教室内(スクール)カースト (光文社新書 616)

著者 :
制作 : 解説・本田由紀 
  • 光文社
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  • / ISBN・EAN: 9784334037192

感想・レビュー・書評

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  • 教室内(スクール)カースト (光文社新書) 新書 – 2012/12/14

    同年齢の学校内のクラスという中でも対等な関係というものはない
    2016年6月3日

    鈴木翔 による 著作
    1984年秋田県生まれ。
    群馬大学教育学部卒業。
    東京大学大学院教育学研究科博士課程に進学。
    現在 web で見ると秋田大学で助教をしているようだ
    本書は鈴木氏の学術論文を一般向けにわかるように改めて加筆再構成した本である

    率直に言って学生、大学院生などの一部の人間しか読めないようなものよりも広く世の中一般に訴えかけるべき内容の学術論文も数多くあると思われる。
    本書はそのうちの一つであると思える。

    結局同世代の人間を集めた学校内のクラスという中でも対等な関係というものはないのだ。
    対等な島宇宙が存在するのではないとする指摘は重要だ。
    宮台真司氏(制服少女たちの選択 講談社 1994年)への反論と言える。

    これまでにも学生生活でグループ分けに人間を分類したような話は多く語られてきた辛酸なめ子氏による女子の国はいつも戦争によると自分の合ったグループに入って生活しようと提唱している
    それ自体が間違いではない。
    しかしそのグループ間に上下関係があること。
    権力などが違いがある。
    また一番下の受け皿層に所属する生徒達にとってはあまり気分よく過ごせる環境ではない。

    個人的に小中高時代を振り返ってみてもクラス内の力関係が平等ではなかったと思う。
    ただ一番上の層の子達が周りに配慮できるなどがあれば状況は大きく異なる。
    小学校時代はガキ大将と仲良くしていた為、グループ間で阻害されることもなく過ごせた。
    高校時代もあるにはあったものの大学受験に向けて必死になり、あまりそこまでグループ間うんぬんどころではなかった記憶がある。
    受験勉強の影響もこのクラス内でのカーストに多大な影響を与えているのではないか。
    もっとこの辺はつめてもらいたい。

    スクールカーストの順位が対して変わらないという本書内の指摘については噂や情報が学年間で共有されていることに加え、本人の能力、性格、資質も影響するからだろう。
    教師側がカースト構造を能力によって出来ていると見る考えはある程度正しいと思える。

    鈴木翔氏の研究はまだはじまったばかりと言える。
    本書内でも認めているように
    研究対象事例が少ない。
    特に教師側への取材は不十分に感じた。

    いじめにせよ、それをうむ土壌たるスクールカーストにせよ固定されたクラス制度があるが故の問題である。
    だからゼロにするのは難しいだろう。
    しかしある程度の緩和策をうっておくべきではないだろうか。
    教師側も本書からグループ間の力関係など複雑に絡まる生徒たちへの配慮をしつつ共同作業、グループ学習をさせてやって欲しいと思えた。

  • 「スクールカースト」と呼ばれる、同学年の児童生徒の間で共有されている「地位の差」について、インタビューとアンケートで実態を明らかにしている。
    あとがきの謝辞を読むと、著者が東京大学大学院教育学研究科に提出した修論がベースになっていると分かるが、本編を読んでいても論文っぽさをあちこちに感じる。インタビューは必要箇所を書き起こした上で、その回答の意味するところを一字一句誤りなく引用しながら解説していく辺りとか、すごく論文っぽい。でもそのおかげで、理解はスムーズに進む。とても分かりやすい。

    スクールカーストにまつわる発見がいくつかあった。

    「『スクールカースト』で下位に置かれている生徒が、『クラスメイトに馬鹿にされている』と感じる傾向が見て取れます。一方で、全体的に見ると、男女ともに中位の生徒が馬鹿にされていない傾向があるだけで、上位の生徒もある程度『馬鹿にされている』傾向がある」(p110)

    「もともとハルキらが所属する『イケてないグループ』のメンバーが、みんなを盛り上げるようなエンターテイナー的な素質や能力を持ち合わせていないわけではない」(p128)

