だまされた女/すげかえられた首 (光文社古典新訳文庫)

制作 : Thomas Mann  岸 美光 
  • 光文社
3.24
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本棚登録 : 105
レビュー : 10
  • Amazon.co.jp ・本 (333ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334751753

作品紹介・あらすじ

アメリカ人青年に恋した初老の未亡人は、再び男性を愛する喜びに目覚めたのだが…(「だまされた女」)。インドの伝説の村、頭脳の優れた青年と見事な肉体の若者が美しい腰の娘に出会う。娘は女になり、目覚めた愛欲が引き起こす混乱の結末は?(「すげかえられた首」)。

感想・レビュー・書評

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  • 「女」しゃがんだ時にズボンとシャツの間から肌が見える現象をセクシーと捉えるのか、だらしないと捉えるのか。イケメンが俺と同じ事言っても、俺はセクハラで向こうはカッコいいとかお前ら言うんだろー?とか、なんかそういう厳しさね。岩山ですっころぶよりも、膝に来る。
    「首」インド神話。ツマブキさとしと中村シドウは旅に出ました。途中一目惚れしたのでサトシは竹内ユウコと言う娘と結婚しました。ゆうこの実家に3人で挨拶に行く際に、サトシは急にお参りしたくなりました。その理由は。。。こっちも世の中キビシイなあ。

  • トーマス・マンには重厚な長編小説作家というイメージがあるが、本文庫収録の『だまされた女』『すげかえられた首』の二作品は短編だ。といっても、登場人物たちの戯曲もかくやの饒舌さ、マン特有の畳み込むような文体は変わらない。
    『だまされた女』の主人公・ロザーリエは自然愛好家の未亡人。素朴にして賢明、魅力に溢れた女性だが、閉経期を迎えて気持ちが滅入り気味だ。そんな彼女が、息子につけた若い家庭教師に心惹かれ始める。娘のアンナは母の恋に不吉なものを感じるが、ロザーリエはそれを「魂の春」と呼び、恥じらいながらも尊ぶ。やがてロザーリエの身にある「奇跡」が訪れて、彼女を狂喜させるのだが……。ロザーリエが人好きのする性格に描かれているだけに、物語のタイトルは酷いほど冷静な直球で、読後の胸を抉る。ある種の宗教的恍惚に浸る女性の有り様に、砕けた言い方をすれば「ツッコミを入れた」容赦なさ。ただ、幸福とは何かを問われたとき、それは各自の意識が決めるものだと答えるならば、ロザーリエは真に幸福だった筈だ。
    『すげかえられた首』はインドの古い伝説を下敷きにした異色作。二人の男性と一人の美女との三角関係だ。美女は、商人で知性溢れる夫を敬愛しているが、鍛冶屋で牛飼いでもある男性に肉体的関心を抱く。彼女を愛する男性たちは、元来深い絆で結ばれ、互いに憧れあう友人同士だ。それぞれの心を知った三人は三すくみの状態で旅に出、カーリー女神に邂逅する。女神の神助を得たある事件の後、彼らの三角関係は究極の昇華に至る。
    切望するものを手に入れる喜びと、それに付随する幻滅。いつの世も変わらない人間のエゴイズムが、神話的世界の舞台で展開する。ラストは、密教で三角形が火を象徴するということも想起させる。多くの腕を持ち、死体や骸骨に飾られたカーリー女神の姿態には、その過剰なエネルギーにおいてマンの文体と響きあうものがある。
    カーリー女神の神像は、男神シヴァ像を踏みつけているのが普通らしい。これを、男性原理に対する女性原理の優越、と見ることもできるとか。巻末の解説にある『だまされた女』において「女は舞台、男は道具なのだ」という解釈にも通じる見解だろう。

