- 本 ・本 (392ページ)
- / ISBN・EAN: 9784334751081
感想・レビュー・書評
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【はじめに】
本書は、言わずと知れた大哲学者カントの「啓蒙とは何か」「世界市民という視点からみた普遍史の理念」「人類の歴史の憶測的な起源」「万物の終焉」「永遠平和のために」という五編の論文を収めたものである。
多くの翻訳書・解説書を世に出している中山元さんの新訳で、『純粋理性批判』はさっぱり理解できないと言うか、それ以前に読み進める意志を挫かれてしまった自分でも、この本はとても読みやすい。『純粋理性批判』などの大部の理論的著作を構築したカントが、実際に啓蒙や平和について考えたらどうなるかが理解できたようになれる本。
【概要】
それでは5つの論文を順にみていきたい。
① 『啓蒙とは何か』
カントは啓蒙を、「みずから招いた未成年の状態から抜けでること」と定義する。そのためには理性を使用することが重要だとカントは説く。そのための「自由」をカントは社会に求める。
「公衆を啓蒙するには自由がありさえすればよいのだ。しかも、自由のうちでもっとも無害な自由、すなわち自分の理性をあらゆるところで公に使用する自由さえあればいいのだ」
カントの思想の裏にあるのは、この「自由」があればいずれはうまく最終目的とされる姿まで辿り着くという理屈である。それは人間への信頼というよりも「自然」への信頼である。人間の存在自体が自然の目的であるという信念がここに収められた論文に通底しているように思われる。そして、その目的は、自然の意志として実現されるはずだと。
この論文で印象的な主張は、理性の私的使用と公的使用の区別である。公務員や教会の司教がその役割に応じて理性を使用するのは、私的な理性の使用である、と。そういった理性の使用が制約されることは仕方がないという。しかし、そういった人でも立場を離れて自由に自ら考えた結果を世の中に問い、行動に移す自由があるという。それが、理性の公的な使用であるという。
ここまで読むと、カントには自分で考えるということとそれを行う自由を保証することが重要であるということが基底にあると思う。考え(理性の利用)は強制されるものではない。強制されたものはあくまで理性の私的利用でしかない。理性の公的利用こそが人間の最終目的に向けた進化に適うものであり、それさえ確保されていれば自然の摂理が最終目的に導くのだ。一歩進めてみると、自然の摂理に導かれた結果なのだから、それが最終目的として受け入れるべきものだとさえ言えるのかもしれない。
「理性の公的な利用だけが、人間に啓蒙をもたらすことができるのである」
果たして、人間の考えはどこまで「自由」であるのかという疑問はあるだろう。ここで言われているカントの自由は、いわゆる自由意志とは実は異なるものなのかもしれない。そこには超越者の意志とも言える摂理が働き、「自由」な考え、「自由」な理性の使用はその帰結として自然の意志による理想の世界を構成するものになるからである。その観点では、それは全く自由ではないのかもしれない。おそらく求めるものは、その摂理の実現を歪めるような制限の排除こそがここで求める自由と考えるべきではないだろうか。そしてそれが啓蒙につながり、制約を外して啓蒙を続けることで、人間の子孫に対する「神聖な権利」を保証するものと考えているのである。
②『世界市民という視点からみた普遍史の理念』
この論文でカントは世界市民の誕生に至るまで経緯を歴史に見ていく。カントは歴史について、「人間の意志の自由の働きを全体として眺めてみると、自由が規則的に発展していることを確認できる」という。人間の営みが期せずして、自然の意図に沿っているのだという、そしてそれが歴史の帰結であるというのは次のような記述からもうかがえる。
「みずからは認識することのできない<自然の意図>にいつのまにかしたがっている。それでいて自分が<自然の意図>を促進しているということには、あまり気付かないものなのだ」