    「彼女は上位のグループに入ったことで、『〈1軍〉の義務として』権利を使わなければならず、そのことに重責を感じていたということです。
     先に示したとおり、彼女は、上位のグループに所属するということは『与えられる権利の数』が多くなることだと解釈しています。その権利は、与えられているだけで使わなくてもいいのではなく、権利があるからには使わなければならないのだと彼女は考えています。
     そしてそれは、『〈1軍〉の義務として』権利を使わなければ何も進まないのであって、クラスの方向性や雰囲気を決めていくために、そうした権利を使うことは、彼女にとっては重責であったようです」(p137)

    「たとえば吉田先生は、『スクールカースト』の下位に位置づけられる生徒は『100%将来使えない』と考えています。なぜならば、吉田先生は、勤務校の中で今年の就職の結果が芳しくないのは、『スクールカースト』の下位に位置づけられるような『気の弱いオタク』の生徒であり、企業はそのような人材は求めていないと考えているからです。
     一方、たとえば就職の採用結果が芳しくなかったとしても、吉田先生が『強い系』と呼ぶような『スクールカースト』の上位に位置づけられる生徒のことは、それほど心配はしていません。というのも、彼らは『生き方』が『うま』く、『ゴマすり』などもでき、人間関係をうまく構築していけるため、たとえ仕事を辞めたとしても、『そんなに心配ではない』と吉田先生は考えているからです」(p246-247)

    「松本先生も、『スクールカースト』による『地位の差』を、『なきゃいけない』ものだと考えています。松本先生も、『スクールカースト』は、『コミュニケーション能力』により成り立っていると考えており」(p261)

    「一方、小林先生は、加藤先生や松本先生と違い、『スクールカースト』による『地位の差』を、『リーダー性』によるものだと考えています。『リーダー性』は、良い意味で利用している生徒も、悪い意味で利用している生徒もいますが、小林先生はそうした『リーダー性』を持つ生徒は、『才能』や『資質』がある児童だとみなしており、努力で得ることの難しい潜在的な能力だと解釈しています」(p261)

    「生徒と教師は、ほぼ同じ状況を見て、生徒間の『地位の差』、すなわち本書でいうところの『スクールカースト』を把握していますが、その解釈にズレが生じているということです。
     生徒が『権利の多さ』を軸とする、『権力』構造として『スクールカースト』を解釈しているのに対し、教師は『能力の高さ』を軸とする、『能力』のヒエラルキーだと解釈しています」(p273)

    高校時代を思い出しながら読んだ。振り返れば、自分はスクールカーストでいえば中位から下位の人間だったと思う。上位にはかなり苦手意識のある人もいて、怒りを覚えたこともあった。敵意を見せることはなかったけど。
    また自分の学校の場合、学園祭や体育祭などはスクールカーストがあいまいになりやすい時期だったように思う。自分も上位の人から一定の評価を受けたりするタイミングでもあり、そんな時は素直にうれしかった。
    一方で、スクールカーストに関係なく自由にフラットな人間関係を構築する人もいた。いまでも親しく付き合っているのは、そんな人だったりもする。

  • いまの日本の学校で
    あきらかにカースト制度が存在する。
    丹念にレポートしています。

  • おもしろかった。以下、漫ろ書き。まとまりなし!

    「カースト」というと、やはりヒンドゥー教のカースト制度を思い出す。
    確か「スードラ」が最下層に位置するんだったか。
    と思ってグーグルで検索したら、「アチュート」という「人間扱いされない人々」があった。
    日本でいう、「穢多・非人」の立場かな。

    とある人間・階層を貶める・下に見ることによって、自らの地位を優位的に確立する、ということは割によくあることだ。
    自分は違う、とは言えない。
    学生のときもしていたし、今も行っている。
    特定の人に対する蔭口とか、愚痴とかね。
    その人に対する申し訳なさはあっても、これからはそのような負の思いを全く抱かずに生活する!とは宣言できないほどだ。

