社会契約論,ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫 Bル 1-2)

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  • Amazon.co.jp ・本 (575ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334751678

作品紹介・あらすじ

「ぼくたちはルソーの語る意味での主権者なのだろうか、それともルソーが嘲笑したように、選挙のあいだだけ自由になり、そのあとは唯々諾々として鎖につながれている奴隷のような国民なのだろうか」(訳者あとがき)。世界史を動かした歴史的著作の画期的新訳。

感想・レビュー・書評

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  • 主題:人間をあるがままの姿において捉え、考えられるかぎりで最善の法律を定めようとした場合に、市民の世界において、正当で確実な統治の規則というものがありうるのか。

    社会構築の唯一の原理としての「合意」
     ルソーはまず、「社会」というものがいかにして成立したのかを考察する。なぜなら、ルソーにとって「社会」とは人間にとって自明ではないからである。古代ギリシア哲学 と異なり、ルソーは人間の「自然状態」を想定する。自然状態こそ、人間にとって「自然な」状態であり、社会を構築するのはある種「特殊」なのである。自然状態では、誰もが独立して生きており、他者と恒常的な関係を結ぶことはない。そこでは、「彼が気にいり、しかも手に入れることができるものなら何でも自分のものにすることのできる無制限の権利(P50)」がある。このように、ルソーにおける自然状態は肯定的に描かれる。ではいかにして「社会」は発生したのであろうか。この問いに対し、ルソーは二つの側面から説明する。一つ目は、なぜ社会を構築する必要が生じたのかという側面。二つ目は、どのような手法によって構築されたのかという側面である。第一の側面では、ルソーは「環境の変化」から説明する。なんらかの偶発的な環境の変化により原始状態を存続することができなくなるのである。「人類は生き方を変えなければ、滅びることになる(P38)」。このようにして「共同」の必要性が生まれた。第二の側面では、まさに「社会契約」から説明する。ルソーによれば、自然に社会が生じることはない。そこには構成員の「合意」もしくは「契約」がなければならないのである。その社会を構築する最も初めにかわされる契約を「社会契約」と呼ぶ。社会契約は、必ず全員一致である必要がある。その契約の内容は、「社会のすべての構成員は、みずからと、みずからのすべての権利を、共同体の全体に譲渡する(P40)」というものである。こうして社会が発生する。社会状態では、社会的自由、所有権、道徳的な自由といった、自然状態には存在していなかった様々なものを獲得できる。

    最高原理としての「一般意志」
     社会契約によって社会を設立したことは既述したとおりである。社会契約は市民に平等を確立する。なぜなら、平等な契約でなければ、合意は成立しないからである。社会契約によって、市民は「すべて同じ条件で約束しあい、すべての市民が同じ権利を享受する(P72)」のである。その結果生まれるのが、個人の意思の集合体である共同体の意志、すなわち「一般意志」である。共同体の主権者はこの一般意志であり、市民は一般意志に絶対にした絶対に従わなければならない。一般意志は最高の原理であり、政府も一般意志の召使いに過ぎないのである。だから、「主権者はこの権力を思いのままに制限し、変更し、とりもどすことができる(P120)」のである。

    理想の国家に関する考察
     以上のようにして、社会が「社会契約」によって設立されたこと、そのような社会における最高原理が「一般意志」であることが示された。では、本書の主題である理想の国家に関してルソーはどのように考えているのであろうか。大きく二つを提示している。
     一つ目は「素朴な国家」である。前提として、ルソーによれば「一般意志」は常に存在するものである。しかしながら、衰退した国家では、一般意志よりも特殊意志が優先される。特殊意志とは、共通の利害とは異なる自己の利害に関する意思のことである。したがって、特殊意志の影響力が弱く、一般意志が優先される国家こそ、ルソーの理想であるはずだ。そのような国家をルソーは「素朴な国家」と呼ぶ。素朴な国家とは、農民たちが樫の木の下に集まって国事を決め、いつも賢明に振る舞っているような国家である。そこでは、多数の人間が結びついて一体になっていると感じている。このとき、「共同体を維持し、市民全体の幸福を高めようとするただ一つの意志しかない(P206)」のである。
     二つ目は、ローマである。ルソーはローマを「地上でもっとも自由で、もっとも強力だったローマの国民(P223)」と評している。そして、ローマの統治の方法を探究するのである。ローマの統治における重要な制度は「民会」である。そこには三つの条件があった。①民会を招集した団体または行政官が、招集に必要な権限を持っていること。②集会が法律で認められた日に開催されること。③占いで吉とでることである。他に、選挙の方法や、監察制度、宗教に関してもローマの制度を探究していくのである。
     以上のようにして、ルソーは一般意志が主権者であり続ける理想の国家像として二つを提示したのである。

  • 新訳でかなり分かりやすくなっているのかもしれませんが、かなり理解が難しい文章でした。それでも日本国憲法の基礎にもなっている人民主権の基本的な考え方は理解できたと思います。特定の統治者に権利を委譲するのではなく、国家に委譲しつつも各国民がその主権の一部であるという、話の抽象度の高さが難しさの理由の一つでしょう。

    主権は国民にあり、政府は国民の意思を実行するために雇われているにすぎないという、教科書でも習うような当たり前なことです。でも選挙のたびに無力感を感じ続けてふと忘れがちになることを、18世紀の人の声で再確認させられるというのが面白いです。

    国民全員の利益を追求する一般意志と、統治者の私利私欲による個別意思は完全に一致することはなく、それによって国家は必然的に衰退するというルソーの指摘が、今の日本に完全に当てはまっていることに感心してしまいました。その解決策が本書では明確に提示されていないところを見ると、日本は滅びるしかないのかと心が沈みます。

