- 本 ・本 (432ページ)
- / ISBN・EAN: 9784334752040
感想・レビュー・書評
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【はじめに】
超越論的な感性論に続いて、第二巻と第三巻では超越論的な論理学、つまりは知性[=悟性]に関することがらについて論じられている。第二巻では知性の諸概念、つまり「カテゴリー論」が展開されている。
【超越論的な論理学】
カントは知性を感性によって得られた対象を「思考する」能力であると位置づける。
「わたしたちの心が何らかの形で触発されたときに、心のうちに像をうけとる能力が受容性であるが、この受容性を、感性と呼ぶことにしよう。これにたいして心には、みずから像や観念を作りだす能力も存在しているが、これは認識の自発性であって、これを知性[=悟性]と呼ぶことにしよう。...知性とは、感覚器官が直観した対象を思考する能力である」
カントは、論理学とは知性一般の規則の学であるという。これはその時代までに一定の成熟度に至っていた論理学を哲学の正解、とくに施行する能力である知性の諸概念を漏れなく説明するために援用するものである。
「感性論は、感性一般緒規則の学であり、論理学は知性一般の規則の学である。」
【超越的な論理学 - 概念の分析論】
カントは超越的な論理学を概念の分析論(カテゴリー論)と原則の分析論の二つに分けて論じている。まず検討の俎上に上げられるのが判断機能の分類であり、量、質、関係、様態の4つの部門に分類してみせる。
「判断一般について、そのすべての内容を無視して知性のたんなる形式だけに注目すると、判断における思考の機能が、大きくわけて四つの部門に分類できること、そしてそれぞれの部門には三つの判断要素が含まれることが分かる。」
カントは感性から得られる多様な素材と、その素材を統合する想像力に加えて、この総合に統一性を与える諸概念(=カテゴリー)が必要だと論じる。
「すべての対象をアプリオリに認識にするために必要とされるものが三つある。第一に必要なのは、純粋な直観において[像の]多様なものが与えられていることである。第二に必要なのは、この多様なものを想像力が総合することである。しかしこれではまだ認識は生まれない。ここで対象を認識するために必要な第三のものは、この純粋な総合に統一性を与える諸概念[純粋知性概念]である。これらの諸概念は、必然的で総合的な統一を作りだすものなのである。これらの諸概念を与えるのが知性の仕事なのである」
このカテゴリーはカテゴリー表という形で判断と同じく量、質、関係、様態の四つの部門と三つの要素に整理されている。
「この表は、[すでに述べた純粋な]<総合>に根源的に含まれる純粋な概念をすべて列挙したものである。知性はこれらの概念をアプリオリな形でみずからのうちに含んでいるのであり、まさにそのためにこうした知性は、純粋な知性と呼ばれるのである」
カントは知性による結合の先に、自己意識として統一されることを最高の原則としている。
「知性そのものは、アプリオリに結合する能力であり、与えられた多様な像を、自己統合の意識の統一のもとにもたらす能力であるにすぎない。自己統合の意識のもとに統一されるというこの原則こそが、人間のすべての認識の最高の原則にほかならない」
ここで、デカルト以降の「「わたしは考える」というテーゼについて、いかにしてこの自己意識であるわたしは考えるという像が生み出されるのかを説明している。
「わたしは考えるということは、わたしが心の中で思い描くすべての像に伴うことができるのでなければならない。それでなければわたしが考えることもできないものまでが、心の中で思い描かれることになってしまうが、それは不可能であるか、少なくともわたしにとっては無にひとしいものだろう。すべての思考に先立った与えられうる像は直観と呼ばれる。だから直観に含まれるすべての多様なものは、この多様なものが発生する主体におけるわたしは考えるということと、必然的に結びついている。しかしこのような像が生まれるのは、人間の自発的な営みによってである。そして[感性は受動的な働きだけをすることを考えると]この像は、感性に属するものと考えることはできない。
わたしはこの像を[感性による]経験的なものと区別するために、純粋な自己統合の意識[=統覚]と呼ぶことにする。これはあるいは根源的な自己統合の意識とも呼べるが、それはこれが、わたしは考えるという像を生みだす自己意識だからである」