    社会的・立場的な優劣を定め、かつそれを固定的なものとしたとき、それがどう社会に作用するか、しているか――という構造的推察がこのような場合気になるところ。

    先生たちのインタビューでは、「スクールカースト」を構造的な問題というよりも生徒一個人の問題、能力の問題だと思っている節があった。
    先生たちは「スクールカースト」及び「上位に位置する生徒たち」に対して肯定的で、そして学級経営をスムーズに行うためにその構造を利用している。

    教育の場でしっかり働いている教師に対して、その場にはいない私がそれを非難するのは躊躇われるけれども。
    30~40人という人間を一つのところに押しとどめ、その集団をこれといった問題・危機に陥れることなく上のクラスに押しやるのがどれだけ大変なのか、やってから文句言え、などと言われたらグゥの音も出ないけれどもさ。
    先生よ、本当にそれでいいのか、とは思ってしまった。

    最終的には、「スクールカースト」をどう解釈するか、ということだろう。
    本書を読むに、明確な回答を著者自身は示していないように思える。
    それでも、p275で「このままではマズいな」「上位の生徒にとっても、下位の生徒にとっても、学校生活を過ごすうえで、「スクールカースト」が負の側面を多く持ちうるものだ」と述べているように、「スクールカースト」を根本的な問題だと捉えているのは伝わってくる。

    と、自分で書きながら、この「根本」はどこを指すのだろう、と考えてみると、教育の場のみならず社会・集団にあてはまりそうな気がするな。

    また、解説(p303)で本田由紀さんが

    「「権力」とは、「とにかく相手に自分の言うことをきかせる力」のことですから、必ずしも正当性をともなっていないこともあります。しかし教師がとる「能力」という解釈は、地位の上下に対して、正当性の裏付けを与えるようにはたらきます。「人がその能力によって評価され、社会的な位置づけを得る」ということを、正しいこと、望ましいこととして広く強く受けれ入れている、社会の状況があるからです。
     このように「スクールカースト」を正当化する解釈図式を供給しているという点でも、教師はその維持に密接にかかわってしまっているといえるでしょう。」

    と述べていたけれども、むしろ逆なのではないかと思う。
    つまり、「能力」という解釈が「スクールカースト」を正当化しているということとは別に、そもそも「スクールカースト」そのものが「権力」の正当性の裏付けとして表れているのではないだろうか。
    本田さんが「「権力」とは」「必ずしも正当性をともなっていない」と言っている通り、力が行使されるには何かしらの裏付けは必要で、それが「相手を見下してもいいシステム」=「スクールカースト」という図式になるのでは。
    ううん、言葉にするとよくわからなくなるので、ちょっと保留。

    集団生活の中で、言ってみれば、「相手を見下してもいいシステム」があるということについて考えることが必要になるのかな。
    このシステム・構造は教育の場に限らず、というより、歴史的にも多く見られるものである。
    身分制度はその端だけど、いわゆる村八分やスケープゴートだな、つまり。
    社会的・集団的に暮らしやすいのは、階層を作り、それぞれがそれぞれの役割を果たすということ、なのだろうか。
    その場合、最下層と定められた人間は嫌な思いをするだろうに。
    あ、でも日常ではそうでも、非日常な場では立場がさかしまになったりするのか。
    その場合、トップの人間がスケープゴートになり、苛烈な方法で排除されることが多い。
    価値の転倒はダイナミックなエネルギーをはらんでおり、そのエネルギーによってその社会・集団は活性化される。
    カタルシス、ということなのだけど。
    うーん、わからないなー。
    山口昌男とか赤坂憲雄とか、折口信夫を読み直したい。

    以下は、せっかくなので「権力」を改めて明文化してみる。
    (参考資料:『地方公務員問題 上級 ’10』)

    〈権力(Power)とは、他者の初めの意思に逆らってまで、自己の意図したことを他者に行なわせる力を意味し、政治学において最も重要な概念の一つである。〉

    ○実体的権力論…権力者の「権力」は、何らかの「権力手段」あるいは「基底価値」の保有から生じるとする考え方。すなわち、地位、金、腕力、美貌などの「力(社会的価値)」の保有があれば、そこに「権力」があるとする、考え方である。イタリアのN.マキャヴェリ、ドイツのK.マルクス、アメリカの政治学者H.ラズウェルら提唱。

