精神鑑定はなぜ間違えるのか? 再考 昭和・平成の凶悪犯罪 (光文社新書)

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  • Amazon.co.jp ・本 (203ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334043254

感想・レビュー・書評

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  • 精神鑑定はすべて本人の訴えであり客観的な評価がそもそもできない。また、医師が何か精神状態に異変があったに違いないという態度で面接に臨むと一定の割合で、患者側もこれに応えようと医師が望むような症状に話してしまうという。ときには精神科医の誘導により偽の記憶が無自覚に捏造されることさえある。残念ながら精神科医がこれに気付くことはほとんどない。あまつさえ検察側が提供する資料は検察に都合の良いものばかり。被告に有利な資料は秘匿されてしまう。結果として検察側のシナリオどおりの鑑定となってしまう。鑑定書は矯めつ眇めつあらゆる角度から眺めなければならないということ。精神鑑定には自ずと限界があり、そういうことを十分ふまえたうえでの対応が求められている。

  • 少々、読みにくい本だった。
    もちろん平易に書かれているのだとは思うのだけれど、どういうところに主を置いたらいいのかが、わかりにくいと感じた。

    精神鑑定が間違っているのか、それとも、鑑定人の考え方の違いなのか、そもそも精神鑑定という分野に正解があり、答え合わせが出来るのか、そういったことが明快に分かる本ではない。

    取り上げられている事件はよく知られた事件ばかりだったし、私が知らなかった事実もたくさんあった。支離滅裂な主張をしている被告人がいるが、なぜこのような思考になるのか?それを虐待や貧困や本人の自己中心的な考えなどだけでなく、虐待という事実からこのような経過をたどり、このような思考に至る、という道筋が欲しいと思ってしまう。けれど、そんなに単純なチャートのような物は人間の人格形成にはないのかもしれない。

    その中でも「永山事件」は興味深かった。現在と全く状況が違うが、貧困がなければ、教育がもっと出来ていれば、このような事件を起こさなかったのでは、と多くの人が考える事件だ。現在を生きる私に当時の状況を想像することは難しいし、想像できてもそれが正しい想像かは分からない。どんなに想像しても、追いつかない、もっと酷かったと、言われてしまいそうだ。それでも亡くなった方々の方が気の毒のように思える。教育が人を矯正していくという事例の一つなのかもしれない。しかし我慢が出来ない人や被害妄想を抱く人に、果たして教育は矯正装置となるのだろうか。池田小の事件や池袋通り魔事件を見ると、自信を持ってイエスとはいえない。教育にも限界があるということを認識することは大切だと思う。

    読んでも読んでもモヤモヤした気持ちは涌きあがってくるが、人の心理とはそのようなものなのだろうか。

  • 借りたもの。
    日本戦後~平成を震撼させた5つの事件を挙げ、その事件の経緯と加害者の精神状態、それに下された精神鑑定を紹介。

    1)付属池田小事件(2001年) … 見逃されたADHDによる二次的被害(強迫性妄想)
    2)新宿・渋谷セレブ妻 夫バラバラ殺人事件(2006年) … 他人を支配したかった妻の計画的犯行。病名なし
    3)池袋通り魔殺人事件(1999年) … 統合失調症
    4)連続射殺魔・永山則夫事件(1968年) … 虐待の連鎖
    5)帝銀事件(1948年) … コルサコフ症候群

    各々の詳細については、文中に他書籍も紹介。

    リアルタイムで知っている事件も、マスメディアがセンセーショナルに報道するだけでよくわからなかった事が、端的にわかりやすくまとまっていて、非常に読みやすかった。
    付属池田小事件だったか、ワイドショーが犯人の証言――妄想内容――をさかんに紹介しているものがあったように思う。しかし、そこに真実は無い。むしろその妄想を見ている状態が精神疾患の症状であり、それが“問題”だった。

    常軌を逸脱したような事件の背景に、戦後どころか戦前~1990年代まで、馴染みがなく偏見だらけだった発達障害や統合失調症といった精神疾患に起因するものが多くあることが伺える。
    その一方で、マスメディアによってセンセーショナルに書かれすぎて、遺体の状態が異常に思える事件も、よくある?殺人事件の衝動性が事件の発端に過ぎなかったものもあることを指摘する。
    永山則夫事件には、昭和の人間が「凶悪事件の背景には貧困がある(貧しさは自己責任論)」という考えを持っていた理由(きっかけの事件)のように思えた。高度経済成長期に経済発展の波に乗れなかった、時代に取り残される人(戦時・戦前の遺物扱いか?)…
    言及はされていないが、永山則夫の父親がギャンブル依存症だったのは戦時中のPTSDによるもので、それが経済的虐待になり、則夫の次兄の身体的虐待、母親からのネグレクトに繋がったのではなかろうか?