  • 『社会契約論』と巻末の解説を読んだ。ルソーの言う「一般意志」というのが、昔からどうもうまくイメージできなくてもやもやとしていたのだが、これを読んでやっとわかった。やはり解説本を何冊も読むより原典(訳本ではあるが)にあたる方が早いなと思った。「一般意志」についてルソーはかなり丁寧に繰り返し書いてます。「一般意志」は立法を行うのであり、執行権に関わるものではない、ということ、また、一般意志とは、自分よりも全体を優先するということではなく、それぞれの成員が他人にも納得できるような自分の都合を出し合う中で形成されるものであるということがわかっただけでも収穫でした。

  • 社会契約論のみ読破。訳がわかりやすく珍しくやや理解できた。
    「どうすれば共同の力のすべてをもって、それぞれの成員の人格と財産を守り、保護できる結合の形式をみいだすことができるだろうか。この結合において、各人はすべての人々と結びつきながら、しかも自分にしか服従せず、それ以前と同じように自由であり続けることができなければならない。」という問題の解決策が社会契約論。
    具体的には自らと自らの所有する全権利を共同体の全体に譲渡する。(誰にも同じ条件が適用され人びとは他人の条件に無関心になるとあるがどうだろう。)
    そして自らがさしだしたものと同様の権利を契約によって受け取る。

    全ての人民のとって共通する利害が一般意志は常に正しい。
    よってこの一般意志への服従を拒み個人意志を優先する者は抑圧されても仕方が無い(本末転倒?)

    現実的には難しいよなー

  • 魂をひっくり返す本の一つ。当時、君主制やキリスト教や、こうした規制価値をここまでひっくり返したルソーの勇気はすごいっす。

  • 近代国家観の基礎。
    ただ、ホッブズ-ロック-ルソーという、
    社会契約論の三大古典として並べると、
    やはりルソーは、研究者気質の書き方ができない性質の人であることから、
    一般意志を始めとして、重要な概念の捉え方に難儀する。

    殺人者に対する処刑や、徴兵の記述は、
    原理論としてはそうなることも仕方ないと今の立場からは思うが、
    本人も気付いて記しているように、著者自身、大変困惑している。

    いくつかの注意点を挟みながら、
    今と照らし合わせながら読めれば面白く感じるかな、と。
    (この中山訳は、読みやすさを考慮してかの意訳が多く、原文や岩波や中公などの別翻訳版と比較して読まれることが望ましい)


    不平等起源論→ジュネーブ草稿→社会契約論
    この流れの中で読むとルソー本人の意図が良くわかるかも。
    社会契約論は、自然状態から社会状態への転換が早足でわかりにくいから。

  • 自然状態から社会状態へ移行し、利己心を持ってしまった人間たち。そこから、社会の成員全員の自由と正義が守られる理想政体を作ることは可能なのか? 前著の『人間不平等起源論』を受けて、この『社会契約論』ではその可能性が探られる。前著に引き続く壮大な思考実験だが、国家の規模や風土に応じて望ましい政体の幅を持つなど、現実を見据えた議論でもある。

    さて、ここで理想政体を作るための鍵概念となるのが、「全員の、全権譲渡による社会契約」であり、「一般意志」(一個の精神的存在としての政体の意志)に基づいた徹底的な人民主権だ。高校の公民レベルの知識しかない僕には、これまでこの「一般意志」がひどく全体主義的なものに思えて仕方なかったのだが、初めて本書を手にとり、いくつか学んだことがある。

    第一に、ルソーがこれによって「一人の成員も犠牲にしない」「正義と幸福が一致する」「存在と幸福を同胞と分かち合うことで、存在も幸福も強まる」社会を目指していたこと。第二に、その「一般意志」が形成されるためには、個人の多様な意見の違いが必要であるとすること。特に後者は意外だった。多様性に基づいてこそ一般意志が生まれるとは! 残念なことにそのプロセスがよくわからないのだが、少なくともルソーが僕のイメージしていたような全体主義者でないことは確実だ。

    なるほど、利己心や個人の多様性からスタートして社会全員の自由・幸福・平等を追求するルソーの社会は、確かに美しい理想であるに違いない。しかし、まだ僕には釈然としない点も多い。例えば、一般意志を無謬とするルソーは、自分の個人的意志と一般意志が齟齬を来した場合に、自分の個人的意志が正しいということはありえないとする。

    「もしもわたしの個人的な意志が、一般意志よりも優位に立つならば、それはわたしが自分の望んでいなかったことをしたことになる。その場合にはわたしは自由ではなかったのである」(215ページ)

    これは、本当にそうなのだろうか? 僕はここには強い抵抗を覚える。この場合の「自由」とは何なのだろうか?これは拘束からの自由ではなく、アイザィア・バーリンの言う「積極的自由」なのかもしれないが、そうだとすると、僕たちが守るべき「自由」はそれなのだろうか? もやもやが残る。

    と、まあ、自分の力不足で、まだ「読めた!」という感じにはならない本。しかし、ルソーの理想の美しさへの共感と、にもかかわらず僕の中に残った大きな違和感。これは大事にしていきたい。

  • 書かれていることは比較的抽象的な国家論であって、当時の情勢を直接記している訳でない。それでも、読んでるだけで当時の市民社会の熱気が伝わってくる。市民階級が力を蓄えて、封建体制が揺らいでいた時代、市民の積極的な社会参画への希望、といったものがよくわかる。「ベルばら」で描かれていたのはこういうことだったのか。きっと、ここでルソーがもっとも重要視している一般意思というのも、そういった市民の主体的な意思を思いっきり取り込んだものなんだろう。

    ただ、国家や社会制度の行く末を決める一般意思が、どのようにしたらうまく成立し機能するのか、そこのところは疑問が残る。国家としての一つの意思として国益を優先できる意思が、個人意思からどう生まれるのか。個人意思は個々人の意思を優先しがちであるし、それの単純合計は一般意思ではないことはルソー自身も述べている。だから、一般意思が成立するような体制や仕組みが必要になると思うのだけど、それは簡単にはいかないと思うし、今でも実現していない。2世紀以上もつづく大事な課題ということなんだろう。

