目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)

著者 :
  • 光文社
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レビュー : 281
  • Amazon.co.jp ・本 (216ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334038540

感想・レビュー・書評

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  • 読もう読もうと思って積読していたらあるとき小谷野敦さんのレビューを見つけてがっかり。
    ユクスキュルの「生物から見た世界」とは別物というのだ。
    ぱらっと読むと確かに個々の事例は詳しいけどメカニズムに迫ってはいない。
    ユクスキュルの著作では動物の視点が詳しく研究されていたが、こちらの本は身体論に留まっている。
    たいへん残念な本。

  • 呟き程度に。
    知ったからといって自分の中の何かが急にガラっと変わるわけでも無かろうと分かっていながら、長い間知りたいと思っていたことの一つが、この本の主旨です。全盲、特に先天的な全盲の人の世界観というものがずっと知りたかったのです。
    生まれつき目が見えないという状況を必死に想像してみたこともあって、何となく掴めたような気がして、一人勝手に衝撃を受けたこともありました。たとえば色という概念であったり、美的感覚だったり、人間とそれ以外の動物の違いであったり、境界線という概念であったり、いくらでも考えられますが、視覚があるがゆえに情報として入ってくるもの、逆に何らかの制限となるもの、そういったものは山ほど存在していて、それらから解放されている人達はその分ゆとりがあって「見える」人には掴みきれない何かを掴んでいるのではないか、そんなことをぐるぐると考えてワクワクしたり。
    そういった私の混沌とした想像を、この本は、実際の聞き取り調査などを裏付けとして明快に記してくれました。想像だけでは辿り着かなかった箇所の補完やそれこそ「盲点」というところ、沢山ありました。
    こういった本が、想像すらしたことの無い人の元に届いたら、恐らく相当面白いことになるだろうな、というのが専ら漠然とした楽しみです。とことんのところ、自分の基盤を覆す、if、もしも、という仮定にまで掘り下げて物事を考えるという行為は必要な労力が大きすぎて、日頃忙しい人にはなかなか出来ない、寧ろやろうと思わない、というのが実状ではないかと思います。でも、「見えない」世界を考えるというのは、頭を柔らかくするのに間違いなく役立つし、それは自分にとっても他人にとっても必要な優しさに繋がっていると思います。この理屈でいうと、必ずしも「見える」「見えない」でなくても構いません。「聞ける」「聞けない」でもいいでしょう。ただ、本作でも記述があるように、健常者にとって視覚というのは五感の中でも一際重要な位置を占めているというのは恐らく事実です。したがって、まずは導入として「見える」「見えない」を考えるというのは良い入り方だと思います。そこから、自分の知的好奇心などに応じて理解を深めていけばいいのですから。
    問題提起というのか何というか、とにかく入門書としては、ここ数年目にした新書の中で最高の書籍の一冊です。私個人の興味関心にあまりにドンピシャで、もう一歩踏み込んでくれてもいいんだよ、という完全なエゴイズムで★4つとさせて頂きます。今後の執筆活動、楽しみにしております。

  • スリリングで、広い地平を拓く本である。
    著者の専門は美学・現代アートだが、元々は生物学を志していたという。
    生物と美学と盲目が一体全体どうつながるんだ?といささか不思議な三題噺である。
    最初の疑問が読み進めるうちにほぐれ、3つの視点が見事に調和していく、一風変わった「身体論」の1冊。

