は左手を右手の 掌 に置きますが、左足が上の場合は、右手を上に置きます。作法にうるさい本山の永平寺など、曹洞宗の「中央」ではとても許されそうにない組み方ですが、私はこの組み方が一番理に適っていると思います。

    普段、メガネをかけている人が、そのメガネが坐禅中に気になるというのであれば外しても構わないと思いますが、本当はメガネをかけたまま、明瞭な視覚を保ちたいものです。なぜかというと、五感と心のありようは影響しあっているからです。視界がぼんやりしていれば、心もぼんやりしてやがて眠りに落ちてしまいます。一方、焦点を一つに絞って長時間見つめ続けても、目が疲れて痛くなります。常に一点だけを見つめるということは、全体を見渡せないということでもあるため、一点だけにこだわる心のあり方につながりかねません。したがって、目は閉じることなく、視界をなるべく明瞭に、かつ広く持ちたいものです。

    繰り返し申し上げますが、「私」は坐禅を心配しなくてもよいのです。坐禅を坐禅に任せてください。「坐禅が坐禅する」ということを実感できないのは、「私」がそれを許そうとしないからです。「私」が坐禅をコントロールしようとしていますから、却って坐禅ができないのです。

    若い頃、ある有名な禅僧の本の中で、 「禅の生活は首より上を使わない生活だ」  といった意味合いの言葉を見つけた記憶があります。当時の私は非常に驚きました。 「鼻を使わなければ、息もできないし、口を使わなければ、飯も食えない。首より上を使わない生活って、まさか目も耳も使うな、ということだろうか?」 「首より上を使わない生活」という言葉はおそらく、頭ではなく「身体」をフルに使いこなすという意味でしょう。頭からではなく、まず身体から禅に入ること。人生も身体全体で生きよ、ということです。

     ところが、ここで忘れてはならないことがあります。人間にとっては首より上も下も、どちらもなくてはならない部分ですし、そもそも簡単に切り離せるものではないということです。頭を身体からいとも簡単に切り離し、「頭脳偏重」になってしまうところに、現代人の問題点があるような気がします。

    坐禅は「あなた(私)」がするものではありません。「坐禅をする」という思いを手放してください。「何かをする」というのも「何かに集中する」ということすら余計なものです。ただ坐禅を坐禅に任せて、ありのままに行ってください。

    ですから、あまり「マインドフル」にならないでください。歩く時はただ歩いてください。歩みそのものに任せて歩み、しゃべる時も言葉に任せて、自然にしゃべってください( Let the walk walk, let the talk talk.)。食事の時は食べる行為に、坐る時は坐る行為、仕事の時は仕事そのものに任せてください。寝る時もただ寝るだけでいいではありませんか。そもそも、経行とは特別な行為ではなく、ただ一歩一歩に任せて歩くことです。日常のどこにも特別な場面をつくらず、最も自然で〝普通に〟生活するべきです。

     生きるためには、死を覚悟しなければなりません。死を覚悟したそのとき、本当に生かされている実感が得られるのです。  済度のからくりも同じです。自分を忘れた人こそ、「私」というエゴの束縛から解放されるのです。「私など救われなくてもよい、一人で地獄に落ちてもよい。それより一人でも、私以外の人を救いたい」と、心からこの願いを起こしたその瞬間には、「あぁ、なんだ。もうすでに救われていたのではないか」とふっと気づきます。

    東照寺(曹洞宗) 〒142‐0042 品川区豊町4丁目5‐18 電話:03‐3781‐4235 FAX:03‐3781‐6168 ホームページ: http://homepage3.nifty.com/toshoji/nihongo.htm 日時:月~土曜日朝5時~7時、土曜坐禅会 18 時~ 20 時、予約不要 ※初めての場合は早めに集合 参加費:無料 アクセス:東急大井町線「戸越公園」駅より徒歩5分   耕雲寺(曹洞宗) 〒157‐0073 世田谷区砧7丁目 12‐22 電話:03‐3416‐1735 FAX:03‐3416‐0392 ホームページ: http://kouunji.or.jp/ 日時: 火~日曜日朝6時 30 分~7時、 土曜定例会 19 時~ 21 時 参加費: 無料、 400円 ※初めての場合は、土曜の定例会から参加して基本指導を受けてください アクセス:小田急線「祖師ケ谷大蔵」駅より徒歩7分