  • 新訳ということでだいぶわかりやすくなっているように思えるが、断片的な理解である。
     草稿については本文と対照させながらよまないとわからない。解説が非常に丁寧であるので、解説だけでもいいのかもしれない。

  • 社会契約は、自らを共同体に与え、その部分として受け取り直すことで、結ばれる。その根拠は、各人の自己保存の個別利益=個別意志が個人だけでは達成できず、共同体の力を借りる必要があるからである。個別意志の総和である全体意志のうち、各個人の利害を取り除いた共通の善=公益=全員の幸福を目指す一般意志によって、相互扶助の状態=社会が保たれるのである。ここに利益と正義が一致する。一般意志に服従することは、自分自身に服従すること(道徳的正義)であり、立法が一般意志の具現化である。簡潔に言えば、自己が自己を統治するのである。
    道徳、立法者、建築家の比喩など、カント『純粋理性批判』の元になったと思われる記述があったり、平等、革命などフランス革命やマルクス主義につながるものや、全体、指導者など全体主義に曲解された(権力の譲渡の不可など事例によって随所で否定している)もの、さらにはアメリカ合衆国憲法にも通ずるという影響力の高さが窺える。また、アーレントの市民の議論による公共性も含むことができる。自己保存から道徳的正義として自己を統治する議論は、フーコーの自己への配慮、統治性にもつながるだろう。
    王国が一般的だったヨーロッパにおいて、民主政や君主政と比較し、貴族政のうち選挙制をすでに吟味する先見性は見事なもので、さらに国家の固有性に合わせて、政体を選ぶ必要性を指摘するなど現代まで貫く議論の強度がある。また、統治者の悪弊について、ローマの歴史的事例に基づいて分析しており、まるでその後の全体主義・レーニンスターリン主義の趨勢を予見しているかのようだ。第四篇は特にローマの制度分析、キリスト教に対するシニカルな批判などがあり、未だ解決されていない民主政・宗教と政治の問題を指摘している。加えて、イギリスを引いて、代議制における人民は選挙が終われば奴隷となり無であるという穿ち方は、日本をはじめ世界的に採用されているこの制度が変わるまでは強く響く批判だ。それらの解決方法としての公民宗教は謎が残るとはいえ(カント的な実践的理性の道徳とも取れるし、「正確には社会性の感情として」と断っているように、他に適切に言い表すことのできるものがないという意味においての隠喩かもしれない)、刊行後250年以上経つが、全く色褪せない書物である。
    末尾に外交について課題を残したことを示唆するが、それはカント『永遠平和のために』で仕事が引き継がれていると見ることもできるだろう。社会契約論の初稿であるジュネーヴ草稿では、社会契約論では削除された定義の詳細な説明や、冒頭に『人間不平等起源論』からつながるルソーのネガティヴな欲望的本質にある人間観と革命の必然性が窺えるのも見どころである。そこで見られる機械の比喩などと合わせてみても、ドゥルーズガタリの欲望機械、革命機械に継承されていると見てよいだろう。
    社会契約論
    ・第一篇
    個人ではできない力を持つために、他人のために力を差し出す、相互扶助的な契約。自らを全体に差し出し、全体から自らをその一部として受け取る。その中では権利も義務も平等で、誰にも特権を与えない。→全体主義とは異なる。
    社会状態に移行すると、正義に基づき、道徳性を持つようになる。自らの主人となるのは、道徳的な自由によってのみである。
    土地の先占権は自分の分け前以上のものを求めてはいけない。誰も住んでおらず、生存に必要な分だけ、労働と耕作によってのみ認める。土地の占有を主権者が保証することにより、占有者は主権者に依存する。土地支配によって確実に住民も支配できる。
    社会契約は、体力や才能による自然の不平等の代わりに、取り決めや権利による道徳的法律的平等を確立するものだ。
    ・第二篇
    個人の利害を一致させる一般意志のみが社会を設立し、指導できる。
    人民が悪しきことを望むように見えるのは、欺かれた時だけである。
    一般意志は共同の利益だけが目的だが、全体意志は私的な利益を目指す個別意志の一致。個別意志の差を相殺すると一般意志となる。結社となれば社会にとっては大きな個別意志に過ぎず、他の個別意志の犠牲が多くなり、一般性は少なくなる。
    権利の平等と正義は、各人自らを優先する人間の本性から生まれる。
    社会契約において、個人は何も放棄せず、以前より好ましいものに改善されている。
    生命を守るために生命を危険に晒す権利がある。安全に生きられるのは国を守る義務を条件としているから。法を犯すことで祖国の一員であることをやめた者は敵となる。しかし、殺す権利は誰にもない。
    法は意志の普遍性と対象の普遍性を結びつけるもの。法治国家をすべて共和国とよぶ。立法に必要なことは、一般意志に対象をありのままに眺めさせること。個人は、自分の幸福が何であるかは理解できるのだが、それでいてこれを退けるのである。立法者の任務は共和国を創設することで、人を支配してはならない。人を支配する法は不正を永続させる。ギリシアのポリスは外国人に法の制定を委ねた。一般意志のみが個人を拘束できることから、法を作成する者=立法者とは別に、立法権は人民にある。
    賢者の言葉で語っても、大衆は耳を傾けない。人民の言葉に翻訳できない一般的見解などの観念は多く、大衆の理解を超える。各人は個別の利益だけを好ましく思う。そのため、社会的な精神が、政治的な制度の創設を司ったように見せるため、建国者は神の秩序の権威に頼った。政治と宗教は共通の目的ではなく、宗教は政治の道具として役立つものだ。
    建築家が建造するときは土地、土壌が耐えうるか調べるものだ。
    →カント『純粋理性批判』建築術
    人民が法に耐えうるかを調べる必要がある。人民は青年期をすぎると従順ではなくなり、老人になるともはや聞き分けがなくなる。病により革命が起ったとしても求めるのは支配者であり、人は自由を獲得することはできるが、回復することはできないのだ。
    国が大きすぎると自らの重みにより崩壊する。健全で強固な体制、善き統治による活力に頼るべき。常に膨張の必要性がある国は、終局と没落の時期を同時に示す。
    住民を養えるだけの領土と、領土が養えるだけの住民の数がなければ、貿易か戦争しか選べなくなり、本質的な弱さとなる。適切な領土と人口はその土地ごとに異なるため、制度の設立は、将来に予測できる条件に基づいて、判断しなければならない。
