歎異抄 (光文社古典新訳文庫)

著者 :
  • 光文社
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感想 : 34
  • Amazon.co.jp ・本 (161ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334751937

作品紹介・あらすじ

「アミダ如来はんにいただいた信心を、おれのもんやいう顔で取り返そういうのんは、ホンマにアホらしいことやで」。天災や飢饉に見舞われ、戦乱の収まらない鎌倉初期の無常の世にあって、唯円は師が確信した「他力」の真意を庶民に伝えずにいられなかった。親鸞の肉声、ここに蘇る。

感想・レビュー・書評

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  • 何度目かの読み直しである。今度は、全面関西弁なので、とりあえず最後まで読み通す。関西弁、良いと思うよ。そもそも文字を知らない庶民に親鸞の教えを広めるのが目的の書き物じゃけん、しゃべり言葉で伝わらんかったら、意味ねぇーけんな(←突然岡山弁)。

    (やはり元に戻して)「自力本願」に対する浄土真宗は「他力本願」。その他「悪人正機説」など、試験に出るから覚えていても、それを真から納得する者はいったいどれほどの人がいるのだろうか?わたしの家はそもそも真言宗なので、葬式の場面で「親は往生したのか」と自問自答したことはなかったのではあるが、何度か浄土真宗の葬式に出席していた時は、昔読んだ解説本や吉川英治・倉田百三・五木寛之の小説のことなどを思い返して不思議な気がした。

    1番の関門は、阿弥陀さまを信じるかどうか?
    「アミダはんのどんなしょうむない奴でも救うてやろういう本願がホンマやったら」回り回って、親鸞の言うこともホンマのはずや、と言うのが唯一の根拠である。‥‥分かったようで分からん。救うって、なんなん?極楽往生ってなんなん?

    2番目の関門は有名な「善人なおもて往生を遂ぐ、言わんや悪人をや」である。
    「善え奴でさえ往生する、ましてや悪人が往生するというのは当たり前のことやないかいな」
    これは理屈としては通っている。「悪人なおもて往生を遂ぐ、言わんや善人をや」と思っている輩は、それは未だ自力本願の気持ちが残っているからだ。悪人はそんなこと思わないから、悪人の方に阿弥陀様は心にかけてくれるだろう。そこまでは良い。
    では悪人にもいろいろ居るから、悪人からこう返されたら親鸞や唯円はどう答えるのか?
    「よっしゃああ!往生遂げるんなら、死ぬまでに思いっ切り悪いことしちゃろ!そして死ぬ間際に浄土真宗に帰依したらええねん」こういう輩が出るのは必定である。
    絶対出てくるこの意見に対して、実は歎異抄では明確に「邪見」と答えている(35p)。親鸞は手紙の中で「薬があるからというて、毒を好むちゅうのはおかしなことや」と言っていたらしい。ただし、今一つ説得力はない。五木寛之「親鸞」では、このことが大きなテーマになっている。

    歎異抄には、最大の難問が親鸞から唯円に挑まれている。唯円にとっても人生で大きな出来事だったのだろう、かなり具体的な会話である。

     また、ある時は、「唯円房は、ワシが言うことを信じるんか」と、聞かはりましたので、「もちろんですわ」というたら、「そんならワシの言うことに絶対そむかへんか」と、重ねていわはりますから、「もちろん、つつしんで承知させてもらいますわ」というた。「ほな、たとえばひとを千人殺せいうて、そしたら往生間違いなしやいうたらどうする」と聞かはりました。「いやあ、いわはることやけど、1人かてワイの器量では殺すなんてことはできしまへん」と申しましたら、「ほんなら、さっきはなんで親鸞のいうことにそむきまへんいうたんや」ときついことばや。
     これでわかるやろ。なにごとでも人や自分の心のままになるんやったら、往生のために千人殺せといわれたら、殺さんとあかん。そやけど、そんな業縁はないので、1人かて害することはできしまへん。自分の心が善うて殺さんちゅうことではないということや。
     また「害せえへんと思うても、百人千人殺すことかてあるんや」といわはった。おっしゃったのは、ワイらの自分の心で、善いことは善い、悪いことは悪いと思うことやなしに、願のフシギさに助けられておることを、知らずにいるちゅうことの教えなんやなあ。(34p)

