- Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
- / ISBN・EAN: 9784334043544
感想・レビュー・書評
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図書館で借りた。
宮内庁・皇室のあり方は何度もニュース・ワイドショーで取り上げられており、神道教義の「かくあるべき!」な声を耳にした人は多いと思う。そんな天皇家の在り方について、一石を投じた1冊。
サブタイトルにあるように「伝統がどのように作られたか」という観点で、史実を紐解いていく。
大雑把にこの本を説明すると、「今日言われている”伝統”は、ほんの100年前に作られたにすぎず、江戸以前はそんなこと無かったよ」な話が主だ。伝統重視な意見に対する反論文献と思えば分かりやすいと理解している。
「一世一元の採用経緯」「太陽暦採用の理由」などは参考になった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
出口治明先生推薦
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お田植とご養蚕
山陵
祭祀
皇統
暦
元号
著者:小島毅(1962-、高崎市、思想史) -
東2法経図・6F開架 B1/10/948/K
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『天皇と儒教思想――伝統はいかに創られたのか?』
著者:小島毅
【感想】
儒教との関わりに絞った天皇&天皇制にまつわる各トピックの歴史……だけに留まらず、あれこれが〈創られた伝統〉だと示される。
【書誌】
2018年5月17日発売
定価(本体860円+税)
ISBN 978-4-334-04354-4
光文社新書
判型:新書判ソフト
八世紀の日本で、律令制定や歴史書編纂が行われたのは、中国を模倣したからだ。中国でそうしていたのは儒教思想によるものだった。つまり、「日本」も「天皇」も、儒教を思想資源としていたといってよい。その後も儒教は、日本の政治文化にいろいろと作用してきた。
八世紀以来太平洋戦争の敗戦まで、天皇が君主として連綿と存続しているのは事実だが、その内実は変容してきた。江戸時代末期から明治の初期、いわゆる幕末維新期には、天皇という存在の意味やそのありかたについて、従来とは異なる見解が提起され、それらが採用されて天皇制が変化している。そして、ここでも儒教が思想資源として大きく作用した。
本書は、その諸相を取り上げていく。
https://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334043544
【目次】
目次 [003-005]
はじめに 007
はじまりは「おことば」/天皇をめぐる諸制度は明治時代に改変された/創られた伝統/「日本」の自明性を疑う/各章の構成/本書の立場について
〈巻頭コラム〉本書の内容をよりよく理解するための儒教の基礎知識 023
第一章 お田植えとご養蚕 035
お田植えは昭和天皇から/『古事記』にみる養蚕/皇后によるご養蚕/ご養蚕の現況/大名たちのお田植え/中国の籍田と親蚕/水戸学の祭政教一致論/三つの「嘗」
第二章 山稜 073
大王古墳と皇帝陵/江戸時代の山陵治定/神武天皇陵の治定/橿原神宮新設/中・近世における皇陵の扱い/豊臣秀吉と仁徳天皇陵/神武天皇陵の治定と修築/物議を醸した後藤のコラム/集団移住/葬制――土葬か火葬か
第三章 祭祀 109
祈年祭と皇霊祭/中国の祈穀祭祀/時令の聖典、『礼記』の「月令」/祈年祭の源流・祈殻/おごれる者たち/郊=郊祀=祈穀祀/経学のなかの祈穀郊祀/祈年祭の盛衰/維新期の祭祀復興/宗廟で祀られる祖先の代数/経学論争/筆写過程の間違い/『古文尚書』咸有一德篇/十陵四墓制/『西宮記』現行本の記述/中国の宗廟制度を意識/陰陽思想と廟陵/勅祭社/彼岸の起源/皇霊殿の創設/春季皇霊祭・秋季皇霊祭の誕生/儒式借用による仏式からの離脱/天智天皇から神武天皇へ
第四章 皇統 181
歴代天皇陵一覧/明治三年の諡号追加/南北朝正閏問題/喜田貞吉の憂鬱
第五章 暦 211
七夕の思い出/太陽暦と太陰太陽暦/閏月挿入の珍例/改暦の歴史/明治六年改暦
第六章 元号 237
元年春王正月/元号創建事情/歳首問題/大化元号/祥瑞改元から災異改元ヘ/九世紀東アジアは一世一元の時代/災異改元と革年改元/一世一元の採用/江戸儒者の提案/明の一世一元採用
より詳しく知りたい人へ [307-311]
おわりに(平成三十年 穀雨の日に 小島毅) [313-315]
【抜き書き】
ルビは全括弧[ ]に示した。
■171頁
・平田久『宮中儀式略』(1904年)における春季皇霊祭の章から引用したあとに、次の用語解説が続く。
“賢所[かしこどころ]は八咫鏡[やたのかがみ](神鏡)を神体として皇祖天照大神を、皇霊殿は初代神武以来の歴代天皇と近代の皇族を、神殿は天神地祇[てんしんちぎ]すなわち天神[あまつかみ]・国神[くにつかみ]を祀る。
この天神・国神というのは、『古事記』の表記である。天神・地祇は『周礼』に見える儒教用語。
日本古来の「あまつかみ・くにつかみ」を、これとは起源を異にする儒教の「天神・地祇」と表記した『日本書紀』の編者(もしくはこれに先行する文献の著者)は、実に巧妙な理論化を施したといえよう。
つまり、神殿の祭神には、『古事記』の「天神・国神」ではなく、中国由来の「天神地祇」を用いている。天神・地祇は、もともと儒教で人鬼(死者の功績を称えて神として祀る対象)以外の自然界の神々を指す総称として使われた用語だ。実態としては日本特有の神々であるにしても、その扱いには儒教風の変貌を窺わせる。”
■208頁
・喜田貞吉の項から、崇光天皇の生涯についての一節。
“彼の子孫は伏見宮[ふしみのみや]家の創設を許されたが、本来は天皇家の嫡流であるにもかかわらず、庶流の扱いを受ける。
ところが、称光[しょうこう]天皇に嗣子[しし]がなかったため、崇光天皇の曾孫が、後小松天皇の子という形式で即位し後花園天皇となって、「天つ日嗣[あまつひつぎ]」を継承して現在に至っているのだ。
そのため、喜田は、崇光天皇から始まるかたちでの系図を作成し、その最後に今上天皇(明治天皇)と皇太子(大正天皇)およびその子たちを載せている。
彼にとって、そして史実としても、皇統は持明院統崇光流によって受け継がれてきたのだ。
畏れがましいことながら、明治44年(1911年)に南朝を正統と裁定したことは、本当に明治天皇の大御心[おおみこころ]にかなう決定だったのだろうか。
君主の意志を無視し、自分たちの利害で政治を壟断[ろうだん]するやからのことを、儒教では「君側の奸[くんそくのかん]」と呼んで、唾棄軽蔑する。長州閥は、南北朝正閏[せいじゅん]論の一点だけでも、充分これに値するのではなかろうか。
「おことば」として婉曲に表明された今上陛下の大御心が、同じような人たちによって、捩じ曲げられていなければ幸いである。”