純粋理性批判 (1) (光文社古典新訳文庫)

  • 光文社 (2010年1月13日発売)
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  • 本 ・本 (432ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334751982

感想・レビュー・書評

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  • 【はじめに】
    純粋理性批判第一巻(全六巻)には「序論・序文」と「超越論的な感性論」が収められている。

    【序論】
    本書は、「わたしたちのすべての認識は経験とともに始まる」から始まる。しかし、その経験を可能とするアプリオリなものは何かが形而上学をめぐる課題なのだ。「アプリオリな総合判断はいかにして可能か」、純粋理性批判はこのことを中心に展開されるといってもよい。
    「形而上学は、これまではたんに試みられただけの学であるにすぎないが、人間の理性の性格から考えて不可欠な学とみなされているかぎりでは、アプリオリな総合認識を含んでいるはずである。…形而上学は少なくともその目的においては、アプリオリな総合命題だけで構成されるのである。
    ....純粋理性のほんらいの<課題>は、アプリオリな総合判断はどのようにして可能となるかという問いを明らかにすることである。」

    カントはさらに、形而上学が解決すべき課題を次のように神と自由と不死と宣言する。この3つがいかにしてカントによって結論づけられるのかは後々の巻で明らかにされる。
    「純粋理性にとって避けることのできない課題とは、神、自由、不死である。この課題を究極の目的として、すべての準備をそなえて、ひたすらこの課題の解決を目指す学問を形而上学と呼ぶ」

    そして、この純粋理性批判が提案する「批判」を形而上学のための予備学として提案するのである。
    「わたしたちはこの仕事を、純粋理性と、その源泉および範囲を判定することだけを目指す、純粋理性の体系のための予備学とみなすことができる。この予備学は学説ではなく、たんに純粋理性の批判と呼ばれねばならない。そして思考にかんしては、この予備学はまったく消極的に利用されるものである。人間の理性を拡張するためではなく、純化するためだけに役立つもの、理性が誤謬に陥るのを防ぐものとなろう。これだけでもわたしたちには大きな利益となるものである。」

    カントは、認識する方法自体を考察する哲学を超越論的哲学とする。
    「わたしは、対象そのものを認識するのではなく、アプリオリに可能なかぎりで、わたしたちが対象を認識する方法そのものについて考察するすべての認識を、超越論的な認識とよぶ。そしてそのような諸概念の体系は、超越論的な哲学と呼ばれるべきであろう。」

    カントの時代、数学と物理学が西洋社会で大いに成功を収めていた。カントは形而上学をそのような自然科学と同じように学として確立し、基礎付けようとしていた。この序文にもその思いがあふれている。
    「これまでの形而上学の手続きを変革しようとするこの試み、しかも幾何学者と自然研究者の手本にならって、形而上学の完全な<革命>を実現しようとするこの試みこそが、思考する純粋な理性の批判という本書の目指すところである。」

    そしてカントは、理性によって慎重になされた吟味によって、道徳的な世界を基礎づけることができることを確信しているのである。
    「純粋理性の実践的な使用(道徳的な使用)というものは絶対に必然的なものであることを確信している。
    ...ただ<批判>だけが、唯物論、宿命論、無神論、さらには自由思想家の不信仰、狂信や迷信など、一般に有害なものとなりうるさまざまな思想を、その根元から廃絶させることができるのであり、さらには公衆のもとにまで浸透することは少ないが、諸学派にとっては危険な思想である観念論と懐疑論なども、根絶し得るのである。」

    【超越論的な感性論】
    カントは序論で論じた超越論的哲学について考察し、同時代の哲学者を含む読者に対して提示していく。その端緒としてまずは超越論的な感性論について論じている、。これは認識の形式として、感性と知性[=悟性]を置き、理性を働かせる基底としての議論を先行させていく。
    「対象について思考することができる能力は知性[=悟性]であり、この知性から概念が作られる。しかしすべての思考は、まず直観と、すなわちわたしたち人間においては、感性と関係するのであって、それが直接に(じかに)であるか、ある迂回路を通って特定の<特徴>を通じて間接的にであるか、は問わない。ただしそのほかの方法で、わたしたちに対象が与えられることはない」

    【超越論的な感性論 - 空間】
    「すべての現象の<素材>はわたしたちにアポステオリに与えられるのだが、[現象が与えられる]その<形式>はすでにわたしたちの心のうちにアプリオリに与えられている[のであって、これによって感覚が生まれるのでなければならない]。だからこの形式は、すべての感覚とは別に考察できなければならない」
    カントはその感性の形式は、「空間」と「時間」であるとする。まず、「空間」は次のようなものと規定される。