    前半は会話記録、後半は唯円の解釈である。
    この唯円の解釈に対しては、おそらくさまざまな研究があると思うが、わたしは唯円は親鸞の真の狙いから逃げていると思う。自力本願を一切排するという立場を強調したいのだろうが、親鸞は源平合戦の最中に青春を送った人物である。また、兄弟子に熊谷直実(源氏の大将。子供のような平氏を殺したことで出家した人)も居る。「業縁」はないのではない。すぐそばにある。「その時、ワイは千人殺すのだろうか」と自問自答しなければならなかった。実際親鸞の後継を宣言している本願寺は、この理屈を通して信長と応戦「戦争」をしている。(参考「村上海賊の娘」)

    西洋、そして最近ではイラク戦争も、キリスト教の名前のもとに千人も万人も殺し、殺された。

    「業縁」は、人では判断できない。神が判断するのだ。と言って、逃げるべきではない。とわたしは思う。



  • 浄土真宗の教祖である親鸞。
    その直弟子の唯円が師である親鸞の思想がその死後に異なったものになることを歎じて書いた書と言われる『歎異抄』

    親鸞(1173-1262)は12世紀から13世紀にかけて生きた人物であり、今から750年以上も前の人物だ。

    驚きなのは、親鸞は弟子をとらない、としてこの本文中にも書かれてあり、
    また、大正時代のベストセラー本でもある『出家とその弟子』でも、このような形で描写されてあったが、その親鸞の教えである「浄土真宗」が今も尚脈々と受け継がれているということだ。

    唯円のように全てをなげうって、丁稚のような形で遍路をともにするものはいたが基本的には弟子達にお寺で大規模に教えるというようなことはなかったのではないかと見受けられる。

    そして、その教えを受け継いだのは親鸞の血族であり世襲によって引き継がれていくという点は興味深い。

    この浄土真宗における核となる思想「他力本願」は、信仰心をもち「南無阿弥陀」を唱えるとことで、学問や厳しい修行をできない人でも、救われるというもの。

    当時、学問的かつ厳しい修行を得てからでないと解脱はできず、普通の人にすれば仏陀へと至る道があまりに険しかった。

    そうであれば意味がないではないか、一般の人々に対しても門出をひらいてこその、この世の中ということで、自分の力で頑張るから救われるというパラダイムから、他人の力で救われるという他力本願を「南無阿弥陀」で作り出した宗派。

    その真髄を、
    唯円が語り口調で説いているのがこの書だ。

  •  昭和歌謡風に訳した『梁塵秘抄』が面白かったので、同じ川村湊が親鸞の『歎異抄』を関西弁に訳した(!)旧著を読んでみた。

     そもそも『歎異抄』を読むの自体初めてなので、わりと勉強になった(当然、原文もすべて載っている。意外に短いのだな。原文は文庫本で40ページ程度)。川村による長い解説も、理解を助ける。

     昔、小田嶋隆がコラムのネタで、“もしも関西弁で書かれた論文があったら、誰もその内容を信用しないだろう”という話を書いていた。
     
    《「わてが思うさかいにわてがおますのや」
     「引力ちゅうもんは質量に比例して、距離の二乗に反比例するんとちゃうやろか」
      誰がこんな論文を信用するだろう。(『我が心はICにあらず』光文社文庫)》

     もちろん、本書はオダジマのコラムとは違って、笑いを取るため関西弁に訳してあるわけではない。目に一丁字もない庶民にも仏の救いをわかりやすく説いた親鸞の意図に沿って、現代人にもわかりやすい訳を目指したものである。
     ……のだが、それでも読んでいるとけっこう笑える。関西弁効果で、全編にそこはかとないユーモアが流れているのである。

     たとえば、『歎異抄』で最も名高い次の一節の訳を見てみよう。

    《善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを 世のひと つねにいわく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや。この条、一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。》
     
    《善え奴が往生するんやさかい、ましてや悪い奴がそうならんはずがない。世間のしょうむない奴らは、悪い奴が往生するんなら、なんで善え奴がそないならんことあるかいなというとるけど、なんや理屈に合うとるようやけど、それは「ひとまかせ(=他力本願)」ちゅうモットーにはずれとるんや。》

