- Amazon.co.jp ・本 (308ページ)
- / ISBN・EAN: 9784334037192
感想・レビュー・書評
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いまの日本の学校で
あきらかにカースト制度が存在する。
丹念にレポートしています。 -
おもしろかった。以下、漫ろ書き。まとまりなし!
「カースト」というと、やはりヒンドゥー教のカースト制度を思い出す。
確か「スードラ」が最下層に位置するんだったか。
と思ってグーグルで検索したら、「アチュート」という「人間扱いされない人々」があった。
日本でいう、「穢多・非人」の立場かな。
とある人間・階層を貶める・下に見ることによって、自らの地位を優位的に確立する、ということは割によくあることだ。
自分は違う、とは言えない。
学生のときもしていたし、今も行っている。
特定の人に対する蔭口とか、愚痴とかね。
その人に対する申し訳なさはあっても、これからはそのような負の思いを全く抱かずに生活する!とは宣言できないほどだ。
社会的・立場的な優劣を定め、かつそれを固定的なものとしたとき、それがどう社会に作用するか、しているか――という構造的推察がこのような場合気になるところ。
先生たちのインタビューでは、「スクールカースト」を構造的な問題というよりも生徒一個人の問題、能力の問題だと思っている節があった。
先生たちは「スクールカースト」及び「上位に位置する生徒たち」に対して肯定的で、そして学級経営をスムーズに行うためにその構造を利用している。
教育の場でしっかり働いている教師に対して、その場にはいない私がそれを非難するのは躊躇われるけれども。
30~40人という人間を一つのところに押しとどめ、その集団をこれといった問題・危機に陥れることなく上のクラスに押しやるのがどれだけ大変なのか、やってから文句言え、などと言われたらグゥの音も出ないけれどもさ。
先生よ、本当にそれでいいのか、とは思ってしまった。
最終的には、「スクールカースト」をどう解釈するか、ということだろう。
本書を読むに、明確な回答を著者自身は示していないように思える。
それでも、p275で「このままではマズいな」「上位の生徒にとっても、下位の生徒にとっても、学校生活を過ごすうえで、「スクールカースト」が負の側面を多く持ちうるものだ」と述べているように、「スクールカースト」を根本的な問題だと捉えているのは伝わってくる。
と、自分で書きながら、この「根本」はどこを指すのだろう、と考えてみると、教育の場のみならず社会・集団にあてはまりそうな気がするな。
また、解説(p303)で本田由紀さんが
「「権力」とは、「とにかく相手に自分の言うことをきかせる力」のことですから、必ずしも正当性をともなっていないこともあります。しかし教師がとる「能力」という解釈は、地位の上下に対して、正当性の裏付けを与えるようにはたらきます。「人がその能力によって評価され、社会的な位置づけを得る」ということを、正しいこと、望ましいこととして広く強く受けれ入れている、社会の状況があるからです。
このように「スクールカースト」を正当化する解釈図式を供給しているという点でも、教師はその維持に密接にかかわってしまっているといえるでしょう。」
と述べていたけれども、むしろ逆なのではないかと思う。
つまり、「能力」という解釈が「スクールカースト」を正当化しているということとは別に、そもそも「スクールカースト」そのものが「権力」の正当性の裏付けとして表れているのではないだろうか。
本田さんが「「権力」とは」「必ずしも正当性をともなっていない」と言っている通り、力が行使されるには何かしらの裏付けは必要で、それが「相手を見下してもいいシステム」=「スクールカースト」という図式になるのでは。
ううん、言葉にするとよくわからなくなるので、ちょっと保留。
集団生活の中で、言ってみれば、「相手を見下してもいいシステム」があるということについて考えることが必要になるのかな。
このシステム・構造は教育の場に限らず、というより、歴史的にも多く見られるものである。
身分制度はその端だけど、いわゆる村八分やスケープゴートだな、つまり。
