- 本 ・本
- / ISBN・EAN: 9784334039363
感想・レビュー・書評
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都市が上で、田舎が下。消費者が上で、生産者が下。政治の誤りは上から目線で助けてやるという姿勢の「地方創生」。
冷静に眺めてみると「地方創生」という言葉自体が見下した表現のように思えてくる。
自然を排除した人工物の中で生活している都会人。自然やコミュニティから切り離された生活。
都会のオフィスで一日中パソコンの前に座って誰のために働いているのかわからない。
一応仕事に誇りは持っているが、生きている実感ややりがいは感じられなくなってきている。
本当に自分に合った居場所や役割を見つけることができず、「食べていくためには仕方ない」という働き方。
大量生産、大量消費、大量廃棄の歪で一次産業従事者は疲弊しているが、都市の労働者も行き詰っている。
この両者が協調することで、互いに生きる実感の向上に繋がっている「食べる通信」という取り組み。素晴らしい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
とてもいい刺激を受けた。この間、創造農村をアタマの中で構想していた。私は田舎から農業で、創造農村を作ろうとしていた。ある意味では、私は「地方創生」的な発想をしていたが、著者の言うような「都市と地方をかき混ぜる」と言うような発想はなかった。うん。言おうとしていることはわかる。その乱暴な表現に、座布団を1枚あげたい。
著者は、岩手県花巻市で生まれ、岩手県会議員を2期して、東日本大震災を契機にして、県議会議員を辞職して、岩手県知事選に立候補し、現職の知事に敗れる。東北の1次産業をなんとかしたいと考える。田舎と東京を行き来するのかで、都会の自由さの中にも、人に関心を持たれないと言う孤独な社会が浮かび上がった。岩手県は、宮沢賢治をうみ、大谷翔平、佐々木朗希を産み、宇多田ヒカルの母親も生まれている。
自由があるが、都会人は「檻」のなかに閉じ込められている。著者は、「自由の奴隷」とさえ言い切る。一方、田舎には自然があり、家族、親戚、地域住民、仕事仲間、同級生など濃密な人間関係がある。その通底にあるのは、「生きづらさ」であり、「生きる実感」が失われている。
人口減少、高齢化の限界集落となりつつあるが、地方創生を唱えて、果たして田舎だけでできるだろうか?いっそ、都会と田舎を混ぜて仕舞えばいいのではないか?
それは、震災後の都会から押し寄せてきたボランティアの人たち、その人たちは支援しているが、逆にイキイキとして、被災地の人から励ましを受けていることが、著者には印象的だった。
都会には、「存在意義喪失」「やりがい喪失」「正義希求」の人が溢れている。
「都会で生まれ、都会しか経験しない人たち」は、ふるさとを持っていない。田舎の自然、人の優しさと濃密さがあるふるさとがいるのだった。
そのことは、食を通じて可能ではないか。田舎には、人、地域、自然との関わりや生きる実感がある。地方創生の問題を地方の問題にとどめず、都市の問題を包含するスケールでとらえて、日本の直面している難問への解答に近づくのではないか。
東北で、たくさんの漁業者、農業者に耳を傾け、手足を動かして、始めたのが「東北食べる通信」だった。都会住民が、食べものの裏側(この表現が気になるが、まぁ陽が当たらないと言う意味かな)
にある1次産業、漁業者、農業者の世界の物語を知れば、「生きる実感」を取り戻すのではないか?