    立法で困難なことは、何を破壊すべきかの判断であり、それは自然と社会を結びつけるのが困難だからである。コルシカ島は立法が可能な勇気と堅実さをもった国である。
    全ての人の最大幸福とは、自由と平等である。個別的依存は自由を奪い、自由がなければ平等はない。平等は、権力と富を同じにするということではなく、ひとりの権力が暴力にならないこと、人身売買するほどに貧富の差が広がらないこと。平等は自然な成り行きで破壊されるかもしれないが、だからこそ立法の力で平等を維持するべき。
    共通の原則とは別に、国と住民の固有の違いを個別的なやり方で調整し、ふさわしい立法を定めるべき。
    基本法=国家法は、主権者と国家の関係。民法は、構成員相互の関係、または構成員と全体の政治体の関係。刑法は、人間と法の関係。最も重要な第四の法は、心に刻まれる習俗、慣習、世論。権威の力を習慣の力としてゆくもの。社会契約論に関わるのは、国家法だけである。
    ・第三篇
    自由な行為には、精神と身体の原因が必要である。政治体には、意志=立法権と力=執行権が必要となる。主権者の全ての行為は法を定めること。政府は一般意志の指導に従って主権者を代行する。国民と主権者の意志を伝達する中間的団体で、行政官、王または支配者で構成され、統治者と総称される。主権者から委任された権力を行使しているにすぎない。合法的な執行権の行使を統治または最高行政と呼ぶ。
    個別意志=習俗=国民x人と一般意志=法=主権者1の関係が希薄になると抑制を強くする必要がある。国民が増えれば政府の力はより強くなければならない。無論、人数以外にも多数の原因がある。
    政府には特殊な自我、すなわち自己保存を目指した独自の意志が必要。会議、評議会により討議し決定する権利が必要。これは、国家の保存のための公共の力と区別しなければならない。
    統治者=行政官たちには、行政官個人の利益=個別意志、統治者の利益=団体意志、人民・主権者の意志=一般意志の三つの意志がある。自然放任すると個別意志が最も強くなってしまう。行政官が一人のとき、委託された団体意志と行使の力が最も強くなり、行政官が市民全員のとき委託されないので最も弱くなる。国家の力はその大きさによるので、国家の大きさが変わらなければ、行政官が増えても政府の力は相対的に下がることになる。国家が大きければ政府は小さくなければならない。
    行政官が多い政体から順に、民主政、貴族政、君主政または王政。適切な規模も順に、小、中、大とされる。
    民主政の欠陥は、立法者が執行者であるがゆえに、私的利害を法に持ち込み腐敗することにある。真の民主政は存在しえず、自然の秩序に反する。人数が少ない政府の方が素早く処理できる。また政体変化への試みが多く内乱が絶えないため、民主政は人間にはふさわしくない。
    貴族政は、家長らの自然によるもの、権力と財産の選挙によるもの、相続の世襲によるもの、三つの形態がある。素朴と腐敗を避けることから、最善なのは選挙によるもの。貴族政は、主権者と執行者を分けることができ、政府の構成員を選べる。一般意志よりも個別意志を優先させる傾向に注意すれば、少数で治めることは迅速、信用で優れている。富の厳密な平等はかなわないが、貧しい人々を選ぶことによって、人間の値打ちには富よりも重要な基準があることを、ときに人民に教えることが大切である。
    君主政は、統治者1人の個別意志であり、目的は公共の福祉ではないため、つねに国家を害する。君主に刃向かわないよう、人民を弱く貧しくする。君主制の欠陥は、人民の選択によらないため、無能が高位につくこと。1人に頼るので継続性がないこと。選挙となれば全てが金になり腐敗するため、世襲とするが、他人に命令するように育てられた人は、正義感と理性を喪失してしまう。偉大な王が統治教育を受けたことはない。まず服従することから覚えるべきだ。まま、継続性なければ一貫性もなくなる。君主政の理解は、無能が王になったときどう統治するかを調べるべき。神の立腹を悪しき王とするなら教会で語るべきで、患者に忍耐だけを教える医者がいるだろうか。
    税金は金額ではなく、戻ってくるのが遅いほど負担が重い。ゆえに君主政が最も重く、そのため、南の肥沃な土地は君主制に適する。暑い国は消費量が少ない。季節変化が激しい土地は衣装は素朴である。暖かい国の食物は滋養に富み、美味である。暖かい国は生産の人手が少なくすみ、かつより多くの人間を養える。余剰は多ければ君主政に向く。また、国土は広ければ連絡の面から叛乱しづらく、君主政に向く。圧政的政府にとっては人口密度が低く、遠い方が望ましい。
    善き政府とは決定できず解決できない問いである。国民か市民かで望むものが異なる。平穏か自由、財産か身柄の安全、厳格か寛大な政府、犯罪の処罰か予防、隣国への恐れか隣国からの無視、貨幣かパンか。結社は構成員の保護と繁栄を目的とし、繁栄は人口で計られる。人口が増え、増大する政府が善き政府である。
    政府の堕落には、民主政→貴族政→王政となる政府の縮小と、統治者又は政府が主権を簒奪して国家が解体する場合がある。国家が解体し無政府状態となり、民主政は衆愚政、貴族政は寡頭政、君主政は僭主政(王権を奪うものは僭主政、かつ主権をも奪うものは専制君主政)と呼ぶ。
    政治体は身体同様、死に向かう。主権者の立法権によって国家は存続する。
    主権者の行動は法=一般意志=人民集会のみ。ローマ帝国の市民のように、ほぼ毎週集会を開くことは可能だろう。定例の集会を開催する必要がある。政府の力が強いほど、主権者は頻繁に意志を表明すべき。服従する国民と、自由の主権者は表裏一体で、市民という語で統一される。都市が複数ある場合は国家の所在地を持ち回りにすればよい。集会時は、政府の執行権を停止する。支配者は集会意欲をなくすよう手配するため、市民が貪欲怠慢臆病で休息を好む場合は抵抗できず、主権は消滅し、国家は滅ぶ。
    代議士、傭兵は祖国を売り渡すことだ。財政は奴隷の言語。租税よりも賦役の方が自由は損なわない。国の集会に、市民自らでなく代議士や代表者に出席させるのは、祖国愛の衰え、私的利益活動の増大、国家の巨大化、征服活動、政府の悪弊による。フランスでは、公共の利益は聖職者と貴族の利益に次ぐ、第三身分に過ぎなくなった。自ら出席し承認していない法律は無効で、法律ではない。イギリスのような代議制では、人民が自由なのは選挙する間だけであり、選挙が終われば奴隷であり無に等しい。代表制は、近代において、封建制から受け継がれた不正で非合理的なもの。ギリシアのポリスでは人民自身がなすべきことを行っていた。自由は奴隷がなければ維持できないが、近代人は自身が奴隷なのだ。人民は代表をもてば自由でなくなり、人民でなくなる。