    「(一) 空間は人間の外的な経験から引きだされる経験的な概念ではない…
    (二) 空間は必然的でアプリオリな像であり、すべての外的な直観の土台となるものである…
    (三) 空間は、事物一般の関係についての論証的な[すなわち言葉で説明できるような]概念ではないし、よく使われる表現で言えば、[事物についての]一般的な概念でもない。空間は純粋な直観なのである…
    (四) 空間は無限の与えられた大きさとして、心に思い描かれる。…

    「空間は外的な感覚に現れるすべての現象にそなわる形式にすぎない。空間は、人間の感性の主観的な条件であり、わたしたちはこの条件のもとでのみ、外的なものを直観できる。主体は対象から触発されるという受容性がそなわっているが、主体が客体を直観する前に、つねにこの受容性が先立って存在していなければならない。ここからすぐに理解できるように、すべての現象の形式[である空間]は、いかなる現実的な知覚よりも前に、心のうちにアプリオリなものとして存在していなければならないのである」

    そして空間のうちで直観されるものは「物自体」ではないとして、人間の感性は決して物自体に届くことはないとする。この「物自体」についてはのちに「自由」の存在の議論で想定していない形で再び議論に顔を出す。
    「空間のうちで直観されたものはどれも物自体ではないし、事物そのものに固有の形式などでもないのである。また、対象そのものはわたしたちにまったく知られていないものであり、わたしたちが外的な対象と呼んでいるものは、人間の完成が思い描いた心像にすぎないものであり、この感性の形式が空間なのである。人間の感性が思い描く像に真の意味で対応するのは物自体であるが、これは空間という形式によっては まったく認識されず、認識されえないものである。物自体は経験においてはまったく問われないのである」

    【超越論的な感性論 - 時間】
    空間に対して、感性の形式としての時間は「時間はすべての現象一般にそなわるアプリオリな形式的な条件である」として、次のように規定される。

    (一) 時間は何らかの経験から引きだされてきた経験的な概念ではない。時間という像[=表象]がアプリオリなものとして土台となっていなければ、同時存在ということも、継起的な存在ということも、まったく知覚できないはずである。このような時間という像を前提としなければ、いくつかの事物が同じ時点において(同時に)存在することも、異なる時点において(契機して)存在することも、心に思い描くこともできないのである。
    (二) 時間はすべての直観において土台として利用される必然的な像である。さまざまな現象を時間から外して考えることはできるが、現象一般から時間そのものを取り去ることはできない。だから時間はアプリオリに与えられているのである。さまざまな現象が現実性をもつのは、時間においてのみ可能なことである。
    (三) 時間にこのようなアプリオリな必然性があることに基づいて、時間の相互的な関係を規定する必然的な原則が可能となるのであり、時間の公理一般が可能となるのである。時間には一つの次元しかない。だから複数の時間が存在する場合には、それは同時に存在することはできず、継起して存在するしかない
    (四) 時間は論証的な概念ではないし、一般的な概念と呼ばれるものでもなく、感性による直観の純粋な形式である。
    (五) 時間が無限であるということはたんに、時間の長さを規定するためには、その土台となっている単一の時間に制約を加えることが必要であるということを意味するにすぎない。時間の根源的な像は、何によっても制約されていないものとして与えられていなければならない。

    この時間は、「自己」というものとも深く結びついていることが指摘される。
    「時間は内的な感覚能力の形式に他ならないのであり、わたしたちは時間という形式において自己自身と、自己の内的な状態を直観するのである」

    そして、時間と主体としての内的直観との相互の結びつきがおそらくは正しくも指摘されるのである。
    「時間は客体として現実的なのではなく、わたし自身を客体として心に像を思い描く方法にかんして、現実的なのである。
    ...時間に絶対的な実在性を認めることはできない。時間はわたしたちの内的な直観の形式にほかならないのである。時間からわたしたちの感性のこの特別な条件を除去したとすると、時間の概念もまた消滅するのである。時間は対象そのものに依存するものではなく、対象を直観する主体だけに結びついているのである」

