地下室の手記(光文社古典新訳文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (285ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334751296

作品紹介・あらすじ

世間から軽蔑され虫けらのように扱われた男は、自分を笑った世界を笑い返すため、自意識という「地下室」に潜る。世の中を怒り、憎み、攻撃し、そして後悔の念からもがき苦しむ、中年の元小官吏のモノローグ。終わりのない絶望と戦う人間の姿が、ここにある。

感想・レビュー・書評

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  • 「俺は病んでいる・・・ねじけた根性の男だ」で始まる非常に暗い小説。小説は2部に分かれ、Ⅰ部の「地下室」はモノローグで主人公のねじれた人生観がくどく語られ、Ⅱ部の「ぼた雪に寄せて」では主人公を「ひどく苦し」めている思い出が語られます。
    Ⅰ部は難解で矛盾だらけ(ただ、注意深く読むと論理的一貫性があるのかもしれません)の一見戯言ですが、Ⅱ部で描かれるのは、一転、ほとんどコメディのようなねじれた男の3つの思い出。261ページの中編小説ですが、Ⅱ部に不思議な面白さがあり、一気読みでした。

    主人公は40歳の元小役人。遠い親戚から6,000ルーブルの遺産が入ったため、退職して地下室に引き篭もっています。
    「自尊心」が非常に高く、19世紀の知性が高度に発達したと自己評価している主人公は、何物にも、虫けらにさえもなりえなかったと考えています。主人公が批判するのは屈託なく率直で実際に行動を起こす「やり手タイプ」。そして、「やり手タイプ」も自然法則には勝てず、合理主義一点張りである点を猛烈に批判し「愚か者」と断定します。
    自己については「冷ややかなおぞましい絶望と希望が相半ばした状態や、心痛のあまりやけを起こして我が身を地下室に40年間も生きながら埋葬してしまうことやこうした懸命に創り上げた、それでいてどこか疑わしい己の絶体絶命状態や、内面に流れ込んだまま満たされぬ願望のあらゆる毒素。激しく動揺したかと思うと永遠に揺るぎない決心をし、その一分後には再び後悔の念に苛まれるという、こうした熱病状態の中にこそ、さっき俺が言ったあの奇妙な快楽の核心があるのだ」と難解な分析を行います。
    このあたりで挫折しそうになりましたが、訳者の安岡治子さんの解説は良きガイドになりました。特に7章以降に展開される「水晶宮」の理論の意味は解説がなければ読み取れなかったと思います。

    16年前の苦痛の思い出を描くII部は、ほとんどコメディで3つのエピソードからなります。
    ①将校との個人的な心理戦争
    ②裕福な同窓生たちとの空回りの闘争
    ③娼婦リーザに挑んだ戦い(?)と敗北
    上記のエピソードは主人公のくどいほどの心理描写とともに描かれます。時間をおいてもう一度Ⅰ部を読むと、Ⅰ部の意味がある程度は理解できるような気もします。

    以上、難解であると同時に面白い小説。ただ、ドストエフスキーの世界を未経験だと辛いかもしれません。また、大昔に読んだ『人間失格』を思い出し、また読んでみたくなりました。

  • 肥大する自己意識。ちっぽけであると分かっていると同時に、どこか偉大であると信じている自己の存在意義。結局、極悪にも、善良にもなりきれずに世界を恨む。人間の普遍的な自己意識と世界との関わりの間で揺れ動く悩みは時代や場所が変わっても色褪せずに多くの人々の心に問いかけ、また、慰めてくれている。

  • 実に、実に久しぶりのドストエフスキーさん。
    「罪と罰」「悪霊」「白痴」「貧しき人々」「虐げられた人々」「カラマーゾフの兄弟」。
    以上の作品を新潮文庫で読んだのは、中学生か高校生のとき。もう25年くらい前のお話です。
    そのときのことを正直に述べると、「良く判らん。でも、時折、恐ろしく面白い。そして、読み終わった時に、面白かった!と思った」。

    それからずいぶん時間が経って。19世紀ロシアの事情とか、キリスト教、ロシア正教的なこととか、ロシアの貴族階級、社会制度のこととか。
    そういうことが判らないと、ホントに隅から隅まで楽しめる訳がないんだな、と。
    なんだけど、そういうのを差し引いても面白いから、翻訳が何十年も売れているんでしょう。もう、100年になりますか。

    さて、「地下室の手記」。
    本当は、新訳で「罪と罰」とか読み直したいなあ、と思っていたんです。
    けれども、同時に、「読んだことない本を読みたいなあ」という思いもあって、妥協点がこの本になりました。

    1864年発表だそうです。ちなみに、明治維新が1868年です。たしか。
    ドストエフスキーさんが、金持ちの若き息子で、理想に燃えるやや社会主義的な小説家だった時代がありまして。
    それで警察につかまって、死刑になって。でも土壇場で恩赦になってシベリアで4年、働いて。
    そこから復帰して、再び小説家デビューします。
    そんな、再デビュー後、間もない小説です。
    この後に、「罪と罰」とか、超ド級の小説を書いていくことになります。
    そういう、「後記の、ほんまにすごかったドストエフスキーさんの、精神のエッセンスが詰まっている」と、研究家の人たちから言われるのが、この「地下室の手記」だそうです。

    いやあ、凄かった。
    主人公は、「40代の、小役人」。
    何ていうか、貧民という階層ではないのだけど、ホワイトカラーでインテリ、という層の中では、貧しい。
    そして、独身。独り暮らし。
    性格は気難しく、孤独。友人はほぼ、いない。体格も貧弱で、ブ男。
    でも、インテリで、色んなことを考えている。そして、プライドが高い。でも人前で上手くふるまえない。
    恥をかくのが怖い。孤独も怖い。貧乏も怖い。人から見下されるのは嫌だ。
    そして、他人に対して、優しくない。常に威張りたがる。