別の言い方では「自然の狡智」(ヘーゲルはこの後「理性の狡知」を対置した)によって歴史と社会が発展してきたと言える。そして重要なことは、カントにとって人間こそが自然の最終目的だということである。それが人間という理性を持つ生物が世界に存在する理由だと考えるのである。また、カントの生まれる前に発見されたケプラーやニュートンによる自然法則の発見が、カントの思考に大きな影響を与えていることは間違いないと思う。この自然法則によって世界が動いていることと、それを人間の思考によって明らかにできたことがカントの世界観の底流にあると感じられる。
以下、このことを論文に示された命題とともに見ていく。
第一命題: 「被造物のすべての自然的な素質は、いつかその目的にふさわしい形で完全に発達するように定められている」という最初の命題は、このカントの思考を明確に示すものである。
第二命題: 「地上における唯一の理性的な被造物である人間において、理性の利用という自然の配置が完全に発展するのは、個人ではなく人類の次元においてである」
なぜなら一人の人間の寿命には限りがあると定められており、自然の意図が完全に実現されるためには人間の一生では短すぎることは明らかであることから、それは幾世代も続く人類として実現されるべきものであることは明らかであるからである。
第三命題: 「自然は人間に次のことを望んでいる。すなわち人間は動物としてのありかたを定める生物学的な配置に含まれないすべてのものをみずから作りだすこと、そして本能とはかかわりなく、みずからの理性によって獲得できる幸福や完璧さだけを目指すことである」
ここには人間を動物から分けるものが理性の存在にあることが示される。「自然は人間に理性と、理性に基づいた意志の自由を与えたことから考えても、自然の意図は明白である」とカントは迷いもなく断言している。
第四命題: 「自然が人間のすべての素質を完全に発達させるために利用した手段は、社会においてこれらの素質をたがいに対立させることだった。やがてこの対立関係こそが、最終的には法則に適った秩序を作りだす原因となるのである」というこの命題は、自然の意図はあるものの最終目的に到達するためにはその前に状態が揺らされて正されることが必要だというのだ。カントは悪の起源について、人間の本性が悪であることが、社会的な進歩のための必須の条件だという。
第五命題: 「人間が自然によって解決することを迫られている最大の問題は、普遍的な形で法を施行する市民社会を設立することである」
世界市民状態が形成されて「人間のすべての素質が完全に展開される」という。この世界市民という概念はこの後、獲得されるべき状態として議論の中心となる。
第六命題: 「人間はほかの仲間とともに暮らす際には、一人の支配者を必要とする動物なのである。誰もが他人にたいしては、自分の自由を濫用するのは確実だからである」
ここではカントは、人間は一人の人間の指示に従うものであり、道徳的な社会はやはり一人の元首を必要とするという。しかしながら、その支配者も支配者を必要とする人間であるということを支配者のパラドクスと呼んでいる。この辺りの社会体系の議論は、全体主義の経験を経た現代的な観点からは違和感があるところだが、カントの人間への信頼から道徳的支配者の出現を信じているように思われるし、その存在が市民社会の成立を保証するものと考えているように思われる。
第七命題: 「完全な市民体制を設立するという課題は諸国家の対外的な関係を合法的なものとするという課題を実現できるかどうかにかかっているのであり、これと切り離して実現することはできない」
カントは、各国家の非社交性のために軍拡競争が止まらないという。「すなわち自然は戦争を通じて、そして戦争にそなえて決して縮小されることのない過剰な軍事力を国家に準備させ、こうした軍備のために平時であっても国内の窮迫を実感させるのである」
このことは、論文『永遠平和のために』にもつながる課題点である。フランス革命を経て、ナポレオンに至る歴史の過程において、カントが重要な課題として認識するほど、総力戦が必然の結果であることが示される。この結論は同時代とも言えるクラウゼビッツの『戦争論』にも通底するものである。
その悪循環から逃れるためには、個人が共同体を構築して社会・国家を成したように、国家も国際的な連合を設立することが必要だというのがカントの主張だろう。すでにこの論文の段階でカントは永遠平和とそれを実現するための国際連合を構想していると言える。そして、戦争が逆説的にその国際連合的な関係を樹立するための必要悪としてみなされている。