    主権は、主権者よりも上位者を作れないことから、譲渡できない。
    政府の設置は契約ではなく法で、その指導者の指名は個別行為である。主権は民主政に転換することによって政府を生み出し、それぞれの政体に移行する。執行権者は、人民にとって、公僕であり、任命解任可能で、服従し、議論する権利はない。統治者は与えられた権利に見せかけて権力拡大したり、治安維持という名目で人民集会を妨げたりする。定例集会は、統治者から妨害があったときに、自らが国家の敵だという公言になることから、この予防になる。
    集会の議題は、現状の政府の形態と構成員、この二つが必ず吟味されなければならない。
    ・第四篇
    平和、団結、平等は、政治家に欺かれない。
    集会における議論に時間がかかり、騒ぎに近くなる場合は、個別利益が働き国家が衰退している。
    社会契約に反対する者は異邦人である。原初の社会契約以外は、最大多数の意志が全ての者を拘束する。社会契約は、可決された法に従うことの同意。法案は是非を問うのではなく、一般意志に合致しているか。投票によって一般意志が表明される。可決されたものが自分と反対意見だったとしても、自分の意見が一般意志でなかったことを示すだけ。重要であれば全員一致に近い比率、緊急であれば必要票差を少なくする。行政官の選出には、民主政はその負担から抽選、貴族政は投票選挙が適している。君主政は抽選も選挙もない。
    投票集計についてローマを参考にする。軍隊をアルバ人、サビニ人、外国人の3つ(トレース)にわけたことから、部族(トリブス)と言われた。各部族10の市民集団クリアに分かれ、さらに各部族100人の騎兵集団ケントゥリアを構成した。次第に外国人が増え続けたことから、是正するため4つの居住区で分けた。さらに田園地区を追加し35地区となった。都市地区よりも田園地区の品位が高かった。その後移動が自由になり、影響力のある都市で下層民の投票権が売買されるようになった。さらに財産で6つの階級に区分された。これは商業より農業に愛着を示す無私無欲により維持できた。集会はクリア、ケントゥリア、トリブスの民会があった。クリア民会は、ローマの一般大衆しか参加できず投票売買により信用失墜した、僭主政と悪巧みの場である。ケントゥリア民会は第一階級が投票単位193のうち98のケントゥリアを占めていたので第一階級だけで他を上回っていた、貴族政に好都合なもの。トリブス民会では元老院を除く全ての人が個人として1票を持っていた、民主政に適した形態。全ての人民が参加できたのはケントゥリア民会のみ。過半数が人民の決定とされた。投票の売買を減らすため賛否を公言しない秘密投票になる。
    危険時に政府の活動を増大させる場合は、1〜2人に権力を集中させる(ローマ執政官)。極めて深刻で法律を停止する場合は、最高指導者を任命する(ローマ独裁官)。ただし、任期は短く、延長できないようにすべき。
    世論は監察制度によって表明される。誰もが美しいものを愛すが、美しいものが何かという判断は過ちを起こす。この判断を規制すべき。
    →カント美と崇高
    監察官は、世論の廉直さを保ち、習俗を維持する。
    各国固有の政府と礼拝があり、神々と法を区別しなかった時代は宗教戦争はなかった。イエスが霊の王国を建て、宗教と政治が分断され、国家の一体性は終わりを告げ、国家内部に分裂が生じた。ローマ人にとって、キリスト教徒は服従を装い、常に独立の機会を窺い続けている反逆者だった。イスラム教でも初期は政治システムを一致させたが、やがてシーア派などに分裂した。キリスト教の悪と治療法を認識したのはホッブズのみであるが、国家よりも司祭の利害が強く、統一はなしえなかった。ベールは政治に宗教は不要とし、ウォーバートンはキリスト教こそ政治に役立つとした。しかし、宗教基盤のない国家設立はなく、キリスト教は国家には有害である。宗教には社会との関係で3つあり、一般社会における人間の自然神法である宗教(福音書のキリスト教)と、特殊社会における国家の守護神としての国家神法または実定的神法、そして二つの法律・首長・祖国を与える司祭の宗教(ラマ、日本、ローマ教皇庁)。それぞれの欠陥は、国家法との無関係性、排他性、矛盾。真のキリスト教においては、祖国は現世になく、公共の幸福とは無関係。一人でも野心家がいれば同胞を利用するだろうが、それは神によって肯定されることになり、反抗の暴力や生き残ることを望まない。真のキリスト教徒は、奴隷となるように作られている。
    自分の義務を愛するような宗教を信奉することが大切である。他人に果たすべき義務と道徳。社会性の感情として、公民的な信仰告白が必要。教義は神が存在し、来世があり、正しきは幸福になり、悪しきは罰せられ、社会契約と法が神聖であること。そして、不寛容を退けること(上記で否定した宗教に属す)。
    →カント実践的理性の道徳?道徳を表すために宗教の比喩を取ったとも考えられる。
    不寛容の公的・神学的は不可分で、いずれかが許されれば他方につながる。
    政治的な権利による国家構築を論じたが、外交によって国家を支えることは課題として残る。
    →カント『永遠平和のために』で引き継いだ。
    「ジュネーヴ草稿」
    ・第一篇
    社会体の本質、その設立について。機械のゼンマイと部品のふさわしい配置。
    人間の原初状態と自然欲求の釣り合いに変動が生じた場合、同胞の助けが必要となる。人間の無力さは、貪欲による。欲求により接近し、対立し、同胞なしでは過ごせなくなる。これが一般社会の絆。愛他心の基礎。
    一貫性に欠けた多数の人間関係は絶えず変動し、平和と幸福は束の間であり、不変のものは悲惨さだけである。愛や美徳は善悪が区別できなければ適用できない。悲惨な状態では弱者は隠れ家も援助も与えられない。社会の統一においては、ひとりの幸福は他人の不幸をもたらし、共通の福祉から離れようとするために接近する。平和と無垢の幸福は、原初には感じられず、啓発された人には失われている、人間とは無縁の生である。古代は独立と自由はあったが、何も感じることなく生き、死んだだろう。人類を一つの法的人格とすると、共同存続の感情が人間愛、共通目的が原動力、自然法が作動原理である。同胞との関係において、人間の制度がもたらすのは、各人の利益優先の感情による人間愛の窒息である。善悪は人々の関係にあり、公益は個々の幸福の上ではなく、土台である。