    まあつまり、かなりイヤな奴。
    ポイントは、イヤな奴なだけではなくて、哀れな男。惨めな勤め人。

    そして、この男が、どうやらちょっとした小銭を相続したんですね。
    だから、もうとにかく、外の実社会に出るのが嫌になっちゃった。
    地下室に籠ります。こもって妄想します。自分を認めない世界を呪詛します。罵倒します。
    自分を見下した人々を、自分が見下せる人々を、強い物、勝利者、恵まれた人々を、非難、批判、論難、侮辱します。
    そしてそれを延々と書き付けます。
    そして返す刀で自己嫌悪します。後悔します。
    そしてそれも、延々と書き付けます。

    もう、これで判りますね。そうです。これって、永遠不変の人間臭さなんですね。
    ま、今で言えば引きこもり。ネット生活ですね。
    それって、大なり小なり、誰でも抱いている気持ちですよね。
    僕たちはみんな、誰しもが自分の「地下室」を多少なり抱えて生きている訳です。

    主人公は、そういう、イヤで惨めな男なんですけど、
    同時に、まるで小説家のドストエフスキーさん自身かのように、
    一方で非常に知性がある。学がある。高い高い自意識がある。そこで、この小説の味噌としては、その主人公の自意識を、膿をいじってつぶすように、ねちねちと苛めて自己告白させます。
    これぁ、すごい迫力です。

    で、じゃあ何の話題をしているのか、というと、前半、三分の一くらいまでは、正直哲学的というか、恐らく当時の哲学的命題についての議論が多いです。
    19世紀ロシア西欧のそうした意識をはっきり判るのは難しいのですが、
    「2×2は、4である」という言葉に代表される、理性というか、科学というか。
    そこから敷衍して、人間の合理性、啓蒙性みたいな考え方。
    それに対して、ドストエフスキーさんが、いや、違った主人公が。「人間そんなわけぁ、ないでしょう」という主張を繰り広げます。
    このあたりについては解説を読むと、やはりドストエフスキーさんとしては、キリスト教(ロシア正教?)というものがやっぱり大事だよね、というパスカル的な話をしたかったそうです。
    なんだけど検閲とかで、削られちゃったそう。まあ、その辺はいまひとつピンと来ません。

    それはさておいて。後半になると、まず小説の時間が、
    「40代の主人公が回想する、昔の話。主人公が30代?20代の頃かな?」という時間になります。
    この後半は、割と、物語になっています。

    主人公は、貧しく惨めでかっこつけてばかり。
    その上、楽しい趣味も喜びもなく。女性にもてないし。妄想はしても単調な日々。結局、恐らくは今の日本で言うところの性風俗に人に隠れて通い詰めています。
    で。友人たちとの社交で、しくじって、惨めでみっともない思いをします。
    もう、ここのところの心理描写が、エグくて、スゴくて、読ませます。
    誰でもありえる、惨めな心の動き。仲間になりたくて、でも面倒で、尊厳は保ちたくて、うまくやりたくて、やれなくて惨めで、孤立して不安で、みたいな…。

    そんな主人公が、性風俗の売春宿?の若い娼婦に、なんだかカッコつけて説教たれます。
    いや、説教というのではなくて…自らの思想を述べるというか。俺は凄いんだぞ的なことを言う。
    その引き合いで、むしゃくしゃした気分で、その娼婦を辱めて貶めるようなことを言う。
    なんだけど、その娼婦に恋してもいる。
    で、いろいろあってその娼婦が自宅に来る。
    で、混乱しちゃって、結局その女性を受け入れることができない。侮辱しちゃうような別れ方をする。
    で、そうした直後に大後悔。雪の街に出て探すけど、もう見つからない、という。

    いや、これは、凄い小説ですね。
    ブンガク史的な、というか、物語歴史的な意味で言うと、もう、これは確実に一里塚、記念碑、金字塔ですね。
    太宰治だって誰だって、もう、この心理的な描写に比べたら、真似事だけで弱いのでは?と思ってしまいます。
    また、解説に書いてあって面白かったのは、ウディ・アレンが、この作品のパロディを書いている、という。
    確かに、これ、ちょっと乾いて諧謔味を増せば、ウディ・アレンなんですよ。
    というか、ひょっとしたら、もともとの「地下室の手記」を書いたドストエフスキーの想いとしては、誇張して笑えるでしょ?という思いがあったのかもしれませんね。
    ただ、翻訳してブンガクとして謹上されると、諧謔味はなくなりますね。

    もっと言えば、ラスト、娼婦のリーザを辱めて、自分の部屋から追い出しちゃう主人公。
    でも後悔して、すぐに雪の街に追いかけていく主人公。
    ここは読んでいるときから、「ああ、これって”ブロードウェイのダニー・ローズ”の最後の場面に似ているなあ」と思いました。
    (映画の方は、それでもって心温まるラストになるんですけどね)

    宗教とか、大家族制とか、身分制度とか、農村の閉鎖性とか。
    そういうものが、徐々に、都会でもって消費でもって、貨幣経済で情報で新聞で社交で自由で個人で…というものに襲い掛かられていきます。
    そうすると、やっぱり個人なんですね。なんだけど、淋しいんですね。なんだけど、プライドを肥大させていくと、こもっちゃうんですね。
    そして、どうしてそうなるかというと、賢くなったからなんですね。知性が高くなるからなんですね。理性を持つからなんですね。自意識ですね。
    そういうことが、きっと西欧を筆頭に、19世紀くらいから起こる訳です。
    そこで先頭切って、ドストエフスキーさんはその救いの無さの濃厚な人間ドラマを書いちゃったんですね。