と考えた。東北の田舎の畑と田んぼ、海で自然と格闘しながら生産物や収穫物を生み出す生産者の姿や世界観、作物の歴史などを綴って物語とする。そのことによって消費者と生産者をつなぐ。食べる人を作る人につなぐ。作る人に食べる人をつなぐ。食べる通信は、通信に農家や漁業者がどんなことを考え、どんなものを作り、届けようとしているかと言う想いを掲載する。そして、そのためには会員数は、1500人とする。通信の付録品として、農産物などがついている。また、それをどう食べるかということも掲載されている。
大量生産、大量消費、大量廃棄という社会システムが通用しなくなり、より身近な世界で小さなコミュニティによる消費者と生産者を結ぶネットワークづくりだ。この本の紹介では、「食べる通信」は、北海道から沖縄まで、34ケ所あるという。ふーむ。カルビーの故・松尾雅彦さんの「スマートテロワール」(農村自給圏構想)に似た発想をしている。
食べる通信によって、リアリティと実感が届けられ、消費者の共感と参加が生まれる。食べることと作ることの関係から、食べることは作ることとつながっている。支援という関係ではなく、連帯であり、食べる人も作ることの当事者であると気付かせ、実際生産者と直接つながっていく。
本業の名刺と2枚目の名刺。その2枚目の名刺が、やりたいことであるとしても、自分にとって必要なことになっていく。自分という存在が、自然、自由につながっていく。その言葉の中には「自」があるのだ。自分、自然、自由。食によって」、都市と田舎をつなげることが、著者は「混ぜる」というのだ。その中で、充実して生きること。消費者から、生活者に変わること。
著者には、思想と哲学がある。アマゾンで売っていないものが、「リアリティ」「関係性」そして「共感」「参加」なのだ。
文章は、説得力あり、惹きつけられるし、引用もうまい。
「津波がひいたら海に行け」「森は海の恋人」「牡蠣をつくるのは、人間ではなく海だ」
「めいめいそのときどきの芸術家である」宮沢賢治。
巨大な防波堤は、非日常であり、日常の海岸や海を切り離す。伊東豊雄の「みんなの家」が必要。
人と人を分断する思想、人と自然を分断する思想を排除する。自然との境界線をできるだけ設けない。読めない天候を相手にして、自然と対話して、風や潮の流れを読み解きながら、受け継いだ技や知恵を駆使して仕事をすることこそ、クリエイティブな仕事である。
生産者の現場は「きつい、きたない、カッコ悪い、稼げない、結婚できない」の5K産業を変える。
ふーむ。人を惹きつける話術を持っている。
著者は、食べもの通信から、さらにポケットマルシェを立ち上げていくのだ。 -
消費者目線ではいけないという主張はわかりました。しかしながら、著者さん含め、東京に来ておきながら「東京のひとは目が死んでる」とか、東京をひとくくりに批判する地方の方がいるのはいつも残念に感じます。
東京っこの私からみると余計なお世話的な東京批判も多いですが、そういう批判もあったかく受け入れちゃうのが東京の良さと再認識したりもしました。 -
関係人口という言葉の生みの親のおひとり高橋さん。本書はずっと読まなきゃなと思いながら積まれていた。なんとなくタイトルが好みではなくて。
実際中身は大量生産大量消費社会に対する批判と食を通じた生きる実感の回復をめぐる主張だった。テーマが一貫していて、やや胸焼けしそうなぐらいだったが、読みやすかった。私もふるさと難民であり、農山漁村に希望を感じている者のひとりなので、大筋は共感できるものだった。
ただ、食べるに真面目にいられない人を非難しているようにも捉えられる表現があるので、どうだかなぁと感じる部分はあった。
2016年の本ということで、やや内容が少し前の時代を眺めているような感覚にもなり、ファンマーケティングも主流化しつつある今はまた別のやり方が求められるのだろうなと思った。 -
色とは何か、産業とは、地方とは、生き方とは、
考えるきっかけにもなるのでは。 -
【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/685543 -
一次産業への当事者意識を持つことの重要性を認識した。
人間は相手との関係性が見えて初めて共感力が生まれる。
死があるからこそ生がリアリティをもつ。
命の循環。リアリティを持って生きる。
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たしかに、私達は農家や漁師たちの苦労を知らずに安価なものばかり買ってその結果自分たちの首を自分で占めていることになっているのかもしれない。
ただ傍観して無責任なことをするのは良くないと思った。 -
一次産業を救うのは消費者。消費者側のクリエイティブが必要なのだ。
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食べる通信の仕掛人がその裏側や思いをまとめた一冊。単に地域おこしにとどまらず、これからの個人のあり方、日本のあり方、都会と田舎のあり方、等についても指針となる一冊。とても興味深かった。これからはストーリー、価値観、リアリティが大切になるということは覚えておきたい。
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