- 本 ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784334104009
作品紹介・あらすじ
多くの動物にあって、ヒトにはないしっぽ。遠い祖先はしっぽが生えていたというが、いつの時点でヒトはしっぽを失ったのだろうか。はたまた長い歴史の中で、人は八岐大蛇や九尾狐など多くのしっぽを描いてきたが、そのしっぽの向こうに何を見ていたのだろうか。しっぽを知れば、ひとが分かる——。 文理の壁を越えて研究を続けるしっぽ博士が魅惑のしっぽワールドにご案内!
感想・レビュー・書評
-
幼い頃、わたしは、しっぽが欲しかったw
で、母のキツネの襟巻(もちろんフェイクファー)をスカートの後ろにつけて、誇らしげに家の中を歩きまわって、母に叱られたw
「だって、カワイイじゃない!」と言い訳したけど、あきれられただけだった。
この本のタイトルを見た瞬間、わたしのしっぽ熱は再燃した。けど、しっぽの可愛さを探究する学問ではなかった(残念)
著者 東島沙弥佳(とうじま さやか)さんは、京都大学白眉センター特定助教。東島さんの取り組んでいる研究は、「しっぽという一つの研究対象を様々な角度から見てみること」で、その先に「ひと」がどのように「ひと」になったのかを見出そうという研究だそうである。
例えば、「ひと」の遠い遠い祖先にはしっぽが生えていたが、およそ1800万年の化石を見ると、すでにしっぽを失っていた。その事実などに基づいて、「ひとは、しっぽをどのように失っていったのか」を研究している。
しかし、日本では「専門は○○学(天文学や生物学など)です。」と言わないと納得してもらいにくいそうで、また、様々な学問(「〇〇学」)の成果をしっぽ学研究のツールにしていることについて、「中途半端」だと批判されることもあるのだと言う。
だが、東島さんは、しっぽから「ひと」を探るために、人類学や形態学、解剖学を研究し、さらに発生生物学の知見から、「ひと」は胚の段階ではしっぽが生えているのに、発生が進む(胚から胎児になっていく)につれて、完全にしっぽが失われていくことを突き止める。
そして、発生生物学研究室で研究を進め、胚の段階での体節(たいせつ)と呼ばれる構造が大切であることに気付く。
また、2024年2月にNature誌に「ヒト科におけるしっぽ喪失の遺伝的な原因」を突き止めたという他の研究者の論文が掲載されたことについて、東島さんは納得していないと言う。
しっぽ学の道は、かなり先が長いようだ。
この本には、日本書紀には、しっぽが生えた人間の記述があることも書かれている。東島さんが理系のみならず文系分野にも視点を広げて研究しているのが分かる。
加えて、京都市内のある中学校で、出前授業をした際に、中学生から出された質問に対する東島さんの答えからも、研究姿勢が伺える。
中学生 「先生にとって、しっぽとはなんですか?」
東島さん「しっぽは、私の人生にとって相棒です。」
さすが! お尻に襟巻をぶら下げて悦に入っていたわたし(みのり)とは比較にならない思い入れである。
そうなると、わたしとしては、しっぽを巻いて逃げるしかないw詳細をみるコメント9件をすべて表示-
みのりんさん芽がでたら、ぜひ見せてくださいな♪♪芽がでたら、ぜひ見せてくださいな♪♪2025/03/19
-
みのりんさんお芽でたいことですから♪♪♪お芽でたいことですから♪♪♪2025/03/19
-
みのりんさん良かっタネ♪♪♪♪良かっタネ♪♪♪♪2025/03/19
-
-
一本の筋を通して(「人間のしっぽはなぜ無くなったのか」という謎の結論に向かって、ぶれる事無く)、あっちこっちと自分の経験(調査方法)や知識(調査結果)、自己の来歴(研究者の歴史)を披露している。自分でも言っているが、面白い(経歴の)研究者というポジションなのだろう。
以下、引用。
●しっぽの生えたヒトがいるという『日本書紀』の記述自体は、真実の表現というより比喩なのかもしれない。身体特徴ではなく、異なる生活習慣や服装を指すものなのかもしれない。だが、そうした記述があるという事実こそが、先天異常らしい表現の存在を 示してくれた。面白い発見はいつも自分が予想する道の先にあるとは限らない。こうした思わぬ寄り道や発見があるからこそ、研究は面白くてやめられないのである。