    この本の中で、主人公は「実際の生活」とか「人生」とか、そういうものに憧れています。
    つまりは、実際の恋愛。尊厳ある幸せな友情、交際。やりがいのある仕事。興奮するような快活な遊び。レジャー。そんなようなことです。
    同時に、自分がもうそういうものは得られないと絶望しています。
    そして、そういうモノゴトに、嫌悪と憎悪も持っています。
    言葉はともかく、2014年現在の日本で言うところの、「リア充」「非リア充」みたいな考え方。
    もう、150年くらい前に、ドストエフスキーさんが、言ってるんですね。

    で、だからって、安易な解決も救いも何にもありません。
    でも、面白いですね。ドロドロの人間ドラマ。葛藤。
    そして、どこかしら、自分の姿をチラっと鏡で見せられたような。そんな、ハッとしちゃう感じ。ドキッとしちゃう感じ。

    いやあ、これはタマラないですね。
    濃厚ブルーチーズを食べたような。
    苦いけど、旨い。
    脱帽。パチパチ。

    いつも通り、光文社古典新訳文庫。読み易かったです。

    • chapopoさん
      忘れもしない、大学3年のゼミの夏合宿の課題の中の1冊がこの『地下室の手記』でした。
      夏合宿自体が、本と酒の日々(朝から晩まで一升瓶を囲んで...
      忘れもしない、大学3年のゼミの夏合宿の課題の中の1冊がこの『地下室の手記』でした。
      夏合宿自体が、本と酒の日々(朝から晩まで一升瓶を囲んで本の内容の討論をする)、なんていうのが初めてだったので、「読んだ」より、「飲んだ」という印象のほうが強く、いまだに同レベルのゼミ友と話をすると、本の内容は覚えていない、というオチになります。
      情けない話で申し訳ない。
      でも、ドストエフスキーは読み直したい作家です。
      2014/07/23
    • koba-book2011さん
      一度読んでも、ほんとにしばらくするとキレイさっぱり忘れますからねー それがもったいなくて、ブクログを重宝しています。
      一度読んでも、ほんとにしばらくするとキレイさっぱり忘れますからねー それがもったいなくて、ブクログを重宝しています。
      2014/07/23
  • 文量はそこまで多くなくわりとすぐに読み終わった。随所でハッとさせられる。人間は必ずしも利益のためだけに行動するものではない、か。現代の日本は損得感情、コスパに基づいて行動する人が多いように思われるが……
    ズヴェルコフの送別会のエピソードは何だか読んでいてこちらまで恥ずかしくなった。心当たりある方少なくないんじゃないかな

  • 口語調で語られる盛大な妄想。
    大げさではあるが多少歪んだ考えを持つ人物なら考えるであろう納得性があるが、話は様々なところに飛び読みにくい。

  • 主人公は、自意識過剰で妄想癖があり、人を征服することが愛だとのたまう、救い用のない駄目人間でサド気質がある。しかし、主人公は自分がダメ人間であることに気づいているのにも関わらず、欠点を修正するどころか、逆に拍車をかけるように、欠点の上から欠点を重ね続けているので、マゾ気質な面も持ちわせている。そんな彼が若かりし頃の独白における行動は、滑稽で笑える。しかし、勿論主人公ほどではないが、過剰な自意識の覗く瞬間が私にも多少なりともあるので、共感した部分があったのも事実だ。

  • とても他人事とは思えない、悲惨な物語でした。今この瞬間、一体どれほど多くの地下室の住人が、日本はもちろん世界中に存在するのでしょうか? 推測するに、インターネットの世界で見かける、異常に自己顕示欲が強くて無意味に悪意を振り撒く人々や、突然無関係の他人に襲い掛かるタイプの犯罪者達等は、この地下室の住人にあたるのではないかと思います。プライドだけは高いのに、現実には何事もできず、疎外され、嘲笑を浴び、傷付き果てて、対象のはっきりしない憎しみを抱いており、なんでもいいから復讐をしたい、恨みを晴らしたい、と思っている…。彼らのような人々は、一体どうすれば救われるのでしょう? 確かに、傲慢という点で彼らには罪がありますが、だからと言っていつまでも苦しみ続けなければならないというほどの罪だとは私には思えません。少なくとも、他人を傷付け始めるまでは。けれど、誰かが彼らに近寄り、「私だけは味方だよ」と言ったところで、きっと彼らは信じないし、そもそもそんな誰かはまず現れないでしょう。なにしろ、そういった誰かが現れなかったからこそ、彼らは地下室へ潜ったのですから。本当に悲しいことですが、もしも彼らが地下室から出る方法があるとすれば、それは彼らが自分から地上へ向かう決心をする以外にないのではないでしょうか。そんなことができるなら、誰も地下室になんか入らないでしょうけど…。

  • 【本の内容】
    世間から軽蔑され虫けらのように扱われた男は、自分を笑った世界を笑い返すため、自意識という「地下室」に潜る。

    世の中を怒り、憎み、攻撃し、そして後悔の念からもがき苦しむ、中年の元小官吏のモノローグ。

    終わりのない絶望と戦う人間の姿が、ここにある。

    [ 目次 ]


    [ POP ]


    [ おすすめ度 ]

    ☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
    ☆☆☆☆☆☆☆ 文章
    ☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
    ☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
    ☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
    ☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
    共感度(空振り三振・一部・参った!)
    読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)

    [ 関連図書 ]


    [ 参考となる書評 ]