     次の一節も、なかなかいい味出してる。「オカン」「オトン」て……。

    《親鸞は、自分のオカンやオトンの供養のためには、いっぺんも「ナンマンダブ」と念仏を唱えたことはあらしまへん。なぜかちゅうと、一切の心あるもんは、これはこの世・あの世のオカンでありオトンであり、人間みんな兄弟やからや。》

     もっとも、私のような門外漢には面白く読めても、真宗門徒のみなさんには「親鸞聖人への冒涜」と映るかもしれないが。

  • 今週おすすめする一冊は、親鸞の教えを弟子の唯円が書き綴った書
    『歎異抄』の現代語訳版です。現代語訳と言っても、本書は大胆に
    も、思いっきりくだけた関西弁になっています。「金剛」を「ダイ
    ヤモンド」と訳すなど、ちょっとそれはどうなの?と思うような部
    分もありますが、画期的に読みやすいことは確か。日本史の教科書
    の中でしか知らなかった『歎異抄』をあっという間に読めてしまう
    手軽さは、やはり新訳ならではでしょう。

    『歎異抄』というと、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人を
    や」というフレーズが有名ですね。「善人が浄土へ行けるなら、悪
    人だって行けるのは当然だ」という意味で、このような考え方を
    「悪人正機説」というのだと、高校の授業では教えられたよぅに記
    憶しています。それが親鸞の言葉だということも。

    親鸞は、法然の弟子です。法然は、南無阿弥陀仏の念仏すら唱えて
    いればいいという浄土宗を興しますが、その一門は、時の後鳥羽天
    皇に弾圧され、僧籍を剥奪された上で、越後(新潟)に流されます。
    親鸞、時に34歳。

    しかし、流浪の民として、越後に行ってからが親鸞の本領発揮です。
    親鸞は、出家した僧ではなく、一人の人間として、自ら土を耕し、
    農民たちと語らいながら、念仏の教えを広めていきました。越後の
    次は常陸(茨城)に移り、63歳で京都に帰るまでの期間をそうやっ
    て庶民の間で暮しながら、信仰に生きました。

    京都生まれの親鸞が、庶民に教えを伝える時の口調というのは、確
    かに本書のようなものだったのかもしれません。そういう意味では、
    本書の翻訳もあながち行き過ぎではないと言えるでしょう。

    平易な言葉で説かれる親鸞の思想は、しかし、決して易しいもので
    はありません。「自力」ではなく、「他力本願」で生きるというの
    は、頭ではわかっても実践はなかなかに難しい。親鸞は、人間の善
    悪の判断など、阿弥陀様という絶対の存在の前では無に等しいと言
    います。人間が自力で解脱しようとするのは、賢しら(さかしら)
    で浅ましい、「自分たのみ」ではなく、ただひたすら阿弥陀様のこ
    とを信じ、自分の力ではどうにもならないと念仏を唱える「人まか
    せ」の姿勢で生きる。それが幸福の条件なのだと言うのです。

    中途半端に自力を突き詰めていくと、他人の存在は不要になります。
    「自己責任」を言い続ければ、人と生きることの意味が自明でなく
    なるのは、いわば当然の帰結なのです。他人の存在が希薄になり、
    「自分」が肥大化した現代だからこそ、他力にすがる親鸞の言葉に
    もう一度耳を傾けてみるべきではないかと思うのです。

    自らの小賢しさに気づかせてくれる一冊です。是非、読んでみてく
    ださい。

    =====================================================

    ▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)

    =====================================================

    善え奴が往生するんやさかい、ましてや悪い奴がそうならんはずが
    ない。世間のしょうむない奴らは、悪い奴が往生するんなら、なん
    で善え奴がそないならんことあるかいなというとるけど、なんや理
    屈に合うとるようやけど、それは「ひとまかせ(=他力本願)とい
    うモットーにはずれとるんや。
    つまり、何でも自分の力でやろうと思うとる奴は、「お願いします」
    ちゅう気持ちの欠けている分だけ、アミダはんのいわはる誓いと違
    うとる。けども「自分たのみ(=自力本願)」という心を入れ替え
    て、まあ「あんじょう頼みます」と願うとれば、ホンマもんの極楽
    行きも間違いなしやで。