....わたしはこの[自己統合の意識のける]統一をさらに、自己意識の超越論的な統一とも呼ぶ。それはこのような統一をさらに、自己意識の超越的な統一とも呼ぶ。それはこのような統一によってこそ、アプリオリな認識が可能となることを示すためである。特定の直観において多様な像が与えられうるが、これらがすべて一つの自己意識に所属するものでなければ、こうした多様な像がわたしの思い描いた像であると語ることはできないだろう」
そして、自己意識による統一こそが知性そのものだという。
「自己統合の意識による総合的な統一は、すべての知性の利用における最高点であり、すべての論理学と、それについで超越論的な哲学が到達しなければならない最高点である。そしてこの能力こそが、知性そのものなのである」
ここで超越論的な感性論の「感性」と超越論的な論理学の「知性」が相まって自己統合の意識の統一が生まれるのかを次のように説明する。
「超越論的な感性論が明らかにしたところでは、<感性>による直観が可能であるための最高の原則は、直観に含まれるすべての多様なものが、空間と時間という形式的な条件にしたがうということだった[これが第一の原則である]。そして<知性>に関するすべての直観が可能であるための最高の原則は、直観に含まれるすべての多様なものが、自己統合の意識の根源的で総合的な統一の条件にしたがうということである[これが第二の原則である]」
【まとめ】
感性と知性[=悟性]のどちらが優位なのかを問うて、次の有名な言葉が語られる。
「内容のない思考は空虚であり、概念のない直観は盲目である。」
この第二巻の超越論的分析論では感性と知性がどのように共同して働いて認識を生み出すのかを説明している。ここでかなりの分量を使って説明されるカテゴリー論はなぜこれがアプリオリに規定されていて、さらにこの4 x 3の12の要素が漏れなく重複なく知性の概念をカバーしているのかを論理的に納得することはできなかった。おそらくは、アプリオリに備わったこの能力が存在し、それによって認識が生まれるということがより根源的に重要なことなのだろう。そして、今ではこういった知性のカテゴリーではなく、より基本的な原則、つまりは自由エネルギー原理やベイズ理論による脳のシナプスの環境予測の働きによって今あるような認識が生まれるとする説の方が有力だともいえるだろう。
一方で、カントの超越論的分析論が正しいかどうかはある種の観点、特に自分が興味を持つ観点、からはさして重要ではないのである。人間の認識がこのように神の超越者を持ち出すことなく説明可能であるとすることがより重要なのである。そのことが、この後の議論を支えるのであって、カテゴリーの正しさではないのである。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
カント。
昔大嫌いだった。
でも、今は好き!
こんなふうに物事を考える彼の後ろ姿をみたかった。
恐らくその光景はどんな文章でも表現できないだろう。
カント。孤独の哲学者。
合理的なリズムで踊る文体。
こんなふうに私の感性と知性が絡み合うのです。
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前巻で「感性」を扱ったので、この巻からテーマは「知性」(悟性)。
「判断表」「カテゴリー表」なるものが出てくる。これらが「完全なもの」とはまったく思えないのだが、その後に続く思考が素晴らしい。
「[現象において観察される]諸法則は、こうした現象そのもののうちに存在しているわけではない。たんに知性をそなえて[観察して]いる主体にたいして存在しているのであり、これらの現象はこの主体のうちに宿っているだけなのである。」(P.170)
こうしたカントの認識論は、まっすぐ20世紀のメルロ=ポンティまでつながっていくものであり、実に重要である。
「わたしたちは、いつかわたしたちの認識のうちに登場する可能性があるすべての像について、わたしたち自身がつねに同一であることを、アプリオリに認識している。
この[自己同一性の]意識はすべての像を可能にするための必然的な条件として意識されるのである。」(P219, 初版の文章)
ここで言われる統覚、同一性は、20世紀個人心理学でいう「アイデンティティ」のことではなく、つまり個体としての自我ということでなく、自己と共に存在している「世界」との「あいだ」、その刹那に「ともにある」すべての事象が直面する知覚の「パースペクティヴ」の同一性(統合性)と解釈する限りで、正しいと思う。
それにしても、巻末の訳者の長大な解説は、今回も余計なものに感じた。そう思っているのは私だけなのだろうか・・・ -