    著者がそもそも生物学を専攻したのは、自分とは異なる生きものが世界をどう「感じて」いるのかに興味があったためだという。二十世紀初頭の生物学者、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルが唱えた「環世界」の考え方ともつながる。体のサイズも構造も、主に用いる感覚器官も異なる場合、当然、とりまく世界のとらえ方も変わるはずだ。ネズミのように鼓動が速く、ハチのように集団として生き、深海の熱水噴出口に住むチューブワームのように地上を想像することも出来なかったら。それはどういう「感じ」なのだろうか。そこが著者の出発点である。
    それが知りたくて生物学を専攻してみたが、著者の目指すところに向かうには、今日の生物学の主流は「細分化」されすぎていた。大きなビジョンが見えにくいのだ。そこで著者が選んだのが「美学」である。「美学」というものは、芸術や美についての認識について、哲学的に探求していくものだという。人が美しいと思うのはどういうものか。美しいと思うということはどういうことか。そのいわく言い難いところを言葉にして「わかって」いこうとする分野なのだ。それは、自らの感覚を理解する、つまり身体で身体を理解しようということにつながる。
    捉えにくいものを捉えようとするとき、先入観や常識は妨げになる。当然だと思ってしまったら、見えるものも見えない。そこで著者が自身の「当たり前」を離れる手立てとして選んだのが、「見えない人」との交流だった。視覚は五感の中でも、重点が置かれる感覚である。五感を持つ人が、得てして最も頼っているのが視覚である。では「見えない人」はただただ視覚を奪われた不自由なだけの人なのか? そのあたりを、視覚障害者へのインタビューや、彼らとの活動を通じて、探っていこうというのが本書の流れである。

    「見えない体」を体験するには手っ取り早いのはアイマスクを付けたり、目をつぶったりすることである。だが、通常、見えている状態の人が急に視覚のみを遮断しても、視覚障害者の感覚を追体験することにはならない。それは四本脚の椅子から脚を一本もぎ取るようなもので、バランスが突然崩れることだからだ。
    そうではなく、視覚障害者の多くは、三本脚の椅子として、安定したバランスを保っていると考える方が近いという。必要な情報を他の感覚で補ったり、配置を覚えておいて日常生活に困らないようにしたりする。
    おもしろいのはブラインドサッカーなど、元々暗がりでやるスポーツの場合、視覚障害者は夜でも昼でも自由に興じられることで、「目開きとは不自由なものよ」ということになる。弱視だった人が全盲になってからかえって転ばなくなったという話もある。
    また、視覚のある人は、得てして、三次元のものを二次元にして捉えがちである。立体図形の見取り図のようなものである。見える人は富士山を横から見た八の字のような形で思い浮かべるが、見えない人はご飯茶碗を伏せたような立体で思い浮かべる。見える人には必ず死角があるが、見えない人は全体を空間として捉えるので死角もないのだという。

    だが、どのように視覚を補い、工夫していくかは、実は、見えない人一人一人で異なるのだという。それぞれが自らの身体に合わせて、世界との関わり方をチューニングしていくのだ。視覚障害者とひとくくりには出来ない十人十色の認識ということになる。そのあたりはバリアフリーを考える上でも参考になりそうな視点だ。

    著者は美術鑑賞のおもしろい試みを紹介している。ソーシャル・ビューと呼ばれるもので、見える人と見えない人がグループを作り、見えない人が必ず1人グループに入るようにする。見える人は美術作品がどんな外見であるか、見えない人に、言葉にして説明していく。見えない人は疑問があれば質問する。見える人はそれに答える。そんなやりとりの中から、見える人の間でも見方が異なること、意外に見えていないものがあったことに気が付いていく。
    感覚を解体していくような興味深い話である。

    目が見えない人は、他の人とのコミュニケーションを言葉に頼ることが多いため、ユーモアのある人も多いという。中には見える人からは言いにくいような「自虐ネタ」を持ち味にする人もある。
    もちろん、人を笑わせることが得意な人ばかりではないわけだが、それぞれがそれぞれの持てる能力で世界と関わっているということになる。そう思うと、目が見えないほかは普通の人なんだなとごく当たり前のことにも気付く。

    外界の捉え方について。障害について。主観と客観について。
    多くの事例から刺激を受け、自分の感覚についても認識が広がる1冊である。

  • 目の見えない人のことを、私は視覚を奪われた人という認識を持っていた。意識的ではなく、無意識にそんな風に考えていたが、本書を読んで全く違った視点を得ることができた。この新しい視点を言葉でうまく伝えることができそうもない。著者がこの本で語ろうとしていることは、この本一冊で表現していることだと思えるから。
    短い言葉で端的に伝える技量が無い自分が情けない。こんな自分だが、諦めずに一端を伝えてみよう。本書を読みたくなる一冊であることを未読の人に伝えたいから。