    親鸞は、弟子は一人ももってはおらへん。なぜかちゅうと、自分の
    意志やはからいでひとに念仏させたんなら、ワテの弟子やいうこと
    にもなろうが、ひとえにアミダはんのおぼしめしで念仏するように
    なったんやから、ワテの弟子やいうのんは、まったくもってオコガ
    マシイこっちゃ。

    念仏ちゅうもんは「(何かを)やろう」という作為性(=義)なし
    に「やる」ということなんや。

    「ナンマンダブ」と申すのも、アミダ如来はんのおはからいと思う
    て、ちっとも自分の力なんか混じらんからこそ、アミダはんの本願
    に応じて、ほんまもんの浄土に往生することができるんや。

    目に一丁字もない無学なもんで、お経のことも学問の筋道ちゅうも
    んも知らんものが、となえやすかろうと思うて、「ナンマンダブ」
    ちゅう名号がおわしますんやさかい、これを「易行」、アンキで簡
    単なやり方というんや。学問で何とかしたるちゅうのは、聖道門い
    うて、これは難行、ごっつう難しいやり方というんや。「間違うて
    学問して、名誉やの利欲なんぞにしがみついとるひとは、今度生ま
    れ変わったつぢの世での往生はどないなるかわらかへん」という証
    文(=証拠の経文)さえあるちゅうことや。

    こないなアミダはんの悲願があるからこそ、こんなあさましい罪人
    がどないしたら生死の苦しみから脱け出すこと(=解脱)ができる
    んやろと思うて、一生の間「ナンマンダブ、ナンマンダブ」と申す
    念仏は、ぜえんぶ如来はんの大悲への恩返しやで、その徳を有り難
    い、有り難いと感謝することや。

    すべてのいろんなことにつけても、往生には賢しらな考えなど持た
    ずに、ただほれぼれと、アミダはんのご恩がますます深いことをつ
    ねに思い出してみるべきや。そうすれば、自然と念仏も口から出て
    くるのと違いまっか。これが自然(じねん)の道理や。
    自分であれこれ考えないことを、自然ちゅうのや。これがすなわち
    「ひとまかせ(=他力本願)」ということや。それなのに、自然ち
    ゅうことが別にあるように、知ったかぶりをしてものをいう人がお
    られると聞いとりますが、ほんまにあさましいことやで。

    ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

    ●[2]編集後記

    ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

    この一週間は、靴に悩まされた一週間でした。

    先週の終末、久しぶりに靴を買ったのですが、それがどうしても足
    に合わない。買う時に、ちょっと幅がせまい気がしたのですが、必
    要性に迫られていたし、あれこれ選んでいる時間もないので、機能
    性と値段を優先して、その靴を買うことにしたのです。

    「これだ!」とピンときて買ったものではないですから、買った後
    も本当にこれで良かったのかと心にひっかかります。で、履き心地
    を試してみようと思って履いてみたら、やっぱり幅が狭いのです。
    紐をゆるめにすれば何とかなるかなと思っていたのですが、半日も
    履いているとどうしようもなく締め付けられ、足が痛くなってくる。

    合わない靴というのは、もうどうしようもないのですね。たいてい
    のことは調整すれば何とかなるし、時間が解決してくれもしますが、
    靴だけはどうにもなりません。それが悔しくて悔しくて。

    どうしても必要だったので、今週末、改めて買いにいったのですが、
    やっぱり「これ!」と思えるものがないのです。こんなにモノが溢
    れているのに、自分の今の必要を満たす一足に出会えないというの
    は一体どういうことなのかと頭を抱えるやら、腹が立つやら。

    今回は必要に迫られて買ってしまいましたが、やっぱり「これ!」
    と思えないままに買うのはいけませんね。喜びがないし、本当に正
    しい判断だったのかといつまでも尾をひきます。ピンと来るものに
    出会えなかったら、どんなに必要に迫られていようが、買ってはい
    けないのです。逆に、「これ!」と思えるものに出会えたら、金に
    糸目をつけずに買ってしまう。結局、ピンとくるかどうかが重要で、
    それ以外の情報や状況に惑わされてはいけないのでしょう。