第八命題: 「人類の歴史の全体は、自然の隠された計画が実現されるプロセスとみることができる。自然が計画しているのは、内的に完全な国家体制を樹立することであり、しかもこの目的のために外的にも完全な国家体制を樹立し、これを人間のすべての素質が完全に展開される唯一の状態とすることである」
ここに至りカントは非常に楽観的である。グローバルに拡張された国家間の関係の深さによって、国々は紛争を避ける方向に進むことをカントは予測している。
第九命題: 「自然の計画は、人類において完全な市民的連合を作りだすことにある。だからこの計画にしたがって人類の普遍史を書こうとする哲学的試みが可能であるだけではなく、これは自然のこうした意図を促進する企てとみなす必要がある」
哲学者として懐疑を深めたカントが、ここまで楽観的になる理由はどこから来るのだろうかと思う。自然の意図を決して否定できないというのが論理的帰結であり、現状がそこに至っていないのはまだその途上にいるからであり、悪が存在するのはそれがその途上で必要とされるからであり、人間こそが最終目的であることを否定するどころか、そうであるがゆえに肯定されるべき理由なのである。
③『人類の歴史の憶測的な起源』
この論文では「憶測」に基づいて起源を推測するということで、カントが論理的に確実なものではないことを意識していることは間違いないだろう。最初に聖書の情報を利用することと、かつこの聖書に描かれている道筋がまったく一致すると断っているが、一種の聖書のパロディとして読むべきなのだろうか。教会権力に対して少なくとも表面上は対立することなく、裏ではおちょくっているのだというように読むべきなのだろうか。
何にせよカントは、最初の人間は立ち、歩むことができたし、話すこともできたという。進化論を知見を得た現在からはとても奇妙な主張である。しかし、ここはいったんおいておこう。カントは伝えたかったことは、楽園から追放された人類の悪の存在理由の説明であるだろうからだ。
「自然の歴史は善から始まる。それは神の業だからである。しかし自由の歴史は悪から始まる。それは人間の業だからである」
カントは続けて、戦争が荒れ狂う欧州で文化の水準が向上していることの説明として戦争という悪の存在こそが究極の源になっているとさえ主張する。平和な中国では、欧州で今見られているような社会の発展が見られなかったと。
「人類がいま到達している文化の水準では、戦争は文化をさらに進歩させるための不可欠な手段となっているのである。永遠につづく平和がわれわれにとって幸福をもたらすのは、文化が完成された後のことであり(それがいつのことになるのかは、神のみぞ知る)、文化が完成されなければ、永遠につづく平和はありえないのである」
『永遠平和のために』の背景にある思想として、この考え方は重要なのである。
④『万物の終焉』
カントは永遠というものについて、時間の概念との関係で次のように捉える。
「永遠というのは、中断なく持続される人間のすべての時間の終焉でなければならない。しかしこの中断のない持続というものは、人間の存在を<量>とみなすなら、時間とはまったく比較できない量、が意味されているのでなければならない。もちろんこれについてはわれわれはいかなる概念ももてないのであり、償却的な意味でしか考えることができない」
時間から永遠への移行においては終末論と重なるところがある。時間的な存在者も、人間が経験することのできる対称も、すべての物が終焉するのである。純粋理性批判で時間と空間はア・プリオリなものとして与えられるとされた。そうなると永遠とはその時間と空間を越えた先にあるものと見なされるのである。
「理性にとって可能なただひとつの方法は、時間において無限に進む変化は、最終目的の実現に向けて絶えず進歩している状態だと考えることである」
カントは、永遠を不可能性とともに配置することで、この世界を終わることのなく進歩する世界として構想しようとしていたのだろうか。「永遠」と言葉をカントが使うとき、その不可能性との近さについても意識せざるを得ない。
⑤『永遠平和のために』
まずは六項目の予備条項と三項目の確定条項を書き出しておきたい。
■ 六項目の予備条項
一、戦争原因の排除: 将来の戦争の原因を含む平和条約は、そもそも平和条約とみなしてはならない
二、国家を物件とすることの禁止: 独立して存続している国は、その大小を問わず、継承、交換、売却、贈与などの方法で、他の国家の所有とされてはならない