    空間と時間を所与のものとみなした上で、認識が生まれるためのロジックを次のようにまとめる。
    「このように空間と時間は、認識が生まれるための二つの源泉であり、この源泉から異なった種類の総合認識をアプリオリに導きだすことができるのである。
    ....空間と時間は、わたしたちが[対象を]知覚するためのこうした方法の純粋な<形式>であり、感覚一般がその<素材>である。わたしたちは空間と時間だけはアプリオリに、すなわちすべての現実の知覚に先立って認識することができるのであり、そのために空間と時間は純粋な直観と呼ばれる。アポステリオリな認識、すなわち経験的な直観と呼ばれるものを作りだす。
    空間と時間は、わたしたちの感覚がどのような種類のものであるとしても、わたしたちの感性に絶対的かつ必然的に付随するものである」

    カントは最後に次のように超越論的感性論をまとめ、それが「アプリオリな総合認識はどのようにして可能になるか」という問いの条件だということを示すのである。
    「この超越論的な感性の理論においてわたしたちは、超越論的な哲学の普遍的な課題、すなわち「アプリオリな総合認識はどのようにして可能になるか」という問いを解決するために必要な一つの条件を示すことができた。それは、空間と時間というアプリオリで純粋な直観[が人間にそなわっていること]である」

    【まとめ】
    この序文・序論からは、この本(プロジェクト)で目指す目標とそれに対するカントの熱い思いがあふれていて、何度か読み返しても気持ちとある種の責任感が伝わってくる。個人的にも18世紀の哲学者の言葉が響いてくるのが少し驚きでもあった。
    自然科学(物理学、数学)の成功を受けて、カントは哲学も同じように基礎づけられ、同じように学問として確立されなくてはならないという一種の焦りと興奮がない混ざった意志が伝わってくるようである。コペルニクス的革命を哲学の世界にも起こすのだと。
    「純粋理性にとって避けることのできない課題とは、神、自由、不死である」とカントは最初に宣言する。これはこの本の中で明確にカントなりの「答え」を準備している。あるいは、その「答え」を論拠立てて示すことが言い換えればこの本の目的でもあるのかもしれない。なぜならそこからカントは道徳哲学をき築き上げ、西洋社会の「倫理」の源流となるものがここにあるとも言えるのである。カントが哲学史の中で大陸合理論とイギリス経験論を統合し、後の西洋哲学の礎となったとなぜ言われるのかが初めて府に落ちた。

    そして、最初に本論の置かれた感性と知性の定義である(これまでは「悟性」と訳されることが多かったが、この版では「知性」と訳されている)。われわれの認識がいかにして可能になるのか、そのためのアプリオリな条件は何であるのかを整理したものである。ここで感性と知性を現在の神経生理学的観点で言い換えると、感性は各種感覚器官が生み出す神経パルスを受信する神経生理学的能力であり、知性はその神経パルスを受け取り、フリンストンの自由エネルギー最適化の法則に沿って認識の学習をする脳神経静学的能力であると理解することができるだろう。この二つの能力はセットであり、どちらが欠けても認識は成立しないということも当然のことと理解できるだろう。その中で時間が重要なのは神経パルスが順序をおって到達するからであり、そこから時間は生まれるし、時間が認識のアプリオリな条件となるのである。また空間についても視神経を主な入力として神経パルスを空間を前提として予測することがもっとも理に適っているからである。空間のように認識することが最適であるがゆえに人間は空間を認識すると言い換えてもいいかもしれない。カントの優れた点はこういった具体的な機構がわからない中であっても論理的にそのような機構が成立しているはずだということを哲学的思考の中で結論づけたことだと言っていいだろう。

    ここでの超越論的感性論は、この後の議論の基礎前提となるものであり、議論の道具立てであり、そうであるがゆえに必要であったということができる。特に物自体を前提として、感性と知性ではこの物自体に到達することはできない、という有名なテーゼを高校の倫理でも習ったが、このテーゼがなぜ必要なのかは習うことはなかった。カントはこれがこのあとの議論、神、自由、不死の議論、に必要だからこそここでその概念を導入したのである。それがわかるのは後の章のことだが、あらためて純粋理性批判という書が論理的にしっかりとした構造をもった本であるということがわかるのである。

  •  まさかこの年でカントを読み始めるとは思ってもみなかったが、最近読む本読む本にやたらカントへの言及があり、そんなら一度読んでみようと決めた次第。訳書の中では最も平易だという触れ込みのこの光文社古典新訳文庫を選んだが、それでも僕には超難解。本文は全体の約半分しかなく、残りは訳者による頗る丁寧な解説が占めているという相当に親切な作りだが、それでも1回読んだだけでは殆ど理解できず。予め簡素な入門本を読んだ上、本書の本文と解説を何度も何度も行き来しつつ自分なりの読書ノートを作ってもまだよくわからず、最後に詳細な解説本を読んでようやく何となく、といったところ。通常の4、5倍は時間をかけ文字通り四苦八苦しながらやっと最後まで読み通した。