  • 正直、一度読み終えた時点では、つまらなかった。人間のネガティブな部分が全開でとても暗い小説なのですが、誰しもがこんな部分を抱えて生きているのかと思うと、少し気が楽になれた部分もある。

  • 読んでいるうちに自分がどこを読んでいるのか分からなくなり、
    面倒くさくなって「ふざけんな!!」と本を投げ出したくなったけど、
    後半の小説部分に入ったら、
    そのあまりの自意識過剰ぶりに笑ってしまう。
    と同時に、
    「いやいやあるよ、こういう感じ」と共感さえしてしまうありさま。
    あたし……まさかまさかの地下室の住人か?
    なんて恐れたりしたけど、
    なんのことはない。みんな、そうですとも。

    ただ、これにドップリつかってすがるかって言われると、
    そうでもない。
    ロシア版「人間失格」と聞いたこともあります。
    分かる。気もする。

    けど、この本もそうだし、
    「人間失格」もそう言ってると思うけれど、
    ドストエフスキーと太宰治も分かり合うということはない。
    そういうことは、ありえない。
    私はそれが良いと思うけど、やっぱし切ないんだろうかね。

  • 恐るべき自意識過剰の被害妄想者で、かつ英雄的な夢想空想に耽る、引きこもり40歳男の自伝風小説。滑稽すぎるほど極端な思考と言動だが、第一部に則して読めば、それほど理解できないわけではない。いわゆる"常識的""模範的""普遍的"思考と行為には、正解があり、自由がない。近代的合理主義。自由とはあえてそこから外れて愚かな行為をすること、つまり自分の欲求、ルールに従うことだ。そのことを極端な形で、支離滅裂よりもむしろ逆説的に一貫性もった形で、語られているよりも多く示される。病的な一人語り終始するが、読者の考えることを先取りして──それも常に思い込みだが──、何人分もの長く多重な会話で、不安と緊張を揺れ動いている奇怪な語り口だ。それゆえ、登場人物の心情描写もまた、偏見じみた主観的感想にとどまる。いや、本来むしろ現実の世界が主観的なのであって、小説の客観的視点を逆説として利用しているのだともいえる。そのことによって、読者の《生きた生活》と「地下室性」を浮き上がらせるといえる。つまり、近代的合理主義とロマン主義的自由の対立だ。
    安岡治子の訳者解説によれば、出版前に検閲で第一部第10章の一部が削除されているという。その文言は、「信仰とキリストの必要性」だ。安岡は批判されている現実の水晶宮ではなく、「水晶宮は自然法則に反している」という矛盾している箇所に「本物の水晶宮」についてが挿入されていたと見る。ドストエフスキーの夫人の死後翌日に書かれた文章からその内容を推測しているが、それは、「自我を放棄して他者に委ねることで各人の発達の最高目的を達成する、最大の幸福、キリストの楽園」。このロシア正教の個性概念に通ずる考えは、後の『カラマーゾフの兄弟』ゾシマ長老に引き継がれる。自己と他者の解決に信仰を持ち出すこのことは、キルケゴールやパスカルの「信仰」論、あるいはカントの自然目的・永遠平和論を想起させる。
    ・序文
    つい最近過ぎ去った時代の一つの典型を、通常より少し目立つ形で描出したい。
    ・Ⅰ地下室
    ・3
    自分の意見を主張できる正常な人間は、馬鹿でなければならず、この「自然と真理の人」が標的に向かって突進して、あるときぶち当たってしまい怯んでしまう壁、不可能とは、すなわち自然法則、その結果、数学。
    ・5
    人間が復讐するのは、正義を見出すからだ。為すべき仕事の根本原因、根拠、まさに正義を見出したと確信する。
    "俺などは思索に従事しているものだから、あらゆる根本原因はすぐさま別の、さらに根本的な原因を手繰り寄せてしまう……""それが無限に続いてゆく。これが、あらゆる意識や思索の本質"。
    ・7
    人類は正しい利益を志向すれば善良かつ上品になるなど、論理のための論理にすぎない。統計学や経済学の平均、賢人、人類を愛する人々は、利益より貴重な何かを数え忘れる。全人類を利益体系によって一新する理論など不可能。
    "文明が人間の中に育むものは、ただ感覚の多面性のみだ"。
    もし万事が合理的に納まっていても、自分の愚かなる意志どおりに生きる、人間とはそんなふうにできている。自由な欲求、気まぐれ、妄想、こうしたものが全て、あらゆる体系や理論を砕き飛ばす最も有利な利益。
    "人間に必要なものは、ただ一つ、自発的な欲求のみである"。
    ・8
    "己のために愚の骨頂さえも望む権利、己のために賢明なることを望むという義務から解放される権利を持つこと"が、この世のなによりも有利なもの。
    "人間に最も相応しい定義は、恩知らずの二本足だ"。"最も重要な欠点は、絶え間なき善行の不在だ"。
    たとえ数学的に自然法則が証明され幸福の一覧表の中の行動で規定されたとしても、それに反することをしでかすのが人間であり、他の動物から区別される人間の特権である、世の中を呪うことをするだろう。つまり、人間の為してきたことは、ピアノのキー[機械]でないことを証明すること。"2×2は俺の意志がなくたって4に決まっているだろう。自分の意志ってのはそんなもんじゃないはずだ!"
    →『1984』2+2=5
    ・9
    "人類が志向している目的というものはすべて、この達成への絶えざるプロセスにのみある"。
    →パスカル気晴らし
    人間はプロセスは好きなくせに、目的の達成を恐れている。2×2=5だってときには可愛らしいものだ。"人間が好むのは、平穏無事な幸福だけじゃないかもしれない"、"苦しみも好む"。俺が支持するのは気まぐれとその保証。
    ・11
    "俺は、自分一人のために書いているのだ"。読者に向けたように書いているとしても、俺には書きやすいからで、これは形式、単なる形式の問題にすぎない。いかなる秩序も体系も持ち込むつもりはない。手記を書くことで安らぐことができる。
    ※注、「麗しく崇高なるもの」バークやカント。「自然と真理の人」ルソー。ピアノのキーはディドロ、水晶宮はチェルヌィシェフスキー『何をなすべきか』社会主義的ユートピア建造物、モデルは1851ロンドン万博ガラスのパヴィリオン。
    ・Ⅱぼた雪に寄せて
    ・1