三、常備軍の廃止: 常備軍はいずれは全廃すべきである
四、軍事国債の禁止: 国家は対外的な紛争を理由に、国債を発行してはならない
五、内政干渉の禁止: いかなる国も他国の体制や統治に、暴力をもって干渉してはならない
六、卑劣な敵対行為の禁止: いかなる国家も他の国との戦争において、将来の和平において相互の信頼を不可能にするような敵対行為をしてはならない。たとえば暗殺者や毒殺者を利用すること、降伏条約を破棄すること、戦争の相手国での暴動を扇動することなどである
■ 国家間における永遠平和のための確定条項
第一確定条項: どの国の市民的な体制も、共和的なものであること
第二確定条項: 国際法は、自由な国家の連合に基礎をおくべきこと
第三確定条項: 世界市民法は、普遍的な歓待の条件に制限されるべきこと
六つの予備条項は、かなり具体的であり、現実の課題に直面して提出された解決案・禁止条項である。常備軍の廃止や戦時国債の廃止は、無闇なエスカレートを防止するために、どのようにして各国の手を縛るのかは課題とされているが、必要な措置であることは確かだ。そして関連する各国が足並みをそろえて合意する必要があるというところに難しさというか、ジレンマが生じる部分でもある。
その後に続く確定条項は、カントが整理する法体系においては、第一確定条項が国内法、第二確定条項が国際法、第三確定条項が世界市民法、の各カテゴリーにおける条件に相当する。
第一条項に関しては、まず「共和的なもの」であるとはどういうことなのかを確定しておかなければならないだろう。その条件を次のようにカントは整理している。
「第一は、各人が社会の成員として、自由であるという原理が守られること、第二は、社会のすべての成員が臣民として、唯一で共同の法に従属するという原則が守られること、第三は、社会のすべての成員が国家の市民として、平等であるという法則が守られることである」
共和的な体制が必要なのは、戦争するかどうかを国民が同意する必要があるからであり、そうなると国民は戦争のリスクを鑑みて戦争を始めることに慎重になるというのがカントの主張だ。ここではまた共和的な統治形式が機能するのは代議制をおいてほかにないということが示され、カントの統治形式に対する考え方も明確にされている。
第二確定条項は、全世界が統一された国家となるのではなく、国際的な連合となるべきだということを示している。そして、そのために必要なことは何かということがここでは議論される。まずカントは諸民族の民族自決は個人が尊重されるがごとく尊重される必要があるという。その上で、将来進化したある共和国が連合の中心となり、すべての国家が平和的な連合を行うことは現実的であると論じるのである。一つの世界共和国という積極的で理想的な理念の代用として、消極的だが現実的な理念として拡大し続ける持続的な連合という理念を対置するというのが自分のここでの理解である。
第三確定条項に他国からの訪問の権利が書かれているのはカントのグローバリズムに対する考え方を示していて興味深い。カントは民族自決とともにいかに世界の不平等を解消するのかを考えたに違いない。国家間の紛争を防ぐためにはひとつの世界共和国ではなく消極的な解決策として国際連合という形によって実現されたとして、国家間の不平等は解消されない。
国の間に貧富の差がある場合、例えば富める国が常備軍を廃止したとして、貧しい国が富める国に攻め入るために軍備を増強していく動機が働くかもしれない。それを避けるために貧しい国を出て富める国に訪問して受け入れられる権利が保証されることが重要だとカントは考えたのではないか。
いずれにせよ、永遠平和は自然に成立するものではない。そうであるがゆえに、永遠亭和のための理念と世界市民法が必要とされるのである。
「永遠平和は自然状態ではない。自然状態とはむしろ戦争状態なのである。つねに敵対行為が発生しているわけではないとしても、敵対行為の脅威がつねに存在する状態である。だから平和状態は新たに創出すべきものである」という言明にカントの平和に対する姿勢が表れている。
一方で、これまでの民族間の対立や戦争でさえも人間が永遠平和に向かって進むための自然の配慮であるとしている。これまでの戦争は失敗ではなく永遠平和に向けた必然だというのである。