    たとえば、感覚について。
    視覚、聴覚、触覚、味覚などの感覚は、それぞれ決まった器官が担っていると思っていた。視覚は目、聴覚は耳という風に。確かに、目は見ることが得意だが、それ以外の器官でも見ることができているのかもしれない。見るということをどう定義するかにもよるが、耳で見ることだってできるのだ。
    空間の認知能力という点においては、かえって目が思考の邪魔をしている可能性だってあることを示唆している。本書を読んで、私の通っていた高校の数学の先生から聞いた話を思い出した。四次元、五次元の世界をどう捉え、学ぶかというとき、多くの人が躓くのだが、盲目の学者は苦もなく先に学習をすすめることができるのだそうな。二次元に住んでいる人が、三次元の球体と遭遇する場合。二次元の人には、点が突然現れて、円がどんどん大きくなり、やがて、小さくなり点となって消える。この空間をどんな風に捉えて認識するかを頭の中で描くことができるのかが、問われるのだ。
    障害があるのと、無いのと、どちらが良いとかではなく、本書では「揺れ動く関係」という言葉で表現しているが、対等ですらなく、互いが干渉しあって過ごすことができる可能性に満ちた場づくりを実践している現場を紹介している。
    本書を読めば、私が何をもがいて表現しているかが、少しわかってもらえると思う。

  • 【本書の概要】
    目が見えない人の受け取る情報は、「見えている状態を基準として、そこから視覚情報を引いた情報」ではなく、視覚抜きで成立している別世界の情報。
    本書を通じて、視覚障碍者の体そのものに変身し、目が見えない条件が生み出す体の特徴や、目が見えないがゆえに見えてくる世界のあり方と意味を実感したい、と筆者は考えた。

    ・情報ベースの関わり…見える人が見えない人に必要な情報を与え、サポートしてあげる。
    ・意味ベースの関わり…受け手が置かれた状況によって、情報は異なる意味を持つ。主体が周囲の事物にどのような意味を与え、それがどのような環世界を作り出しているのかを把握する。
    今の社会は、情報ベースで成り立っている。
    これからの社会では、「見えないこと」がアイディアになる環境を目指す必要があるのではないか。


    【本書の詳細】
    1 空間
    目の見えない人にとって、大岡山はまさに山の斜面を登るようだった。
    情報の少なさは特有の意味を生み出す。例えば、コンビニの陳列やポップは、見えない人にとって意識にのぼることがない情報だ。
    目に見えない人にとっては、「意識に登ってこない情報は追わない」。大岡山であれば、駅の位置と目的地の2点間だけにフォーカスが当たり、風景や道路の形状に気を取られることはない。言い換えれば、人は、自分が思っている以上に、作られた環境によって行動が左右されているということだ。

    これは、見えない人のほうが空間を少ししか捉えられない、という意味ではない。かえって見えない人のほうが、目が見通すことのできる範囲を超えて、ものの配置と関係に特化したイメージを、大きく俯瞰的に捉えられる。

    空間を空間として理解しているのは見えない人だけだ。見える人は、視点が存在している限り、空間や物を「どこから」見るかに制約がかかり、ものの見え方が必然的に一つだけの角度になる。
    見えない人は、視覚がないから死角がない。すべてが見えないからこそ、すべての部分を想像によって客観的に理解することができる。

    (例)太陽の塔はどちらが正面か?→目の見えない人にとっては正面も裏面もない。


    2 感覚
    よくある誤解に、「目が見えない=触覚が発達している=点字が分かる」がある。
    しかし、点字とはそもそも「読む技術」と似たものだ。紙に書かれたバラバラな線のパターンを「あ」と認識するような感じで、点どうしの「パターン」を認識している。必要なのは見える人が墨字を読むような能力であり、触覚が発達しているために点字が読めるか(解釈できるか)は別だ。
    そもそも、インターネットの発達により、視覚障害者で点字を読めるひとも12%程度しかいない。