  • 翻訳者の岸美光さんの講演を聴きに行くにあたり読んだ。正直『魔の山』を読んだときに「もうトーマス・マンを読むことは生涯あるまい」と思ったのだけど。
    登場人物たちが持論を闘わせる場面というか、理屈っぽい会話中心に話が出来上がってるのは『魔の山』と一緒なのだけど、短編だからかこちらの二編の方が読みやすい。
    『だまされた女』、まだ主人公の年齢に自分が達していないので想像するしかないのだけど、身体が女として機能しているかってそんなに大事なものなのか?閉経してからだって、いくらでも恋はできるんじゃないかと思うのだけど。精神的な恋じゃなく肉体的な恋を求めていたということ?最終的には病気だったわけだけど、死ぬ前に心踊る恋ができたのは幸せだったのではないの?この話の内容で『だまされた女』というタイトルをつけるマンって性格悪い。
    『すげかえられた首』、ないものねだりの愚かさを皮肉った作品。他人の良いところを認めることが出来るのは素晴らしいけど、全てを手に入れることはできないのだから、足ることを知らないといけない。これが実際難しいんだな。自分の中にもシータはいる。

  • だまされた女、という題名と、裏表紙の説明から
    初老の女性が、若い男性に骨抜きにされて社会的に、そして金銭面でだまされるのだと思っていたら違っていた。彼女が愛していた自然に裏切られたんだと分かった時には思わず声をもらしました。なるほど、そういう事だったんだ・・・。

    すげかえられた首、二人の男と女が出てくるという事で、今度こそ女が騙されて首をはねられ、首と身体を男二人がわけて愛でるのかなと思っていたら違っていました。
    この話は・・・なんていうか、シーターの我儘さが際立っていたような気がします。二人の男の友情の熱さに緩和されそうになっているけれど、なんて酷い女なんだ。

  • 「だまされた女」は面白かった。
    でも女性の主人公は苦手に見える。
    「すげかえられた首」は何度も挑戦したが、どうにも読み進められず断念。
    同じ作者でこうも違うとは。

  • Title: Die Betrogene, 1953. Die Vertauschten Köpfe, 1940.

    緊迫感のあるプロット、微細な情景・心理描写、トーマス・マンの小説家としての技巧の高さをうかがわせる中編二本が収められている。

    「だまされた女」はドイツを舞台に閉経後の年齢の女性が、「すげかえられた首」はインドの想像上の街を舞台に若い女性がそれぞれ中心人物。どちらも、主調は女性の愛欲である。

    「だまされた女」で、中年のロザーリエが息子の若い家庭教師に惹かれて行く心情と、対比されているのは、合理的な性格の娘アンナの存在のように見える。だが、加えてロザーリエの信奉する「自然」との関係のおかげで、作品はひとひねり加わった味わいに仕上がっていると思う。

    「すげかえられた首」、こちらは三角関係の物語といえばそれまでだが、これまた二〇世紀の文学にふさわしい形に仕上がっている。恋敵であるシュリダーマンとナンダは、互いに強い友愛で結ばれている。ヒロインのシーターは、シュリーダマンによって婚姻のよろこびを、ナンダによって愛欲の目覚めを知る。ここでは特に、愛欲に翻弄されるシーターの心理描写の巧みさが目を引いた。

    加えて「すげかえられた首」には、少々哲学的に興味深い点がある。それは、シーターの手違いで、シュリーダマンとナンダの首と身体が入れ替わった時の、三人の反応である。

    シーターの夫は誰か。このときは「頭」に優先権があることで一致する。誰であるかはどの「頭」をもつかが一番重要であると。つまりナンダの身体をもっていても、頭がシュリーダマンである以上、彼はシュリーダマンでありシーターの夫である。

    では、シーターの身ごもっている胎児の父親は誰か。こうなると事情が少し変わり、(シュリダーマンの身体をもった)ナンダが自分こそその子の父親であると主張する。なぜなら「子供は体によってつくられるんだ、頭によってではないよ」(246)というのが彼のいい分だ。そして概ねこの事にシーターもシュリーダマンも同意しているように思える。