「自然が意志するというのは、人間が好むかどうかにかかわらず、自然がみずからそれをなすということである。「運命は欲するものを導き、欲せざるものはむりやり引きずってゆく」と言うではないか」とカントがいうとき、彼はある種の運命論者・決定論者であり、その根底にあるのは人間原理の一種であるようにも思われる。「自然の意志」を持ち出すとき、その類の議論に陥ることをおそらくはカントは意識をしたであろうが、それを是としたのだろう。
【まとめ】
概要をまとめるだけで、とても長くなった。
進化論も、脳神経生理学も、量子力学も、相対性理論も、宇宙物理学もその手になかった哲学者が、自らの思考に頼って批判哲学を構築したのが純粋理性批判を始めとするカントの哲学理論である。その哲学がどこまで有効性を持ち得るのかは面白い議論だと思うが、まったくここでは手に余る。少なくとも本書の論文の中でも、現在の自然科学の知見がないがゆえにその部分だけを見るとおかしな記述も散見される。一方でそうであるがゆえに、そういった制約を取り外しても現在でも通用する強烈な思考の結果があることは確実であり、そこにこそカント哲学の可能性があると思う。柄谷行人が『トランスクリティーク』や『世界共和国へ』でカントを大きく取り上げたのもそこに理由があるのだと考えている。
本書の内容は、当然ながらこの後に起きるナポレオン戦争や第一次世界大戦・第二次世界大戦、東西冷戦、核兵器、終わることのない内戦、などの歴史的経験を得ずに思考されたものである。そういった現在では知りえた知識がない中で思考されたカントの平和論が、いまだどういう射程において現在でも有効となりうるのかという観点で読み解くことが肝要ではないかと思う。
カントは、人間を自然の最終目的であると同時に、究極の目的であると考えた。そうであるがゆえに人類が永遠平和に向かうことを自然が保証していると考えるのである。人間は手段ではなく目的である、という考え方は西洋的ヒューマニズムの原理につながる。啓蒙思想がまさしくそれである。そして皮肉にも、その結果は第二次世界大戦であり、ナチズムによるホロコーストの現実だった。
さて、現代に生きるわれわれにとっては、人間が自然の最終目的でもなく、究極の目的でもないことを知っている。人間が誕生したのは、進化論の教えるところによって生物が進化した結果であり、そこには超越者もおらず、突然変異と適者生存の原理が存在するだけである。宇宙がどのようにして生まれ、どれくらいの年月をかけて、どのように今の姿になり、それを導くための物理法則もかなりの粒度で明らかにされている。そして、それらが自然の摂理の賜物ではないことを知っている。
カントは超越者の存在を信じ、それをもとに道徳哲学を構築してきたといっても間違ってはいないだろう。
しかしながら、あらかじめ自然の意志というものが確定されているものとする前提を抜きにすると、進化論は突然変異という自由を確保して適者生存という自然の意志に従うものと考えれば、人間の存在がある種の観点では「自然の意志」と言えなくもない。「自由」を保証することによって、生物も社会も最適化されるという思想はある意味ではヒューマニズムを越えた構造主義的な思考であるともいえなくもない。
カントが論じた、戦争を含めた悪の必要性の概念は、最適解に至るまでに初期状態から揺籃させないと全体最適な状態に至らないというロジックのように思う。学習においては失敗もまた必要であるということなのである。これは偶然にも現代の機械学習の原理にも沿っているようにも思える。カントの平和論が単なるヒューマニズムとは一線を引いているように感じるところである。
■ ウクライナ戦争
ウクライナ戦争において、国際連合はまったく平和の確保に役に立たなかった。国際連合がその役割を果たすことさえ期待されなかったのではないか。反対の声明の採択さえ覚束なかった。ロシアも含めて、関係する国々はある程度共和的なものであったのではと思う。それでも、戦争を抑止することはできなかった。ロシアは十分に共和的ではなかったというべきなのだろうか。
ロシアは予備条項五番「内政干渉の禁止: いかなる国も他国の体制や統治に、暴力をもって干渉してはならない」を明らかに違反した。もちろん他国も同様ではあるが、常備軍は廃止していない。当然ウクライナも常備軍を廃止してはいない。仮にウクライナが常備軍を廃止していたら今回のことはなかったかというとおそらくはそうではないだろう。もしかしたらウクライナは併合されて戦争自体は起こらなかったかもしれないが、その事態は予備条項二番に抵触する形で平和とは程遠い。