     何がわからないといって、まず題名からしてよくわからない。理性を「批判」とは?普通に考えれば批判とは否定的に検証するといったような意味だから、理性の存在基盤を疑おうということか?と思えばそうではなく、理性そのものの本性を対象として純粋に(超越論的に)批評を加えよう、という意味らしい。
     章立てもよくわからない。「感性論」などはまだいいが、「分析論」とか「弁証論」となると内容と章題とのつながりが相当に希薄であるため、読んでいてこの章がそもそも何を論じているのかすぐにわからなくなってしまうのだ。
     
     本第1文冊は人間の直感がどのように成立するかを論ずる「感性論」だが、ここでいきなり爪づく。本書解説でも触れられているが、空間・時間の「形式」としての存在様式が、客観的普遍性を担保する経験的な「実在」でありながらも同時に(超越論的ではあるにせよ)主観的な「観念」でもある、というカントの論理は逆説的で極めて分かりにくい。これは「批判」内で何度も立ち現れてくるテーマでありながら、その度に混乱させられることになる。この直感を支えるパブリックなプラットフォームとしての空間・時間の実在性がカントでは曖昧に処理されているため、空間-時間を橋渡しして自己の意識をメタ的に意識するという「統覚」の所在も今ひとつピンと来ないままだ。確かに、アインシュタインを経由した現在では、空間と時間に絶対性はないが、その歪みが実体的に電磁波や物体に影響を与える実在だということになっている。ただそうなると、今度はその時空の実在性をアプリオリに把握して直感を受領してしまうこの奇跡的な人間の感性の正体とは何なのか、というカント的地平に容易に引き戻されることになるのだろう。なるほどこれは一筋縄ではいかない…

     というわけでやっと7分の1。先は長い。

  • 「ビッグバンが宇宙の始まりだって言うけど、その前に何か原因がなければビッグバンも起こらなかったんじゃないかな?」
    「神とは、完璧なものである。ところで、存在しないものは完璧ではない。つまり、神は存在するのだ!……本当に?」
    「心ってなんだろう?心は脳とは違うの?」

    考え出したら夜も眠れないような問題が、この世界にはたくさんあります。そうした簡単には答えが出ない(でも大切だと思われる)問いを探求し続けてきたのが、何を隠そう哲学なのです。こう言うと、カッコイイ気もしますが、実際には様々な主張が飛び交うばかりで決定的な解答は出ず、堂々巡りだったり単なる屁理屈に陥ってしまうこともしばしば。うーん、カッコワルイ。

    このような哲学に特有の困難を自覚していた18世紀ドイツの哲学者カントは、私たちの「理性」という能力を吟味することで、人間の認識の可能性とその限界を見定めようとしました。その成果こそが、哲学史における最重要著作の一つとされる『純粋理性批判』に他なりません。本書において、カントはそれまで議論され続けてきた重要な哲学的諸問題に対して、一つの決定的な解答案を与えることになります。

    そこで論じられることになるのは、時間と空間、心、世界に始まりはあるのかどうかという問い、神の存在証明などなど。こうした課題にカントは、「そもそも私たちは、どのようにして世界を認識しているのか」という観点から切り込んでいきます。難解な部分も少なくないですが、カントの思考過程・問題の解決は、きわめてエキサイティングで、面白い。そして何よりも、本書で述べられる思想は決して色あせず、今日においてもなお私たちの物の見方に影響を及ぼしうる意義を有しています。いずれにせよ、挑戦するに値する著作であることは間違いないでしょう。

    最後に、翻訳について。カントの文章は難解なことで知られ、従来の邦訳は「ドイツ語は正確に訳してあるが、意味が分からない」というものが大半でした。しかし、今回紹介する中山訳は、徹底的に分かりやすさを追求したもので、「普通に読み通すことができる」という(カントの著作に触れたことがある人にとっては)驚くべき名訳となっています。カントの思想に触れたい、『純粋理性批判』に興味があるという方は、ヘタな解説書を読むよりもこの翻訳(解説も充実しています)をいきなり読むべきでしょう。そして、この翻訳が学問的に十分ではないと感じるようになったら、他の邦訳ではなくドイツ語の原文を読むことをオススメします。
    (ラーニング・アドバイザー/哲学 KURIHARA)

    ▼筑波大学附属図書館の所蔵情報はこちら
    http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=1377576