社会的・集団的に暮らしやすいのは、階層を作り、それぞれがそれぞれの役割を果たすということ、なのだろうか。
その場合、最下層と定められた人間は嫌な思いをするだろうに。
あ、でも日常ではそうでも、非日常な場では立場がさかしまになったりするのか。
その場合、トップの人間がスケープゴートになり、苛烈な方法で排除されることが多い。
価値の転倒はダイナミックなエネルギーをはらんでおり、そのエネルギーによってその社会・集団は活性化される。
カタルシス、ということなのだけど。
うーん、わからないなー。
山口昌男とか赤坂憲雄とか、折口信夫を読み直したい。
以下は、せっかくなので「権力」を改めて明文化してみる。
(参考資料:『地方公務員問題 上級 ’10』)
〈権力(Power)とは、他者の初めの意思に逆らってまで、自己の意図したことを他者に行なわせる力を意味し、政治学において最も重要な概念の一つである。〉
○実体的権力論…権力者の「権力」は、何らかの「権力手段」あるいは「基底価値」の保有から生じるとする考え方。すなわち、地位、金、腕力、美貌などの「力(社会的価値)」の保有があれば、そこに「権力」があるとする、考え方である。イタリアのN.マキャヴェリ、ドイツのK.マルクス、アメリカの政治学者H.ラズウェルら提唱。
○関係的権力論…「権力」はあくまでも、受け手の認識に基づいて、成立するか否かが決まるとする考え方。たとえば、「地位」や「金」をちらつかせても、それに価値をおかない人にとっては、それが服従をを強いるものにはならないこともある。つまり、「権力」が存在するか否かは、命令する者(権力者)と受け手をとりまく人間関係屋状況に左右されるとする考え方である。権力の実態的権力論の限界をふまえて、登場した考え方であり、アメリカのR.ダール、T.パーソンズらが提唱。
自分の中の整理としては。
「スクールカースト」というものがある。
それは「上位」の生徒と「下位」の生徒と分け、「上位」の生徒が「下位」の生徒に対して権力的な立場を示すシステムだ。
どちらの生徒も、のみならず、教師もそのシステムを受け入れて学校・学級という共同生活を過ごしている。
その「スクールカースト」というシステムが好ましくないと感じるのは、それが「理不尽」さを孕んでいるからであろう。
「下位」の生徒は、「何もしてないのに」「ウザイウザイ」(p108)と言われる。何をもって「下位」とするのか、その理由も言ってしまえばあやふやだ。
だがちょっと待てよ、ここには「理不尽」が「好ましくない」という価値観があるが、それは逆に言えば「理不尽」でなければ(階層・序列システムができるのも)「納得できる」ということか?
となれば問題は「スクールカースト」の構造そのもの、ではなくて、それもあるとは思うけれど、「理不尽なシステム」がなぜあるのか、ということにならないのか?
つまり、「理不尽だなぁと感じていることだけど、当事者はそこから逃れられない、しっかり社会に組み込まれているシステム」ということかな。
「理不尽」という言葉もなぁ。ある時代・場所で変化する、明文化されない一つの概念だろうからなぁ。
今後この問題がどのように扱われるのか興味深いところだ。 -
最近ドラマで有名になったらしいスクールカーストについての学術書。筆者の東大院の修論を加筆修正したもののようです。
学校のクラス内での順位付けがどのようにして決まるのか、そしてどのような影響力があるのかを説いた本です。
気になった箇所は以下の二点。
スクールカーストはクラス内の上位層、下位層どちらの生徒にとっても抵抗を感じるシステムであること。
一方で、教師達にとっては能力、才能の差であり比較的受け入れられているという事。
読みながらもジワリと汗を書いてしまうような話も多く、学校内に留まらず、社会での人間関係が発生する場所何処にでも起こりうる事なんだろうと思った。 -
確かに私たちの時代にもあった。
格差。
中学時代は文化系の部活に所属し、いわゆる下に属していた。
高校で運動部のマネージャーになった。
上にいたという認識はないけど、クラスの中心人物とも仲良く話すことができたし、他クラスにも友達がたくさんできた。
高校時代のほうが過ごしやすかったのは確か。
今、学校で教員という立場。