カントによってみれば、今回の戦争もまた永遠平和に向けて必要な悪であると言うかもしれない。現在はまだカントのいう永遠平和を達成するまでには世界は文化的に成熟していないというのかもしれない。カントはおそらく諦めないだろうが、果たして世代を経ることで、国際的な自由な国家の連合関係による永遠平和は達成できるのだろうか。少なくとも自分の世代にはそれは実現されないのだろうなというのが今回の事態を見た上での思いである。
■ 翻訳について
この本(kindle版)の特徴として、解説での引用と本文とがリンクで相互参照されているところである。解説者である中山さんが、この本が意味するところをできるだけ読者に届けようとする意志の証であると思う。まさしく全力を挙げた解説になっている。もしかしたら専門家にとっては、ある特定の人の解釈に偏ってしまうことから批判もあるのかもしれない。何と言っても解説の最後にパレーシアを持ってくるあたりは最も専門だと思われるフーコー研究に引き付けすぎていると言われそうである。しかしそんなことよりも、実際に解説と本文とを行き来することで理解がかなり深まったは確かである。ことに、電子書籍が持つ利便性を最大限活用しようとする姿勢はとても好ましく、こういった難解だと言われるような古典こそ、電子書籍化とその機能活用をどんどん進めてほしい。もちろん、こういったことを実装することは解説者もそして編集者も最終的な校正確認の手間も含めて大変であったと思う。きっと届かないだろうけれどもここに感謝したい。
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『縮訳版 戦争論』 (カール・フォン・クラウゼビッツ)のレビュー
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『世界共和国へ: 資本=ネーション=国家を超えて』 (柄谷行人)のレビュー
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『世界史の実験』 (柄谷行人)のレビュー
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イマヌエル・カント(1724~1804年)は、プロイセン王国に生まれ、『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、認識論における所謂「コペルニクス的転回」をもたらした。ヘーゲルへと続くドイツ古典主義哲学(ドイツ観念論哲学)の祖とされ、彼による超越論哲学の枠組みは、以後の西洋哲学全体に強い影響を及ぼしている。
本書には、カントの政治哲学、歴史哲学に関連した重要な論考である、「啓蒙とは何か」、「永遠平和にために」のほか、「世界市民という視点からみた普遍史の理念」、「人類の歴史の憶測的な起源」、「万物の終焉」が収められている。
「啓蒙とは何か」のエッセンスは、冒頭の一段落に集約されている。「啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。」
本稿が発表されたのは1784年、近世から近代の転換点と言われるフランス革命(1789年)の直前で、「啓蒙」という概念がイギリス、フランスからプロイセンに入ってきて、一般市民にも教育の関心が高まってきた時代で、その時代の要請に応える形で書かれたと言える。しかし、それから2世紀以上を経た現在、我々は「自分の理性を使う勇気」を持ち得たのだろうか? 第二次大戦のファシズムは言うに及ばず、現在世界を席巻するポピュリズムも、「自分の理性を使う勇気」を放棄した結果の現象なのではないだろうか。。。今こそ読み返す価値のある短著である。
また、「永遠平和のために」は1795年に発表された。同年はフランスとプロイセンがバーゼルの和約を締結した年であるが、同和約は将来の戦争を防止するものではなく、戦争の戦果を調整する一時的な講和条約に過ぎず、こうした条約では永遠平和の樹立はできないと考え、カントには永遠平和の実現のための具体的な計画を示す必要があった。