    「読む」「眺める」「注目する」といった私達の能力は、特定の器官の機能ではなく、耳で眺める(俯瞰的に把握する)耳で注目する(一点集中で声を聞く)というような「認識のモード」である。人は目だけでなく、耳や手やお尻でも空間を把握し、それを「見ている」。

    別の言い方をすれば、器官というものは、そもそも明確に分けられるものではない、ということだ。

    生物の進化と、目が見えない人が目以外の器官を駆使することは似ている。歩くために使っていた前脚を飛ぶために作り変えるように、事故や病気で特定の器官を失った人は、残された器官をそれぞれの仕方で作り変えて、新たな体で生きる方法を見つける。


    3 運動
    足は、運動と感覚の両方の機能を持っている。地面の状況を触覚的に知覚しながら体重を支え、全身を前や後ろに運ぶ器官である。
    目が見えない人は、足をサーチライトとして使っている。いきなり全体重を預けたりせず、足が最初に接した場所を疑いながら、もっとも安全と思われる場所をサーチして、それからようやくそこに体重をあずける。そうした複雑な準備をしながら、末端部位を細かく動かして進んでいるのだ。

    視覚障碍者は、対象の運動に合わせて自分をコントロールする技術に長けている。これによりサーフィンやタンデム(二人乗り自転車)といったスポーツが可能だ。

    スポーツへの恐怖心を克服する方法は、結局のところ「慣れ」しかない。見える人だって、強化ガラスの上を歩けと言われれば、最初は怖い。しかし、予測と慣れでなんとかなる。


    4 言葉
    「ソーシャル・ビュー」という、目に見えない人が美術鑑賞をする方法がある。
    見える人といっしょに作品の前に行き、作品を見てもらって、思ったことを次々と口に出してもらう。みんながそれぞれ頭の中で作品に意味づけをし、それを言葉に出してもらうことで、他人の見方を自分のものにしているのだ。

    言葉の力によって作品が変化するのは、目が見える人にとっても同じだ。
    他人から「この絵の青い部分は、海に見えるけど実は野原だ」と言われたら、本当にそう感じてしまう。見えない人はこれを普段から行っており、見えないからこそイメージを柔らかくして、認識を次々に変えていく。


    5 ユーモア
    見えない状況を楽しむ視覚障害者もいる。
    回転寿司はロシアンルーレット、自動販売機は運試し、人混みはお化け屋敷。自分たちの身体に合わないデザインやサービスを、ナナメから見てユーモアに変えているのだ。

    健常者からの過剰な善意が、「障害者を笑ってはいけない」という空気を作り出している。
    障害者は、自らの障害を笑うことによって、健常者の心のなかにある「善意のバリア」を壊しているのだ。


    6 障害とはなにか
    一般的には、「障害とは能力の欠如」である、と思われている。
    個人の「できなさ」「能力の欠如」としての障害のイメージは、産業社会の発展とともに生まれたとされている。現代まで通ずる大量生産・大量消費の時代が始まる時期に、労働が、「目が見えないからできること」から「見えないからできないこと」に注目が集まるようになった。
    従来の考えでは、障害は個人に属していたが、新しい考えでは、見えないことが障害なのではなく、「見えないから何かができなくなる」のが障害だとされ、障害の原因は社会の側にあるとされた。
    これからの社会では、「見えないこと」がアイディアになる環境を目指す必要があるのではないか。