第一巻に続いて、論理学の原理論。この巻を暗記するぐらい理解しておかないと、あとのことが全く判らないというぐらい重要な巻です。
中山元さんの解説も良く、踏ん張りがいのある作りになっていると思います。
この中山元訳のカントは、これまでの翻訳と違い、理解をうながす構成になっているのが良いところだと思います。
何度もチャレンジして挫折した人には、ああ、こうゆう構成で書かれていたんだと、何度となく納得できるようになるのではないだろうか。 -
この本で強調されていた2つの事項の対比ー感性と知性、分析と総合、アプリオリとアポステリオリ、主体と客体、原因と結果だ。世の中の多くの事は2つの比較で考えられることが多いからだ。超越論的認識、形而上学、ロック、ヒューム、自己統合、カテゴリー、弁証法、実体の根拠付け、親和性、ものごとを抽象化して考えるくせを付けないといけない。
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むずい
評価できず -
非常に難しい。
理解できたことはほんのわずかだった。
カントは時間と空間をアプリオリなものとして前提しているが、この前提がまず納得できていな。人間はうまれたときから時間と空間を認識しているのだろうか。成長過程において認識するのではなかろうか。
今回も書籍の半分程度を中山元による解説が占めている。
これがなければ、理解は難しい。この解説があっても、ほとんど理解できないのだから。
人間は、連続した時間を認識して生きている。過去と現在がつながっているものだと認識している。それがなければ、音楽は理解できない。今聴いた音が、次の瞬間には過去になる。その音を記憶したうえで、その次に来る音とのつながりを理解する。その繰り返しによって、人間は音楽を理解する。つまり、人間がなにかを理解するためには、過去・現在・未来という時間の流れを認識している必要がある。
カントが述べるところによると、三段論法は、個別の事象を説明するだけで、普遍的な物事を説明することができない。アリストテレスは人間である。人間は必ず死ぬ。だからアリストテレスは死ぬ。のように。アリストテレスについて語ることはできても、人間全体について語ることはできない。
また、たとえば、庭を眺めていて、そこにケヤキがあることを認識するためには、木という概念をしらなければ、目の前には緑の塊があるだけで、地面とケヤキを区別することもできない。など。
要するに、人間がなにかを認識する際に、人間の中でなにが起きているのか、ということを分析していくのが、本書なのだろう。
難解であるとはいえ、こういう思考の流れに触れることで、頭を使う。自分なりに理解しようとする。カントはなにを考えているのかとか、この理論は果たして正しいのだろうかとか、そういう風に考えることで、読者も成長していく。それが哲学の面白さだ。 -
感性を扱った第1分冊に続く本書では、主に人間の認識における知性の役割に焦点が当てられる。ちなみにこの中山訳では「悟性」ではなく一貫して「知性」が使用されている。
哲学というものは往々にしてそうなのだろうが、用語の使用が一般のそれと全く乖離しているために用語を見ただけではそれが意味するところを把握しづらいところがあるが、本分冊では特にこれが目白押し。何度読んでも「判断力」と「想像力」の違いや、「総合」とか「統覚」の関係性が頭に定着せず、その度に定義を確認する羽目になる。
極め付けは頻発する「根拠づけ」という言葉。流石にわかりづらいと考えたのか、訳者も解説に多くの紙面を割いているがそれでもピンとこない。訳者によれば、ここで行われているのは直訳の「演繹」ではなく「権利問題」、つまりカテゴリーにより生ずる客観認識の場合ならば、感性・知性・理性のどれがその認識を生じさせるかについての「権利」=「権限」を有しているのかが論じられているのだという。これは直感的には極めて理解しにくい。それならもっと字面から意味がはっきりわかる言葉にしてくれればいいのだが…。
なお本分冊の「純粋理性批判」全体の中の守備範囲はさほど広くない割には、解説の記述量が多く丁寧な説明がされている。やはり経験に基づく判断によりカテゴリーが理解されるのではなく「カテゴリーを用いた経験の統合が客観的判断そのものを可能する」という例の転回が、「批判」の前半の大きな山場となるからだろう。ここのところは多くの例示を用いられていることもあり割と理解しやすかった。ロックやヒューム的な経験論との対照も鮮明でわかりやすい。 -
134-K-2
文庫(文学以外) -
やはり難解。知性の考察の巻
著者プロフィール
イマヌエル・カントの作品