    タイトル「精神鑑定はなぜ間違えるのか?」の答えは、そもそも精神医学自体がまだ日の浅い分野であることが否めないことを指摘。
    糾弾はしていないが、精神鑑定をする時代によっても、名称はおろか基準も変わっていくため、「それが正しい診断だったのか?」と疑問を投げかけている。
    最初に挙げている付属池田小事件の精神鑑定をした岡江氏に相当のプレッシャーがあったことを指摘しつつ、診断を放棄したことにベテラン医師としてのプロ意識欠如を怒っているようだった。

    興味深かったのは、著者が多重人格を否定する理由がわかりやすかった。
    最近はよく指摘されているが、ダニエル・キイス『24人のビリー・ミリガン』( https://booklog.jp/item/1/4151101047 )、『ビリー・ミリガンと23の棺』( https://booklog.jp/item/1/4151101063 )を読んでいたので腑に落ちなかった。だが、‘ミリガンは心理士らの誘導によって、過去にさかのぼって自分を多重人格にしたてあげているようにも見える。つまり、「多重人格」という症状は、故意かどうかは別として、医療者によって誘導されたものなのである(p.73)’という見方は、勉強になる。

    付属池田小事件と池袋通り魔殺人事件には、犯人の支離滅裂な犯行動機・思考に眩暈を覚える。「お前は何を言っているんだ…?」
    同著者『やさしい精神医学入門』( https://booklog.jp/item/1/4047034738 )の後半に掲載されていた判例を思い出す。罪の意識…そもそもの罪の定義を認識できない、共有してもらえないという越えられない溝。

    こうなる前に…と、押川剛『「子供を殺してください」という親たち』( https://booklog.jp/item/1/4101267618 )を思い出す。医療に繋げられないものか、医療は救えないのか、と。

  • 精神医学は未だ未熟、という所から入るこの本から見えるのは精神鑑定の危うさ。これが判決に大きな影響を与えると思うと複雑な物があります。

    新書という事もあり、各事件の掘り下げ方は割とあっさりしています。個人的には少し食い足りなさが残る一冊でした。

  • これまで大きな議論となった池田小事件、新宿バラバラ殺人事件、池袋通り魔事件、永山則夫、帝銀事件が扱われている。

    改めてこれらの事件を概観してみると、永山則夫のように情状で論じる必要はあるものの、責任能力には問題がないと思われるケースでも鑑定人の気持ちの持ちようでは(裁判では採用されなかったが)心神耗弱という鑑定結果になったり、池袋の事件のように明らかに責任能力の問題があっても世論におもねって(?)問題なし、という結論になっていたり、時代の空気のようなものも感じられる。

    帝銀事件も容疑者の死亡についてニュースで見たぐらいの知識しかなかったが、内村ー秋元の対立とか、被疑者が犯行自体を認めていない場合の鑑定人のあり方など、はっとさせられるようなことも多かった。

  • 東2法経図・開架 B1/10/919/K

  • 伝説と化している事件から記憶に新しい事件まで、凶悪な犯罪を犯した人々の内面を掘り下げた研究書。
    逮捕後の精神鑑定は、与えられる情報が偏っている可能性が高く、専門家といえども中立的な判断を下すのは困難だということがよく理解できた。
    犯人たちの犯行に至るまでの来歴は素人目にも異常だ。治療するなり保護するなり措置を行って犯罪を未然に防ぐことができなかったのだろうか。そんな疑問が生じるが、それも事後に振り返ってみての印象である。実際は周囲からは境界線上にいるように見えていたのかも知れないし、犯行の直前に一線を越えてしまったのかもしれない。
    正常と異常の狭間について考えさせられる一冊。

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著者プロフィール

昭和大学医学部精神医学講座主任教授

「2023年 『これ一冊で大人の発達障害がわかる本』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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