  • 禅宗の老師は和尚とは厳格に区別される。和尚は寺の住職の敬称である。禅宗では僧侶が修行するための専門道場がある。禅寺の住職になるには専門道場で最低三年以上の修行が必要である。老師は専門道場で長年修行を積んだ後、師家より印可を授かった僧の敬称である。大本山の管長となるには老師でなければなれない。老師は、極少数の特別な称号である。

  • 兵庫県安泰寺の住職、ネルケ無方氏。ドイツ人でありながら、16歳の時にドイツで坐禅と出会い、禅の道に生きると決心する。外国人が描いた日本の禅の世界。

    <目次>
    はじめに
    第一章 坐禅との出会い
    第二章 なぜ今、坐禅を?
    第三章 まず、頑張りすぎないこと
    第四章 環境をととのえる
    第五章 坐禅に向う態度
    第六章 坐禅に必要なもの:座布団、衣服
    第七章 調身ー身体をととのえる
    第八章 調息ー呼吸をととのえる
    第九章 調心ー心をととのえる
    第十章 禅と実生活
    坐禅ができるお寺ガイド
    付録「坐禅儀」

    <メモ>
    “軸”があるからこそ回る(7)
    死んでから仏になるのではなく、仏として生きることこそ仏教です。(38)

    宗教観が曖昧と言えば曖昧ですが、反面、それは日本人の心の豊かさの表れとも言えます。「和」を尊び、他人を思いやる心を養ってきた日本人の精神それ自体が、一つのすばらしい「宗教」とも言えるのです。むしろ欧米人(というより一神教徒)が大いに見習わなければならない点でもあります。(40)

    日本人は、自分と相手を分けることなく、和をもったつながりを強調してきました。そこには、「私の世界」と「あなたの世界」という厳しい線引きはなく、「私たちの世界」という温もりがありました。ところが、西洋の個人主義をはき違えた現代日本では、それが他者の存在しない「私だけの世界」に変わってしまっています。(43)

    悟るということは、迷いに気づくことです。自らの迷いに気づく人こそ仏に向う人です。それに気づかず、悟りという人参を追いかけているのが普段の私たちの姿、つまり悩める凡夫です。(95)

    坐禅は命がけでしなければなりません。燃えるような気持ちで坐らなければ、時間が無駄に流れてしまうだけです。(113)

    (沢木老師)禅の修行は現在を充実していくことである。今日を見失はぬ、此処を見失はぬ、今を見失はぬ、自己を見失はぬとふように、全生活を一歩の浮き足なしに踏みしめて行くことである。今、此処でたとへ息が切れても少しも悔いのない生活を見つめて行くことである。(233)


    2012.06.30 新書を巡回していて見つける。
    2012.08.21 読書開始
    2012.09.02 読了

  • 坐禅とは「ただ坐る」こと。自分を手放すことで心を整えることができる。15分でも坐禅することで整う。

    著者はネルケ無方 ベルリン生まれ 兵庫安泰寺住職。7才で母親を亡くしている。

    [more]

    ・「何にもならない」一生を、「ただ生きる」ことが重要。
    ※生きる意味などいらない。生きることに意味がある。

    ・「私」に縛られてはいけない。我慢も我慢している「私」に縛られてしまう。

    ・お坊さんの世界には、修行も修業もある。
    ※修業はワザを修める、ので職業訓練と同じ。修行は仏道の努力。

    ・道元禅師「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするる也」

    ・坐禅の三大要素:調身、調息、調心。
    ※まず身体の姿勢を整えると他も整ってくる。

    ・腰を入れて坐禅すべし。

    ・坐禅中に浮かんでくる感情は主に2種。昏沈、散乱。
     昏沈:眠くなったりして坐禅を続けられなくなる。
     散乱:雑念が湧く。今は坐禅している場合では無い、とやめたくなる。

    ・「ただ坐る」ことで満足すべし。満足しようと思って坐るのは、「ただ」坐ってはいない。
    ※やることで満足感を得ようというのは、まだ本気になっていないこと。ただやる、のが本気。