    ○関係的権力論…「権力」はあくまでも、受け手の認識に基づいて、成立するか否かが決まるとする考え方。たとえば、「地位」や「金」をちらつかせても、それに価値をおかない人にとっては、それが服従をを強いるものにはならないこともある。つまり、「権力」が存在するか否かは、命令する者(権力者)と受け手をとりまく人間関係屋状況に左右されるとする考え方である。権力の実態的権力論の限界をふまえて、登場した考え方であり、アメリカのR.ダール、T.パーソンズらが提唱。

    自分の中の整理としては。
    「スクールカースト」というものがある。
    それは「上位」の生徒と「下位」の生徒と分け、「上位」の生徒が「下位」の生徒に対して権力的な立場を示すシステムだ。
    どちらの生徒も、のみならず、教師もそのシステムを受け入れて学校・学級という共同生活を過ごしている。
    その「スクールカースト」というシステムが好ましくないと感じるのは、それが「理不尽」さを孕んでいるからであろう。
    「下位」の生徒は、「何もしてないのに」「ウザイウザイ」(p108)と言われる。何をもって「下位」とするのか、その理由も言ってしまえばあやふやだ。
    だがちょっと待てよ、ここには「理不尽」が「好ましくない」という価値観があるが、それは逆に言えば「理不尽」でなければ(階層・序列システムができるのも)「納得できる」ということか?
    となれば問題は「スクールカースト」の構造そのもの、ではなくて、それもあるとは思うけれど、「理不尽なシステム」がなぜあるのか、ということにならないのか?
    つまり、「理不尽だなぁと感じていることだけど、当事者はそこから逃れられない、しっかり社会に組み込まれているシステム」ということかな。

    「理不尽」という言葉もなぁ。ある時代・場所で変化する、明文化されない一つの概念だろうからなぁ。

    今後この問題がどのように扱われるのか興味深いところだ。

  • 最近ドラマで有名になったらしいスクールカーストについての学術書。筆者の東大院の修論を加筆修正したもののようです。

    学校のクラス内での順位付けがどのようにして決まるのか、そしてどのような影響力があるのかを説いた本です。

    気になった箇所は以下の二点。
    スクールカーストはクラス内の上位層、下位層どちらの生徒にとっても抵抗を感じるシステムであること。

    一方で、教師達にとっては能力、才能の差であり比較的受け入れられているという事。

    読みながらもジワリと汗を書いてしまうような話も多く、学校内に留まらず、社会での人間関係が発生する場所何処にでも起こりうる事なんだろうと思った。

  • 最近話題のスクールカーストについての研究本。
    読み物としても研究としてもまだまだこれからに期待、という感じ。
    読みにくさは全くないけど読み応えもあんまりない。
    この本をきっかけに研究が広がりそうだし広がってほしい。
    次が出たらぜひ読みたい。

    個人的には色々頷くところがあったり、新鮮に思うところもあった。
    とくに教師側から見たスクールカーストの部分は未知の領域だった。
    今まで話されてたスクールカーストの話って大体が自分はこうだった~とか体験談とかあるあるだったけど、そこに当然いるはずの教師側の話っていうのは殆ど無かったはず。
    そこが面白かった。
    だからこそこのインタビューに答えてる教師たちの学生時代のスクールカースト位置がどこだったかを書いて欲しかったかな。
    多分読んでる限りでは下では無かったんじゃないかなー。
    というか教師になろうという人自体がスクールカーストの上の方なんじゃないかな(勝手な憶測)。

    他にもいろいろ気になる点とか詰めれてない所とかあるけどそこは研究が始まりたてだからあんまり突っ込んでもしょうがないかな。

  • 確かに私たちの時代にもあった。
    格差。

    中学時代は文化系の部活に所属し、いわゆる下に属していた。
    高校で運動部のマネージャーになった。
    上にいたという認識はないけど、クラスの中心人物とも仲良く話すことができたし、他クラスにも友達がたくさんできた。