    独立した人間は個別利益で動く。法は他人が守らなければ守れない。道徳のために宗教、社会の絆のために神の意志があるが、大衆には理解できない。哲学と法律によって、分別のない神々への大衆の狂信を抑えなければ人類は滅亡する。観念と自然法が人間に備わっているなら教育は不要であるし、備わっていないなら施された教育が生み出したのは虐殺と殺害である。人類の唯一の情念は、全ての人間の最大幸福を願うこと。
    個人では克服できない障害があったときに、人は集まり、力を共同で作動させる。これが国家の設立。この政治体は、受動的には国家、能動的には主権者、公的人格としては主権国家という。構成員は、集合的には人民、主権者としては市民、法に従う者としては国民と呼ばれる。一般意志への服従の強制が、暗黙のうちに含まれることで、他の約束が効力を与える。これにより欲動・欲望の自然状態から正義・権利の社会状態へ移行し、道徳性が与えられる。動物から人間になる。社会的自由と所有権を得る。
    国家は共通の善を目的として設立され、それを導くのは一般意志だけである。一般意志は、個別利益に共通して存在するもの。
    自然的な家族の父と、自然状態を退けるべき国家の首長は異なり、国家は家族をモデルにすることはできない。
    主人と奴隷についても同様で、奴隷に権利が認められないのだから社会状態ではない。
    一般意志は、「各人」のうちに自らも含むから願う各人の幸福は常に正しい。権利の平等と正義は、自らを優先することから生まれる。共通の利益によって一般意志があり、利益と正義が一致する。
    一般意志に対する疑念は神の命令を模倣することで解決された。人間が正義と自由を守ることができるのは、法の力によってのみ。一般意志は法によって具現化される。
    ・第二篇
    複数都市を含むと、首都が主権者となり、他の都市は従属することになる。
    法(=一般意志の行為)の本性は、内容=事柄と形式=権力。事柄は共通善に関わり、対象も意志も一般的でなければならない。一般性とは類に属するもの、普遍性とは全てに適するもの。普遍的なものは、全体と部分の関係において部分とその他に分けて注目することでしか考えられないが、一般的なものは全人民が法を定める時のように全体としての視点と内部から全体を眺める別の視点がある。一般的なものの行為が法である。法の対象は、固有名のような個別ではなく、類で扱うもの。法とは、意志の普遍性と対象の普遍性を結ぶもの。社会契約から生まれる唯一の基本的な法は、各人が何よりも全員の最大の善を優先するということ。実定的な法と、力又は徳(社会性・善行・習俗)に分かれる。全ての人の最大の善という法によって、正義の分別がつく。法は正義のよりも前にある。法が不正でないのは、正義があるからではなく、人が自らを害するのを欲しないからだ。主権者と国家との関係が、国家法または基本法。構成員相互の関係、国民の自由を国家の力で確立するものが、民法。服従しないものを処罰するものが、刑法。権威の力を習慣の力とするものが、習俗または慣習。最大幸福は、自由と平等。平等があって自由がありそれによって国家の力となる。平等とは権力が暴力にならずに地位と法律に基づくこと。法は自然を保証し修正するにとどめるのが望ましい。
    ・第三篇
    自由な行為は、行動を決定する精神的原因、行動を実現する身体的原因が協働して生まれる。政治体は、立法権という意志、執行権という力が協働して生まれる。
    ・公民宗教についての断片
    社会には宗教が必要。①純粋な崇拝と道徳の人間の宗教と、②古代のように国限定の儀式・儀礼・法的崇拝の国家の宗教、③二つの首長・法律・祖国の司祭の宗教。それぞれの欠陥があり、③は矛盾。②は排他性であり、改宗させるために征服したことから、異教の迷信を生み残酷行為をもたらした。①は福音書のキリスト教で、国家との無関係性にあり、祖国はこの世になく、野心家を神で肯定する。キリスト教が教えるのは服従と依存である。奴隷となるよう作られている。
    国家には市民が宗教を信奉することが大切で、道徳のみが問題になる。宗教の教義ではなく社会性の感情として。教義は、神の存在、来世の存在、善悪の報い、社会契約と法律の神聖性、不寛容を退ける。公的・教会の不寛容は不可分。不寛容は戦争をもたらす。
    ・プロテスタントの結婚についての断片
    フランスのナント勅令の廃止によって、プロテスタントは公的に結婚が認められず、子供は私生児になる。祖国も家族も財産も奪われた。
    ・訳者解説
    『人間不平等起源論』の自己保存と憐れみの自然状態の野生人から、そのままでは生き続けられなくなり、他者と社会を形成する。マルクスに先立って人間疎外を告発した。道徳には社会が必要。野生人から社会形成に向かう、私利を追求する独立した人間は、ディドロ『百科全書』「自然法」の乱暴な推論家であり、ディドロを批判しながら、主権者と人民の利害一致を説き、独立した人間を説得する。
    『人間不平等起源論』孤独な野生人→問題→集合→群れ→言語→自尊心=群れの段階①→家族→家=私有財産=最初の革命→愛情、恋愛=家族的な所有の段階②→地域言語、社会、技術進歩=世界の青年期③→新石器革命→農耕道具の鉄と小麦の不平等な所有→土地私有→私的な所有の段階④=市民社会が創設され、戦争状態。野心家のために人類全体が労働、隷属、貧困の鎖につながれる。自己保存のみで、憐れみは消える。人類は万人の幸福が唯一の情念だというディドロの自然法は妄想。
    国家論批判、父権、実力、合意。成人での解消、親子の愛情は国家にはない。力の強制は権利ではない。自由の放棄は自然に反する。
    社会契約は全員の合意で成立。社会の構築によって障害を克服せざるをえない。社会契約の時期は、初歩的な技術があり、所有が始まる前の世界の青年期。
    『コルシカ憲法草案』利己愛は、つまらぬものに価値を見出す限りは虚栄心を生み、美しいものを尊ぶ場合は誇りを生む。所有が始まる前に導くのは、立法者または教育者。『エミール』は教育による心の革命で人間を作る。『社会契約論』は市民を作る。