    "現代のあらゆるまともな人間は臆病な奴隷であるし、またそうであらねばならないからだ。それが正常な状態なのだ"。
    "ロマンチストの特性と言えば、それはすべてを理解すること、すべてを見抜くこと"、"片時も有益で実用的な目的を見失うことなく"、"《麗しく崇高なるもの》は己の中に揺るぎなく保ち続ける。""とにかく自分自身のことも""後世大事にする"。
    "俺だって、己の役者勤めを心から蔑んでいた。""ただ必要上やむを得なかったからだ。""役所の机の前に座って、それでお金をもらっていたからに他ならない。"
    ・2
    "学校だの、あのぞっとする懲役ような年月だの、皆、呪われるがいい!"
    孤独な夢想妄想で有頂天になり全人類に抱擁したいときは、役所の課長の家に行くが、火曜日しか空いていない。木曜だったので不意に思い出して、学生時代の知り合いだったシモノフの家に行った。そこには2人の客人がおり、学生時代に農奴200人を遺産として手に入れて以降、崇拝されるようになったズヴェルコフの転勤祝いの食事に招待する話に無理に割り入って、結果行くことになってしまった。
    "〈ああ、俺がどれほど思想にも感情にも優れ、どれほど知的に成熟しているか、それをお前たちがわかってさえくれたならなあ!〉"
    ・6
    リーザに出会う。
    "俺は、家族なしで育ったんだ。おそらくそれでこんな人間になっちまったんだな……冷酷で薄情な人間に"
    "それでも結局、最後には、娘が自分で好きになった男に嫁にやることになるのだが、これがまた、娘が好きになる男ってのは、いつだって父親にとっちゃいちばん駄目な男に見えるものなのだ。"
    "人間はとかく、自分の不幸だけを数え上げるのが好きで、幸せは数えないものだ。でもちゃんと数えてみれば、どんな人にも幸せはそれなりに与えられていることに、気づくはずなんだ。"
    ・9
    "俺がとんでもない卑劣漢で、この世のあらゆる虫けらの中でも最も嫌らしい、最も滑稽な、最もちっぽけな、最も愚かな、最も嫉妬深い奴だからさ。"他の連中は気兼ねたり恥じたりしないが、俺は虱の卵からさえも一生侮辱を受け続けるんだ、それが俺の宿命さ!"今こうして君にすべてを話してしまった俺は、ここに君がいて、すべてを聞いたことで、また君を憎むことになるんだよ。だって人間、こんなに一切合財をぶちまけることなんて、一生に一回きりだろ"。
    "彼女は、これらすべてのことから、女性がもし心から愛しているなら、常に何にも増して真っ先に悟ること──つまり、俺自身が不幸なのだ、ということ"を理解していた。
    "屈辱は、彼女の中で、もはや決して死に絶えることはなく、彼女を待ち受けるどぶ泥がいかに醜悪なものであろうと、屈辱は常に彼女を高め、浄化してくれるはずだ……憎悪によって……ふむ、あるいはひょっとすると、赦しによって……。もっとも、こうしたことすべてによって、彼女は楽になるだろうか?〉"
    "安っぽい幸福と高尚な苦悩の、どちらが良いだろうか? さあ、どちらがいいか? "
    "俺たちは皆、生活から離脱し、各人が多かれ少なかれ欠陥を抱えている"。"本物の《生きた生活》に対して、何やら嫌悪感すら覚え、それゆえに《生きた生活》のことを思い出させられると、耐えきれないほどなのだ"。生活を労役と思う反面無茶な願望を抱くが、自由になった途端、元通りに監視してくれと頼み込むに違いない。
    "あんた方はその半分もやってみる勇気がなかったし、そのうえ、己の臆病さを思慮分別と勘違いして、それで己を欺き、慰めていたんだ。""たぶん俺のほうがあんた方より、《ずっと生き生きしている》ことになるのさ。もっとよく見てみるがいい!"
    "俺たちは、""自分固有の肉体と血液を持った人間であることさえも重荷に感じ"、"いまだかつて存在したことのない普遍的な人間なるものになろうとしている。"
    "もっとも、この逆説家の《手記》は、まだこれで終わったわけではない。彼は、抑え切れず、先を書き続けたのだ。しかし我々も、そろそろここらで終えてもいいように思われる。"
    ・解説 安岡治子
    カミュ、サルトルにインスピレーションを与え、ウッディアレンがパロディしている。
    ドストエフスキー『冬に記す夏の印象』、水晶宮は最終的な達成、聖書的なバビロンか黙示録の預言が目の前で繰り広げられている。1860年代西欧文明の科学進歩合理性に世界の終末を見た。
    かといって地下室の生活は肯定されていない。ドストエフスキーと地下室人は1840年代に青春を過ごした同世代で、共に住んだペテルブルクでは、ピョートル大帝の暴力的改革で西欧文明が雪崩れ込み、ロシアインテリは無理やり飲み込んだ。書物を通してロマンティストになった。その中から余計者が生まれる。高慢な理想を胸に、全人類の福祉に奉仕したいと思いつつ、いざ実行となると何一つ成せない、生身の愛に応えられない。淪落の女の救済というモチーフは、ロマン主義の代表的テーマ。
    ドストエフスキーの兄への手紙によれば、最も重要なのは、第一部第10章で、信仰とキリストの必要性が、検閲によって削除され自己矛盾を起こしている。「水晶宮なんてものは自然法則から行けばあってはならぬ代物」という箇所が実際にあるのだから矛盾しており、ここに信仰とキリストの必要性が書かれるはずだったのではないか。
    『地下室の手記』が完成する前1864.4.15にマリア夫人が亡くなり、その翌日に文章を残している。キリストの教え、己を愛するように人を愛することは、個の法則の我に縛られ不可能であり、キリストのみがそれを成しえた。しかし、キリストは人間の理想であり、自然法則で目指さねばならない。我を無にして人に委ねること、これこそが最大の幸福。★互いが互いのために無になり、同時に各人の最高目的を達成する。これがキリストの楽園。これが本物の水晶宮。
    →カント自然法則からの永遠平和
    『カラマーゾフの兄弟』ゾシマ長老、人はあらゆるもの・人に対して罪がある、と各人が気づけば楽園は実現する。現在、あらゆるものが個々の単位で閉じこもり、全体から孤立している。
    →キルケゴール閉じこもり、現代の引きこもり、アーレントアトム
    正教の「個性」概念、自身を放棄すれば、悟性は無限に拡がり、万人に属するもの全てによって豊かになる。他者との全一的なつながりが自覚される友愛の共同体、キリストの楽園が実現する。