    これが哲学的に興味深いのは、人間の同一性の問題にかかわるからだ。その人がその人であり続ける最も重要な身体の部分はどこか、それは多くの人が頭部(脳)だと考えているだろう。

    しかし、親子関係は?社会制度の上ではこの場合、夫であるシュリダーマンが父親であることになるが、彼らの主調に従うなら、生物学上の父は、首のすげかえによってシュリーダマンからナンダに推移しているのだ。もしもこのような想像が許されるなら、親子関係とは一意に決まったものではなく、父親や母親がめまぐるしく変化するケースということも考えられる。

    しかしナンダの言い分は間違っているかもしれない。「子供は頭によってつくられる」とも考えられるのではないだろうか。なぜなら、強制による場合を除けば、性交は同意があってなされるものだからであり、それは本人の意志による判断だといえるからだ。子供は、意志の結果であるといっても構わないかもしれない。だが、やはり子供は特定の精子と卵子によって生まれると考えるとき、ナンダの主張はやはりもっともらしい。親子関係を取り入れた同一性問題はというのは、哲学的に興味深い問題をもたらしてくれるかもしれない。

  • 2編の短篇集。どちらも人間の肉体と精神の相克について、饒舌に語り尽す。その過剰なまでの饒舌さは、登場人物の対話であっても作者の自問自答であり、閉塞的でブラックジョークのようである。

    読み手が、世界や人間について真摯に求めている時は、マンはあまり向かないかもしれない。

  • ●だまされた女
    自然に従順に、感覚に誠実になった女。幸福を手にしたにもかかわらず、結果それは死に至らしめることに。なんとも。

    ●すげかえられた首
    精神か肉体か。
    精神が肉体よりも高尚であるという仮説は年齢の積み重ねを成長と捉える前提のもとで有効であって、僕はそちらを選択したい。

  • 表題作2篇、いずれの作品も高橋義孝訳で新潮文庫から出ているはずですが、手に入れにくいのでこの新訳で読みました。帯には、「エロスの魔力これぞ物語を読む醍醐味!」とあります。これはまた「ヴェニスに死す」(光文社古典新訳文庫では『ヴェネツィアに死す』)に関しても同じことでしょう。2作品の饒舌さ、は、この訳でじゅうぶんに味わうことができました。マン後期の作品については、これもいいのかも、と感じました。とても面白く読みました。でも、敢えて言います。少なくとも私は、新訳の『ヴェネツィアに死す』を必要とはしていない、と。解説や訳者あとがきにあるように、訳者自身による「いま、息をしている言葉で」という試みは成功していると思います。そのうえで、再び敢えて言うことが許されるならば、それが「20年後には息をしていない言葉」にならぬことを祈る、と。ひとつだけはっきり言うことができるのは、訳者が書いているように、これらの作品にはヴァーグナーの音楽が響いているはずなのに、私の耳には、これを読みながらヴァーグナーが聴こえてこなかった、ということです(ごめんなさい)。……、あれこれ考えます。あれこれ考える機を得たという一事をもってしても、この文庫シリーズの意味は大きい、と思います。感謝します。そこから先は、各々の問題です。

  • ところどころ流し読みしちゃいました・・・r( ̄_ ̄;)

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著者プロフィール

【著者】トーマス・マン(Thomas Mann)1875年6月6日北ドイツのリューベクに生まれる。1894年ミュンヒェンに移り、1933年まで定住。1929年にはノーベル文学賞を授けられる。1933年国外講演旅行に出たまま帰国せず、スイスのチューリヒに居を構える。1936年亡命を宣言するとともに国籍を剥奪されたマンは38年アメリカに移る。戦後はふたたびヨーロッパ旅行を試みたが、1952年ふたたびチューリヒ近郊に定住、55年8月12日同地の病院で死去する。

「2016年 『トーマス・マン日記 1918-1921』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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