    私的所有の段階は、革命が訪れなければならない時期。革命へのアジテーション。
    いずれの段階にせよ、自己保存の原理によって社会契約が締結される。孤独な野生人、不平等な戦争状態、暴君。人為として始まり害となった社会を、自然に戻るのではなく、完成された人為が償う。ホッブズは権利を譲渡し自己保存を放棄するが、ルソーは人間の自由である自己保存を否定しない。かつ自己への配慮を怠らないようにする。社会契約の目的は、生命、財産、自由を維持できる社会。
    全面譲渡は、平等で、完全で、自由かつ大きな力を手に入れる。『エミール』人間の依存は、自然における野生人的な事物と、社会における協力的な人間。人間への依存を減らすのが社会契約。
    社会契約について、ロックは財産権を為政者に部分譲渡すると捉え、侵害された場合は抵抗権によって取り戻すと考えた。しかし、ルソーは主権者の一部である人民が主権者に全面譲渡するので、主権者から主権者が取り戻すものはなく、単に為政者から執行権を取り上げればいいことになる。
    個人で解決できない自己保存のために社会契約をしたので、それとは別に自己保存を追求すれば社会は滅び自然状態に戻る。よって社会契約の公益(=共通善、全員の幸福=自由と平等=道徳的正義)を目的とした方が自己保存が叶う。そのため服従と違反に対する処罰を強制される。
    社会契約の利益、自由、道徳、所有。事物、人間の依存から自由になるのは、共同体と法への依存。道徳により欲望を制御し自由になる。法が保護し共同体が処罰することにより所有が守られる。野生→文明→社会契約。自由、道徳、所有の弁証法的説明。
    人民は、主権者としての市民であり、国家における国民である。社会契約の共同体は、構成員である人民が主権者であるべき。ホッブズは君主あるいは議会を主権者とし、その他を臣下とした(古代ギリシア以来の伝統的国家体制論)。ルソーは、君主政、貴族政、民主政どれも国民が主権者であるとする。為政者の数の違いに過ぎない。
    一般意志は、神が救うのが全部か一部かの議論における、アントワーヌアルノーの概念で、全ての状況において人を救うという意味で、全ての個人ではないということ。ディドロは共通の一般利益を判断する理性と捉えた。ルソーは国家の意志と捉えた。公共のためではなく、自己保存の個別意志を前提して一般意志はある。そのため、全体利益が個別利益を抑圧する全体主義とは異なる。ロペスピエールは、一般意志の認識が政府の一部党派によってのみ可能と曲解してテロルを行った。またレーニン前衛論のような知識人論もあった。しかしルソーにおいては、全ての人民が発言することが前提である。ライプニッツ全てのものの孤立したモナドの構成。異なった視点から見る人の数だけ町があるのと同様、一つの宇宙を各モナドから見た様々な眺望がある。一般意志の前提は、各人に十分な情報が与えられ、互いに伝達し合わないこと。後者はプロパガンダに騙されないように。それぞれの固有の立場から意見が示されることで、違いが明らかになり、全体像がはっきりする。自己の利益を追求しながら、他者と協議を続けることによって、共同体にとって最善の結果が生まれる。常に正しいのは常に自己保存を追求するから。一般意志の目的は一般的な全員の幸福、対象は全員に適用できる一般的な法。つまり、人民集会の審議できるのは法のみ。ルソーは法治国家すべてを共和国という。共和国レプブリックは、公的な事柄レスプブリカを優先するから。ただし、それぞれの人民にふさわしい法律と体制。習俗は、法律によって形成されるもの。そして市民の議論で練り直されていく。ロンドンのカフェ、新聞、ジュネーヴのサークル(12〜15人の男の自由時間を過ごす部屋)。
    政府は能動的な意味では統治者、受動的な意味では政府。人民=主権者=市民→政府、統治者→国民。主権者であることを忘れがち、統治者が主権者であるような幻覚を生む。本来は自己が自己を統治する。力の比率は、市民×国民=政府×統治者でなければならない。主権者たる市民は単一なので1となると、国民の数に応じて政府の力が増大する必要がある。
    民主政は多数決になって少数を潰し腐敗する。貴族政君主政は一般意志を無視しがちで、さらに世襲になる。民主政、貴族政、君主政と統治者の権力が集中し、悪を深め国家が死滅するのは不可避で自然なこと。これを遅らせるのが定期的な統治者と政体に関する人民集会。大国では政府所在地を持ち回りにする。代議制、傭兵ではなく全員の人民集会、市民軍とする。これで『社会契約論』は完結したと見え、3篇15章で大国の対外的な力と、小国の統治と秩序を結びつける方法を示したいと語り、同様に4篇の末尾で外交を課題として終えている。3篇16以降はジュネーヴへの貢献の意図と見られる。『エミール』の本書の要約は3篇5章まで。『山からの手紙』で本書をジュネーヴをヨーロッパの手本とし、維持する方法として熱弁している。ジュネーヴ市民に支持されるが『社会契約論』『エミール』は唯一ジュネーヴ政府によって発禁、焚書となる。
    自然状態から形成された一般社会では人間の宗教、国家となった特殊社会では国家宗教またな公民宗教、第三に、法律首長祖国が二つに分裂した宗教。人間の宗教はキリスト教で、ルソーは国家(祖国の紐帯、繁栄への関心、革命)との無関係な破壊的帰結を示している。ハンナアレントは、『人間の条件』でキリスト教の非政治性を無世界性と呼んだ。この裏返しとしての公民宗教がある。連帯、関心、配慮。三つの宗教と異なり、社会契約と法が神聖であることを箇条とする。そして不寛容を許さないこと。政教分離が当たり前の近代の在り方すると奇妙だが、社会契約に関してのペシミズムがある。立法者、公民宗教の司牧者は、社会契約の外部にある。立法者は、人民が共通善を知らないために必要。司牧者は、人民が宗教なしで国家への義務を尽くせないから必要となる。人民は制度の確立、その維持のための世論形成、処罰なしの一般意志形成はできないとルソーが考えたことによる。
    →人間の宗教を公民宗教として固定と書いているが解説者の誤りのような気がする。ルソーは人間の宗教=福音書のキリスト教として、キリスト教を批判しているので。
    フランスでは、人民集会は全員ではなく1848年男性普通選挙、命令的委任という厳密に点検する代議制ではなく国民投票、立法と行政の分離ではなく軍事・公的扶助・貨幣発行が議会で決定されるなど、恣意的にルソーの思想が変更されて使われた。