  • マゾヒスト、と呼べば良いのだろうか。氏曰く、自意識自尊心が極めて強い、人並外れて賢い人たちは、 それ故に悩み苦しむ機会が多く、気づくとそこから快楽を感じるようになってしまうらしい。 氏は冒頭でそういう人間がp0「我々の社会に存在する可能性は大いにある」と述べているが、 私自身がこういう感情に一定の覚えがあるから、それはそういうことなのだろう。

    氏が若い時分の愚かな行動を振り返った、2章ぼた雪に寄せてでは時折、マゾヒズム(私)の深淵が描かれる。 それらは深淵と言うだけあって、現実フィクション問わず他では見ることのできない描写が続く。 具体的にはまずズヴェルコフの晩餐会への参加に氏が名乗りを上げる場面である。ここでは氏の目の前で氏抜きの晩餐会の計画がなされている。 氏はこれに対して自分が晩餐会に参加することを望まれていないことを理解していながら晩餐会への参加を表明してしまう。 追い込まれた時に(我々のような人種は自尊心が高く、恥をかくことを最も忌避しているので、今回のような場面では 追い込まれているも同然なのである)突発的に悪手を選択してしまうというのが、ある種のマゾヒズムである。※1

    深淵は更に深い。氏は先述した、晩餐会への参加表明に対する後悔の弁を述べた直後、p131「しかし、俺がこう憤怒に駆られていたのも、 俺は必ず行くだろう、わざと行くに違いないということが、おそらくは自分でもわかっていたからだ」と狂気の弁を展開している。 その理由もし行かなかった場合、p139「俺はその後一生、自身を嘲り続けるに違いない。『なんで臆病風を吹かせて、 現実に怖気づいたんだ、臆病者!』むしろ逆に、俺としてはあの屑がらくたの連中に、俺が自分で思うような臆病者では、 さらさらないところを証明してやりたいと熱望していたのだ。それどころか...連中を圧倒し、打ち負かし、魅了し、せめて思想の高邁さ、 疑いのようない機知という点だけでも連中に俺を愛してもらいたい、という夢を抱いていたのである」とどうしようもない具合である。 絶対に恥をかきたくないという異次元の自尊心、何時も他人の目を気にして過剰に想像する自意識、 その一方無根拠に自分の能力と評判を見積もり、ひたすらに都合の良い展開を想像する自信過剰。 これらが組み合わさることで、自ら進んで悪手を選択するというマゾヒスト的行動に至るという訳だ。

    最後に、以下のとおり。 p150「俺は連中全員を、朦朧とした目で無遠慮に見回した。ところが連中は、俺のことなどまるきり忘れてしまっていた。」 p155「ただ、なるべく連中の誰も見ないようにしていた。一人、できるだけ孤高の姿勢を貫いていたのだが、実は、連中のほうから 先に話しかけてくれないかと、それをじりじりしながら待っていたのだ。」 p157「俺は...壁沿いに、食卓から暖炉へ、また暖炉から食卓へと歩いていた。俺は、お前たちなんぞなしでも、やって行けるんだ、 というところを全身全霊で見せつけてやろうとしていたのだ。...俺はじっと我慢しながら、連中の目の前を8時から11時まで...歩き通しに 歩いた。...この3時間のうちに、三度大汗をかいては、三度その汗が引いた。」 これらの行動を想像だにせず面白おかしく読むことができるなら、それはなんと幸せなことか。少なくとも私は、自らの苦い思い出が 蘇りとてもいい気分で読むことはできなかった。周囲から浮いてしまった我々がどれだけ自尊心と自意識を高まらせても、 周囲は我々に何らの注意も向けていない。それに気づかず、一人大汗をかくのがマゾヒストなのである。