    【感想】
    目が見えない世界をハンデと捉えるのか、新しい世界の一つだとポジティブに捉えるのか。

    本書では、目が見えない人へ、「見える世界をなるべく詳細に教えてあげよう」というアプローチを取るのではなく、「見えない世界は見えない世界のまま、見える世界とどう橋渡しするか?」取るものであった。
    健常者である我々は、つい「目に頼った生き方」をしてしまう。視覚情報のほうが情報量が多いため便利なのは間違いないが、だからといって、情報量が多い=正義であってはならない。
    それは目に見える人――外国人相手でも同じである。彼らは視覚ではなく聴覚、つまり言葉が分からない。彼らへの情報提供は、「情報量」というモノサシでは測れない。同じ言語での意思疎通ができず、日本語の世界と外国語の世界を橋渡しする手段が必要になる。
    視覚障碍者を相手にしていても、これと同じことが当てはまるだろう。重要なのは「どう解釈すれば上手く翻訳できるか?」という頭の柔らかさなのだ。

  • 著者の伊藤亜紗氏は、美学、現代アートを専門とする、東工大リベラルアーツ研究教育院准教授。
    健常者は五感、即ち、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚で外界の状態を認識し、その中でも、八割から九割の情報は視覚に基づくと言われるが、本書は、その視覚に障害(著者は「障がい」という表記に否定的と語っている)のある人びとは、外界をどのように捉えているのか(「見ているのか」だけではない)を、著者が、視覚障害者やその関係者に対して行ったインタビュー、ともに行ったワークショップ、更には日々の何気ないおしゃべり等から分析し、まとめたものである。
    まず何より目から鱗なのは、「見える人が目をつぶること」と「そもそも見えないこと」の違いの解釈である。前者は、視覚情報の遮断、即ち、見えている状態を基準として、そこから視覚情報を引いた状態であるのに対し、後者は、もともと視覚抜きで成立している体の状態である。著者は、これを更に、4本脚の椅子の1本がない状態(その椅子は傾く)と、もともと3本脚で作られた椅子(その椅子は当然立って
    いる)という、非常に分かり易く例えている。
    そして、そうした視覚障害者が外界を捉える特徴を諸々述べているが、私が印象に残った点は以下である。
    ◆見えない人には「視点」、「死角」がないため、物事の在り方を、「自分にとってどう見えるか」ではなく、「諸部分の関係が客観的にどうなっているか」で捉えている。つまり、富士山は末広がりの三角形(台形)ではなく、末広がりの円錐として、月は円ではなく、球として捉えている。
    ◆見えない人は、断片を繋ぎ合わせて全体を演繹する習慣がついている。見えたイメージに固執するということがないため、入ってきた情報に応じて、イメージを変貌自在に変えることができる、つまりイメージに柔軟性がある。
    そのほか全体を通して感じるのは、著者の障害者に対するニュートラルな姿勢である。「障害」を、身体的、知的、精神的な「欠如」と捉えるのではなく、「特徴」と捉えることによって、障害者だからできないことがあるのと同じように、障害者だからできることがあるというスタンスが貫かれている。
    「世界の別の顔」を知るヒントを与えてくれる一冊である。
    (2017年6月了)

  • 本書を読んで、筆者がはじめに「視覚障害者の視点に立つということはただ目を閉じて生活することではない」と述べた理由が迚もよく分かった。

    障害→× 障がい、障碍→〇 が善とされてきているがその概念を覆す、驚きの事実や考え方も知った。
    そのうえで、これからは「障害」と書きたいところだが、以前の私こそ障害と書くことに違和感を感じていた身だし、「障がい」が一般的になりつつあるので変に誤解されても嫌だし、、だから1人でも多くの人に本書を読み、障害に対する先入観や誤解だったりが解ければいいなと思った。




    ほぼ筆者の体験談や当事者の話が元になっているので説得力があった。
    そして具体例もイメージしやすい。しかし同じ例を使い回している、という印象があったので私にはややこしい箇所もあった。それがかえって読みやすいと思う人もいると思う!
    視覚障害者が世界をどのように認識しているのか。彼らは意外な方法で世界を「見て」いた。
    健常者が目で見ることに依存しすぎているが故に盲目になっている、という内容には吃驚。




    理系的要素を含む(私がそう感じただけかも)前半の章は難しいとも思ったが4.5章は読みやすく、内容も興味深いものだった。
    4章の、目が見えない人の美術鑑賞…鑑賞こそ見ることに限ると思っていたがこれには衝撃を受けた。