  • 内容もやっぱりいまいちわからないし、わからないながらに楽しめるかというと楽しめない。
    努力して分かろうと思って読んでみるけど興味が持てないから理解が深まらない。

    ====
    ジャンル:リベラルアーツ
    出版社:光文社
    定価:1,056円(税込)
    出版日:2008年09月20日

    ====
    ジャン=ジャック・ルソー Jean-Jacques Rousseau
    [1712-1778] フランスの思想家

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    flier要約
    https://www.flierinc.com/summary/3030

  • ・学校の教科書で名前程度は知ってましたが読んだことはありませんでした。今回「世界を動かした一冊」というフレーズにしびれ読んでみることにしました。もっと読みづらいかと思ってましたが新訳のおかげか意外とスラスラいけました。でも内容は難しく、一般意思などわかるようでわからないもどかしさを感じました。今度は「人間不平等起源論」を読んでみたくなりました。

  • 1762年ルソー50歳の時に出版。
    2019年の現在から約250年前に刊行された本だ。

    当時、フランスは王政による封建制度だったが、人民に主権があるとしてこの『社会契約論』を打ち出した。


    が、
    即刻発禁処分となりルソーも迫害を受けて国外逃亡する。
    そして、ルソーは祖国の地を踏むことなく没する。

    1778年のことだ。
    それから11年後の1789年にフランスで革命が起こる。

    ルイ16世はギロチン処刑、マリーアントワネットも車で引き回しの後処刑される。



    そして、
    1794年革命政府により
    祖国フランスへ墓地が移されて、
    ヴォルテールの墓地の横で眠る。


    その革命の思想のルーツとなった本であり、
    世界を変えた本の1冊。


    ルソー著、『社会契約論』。

  • 教科書でもこの書名は出てくるでしょう。
    でも大学等でこれを読み進める機会がない限り
    読む機会もまずないでしょう。

    非常に難解です。
    そう、理想の国家について長々と出てきます。
    ちなみにこの2つは同じものですが
    微妙に違います。

    共通なのはキリスト教のところですね。
    これは当時としては強烈なことを
    いってしまっているので教会を
    確実に敵に回しています。

    この本はフランス革命の
    きっかけになったそうです。
    ある制度にどっぷりつかってしまってましたからね…

  • 「エミール」「告白」「新エロイーズ」など様々な著作のあるルソーの著書。

    難しい。

    これは購入してじっくり読み込む部類の古書です。

  •  人間不平等起源論より難解すぎて読むのに苦労。
     主権、政治、法律についての理想的な在り方、基本的考え方は250年も前に出来上がっていたんだなーと驚嘆感嘆。
     しかし、現代においてそれが正しく運用されてるかを改めて考えるきっかけになる一冊。建前「現代に合った現実的にはこうならざるを得ない」。本音「権益や保身など様々な欲もあるよね~」

  • 人類の歴史に影響を与えた本。わかってもわからなくても読む。

  • 訳がかつてのものと段違いにわかりやすい。解説も豊富で、ルソーを読むならこの訳から入るといいと思う。

  • 初めて読みました。いや、なるほど!ということも多く、これからも勉強していきたいと思いましたが、結構コワい感じもしました。一般意志の構築のために、「われわれのすべての人格とすべての力を」差し出さなくてはならない、ことになるんでしょうかね。。

  • もし自分が親になって子供が20歳になったらこの本をプレゼントとして送ります。

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