    マゾヒズムの深淵から浮かび上がるのは、先述した自尊心、自意識、自信過剰というキーワードだ。氏は、これについて、 p15「意識しすぎることーこれは病気だ」p20「例えば俺は、やけに自尊心が強い。」「そもそも俺は周りの誰よりも賢いのだから、悪い。」 と述べている。 氏によれば、怒ることのできるタイプ(馬鹿)の人間というのが存在し、彼らは、p22「ひとたび復讐心に取り憑かれたら、もはやしばらくは その全存在には、この感情のほかには何一つなくなる」タイプの人間である。その一方で、p23「正反対の強烈な自意識を持つ人間」がおり、 彼らはp24「強烈な自意識ゆえに、この際正義などというものは否定する」という行動をとる。自意識の人間は発散できない怒りを溜め込み、 それらを馬鹿に笑われ、やがてp25「自分の受けた屈辱をその最も些細な恥ずべき細部に至るまで一つ一つ思い出しては...自分でわざわざ いっそう恥ずかしいディティールを付け加え、自分で作り上げたその虚構で、意地悪く己をからかい苛立たせる」ようになる。 これにやがて快楽を感じるようになるとマゾヒストが完成する。

    本書で特筆すべきことは、マゾヒズムの深淵だけでは決してない。 p50「あんた方はこう言うだろう 『自然法則を発見しさえすれば...人間のすべての行動は、ひとりでにこれらの法則にしたがって計算に基づく対数表のように配分され... 行事日程表に記入されることになる。...そうなったら数学的正確さで算出され、完全に準備の整った新しい経済関係が確立され...ありと あらゆる問題はたちどころに消え失せることになる。』 」当然この発言はドストエフスキーのそれではなく、むしろ氏はこのロシア流ロマン主義的主張(まさにロマンとしか言いようがない)を わざわざ用いこれに反論する形でp53「人間はいついかなる時も、いかなる人間であっても、決して理性や利益が彼に命じるようにではなく、 自分の望みどおりに行動することを好んできたのである。...人間に必要なものは、ただ一つ、自発的な欲求のみである。」と述べている。 この問答はコロナ禍初期に浮上したcocoaなる接触確認アプリに端を発する議論を想起させる。cocoaの理論は、コロナ感染者がアプリを 通してスマートフォンに記録された自身の移動履歴を提供することで感染者と接触した者に通知が届くという代物である。なるほど、 理論としては正しい。数学的にはこの理論でコロナ禍という未曾有の危機を解決できるはずだったというわけである。しかし、 蓋を開けてみれば「バッテリーを余計に食う」「政府のやることは信用ならない」「面倒臭い、知らない」など数多の理由を作って 人間は自然法則に従わず、ものの見事に試みは頓挫した。

    また、cocoaの土台となったAI信仰、シンギュラリティの物語と関連して、 やがてAIに仕事を奪われることとなる大多数の人間は、AIの開発や上手い利用を行う超少数派の勝組にパンとサーカスの如く娯楽を与えられて 生きていくだけの存在となるなどという真に悪夢のような言説も存在する。これを否定する論としてドストエフスキーが述べているのが、 p62「人間にありとあらゆるこの世の恵みを浴びせかけ、ただぶくぶくと泡が幸福の水面に浮かび上がるほど、幸福の中に頭までどっぷりと 浸からせてみるがいい。...まさにそんな状況のなかでさえも、人間は...最も悪質なナンセンスを、最も非経済的なでたらめをやりたがる。 それもただ...次のことを確認したいためである。それはつまり、人間は依然として人間なのであり、決してピアノのキーなどではないと いうことだ。...いや、それだけではない。実際に人間がピアノのキーであることが判明したとしても...人間は決して納得せず... わざとなにかしらその証明に反することをしでかすに違いない。何の手段もない場合は破壊と混乱、ありとあらゆる苦しみを考え出してでも、 自分の主張を押し通すだろう!」 ということである。 このドストエフスキーの、客観的に見ると本当に愚かとしか言いようのない人間観はしかし、言い過ぎとも言えないくらいに人間の本性を ぴたりと言い当てているふうに思えてならない。 あなたの考えていることは全てわかるから、私の最良の指示に従いなさい、と言われたらカチンと来るし、あなたは何もせずただ気の 向くままにゴロゴロしていればいいのよ、と天国のような条件を提示されれば途端に物足りなくなるのが人間なのではなかろうか。 そういう、人間の愚かな本質を指摘する立場とそれを乗り越えられるとする立場の対立が100年以上前から現在に至るまで 意味を持っていることが本当に面白い。

    ※1 ここでは追い込まれているという点がポイントで、もしも追い込まれていなかった場合、つまり冷静に判断できていれば悪手を 選択していなかった可能性がある。実際、氏はその後p131「一体なんの魔が差して、あんなところへ出しゃばって行っちまったんだ!」と 語っている。しかし、実はこの論理はあまり意味がないのかもしれない。何故なら、追い込まれたその瞬間に選択を促すのは深層心理で あるはずで、つまりそれが本質なのではないかと思われるからである。まあ、この話はこれ以上広げようがないのでここら辺にしておく。

    「どこか仕切り壁の向こうのほうで、何かにぎゅっと押し潰されるか、さもなければ、誰かに絞め殺されてでもいるように、 時計がジーッとしゃがれ声を出しはじめた。不自然なほど長くそのしゃがれ声は続き、その後か細い不快な、思いがけず忙しない時 を打つ音が響いたーまるで誰かが不意に前方へ跳び出したかのようだった。」 押し潰され、絞め殺されるというおよそ時計の描写には似つかわしくないワードの選択。「不自然」「不意」「不快」と良くないイメージの 形容詞の多様。誰かが前方へ跳び出したかのようだ、で終わることによってこちら側への関与を匂わす(本当に誰かが時計から飛び出してきた のなら、時計の前にいる我々との接触は不可避であるから)という、ひたすらに暗く静かで不穏な印象を抱かせる本作第2章ぼた雪・・・の悲しき 6幕の開幕にふさわしい名分だ。