  • 人間は事物をありのままの姿で認識できない。自分の五感を信じるな。事物の本質は分からないのに、分かると考えるから心の平静が乱される。あらゆる物事の判断を控えるように。ピュロン

    あらゆる知識は「たぶんそう」なのであり、絶対確実なものはない。自分は間違えるかもしれないという謙虚な姿勢と生活をより良いものにする改善の精神が大切。ヒュームHume『人間本性論』1739

    人間はすべてを認識できない。人間を離れた世界、経験を越えた世界(死後に霊魂は残るか・神の存在)については認識できない。これらは認識の対象ではなく、希望や信仰の対象。人間は目や耳などの感覚を使って経験できる範囲の世界(現象)のみ認識できる。▼私たちが外にあるものを認識すれば、それがまさしく私たちの主観や意識から独立してそこにあるもの、というわけではない。人間は五感で対象をとらえた後に、その対象を分析・判断している。事物を受動的に受け取るわけではない。自分の主観の枠組みに対象を当てはめて理解している。感覚的な印象に思考の枠組みを当てはめている。主観が先にあり、それに経験したことを当てはめている。イマヌエル・カントKant『純粋理性批判』 1781

    イマヌエル・カントKant『プロレゴメナ』1783

  • ああ、あと六巻...
    "対象は認識に従う"は、はじめてちゃんと読むとガツンと来た。
    人は生まれながら持っている型のようなモノを頼りに外界と接しているのだろうか。。。

  • 岩波文庫版で相当昔読んだカント、再読しようと思っていたら、岩波版の訳は誤訳だらけと誰かさん(というか、中島義道)が言っていたので、やむを得ず新訳文庫でそろえ直すことにした。
    こちらの訳者中山元さんは、私もこれまでいろんな翻訳を読んできたし、信頼している方だ。なるほど読みやすいが、「悟性」が「知性」になっていたり、昔の翻訳とはいろいろに変わっていて、ちょっと戸惑ってしまうかもしれない。
    岩波文庫では全3巻に収まっていた『純粋理性批判』が光文社古典新訳文庫ではいきなり全7巻になってしまったのは、活字が大きいのと、各巻に1冊の3分の1強くらいの分量の「解説」を入れたからだ。
    この「解説」は、きっと初心者用に、カントの言説をやさしくかみ砕いて説明してくれているのだろう、と予想していたが、まるでそういうものではなかった。
    カントの本文には書かれていない背景や、他の哲学者との比較など、むしろ「知識を拡大するための解説」になっている。
    本巻(超越論的な感性論)あたりはカントの本文も難しくなく、むしろ先を読みたい気持ちが強くて、この「解説」は余計なものに感じた。
    大昔に読んだカント、なぜ「アプリオリとアポステリオリなんていう区別にこだわるんだろう」とかつて首をかしげたものだが、今回読み直してみて、確かにその疑問(「経験」なるものをキーワードにして人間の知的認識をふたつに分離しようという設定の不思議さ)は残らないわけではないが、このようにして厳密な哲学を、この時代にいきなり登場させたカントは、やはり抜群の存在だと思った。
    さて続きをどんどん読もう・・・

  • この本は色々な2つのことが対比して述べられている。アプリオリ(経験から独立)とアポステリオリ、分析的と総合的、空間と時間、知性と理性、必然性と普遍性、それらの違いは何かを抽象的に考えさせられる。そもそも本書は哲学書だからだ。先天的、超越論的、誤謬、デカルト、ライプニッツ、実在性とは何かを深く考えていかないといけないと感じた。

  • 長い解説のおかげでなんとなく理解できた。
    アプリオリとアポステリオリ。
    アプリオリとは、その事象を経験する前から、他の経験や知識を通じて、その経験を理解していること。アポステリオリは、経験しないとわからないこと。
    時間と空間についてはアプリオリなものとして挙げられる。しかし、時間や空間は生まれたときから認識しているのだろうか。これには疑問を覚えた。
    また、神の概念は避けがたいらしく、カントも持ち出してくる。神の概念を述べなければ、哲学というものは大きく違ったのではないだろうか。
    それにしても面白い本だ。理解できたとはとうてい言えないが。思考の訓練に役立つ。

  • 134-K-1
    文庫(文学以外)

  • 導入部分のみ、第2巻から本格展開。やはり難解。コメントは前回読了後。

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著者プロフィール

1724-1804年。ドイツの哲学者。主な著書に、本書(1795年)のほか、『純粋理性批判』(1781年)、『実践理性批判』(1788年)、『判断力批判』(1790年)ほか。

「2022年 『永遠の平和のために』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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