    ・仏法はもともと「心身一如」を説いている。つまりあの世で仏になる、という考えは外道だ。

    ・山は大きな硬い石もほこりものせるから大きい。海は綺麗な水もよどんだ水も受け入れるから大きい。
    ※心も、どんなものでも受け入れると広い心となる。

  • いつ買ったかは覚えていません。「新書だし、ネルケ無方だし」という、半分気楽、半分ナメてかかった気持ちで購入したような、そんな気がします。
    しばらく積んだままでしたがこないだふと気になって手に取ってみました。

    ビックリするほどガチな坐禅の入門書でした。ナメてかかって申し訳ございませんでした。

    最近参禅する機会があり、「禅は禅でよく分からないことが多いなぁ」とボンヤリ思っていたところだったので、タイミングとしても良かったのかもしれません。「調身・調息・調心」等、「あの時坊さんが言ってたのこの事だったのか」ということが少しだけ分かったような気がします。また、最近の永平寺は冷暖房完備という衝撃の事実も知ることができます。

    もっとも、分かったような気がする、というのが一番危ないのかもしれません。「この本はあくまで地図であって、実際に坐禅してもらわないことにはこの本は意味がない」とも著者ネルケ師は強調しています。まずは「ただ坐る」ことから。

  • 1日15分○○する。
    口で言うのは簡単ですが、いざ実践してみると、
    なかなか続けることは出来ません。

    当の私も、「なんだ、1日15分か、楽勝!」と思っていましたが、
    今は、したり、しなかったりの毎日が続いています。

    座禅をしたら、何か良い事がある→このロジックは強力です。
    しかし、この動機では、本当に続けることは出来ないかもしれません。

    座禅をしても、何もならない、でもする→こう思えることが、座禅を続ける秘訣かもしれません。

    何もならないけど、何かしてみる、これは、自分達の今の生活のアンチテーゼの
    ような気がします。

    著者は冒頭で言います。

    「座禅をして何になりますか?」実は答えは極めて簡単、「何にもならない」です。

    それなのに、なぜ、著者は、この本を書いたのでしょうか?この本を読むと、著者の
    この問いに対する覚悟がよくわかります。

  • 坐禅について、わかりやすく書かれています。後半は禅の世界に入っていくので、少しついていけない部分もあった。

  • ドイツ・ベルリン生まれで、坐禅に惹かれて来日、修行を続けて今は住職をしている著者が坐禅について書いた本。

    詳しく書かれているので、入門編としてはかなり充実している。
    最後に坐禅ができるお寺の紹介もある。

    やっぱり仏教って体育会系のところがあるなあ。
    身体で体得する、みたいな感じ。

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著者プロフィール

1968年、旧西ドイツ・ベルリン生まれ。7歳で母と死別し、人生に悩む。16歳で坐禅と出合い、禅僧になる夢を抱く。1990年、京都大学の留学生として来日。その秋から初めて曹洞宗・安泰寺に上山し、半年間の禅修行に参加する。1993年に安泰寺で出家得度。8年間の雲水生活を経て嗣法。2001年から大阪城公園で「ホームレス雲水」として毎朝の坐禅会を開く。2002年に師匠の訃報に接し、安泰寺第9世の堂頭(住職)となる。国内外からの参禅者・雲水の指導にあたって坐禅三昧の生活を送っている。著書に『迷える者の禅修行――ドイツ人住職が見た日本仏教(新潮新書)、『裸の坊様』(サンガ新書)、『禅が教える「大人」になるための8つの修行』(祥伝社新書)、『ドイツ人住職が伝える 禅の教え 生きるヒント33』(朝日新書)、『迷いながら生きる』(大和書房)、『日本人に「宗教」は要らない』(ベスト新書)、『読むだけ禅修行』(朝日新聞出版)、『迷いは悟りの第一歩』(新潮新書)、『ありのままでいい、ありのままでなくてもいい』(KKベストセラーズ)、『ドイツ人禅僧の心に響く仏教の金言100』(宝島社)がある。

「2015年 『安泰寺禅僧対談』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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