    そして最後は、今後の目標(目指すべき社会像)が明記されていたりと、簡潔にまとまっていたのでスッキリ読み終えることが出来た。

  • 目が見えない大変さを伝えようとするのではなく、あくまで特性の一つとして考えて、目が見えない事による世界の感じ方や、在り方を興味深く書いてくれています。

    結構びっくりしたのは、点字というのはかなり高度な言語で、大人になってから学ぶのはかなり敷居が高いようです。10数%しか読めないらしいですよ。今はさらにパソコンや電子機器の普及で尚更使用頻度が下がっているようです。もし自分が視覚障害になったら点字を学んで本を読もうと思っていましたが無理なようです。

    確かに目が見えない人はサポートを必要としているという考えだけで、実際に目が見えない事で世界がどう「見えている」のかという事は考えたことも有りませんでした。
    思い込みで勝手に判断して、憐みだけで遠巻きに接してしまうのは致し方なしだったと思うのですが、この本のように目が見えない世界というものが、しっかり別次元として構築されている事に力強さを感じました。

  • 著者のスタンスがとにかく面白い。かわいそうな存在としてでもなく、変に持ち上げることもなく、とにかく「面白い人がいるんだ、聞いて!」といった感じ。例えてみるとこんな感じ。

    目の見える、でも第六感の働かないあなたが、第六感が普通に使われているけど視覚がない世界に行ったとする。とても不便だ。周りは第六感があることを前提に生活が成り立っているから、あなたには様々な「障害者向け」のサポートが用意されている。
    第六感がコミュニケーションの主要な手段になっているから、人対人の関わりになるとあなたはどうしても置いてけぼりになってしまう。でも、人対物になると目の見えるあなたの方が圧倒的に強い。周りの人には不思議がられる。「どうしてあなたはそんなに物の気持ちがわかるのか。まるで私たちには感じられないものが感じられているみたい。不思議だ。」

    本書は、これをひっくり返したような世界を見せてくれる。
    例えば、ブラインドサッカーがどうして成り立つのか、全くわからなかったけど、本書を読むと少しだけわかる。ボールに入っている鈴の音だけでサッカーしているわけではなく、実は鈴がなくてもブラインドサッカーできるくらい気配で他の選手やボールの動きは「見える」とのこと。

    もう一つ、目から鱗だったのは、健常者(目が見える人)とのコミュニケーションが「言葉で説明すること」を経由するため、目の見えない人だけでなく見える人にも「言葉の豊かな世界」が広がるということ。例として美術鑑賞が挙げられている。目の見える人と見えない人が一緒に美術館に行って、目の見える人がどんな絵なのかを言葉で説明する。大きさとか色とか素材とか形とか印象とか、問われて言葉にしていく。目の見える人が一人で絵を見に来たら、数秒から数十秒で黙って見て次の絵に移ってしまうところ、一つの絵に数分から数十分の時間をかけて、見たもの感じたことを言葉にしていく。言葉にした本人もその言葉を聞いて絵の理解を深める。
    なんて魅力的なんだろう。想像するだけでワクワクしてくる。ぜひ体験してみたい。

  • 視覚を頼りにしていると、じゃあ目が見えなくなったらどうなるのか?と、目をつぶってみることがよくある。
    しかし、それは単なる感覚の欠如であり、そこにあるのは"欠損している"と感じるだけだという。
    著者も言う通り、全員がそうでないと前置きをしつつ、目の見えない人の見ている世界を説明する。
    読んでいくうちに、今まで見えてこなかった、感じ方、物の捉え方を知ることができた。

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著者プロフィール

東京大学大学院人文社会系研究科美学芸術学専門分野博士課程修了(文学博士)。専門は美学、現代アート。
現在、東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長。リベラルアーツ研究教育院准教授。
主な著書に『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)、『目の見えないアスリートの身体論』(潮新書)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)、『手の倫理』(講談社)などがある。

「2021年 『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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