    高校時代のほうが過ごしやすかったのは確か。


    今、学校で教員という立場。
    本書に出てくるように、上の人たちと仲良くなって学級運営している教員はいる。
    図書館には、下に属する生徒が多く来ている印象すらある。彼女らは図書館にいるときは生き生きしている。

    スクールカースト…存在するよなぁ。

  • 「平等」なはずの教室の中に、「多様性」をうたう社会であるはずの教育の現場に厳然たる序列、スクールカーストは存在する。スクールカーストの実態とはどのようなものなのか。また、生徒から見たスクールカーストと教師から見たスクールカーストはそれぞれの目にどのように映っているのかをまとめる一冊。現状把握に適か。

    問題の画期的な解決策などあるわけがないので、最後に書かれたそれぞれの立場に向けた呼びかけはこれが限界、と思いながらもぱらぱら本論をめくってみるとえぐられるものがある――のは、おそらくカースト上位の人間にはあまり考えられないことなのであるように思う。わっかるかなあ、わっかんねーんだろうなあ。そんな事を思いながら読んでいた。現状把握には適。

  • スクールカーストの存在が、大学生の具体的な発話記録からうかがえる。子どもだけでなく、教務室でも同じ状況はある。
    暴力系のいじめ、コミュニケーション操作系のいじめ

  • スクールカーストの実態を一冊の本にまとめたのは評価されるべきで、内容も示唆に富んでいます。
    中学・高校での人間関係はサバイバルだと感じますし、僕らの時とは質が違っています。カースト序列を変更する手立ては(今のところ)無くて、カーストそのものを廃する方法も分かっていない……。人間関係を考えれば、仲の良い人同士で集まってグループが出来上がるのは当たり前の事なのですが、カーストの『見えない力』によって自分の序列に合った人としか接する事が出来ないのは問題だと思います。
    カースト上位はクラス運営の実権を握っているが円滑に進めなければならないという暗黙のプレッシャーがあって大変だし、カースト下位は上位者に見下されて大変だし、結局どこに属しても苦痛であるのは変わりません。

    グループ内での人間関係は良好で、心の安寧がありますが、上位グループでは足の引っ張り合いが横行し、居場所としては不安定のように感じます。『今度は私が(下位グループに)落とされるかも……』という不安を抱えて生活していては、精神的に滅入るでしょう。

    僕の中学生活は、教室では一才喋らないで本を読む地味で無口な心配児でしたが、部活動のテニスではぎゃあぎゃあ騒いで先輩・後輩共に仲良くしていました(部長でしたしね!)。そんな『教室では大人しいけど部活では円満な人間関係』だったから、随分と先生方に心配されていたようです(笑)。
    何が言いたいのかというと、学校では問題児でも、家では家事を手伝う子だっているだろうし、その逆もあるだろうし、学校だけが全てではないということです。自分の安寧する居場所を最優先で確保していれば、多少の我慢もできるのでは、と思います。しかし、生活の殆どを学校で過ごす学生にとって、その学校生活が苦痛であるならば、焼け石に水かも知れません。

    その、スクールカーストの何が嫌かって、カーストの基準でしか人間を測っていないんですよね。多様性を認めない、これが感情的に許せない。性格や人格等ってのは、多様であるからこそ面白いのであって、それを教室内の雰囲気に合致するように行動しなくてはならないってのは違和感があります。
    例えば、僕の知り合いに空気を読まない人がいますけど、『お前空気読んで行動しろよ』と強制するのは簡単ですが、それは僕と彼の関係のみ適用されるのであって、彼が持つ他の友達からは『(空気を読まないのが)いい!』と言ってくれる人だっているかも知れません。だから強制はしないし、できるものでもありません。彼のすべてが僕のものならば話は別ですが、彼は彼の人間関係があります。僕はそれを尊重したいのです。
    そういった尊重性が教室内カーストには無く、上位グループ・下位グループが共に蔑み合い、畏怖し、負の感情を持っていれば、そりゃあうまくいかないでしょう。

    学級運営を円滑に進めるためにはスクールカーストが必要悪と、教師側の意見として挙がっていますが、スクールカーストを利用しなくても円滑に進められるシステムがあると思うし、もっと研究が必要です。これからの成果に期待します。
    僕の評価はA-にします。

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