- Amazon.co.jp ・本 (544ページ)
- / ISBN・EAN: 9784334751470
作品紹介・あらすじ
行進、曲芸、ダンスから絵画、音楽、建築、散文まで-。人間が人間として日々を生きるということと、芸術活動や芸術作品のありかたを常に結びつけて考えたアラン。第一次世界大戦に従軍し、戦火の合い間に熱意と愛情をこめて芸術を考察し、のびのびと書き綴った芸術論。
感想・レビュー・書評
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まだそれほどくっきりと見えてもいないのに、人生について観念的に悩む時期でもある少女期に、ご多分にもれずわたしも人一倍あれこれなんだかんだと苦悩の日々を過ごしました。生きるとは・・・、愛とは・・・、死とは・・・、などの中に幸福とはということにも関心を持って、それで手にしたのがアランの『幸福論』(串田孫一・中村雄一郎訳、白水社、1975年)でした。少しして岩波文庫版(神谷幹夫訳、1998年)も手に入れました。『幸福論』は、言葉で概念を探究するものではなくて、日常生活を活き活きとさせるための、心の持ち方とか智恵を、ズバッと明確に示唆したアフォリズムが並んだ本で、すぐに私のお気に入りになりました。その後、このアランは、本名エミール・オーギュスト・シャルティエというフランスのリセの哲学教師で、我が愛するシモーヌ・ヴェイユの先生だったということを知った私は、彼女と同じようにアランに直接教わるようにしようと、真っ白いノートに向かって、ことばの概念とか自己省察とか社会や現象の定義などを書き留めるようになりました。たしかにあの時期、私はシモーヌ・ヴェイユになりたくてたまらなくて、顔とか髪とか服装とか身の回りをなるべくまったく気にせず、難民の子供たちが餓死していると聞くとお小遣いを募金したり、自分もあまり食べないでおこうとして栄養失調になったり、よくわかりもしないのに何冊ものむずかしい哲学書を開いたりしていました。もし許されれば、銃を持ってどこかの戦線に志願していたかもしれません。それはともかく、こうして小学生のころにしてきた、日記というものに、ありのままを書くという行為は、中学生になって思惟・省察ノートというものに、分析・内省するという行為に変わっていきました。そのようにして、まさに幸福なことに、私にとって哲学とは、何もむずかしい用語を覚えたり、それを駆使して論難したり新しがったりするものではなく、自分のことばでいかに精一杯いいつくそうとするかという、日常の分析的な行為として始まったのです。そして、その後、読み切れなかったヘーゲルを平易に読みやすく教えてもらったのが、この本の訳者の長谷川平蔵じゃなかった長谷川宏センセなのです。最初に読んだ『諸芸術の体系』(桑原武夫訳、岩波書店、1978年)にくらべて、なんと本書の読みやすくてスラスラ入って来ることでしょうか。もしかして私は、この本で、ダンス・詩・音楽・演劇・建築・彫刻・絵画・デッサン・散文・行進・曲芸など、わたしたちが人間として生きる日常生活のなかに、ありとあらゆる芸術と接することの大切さを教えてくれたアランの啓示通りに生きてきたのかもしれません。あるいは、シモーヌ・ヴェイユが、アランの第一次世界大戦へ志願兵として従軍したことにならんで、スペイン内戦に人民戦線派義勇兵として志願したひそみにならって。
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【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/742246 -
15/03/05。
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すぐに絶版になりそうな気がして、とりあえず買っておいた本。
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ダンス、装飾、詩、雄弁、音楽、演劇、建築、彫刻、絵画、デッサン、散文。以上の創作活動について、体系的な位置づけや意義について詳細に論じている。ただし、この体系は一般的なものではなく、あくまでもアラン先生独自の理解と解釈に基づく。上記の順番にも意味があり、動的な芸術から静的な芸術に至る連続性を保った位置づけを展開。ここが非常に興味深いところで、あらゆる分野の「体系」や「分類」といった考え方一般への興味も奮い立たせてくれるものだ。第一次世界大戦兵役中に書かれたこともあって、人生論的な内容もみられるが、これと芸術との関連性も大きな読みどころである。「幸福論」のように短い形式というわけではないが、難しい表現が少なく読みやすい。趣味であれ仕事であれ芸術に関わっている人ならば有益な考え方に触れることができるだろう。
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ダンス、行進、詩、音楽、演劇、建築、彫刻、絵画、デッサン、散文までの、様々な芸術活動の切り口から、それらの固有の美についての在り方を論じられている。
前提知識がない僕には始終難しい書物であったが、全体を通して、それらの芸術活動は、表現するという立場で作品を造っており、それを僕たちは見せられる立場にいて、表現したものをどういった尺度で見るか、感じるかということともに、作品を通じて造り手との対話を図ることが芸術活動において必要であり、そこが面白いと感じた。 -
イミフメイ・・・