  • 日々ありとあらゆるものに悩みぐらぐらふらふら迷っている自分だけど、この本を読んで、そんな自分でもいいのかなぁと思うことができた。

    自業自得という言葉があるけど、この本の中ではそんなものはなんら関係なく掬い上げる「アミダはん」の存在を諭していて、親鸞が語った様々な話に触れていくうちに、自分のどうしようもなさやあさましさを思い、こんな自分に関わってくれている周りのヒトモノセカイそしてそこから生ずる縁、全てに有り難いなという気持ちが湧いてきた。
    仏教の今生における目標は心の平安であるとしたら、この有り難いと思う心の状態というのは、とてもそれに近い気がする。
    愚かな自分を認めた先にそれをも大きく包んでくれている大きなもの(=アミダはん)に手をあわせたくなる気持ち(その気持ちを言葉であらわしたものが「ナムアミダブツ」なのかな)をただ持って生きればよいというシンプルな親鸞の教えは、文字が読めないなど当時の社会で強くない立場にいた人々にとって大きな救いとなったと想像できる。
    どんな苦しい状況でもアミダはんの本願の力に心から感謝をして、有り難い、有り難いと生きれば、死をも怖くはなくなる、というのもなんとなくわかる。
    幸せになるにはどうしたらいいのか?という率直な疑問に、難しいことは抜きで一直接にコミットした教えが他力本願なのかな。

    当時の農村の人々の目線で話を聴いているような、素朴な気持ちになれる読書時間でした。また苦しい時に再読していきたい。

  • 仏の教えとは寛容だなーと思いました。
    ナンマイダブと唱えれば善悪に関係なく阿弥陀様が救ってくれる…このユルさが現代でも受け容れられている所以なんでしょうか。

  • 浄土真宗、親鸞の弟子が書き残した親鸞上人の教え。法然上人の教えに親しかったので、ごく自然に読めた。現代語、しかも関西弁に訳されていて、本来あるべき平明さ、親しみ易さに通じていると思う。ただ関西人でもベタベタの関西弁で書かれると多少戸惑いもあるものの、堅苦しくなく、いいと思う。「お願いします」の心。大切にしたい。

  • 関西弁訳というのに惹かれて読んだ。
    堅苦しい印象がなく、すらすらうと読むことができた。
    「他力」ということがどういうことなのか、よくわかったような気がする。

  • ぼくは仏とか極楽といったものは信じてないし、この本自体も適当に解釈してるけど「ナンマンダブ」と一言念仏すれば、善人だろうが悪人だろうが救ってしまうという考えや、他力本願の考えは気持がゆったりしてくる。関西語訳も癖はあるけど、感覚で読めるかも。

  • 【本の内容】
    「アミダ如来はんにいただいた信心を、おれのもんやいう顔で取り返そういうのんは、ホンマにアホらしいことやで」。

    天災や飢饉に見舞われ、戦乱の収まらない鎌倉初期の無常の世にあって、唯円は師が確信した「他力」の真意を庶民に伝えずにいられなかった。

    親鸞の肉声、ここに蘇る。

    [ 目次 ]
    歎異抄
    歎異抄(原典)
    付録 親鸞和讃抄

    [ POP ]
    浄土真宗の開祖、親鸞(1173~1262年)の言葉を弟子の唯円が書き取ったとされる仏書を、文芸評論家の川村湊さんが現代語訳した。

    取り合わせが意外だ。

    しかも、当時の語りの雰囲気が出るよう関西弁風にしたという。

    「悪人正機」を唱えた有名な一節、<善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや>はこうなる。

    <善え奴が往生するんやさかい、ましてや悪い奴がそうならんはずがない>

    今年5月、パルコ出版から『ソクラテスの弁明 関西弁訳』(北口裕康)も出た。

    難しい書物を大阪風の語感で訳すのが、流行なのか。

    <往生には賢しらな考えなど持たずに、ただほれぼれと、アミダはんのご恩がますます深いことをつねに思い出してみるべきや>

    親鸞は、自分で考える「自力」を否定し、阿弥陀にすがり、念仏を唱える「他力本願」を説く。

    強い教えに引かれながら、「あかん……」。

    その境地に至るのはまだ早い気がした。

    [ おすすめ度 ]

    ☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
    ☆☆☆☆☆☆☆ 文章
    ☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
    ☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
    ☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
    ☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
    共感度(空振り三振・一部・参った!)
    読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)

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