●善なるものにしても悪なるものにしても、複数のしっぽを持つ動物は通常の動物とは異なり、なんらかの力を有していると表現されることが多い。あまり詳しく書くとトンデモ本になってしまいそうなので控えるが、私はこうした空想上の動物におけるしっぽというものが人間を取り巻く自然環境や、人智のおよばない自然災害の比喩として登場している可能性をヒトにはない器官のしっぽを持つか持たぬか、あるいはそれを何本持つのかというのが、ヒトの御しえない自然の力の比喩なのではないだろうか。
また、同時に大変興味深いと感じるのは、こうした変形しっぽを持つ動物の表現が古代から我々の生きる現代まで、ずっと存在していること、かつその表現方法に変化があることだ。 現代の我々にとって、しっぽは「おそろしい」や「ありがたい」ではなく、むしろ「かわいい」の対象物である。
知識の拡大や技術革新によって、ヒトの御しえる自然の範囲は広がった。人間が野生の獣と接触したり、獣に害されたりする機会も、かつてよりは減少している。自然と人間との距 離感が変化し、自然は楽しむもの、動物は愛でる対象へと変化した。これが、しっぽの表現 の背後にあるものの変化だと私は考えている。たとえば、かつては瑞獣や妖狐など畏怖の対 象であった多尾の質は、ポケモンの世界では愛らしいキャラクター(ロコン、キュウコン) となり、飼い慣らすことさえできるようになった。
このように、我々「人」が紡いできたしっぽに関する表現を注意深く読み解いていくこと で、しっぽの向こう側に我々は何を見てきたのかが分かるのではないだろうか。こういった 研究手法では、データを収集し、定量的に評価することは難しい。こうだと断定することも 難しい、面白おかしく話を作っている、そう言われかねない研究手法でもあることは十分に解している。
だが、「人」の成り立ちは「人」が遣してきたものからしか解明できないと私は信じている。しっぽの生えたヒトに関する表現からは、先天異常の可能性の他に、自身と社会的背景や居住地の異なる人間をどう担えていたかを読み解けるかもしれない。 -
しっぽについて、文系理系に囚われず柔軟に研究していきたいという筆者の理想と意気込みが詰まった1冊。そのため本書は終始がっつり専門的というかたいものではなく、筆者が研究者としてたどった軌跡とともにこれまで調べてきたことを簡単に語っていて、個人的には発生生物学の章が興味深かった。確かにアプローチの仕方がさまざまな分、今はまだ中途半端な印象も受けるが、こういう「面白い」と感じたものに熱中する人たちの研究の機会をもっと長い目で整え、日本で研究者が育たないという問題が改善されていくことを期待したい。
-
□選定理由
・目を引くタイトル、かつ、しっぽ関連の本は読んだ事が無かった為、手に取った。
□感想
・何故、人にはしっぽが無いのか?生まれてくる過程で、しっぽが縮んで無くなった(人には必要が無いからと退化した?)と言う事が分かったようだが、この分野に詳しい人がいないので、今後、新たな発見が出てくるのか期待したい。 -
視野が広がる。しっぽに関する著者の経験や研究をもとに話題が広がる。テールスープはなぜ美味しいか?とヒトには実は胚のとき尻尾がある、というのがとても興味深い内容であった。
-
●しっぽについてあらゆる角度で研究していこうとしているのがよくわかる。生物の部位のことなのだから、生物学の分野なのかなと考えてしまうが、人文学的視点からも研究しようとする著者の頭の柔らかさはすごいと思った。
-
文系、理系の垣根を超えた研究。筆者の専門しっぽ学。人間がしっぽを無くした理由の考察や骨の形状からしっぽの長さを考察したり。また世界に多くあるしっぽを失くす民話など。
筆者の試行錯誤していく課程が多く描かれるところが独自の魅力。 -
文系、理系の枠を超えてしっぽを研究する研究者のしっぽの概説書。しっぽの知見が簡単に紹介されつつ、研究生活なども少し書かれている。
やはり驚きは、人間が進化の過程で喪失したしっぽは、二足歩行と関係がない、という点。人類学や解剖学などいろいろあるものの仮説の域を出ていない。いまだ謎というのは面白い。また人間は胚から胎児に成長する過程で一瞬、しっぽが生えて、またなくなっていくらしい。
人間が突然変異でしっぽができているのも、著者の解説によると、進化の過程の「しっぽ」とは関係がないとのこと。しっぽは謎が多い… -
選書番号:847