本書に出てくるように、上の人たちと仲良くなって学級運営している教員はいる。
図書館には、下に属する生徒が多く来ている印象すらある。彼女らは図書館にいるときは生き生きしている。
スクールカースト…存在するよなぁ。 -
「平等」なはずの教室の中に、「多様性」をうたう社会であるはずの教育の現場に厳然たる序列、スクールカーストは存在する。スクールカーストの実態とはどのようなものなのか。また、生徒から見たスクールカーストと教師から見たスクールカーストはそれぞれの目にどのように映っているのかをまとめる一冊。現状把握に適か。
問題の画期的な解決策などあるわけがないので、最後に書かれたそれぞれの立場に向けた呼びかけはこれが限界、と思いながらもぱらぱら本論をめくってみるとえぐられるものがある――のは、おそらくカースト上位の人間にはあまり考えられないことなのであるように思う。わっかるかなあ、わっかんねーんだろうなあ。そんな事を思いながら読んでいた。現状把握には適。 -
スクールカーストの存在が、大学生の具体的な発話記録からうかがえる。子どもだけでなく、教務室でも同じ状況はある。
暴力系のいじめ、コミュニケーション操作系のいじめ -
スクールカーストの実態を一冊の本にまとめたのは評価されるべきで、内容も示唆に富んでいます。
中学・高校での人間関係はサバイバルだと感じますし、僕らの時とは質が違っています。カースト序列を変更する手立ては(今のところ)無くて、カーストそのものを廃する方法も分かっていない……。人間関係を考えれば、仲の良い人同士で集まってグループが出来上がるのは当たり前の事なのですが、カーストの『見えない力』によって自分の序列に合った人としか接する事が出来ないのは問題だと思います。
カースト上位はクラス運営の実権を握っているが円滑に進めなければならないという暗黙のプレッシャーがあって大変だし、カースト下位は上位者に見下されて大変だし、結局どこに属しても苦痛であるのは変わりません。
グループ内での人間関係は良好で、心の安寧がありますが、上位グループでは足の引っ張り合いが横行し、居場所としては不安定のように感じます。『今度は私が(下位グループに)落とされるかも……』という不安を抱えて生活していては、精神的に滅入るでしょう。
僕の中学生活は、教室では一才喋らないで本を読む地味で無口な心配児でしたが、部活動のテニスではぎゃあぎゃあ騒いで先輩・後輩共に仲良くしていました(部長でしたしね!)。そんな『教室では大人しいけど部活では円満な人間関係』だったから、随分と先生方に心配されていたようです(笑)。
何が言いたいのかというと、学校では問題児でも、家では家事を手伝う子だっているだろうし、その逆もあるだろうし、学校だけが全てではないということです。自分の安寧する居場所を最優先で確保していれば、多少の我慢もできるのでは、と思います。しかし、生活の殆どを学校で過ごす学生にとって、その学校生活が苦痛であるならば、焼け石に水かも知れません。
その、スクールカーストの何が嫌かって、カーストの基準でしか人間を測っていないんですよね。多様性を認めない、これが感情的に許せない。性格や人格等ってのは、多様であるからこそ面白いのであって、それを教室内の雰囲気に合致するように行動しなくてはならないってのは違和感があります。
例えば、僕の知り合いに空気を読まない人がいますけど、『お前空気読んで行動しろよ』と強制するのは簡単ですが、それは僕と彼の関係のみ適用されるのであって、彼が持つ他の友達からは『(空気を読まないのが)いい!』と言ってくれる人だっているかも知れません。だから強制はしないし、できるものでもありません。彼のすべてが僕のものならば話は別ですが、彼は彼の人間関係があります。僕はそれを尊重したいのです。
そういった尊重性が教室内カーストには無く、上位グループ・下位グループが共に蔑み合い、畏怖し、負の感情を持っていれば、そりゃあうまくいかないでしょう。
学級運営を円滑に進めるためにはスクールカーストが必要悪と、教師側の意見として挙がっていますが、スクールカーストを利用しなくても円滑に進められるシステムがあると思うし、もっと研究が必要です。これからの成果に期待します。
僕の評価はA-にします。