そして本稿では、永遠平和を実現するための予備条項と確定条項が示されている。予備条約では、①将来の戦争の原因を含む平和条約、②継承・交換・売却・贈与等による国家の所有、③常備軍、④国家間の紛争を理由とした国債の発行、➄他国に対する暴力による内政干渉、⑥相互信頼を不可能にするような敵対行為、を禁止するとしている。また、確定条項では、平和の条件として、①各国の政治体制が共和的なものであること、②国際法は自由な国家の連合が基礎となること、③世界市民法は普遍的な歓待の条件に制限されるべきこと、が定められている。
しかし、カントは、永遠平和の実現は容易ではないとし、本書を「公法の状態を実現することは義務であり、同時に根拠のある希望でもある。これが実現されるのが、たとえ無限に遠い将来のことであり、その実現に向けてたえず進んでいくだけとしてもである。だから永遠平和は、これまでは誤って平和条約と呼ばれてきたものの後につづくものではないし(これはたんなる戦争の休止にすぎない)、たんなる空虚な理念でもなく、実現すべき課題である。この課題が次第に実現され、つねにその目標に近づいてゆくこと、そして進歩を実現するために必要な時間がますます短縮されることを期待したい。」と結んでいる。第二次世界大戦の後、(現代しか知らない我々には)未来永劫続くとさえ思われた東西冷戦は20世紀末に終結したが、その後の世界は、文明・宗教間の衝突の渦の中におり、解決は到底不可能なようにも思える。しかし、「永遠平和」は、カントの言うように、義務であり、根拠のある希望であり、実現すべき課題であり、人類として諦めることは許されないのだ。
今こそ、18世紀にカントが希求した啓蒙への夢とヨーロッパ的な共和国(=永遠平和)への夢を、改めて考えるべきときなのだと思う。
(2019年12月了) -
本書が国際連合の理論的根拠にされているのは有名だ。
その骨子は、永遠平和を実現するための6つの予備条項と3原則を柱としている。
本書を手にとって把握できたのはそれくらいのもので「100分de名著」などの入門紹介本でもそれくらいのことはしっかり解説されている。
つまり結論としては、「問い」を用意していたり、筆者や本の主張に「特別な関心」を持っていない場合においては、数十年以上前の名著については要約された入門書で十分だと思った。 -
表題作2作含む5編入り。「啓蒙とは何か」は最近読んだオルテガの大衆の定義を思い出す。教えられたことを覚えてそれに囲まれているだけじゃなく、ちゃんと考えろってことなんだけど。学ぶのは哲学ではなく哲学的に考えることが哲学です、みたいなこと。
「永遠平和のために」は平和条約は単なる休戦に過ぎない、真に平和な世界になるために、「国際法」「世界市民法」「公法」の成立する条件などを道徳的な政治と政治的な道徳を軸に掘り下げた論文。
「万物の終焉」が私にはとてもおもしろく感じた。
どこを切ってもカントだなあという感じ。 -
カント『永遠平和のために』は,フランスとプロイセンがバーゼルの和約を締結した1795年にケーニヒスベルクで出版された。この著作において,カントはバーゼルの和約を戦争の戦果を調整する一時的な講和条約と位置づけ,永続的な平和の実現には不十分であると批判している。そして,永遠平和の実現可能性を追求するために必要な予備条項および決定条項を提示し,法的・道徳的観点から永続的な平和の構築の枠組みを論じた。
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最初に──
本書の後ろにある訳者の解説を参照すると良い。というか必須だ。時代背景や地域背景、歴史の流れの中でこそ普遍性のあるメッセージが見えてくるのだから。
私たちは常に考えなくてはならない。
カントは、いまだ未解決のテーマへの挑戦を力強くエンカレッジしてくる。
不思議に東洋思想との融合感を感じるのは、自らの認識論に『コペルニクス的転回』とキャッチコピーを付したカントならではの大きな世界観・統合感のためかもしれない。カントの時空を物ともしない視点の広さ(寛容さ)に感動してほしい。と私が思うのは、おこがましいかもしれないが ....。 -
1/4が中山氏の解説であり、これが非常に良い。本書はカントの歴史哲学・政治哲学であり、他の著作にもましてカントの時代および地域に深くコミットした内容になっている。そのため、現代の日本人が読むにはギャップがあるが、解説がそれを埋めてくれて、現代にも有効な議論として読むことを可能にしてくれる。