    第2章ぼた雪・・・6幕以降、クライマックスにかけて情婦リーザとのやりとりが展開される。 氏は自分より間抜けそうな若い女を前に、氏曰く燃え上がり、自らの願望とも理想ともつかない状態について力説を始める。 いかんせん弁の立つこの男はベラベラとそれっぽく調子のいい文句を垂れ流すのだが、本性を知っている我々はその姿に比喩ではなく 吐き気を感じ得ない。その後なんやかんやあってリーザと抱き合った後、ソファにうつ伏せになって号泣を始めるのだが、 ここでふと我に帰って気まずさを感じたり、最後にはリーザを追い出してすぐに後悔して追いかけるも無理やり自分を納得させて 引き返したりとマゾヒスト節(というか、それにとどまらない屑?)全開で物語は幕を閉じる。

    氏が屑であるのは別としても、マゾヒストが自らがマゾヒストであることにさえもある種の快楽を感じ、 自身のどんな悪行もそれを原因にして片付けてしまうことは重大な問題である。彼らのそれはハッキリ言おう、 自身にとって損失でしかない。これを自覚し、自身の身の振り方を考えるべきであろう、マゾヒストの諸君!!

  • 俺は「平穏無事」を欲していたのだ。不慣れな「生きた生活」にすっかり押し潰されて、息をすることさえ、苦しくなってしまったのである。

  • 解説と後書きがわかりやすい、この人は頭がおかしい

  • 時々耳にする「科学的に正しいのだ」という論破の文句。反論を許さない印籠のような言葉。卑怯なやり口。科学は確からしさを示すだけで、真実がわかっているわけではないのに。…本作は二部構成。一部は主人公"俺"の独論。自然法則に従うだけの生き方を批判する。二部は”俺”の回想。若き頃の逸話。友人の送別会。娼婦との一夜。召使との関係。アンチヒーローに感情移入できずに読了を迎える。モヤモヤ感が考えることをやめさせない。答えは見いだせないが、思考が趣きを深くする。文学には、そう、従うべき法則があるわけではないものらしい。

  • ニートのときに読んだのだがなにか恥ずかしい気持ちになった

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/742456

  • 主人公が面倒くさい人すぎる

  • ドストエフスキーらしい文体、生々しさ、そして抉ってくる感じがとても良かった。自分もこういう人間じゃないか?と考えさせられ、ちょっとした不快感すら感じる。でもその「生々しい等身大の姿」をこうして文章で表現できてしまうのだから、ドストエフスキーは恐ろしいなとも感じる。

  • 自意識過剰で気が弱い、生身の人間と付き合いたいが避難ばかりが先をついてうまくいった試しがない。同情しようとした女性に逆に同情されてしまう。どこに救済を見出すことができるのか。苦悶する人間。2022.8.17

  • 「Ⅰ 地下室」
    「Ⅱ ぼた雪に寄せて」

  • 人間は全員これだと思ってるんだけど違うかな

  • 前半は主人公の思想ばかりで退屈。後半はずっと面白いが、コミュ障、ヒキオタ的自意識過剰っぷりが読んでいて暗澹とした気分にさせられる。

  • 2021年12月2日「アメトーーク!」で紹介
    摂南大学図書館OPACへ⇒
    https://opac2.lib.setsunan.ac.jp/webopac/BB99018056

  • かなりキツかった。特に第一部は文字をなぞっただけでほとんど意味を理解できなかった。個人的にはライ麦畑初読時の主人公への感情移入できなさと似た感触だった。もちろん、こちらの方がもっともっとグロテスクで救いもないのだけれど。

  • 2021/10/31
    2021/11/14

  • 好きなセリフ
    俺は駄目なんだ…なれないんだよ…善良には!

  • ドストエフスキーは基本的に陰鬱な雰囲気を持っていることは私も知っていたが、最初は読むのが大変難解だった。
    ただ、後半のぼた雪に寄せてから彼の考えが直接的に行動となって物語が動いていく。
    「文学入門」でもあった、文学はよくわからない要素を含んでいるものだ、とはまさに前半に当てはまると思う。
    ここまで心の闇を言葉にして文章に記す登場人物を描くドストエフスキーの凄さを多少理解できた。

    <個人的に印象に残った言葉>
    だって人間、こんなに一切合財をぶちまけることなんて、一生に一回きりだろ、それもヒステリーの発作でも起こさないことにはな!

  • 暗く、ジメジメした穴ぐらから溢れ出る呪詛。
    ポジティブを全て向こうに回し、己の駄目さ加減を棚に上げて捏ねくり回される自己肯定。
    でもなんか途中から、なんか自分のこと言われてる‥と感じたり。
    妙にハマった。

  • 貧しき人々を読んだ時にも思ったが、この作者の描く人物はどいつもこいつも面倒臭い連中ばかりだ。
    「死」とは何か?って本にニ、ニんが四の哲学論が書かれていると紹介されていたので読んだが、哲学と言うよりは狂っている。
    解説が詳しく時代背景など書いているので興味あれば読むと文学的に素晴らしいとか書かれているが、正直ギブアップ寸前で読み終えた感じだ。
    ラストがおい、そうくるか!と思ったがまあ、読み切った安堵感しかない

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著者プロフィール

(Fyodor Mikhaylovich Dostoevskiy)1821年モスクワ生まれ。19世紀ロシアを代表する作家。主な長篇に『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』『悪霊』『未成年』があり、『白痴』とともに5大小説とされる。ほかに『地下室の手記』『死の家の記録』など。

「2010年 『白痴 3』 で使われていた紹介文から引用しています。」

ドストエフスキーの作品

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