分量的にもメインは『永遠平和のために』になるが、冒頭の『啓蒙とは何か』も重要である。今日においても「大衆の啓蒙」は十分ではないし、「永遠平和」は全然見えてこない。言うなれば、この本は「現代においても道半ば」ということになるのかもしれない。
『啓蒙とは何か』では、自分の頭で考える大切さが強調される。
『啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。』
大衆が自分の頭で考えないことには、革命は無意味であるという指摘にはハッとする思いだった。また、自由な議論を禁ずるのは『人間性にたいする犯罪』とまで言われる。カントの苦労が透けて見えるような言葉である。
『世界市民という視点からみた普遍史の理念』、『人類の歴史の憶測的な起源』、『万物の終焉』は歴史哲学である。現実の歴史の代わりに聖書が参照されるのは違和感があるが、神話から人間の本質を研究することと類似した取り組みと思えばよい。カントは『自然の意図』、『自然の究極の目的』の結果として、理性が全面的に実現するのは遠い未来と考えていたようだ。
カントは次のように書く。
『このように自然の歴史は善から始まる。それは神の業だからである。しかし自由の歴史は悪から始まる。それは人間の業だからである。』
彼は、人間がエデンの園で牧歌的に過ごしていたという状態を「良し」とは思っていなかったのではないか。このあたりの表現を見るに、時代的、社会的な忖度があったのだと思う。さらに「正統派の教義を強制する国家権力への反発の結果」として、「キリスト教の信仰の喪失する=愛すべき宗教ではなくなる」と書くあたり、やはり苦労したのだろう。
『永遠平和のために』は政治哲学である。他の論文は、これの基礎づけにもなっているようだ。
法律の区分として次のように提示される。
『国家法』=群衆を国民として形成するために必要(≒憲法)
『国際法』=戦争を避けるために必要
『世界市民法』=諸民族が平和的に交際するのに必要=永遠平和のために必然的なもの
このうち『世界市民法』は未だ実現していない理想である。カントは、その『理念は空想的なものでも誇張されたもの』ではなく、『この条件のもとでのみ、人類は永遠平和に近づいていることを誇ることができるのである』とまで書く。
カントは、民族の差異を消滅させる世界国家の樹立ではなく、持続的な連合を形成すべしとする(これは国連の理念そのものだ)。世界王国の理念が否定されるのは、もしそれと引き換えに個別の国家が消滅すれば『法はその威力を失ってしまうものであり、魂のない専制政治が生まれ、この専制は善の芽をつみとるだけでなく、結局は無政府状態に陥る』と考えるからである。マルクス主義における理想の未来としての「国家の消滅」とは対称的である。
平和については『専制政治のように、すべての力を弱めることによって、自由の墓場の上に作りだされるものではなく、さまざまな力を競いあわせ、その均衡をとることによって生まれ、確保される』ということである。しかしこれでは、冷戦時の状況、核の傘の下に第三次世界大戦が回避されたことが正当化されるのではないか?もちろんカントの時代には大量破壊兵器は無かったのだし、そもそも私の理解が正しいのか自信があるわけではないが。
また、補助的な規定として『歓待』、平和的に他国を訪問する権利が提唱される。無条件な実現は困難だと思うが、一つの理想ではあるだろう。 -
自分の頭で考え、道徳的に善く進歩していくことが自分が社会に対してできることだと思いたい。
自己の考えを他者と交わして、高めあえると尚良いと。
現代の在り方にも通ずる提言がたくさんあった。
カントの言う、周囲を啓蒙できる哲学者って現代にどれだけいるのだろう。
過去の哲学者を研究して、解釈について思考を巡らすのが哲学者といえるのか。 -
・古代ギリシアのポリスでは、市民はみずから真理と信じることを政治の場で発言する権利を認められていた。これはパレーシアという権利だった。この権利はローマにおいてもうけつがれ、西洋の政治の伝統において重要な役割をはたしたのだった。カントが哲学者として要求したものも、このパレーシアの権利と同じように、みずからの思索を公開し、他者との対話のうちで、みずからの思索を鍛えていく可能性を確保することだったのである。
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