ダロウェイ夫人 (光文社古典新訳文庫 Aウ 3-1)

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  • Amazon.co.jp ・本 (377ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334752057

作品紹介・あらすじ

6月のある朝、ダロウェイ夫人はその夜のパーティのために花を買いに出かける。陽光降り注ぐロンドンの町を歩くとき、そして突然訪ねてきた昔の恋人と話すとき、思いは現在と過去を行き来する。生の喜びとそれを見つめる主人公の意識が瑞々しい言葉となって流れる画期的新訳。

感想・レビュー・書評

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  • のどかで平和なロンドンの一日。夫人は、パーティーの準備のための時間を気にしながらの買い物をする。そこにすがすがしさがある。ただ気がかりなのは、大物と結婚する前に交際していた人のこと。その頃のほうがどちらかといえば若い時期だし、のうてんきだった。それがよかったのだが、こういうことになり、今は兵士として傷ついたりして、その人はおそらくはPTSDのようになり暮らしている。という話だったと思うけど、これは夫人自身の光と影なのだ。終わり頃パーティーで、娘が出てきて、ある意味これは一般的娘論の本という読み方も出来るだろう。

  •  慣れてくるまでは読みにくい文体だと思う。予告なしで主人公目線が変わったり三人称になったり、読みやすいというルールを完全に無視しているからだ。でも、「作者よがり」になっていない。退屈しない。すべてがリアルタイムであり、少しずつ物語が交わり、臨場感がある。見事な小説だと思う。実際に、もし自分がこんなのを書くと、本当につまらなくなる。けれどもこの小説がここまで読ませるのは、階級の人間の視点が交差するところにある。夫人、紳士、元カレ、そして外国から来た妻、戦争のトラウマに苦しむ夫、精神科医。出演する多彩なメンバーの主観と、それを取り進める神の視点がかみ合っていて、退屈しない。常に変わる主人公から見た外部と内部への批評が続いていて、観光をしている気分だ。ここにロンドンが表現されている、というものだ。街そのものを表現しようとした、のだろうか。

     ダロウェイ夫人と、戦争のトラウマに苦しむ青年の対比とか、いろいろ考えるポイントは多いが、やはり夫人と同性愛関係っぽかったサリー・シートンがめっちゃ多産のお母さんになっていて、そしてピーター・ウォルシュは無職でまだ大人になれない50歳で。この二人が最後にダロウェイ夫人に会うパーティー開始の場面が本当にすごいクライマックスだ。
     最初はダロウェイ夫人が次々と社交の挨拶をしまくって、コーディネートやりまくるのだが、どこか、さっきまでのダロウェイ夫人の主観の感じがなくなって、「主観で書かれているのに、まるで外側からダロウェイ夫人をみているよう」になる。まあ、いらっしゃい、まあ、いらっしゃいと、パーティーの出席者を迎えるダロウェイ夫人は、読者にとってここでいきなり「別人」「他人」なる。いままで寄り添うように僕らの傍で悩んでいたダロウェイ夫人はどこへやら。すっかり上流階級になっているのだ。そして、上流でなくなった幼馴染みはいつまでもダロウェイ夫人に待たされる。たぶん会えば、懐かしい会話ができるはずなのに、待たされ続ける。そして階級が似たものどうし、サリー・シートンとピーター・ウォルシュが一番長く思い出話をするのだ。ダロウェイ夫人が結局一番遠くへ行ってしまったのだ。
     ダロウェイ夫人の娘エリザベスも、何か自由であるようで、結局は上流階級の娘としてパーティーに出る。ここでミス・キルマンが何に敗北したかなんとなくわかる。死にゆくセプティマス青年とその妻レーティアの話を噂で耳にしたダロウェイ夫人は、生きる希望になったようなもの受け止めてすぐに社交に戻る。ここでダロウェイ夫人とセプティマスが交わるのだが、この交わりを読み解けるほど、読み込んでいない。二人とも、過去というものに戻れない、失ったものを抱えていて、それを取り戻そうとする自由を得ることができない。ダロウェイ夫人は、患者であるセプティマスが死んでみせたことに何らかの勇気を得るのだが、「もう生きるしかないんだね」というものを得たのだろうか。だからこそ、ダロウェイ夫人はそこからさらに読んでいて主人公じゃなくて他人みたいになっていく。どっかの夫人になっていく。
     精神科医らへの批判の視点はさておいて、やはりこの話は階級とイギリスを、近代的主観を乱れうちして書きながら、見事に最後のパーティーにおける寂しさやむなしさを立ち上がらせて、過去現在未来が決定的に分岐するポイントをダロウェイ夫人が夫人としての仕事をこなすという形で表現した傑作だと思う。
     パーティーからの流れは一気に読めるすさまじい展開。こいつ誰やねんみたいなのがぐんぐん出てきて、読者はどんどん置いていかれる。そして、幼馴染たちと同じ心境のまま、読者は呆然と終わりを迎える。「ダロウェイ夫人、遠くにいっちゃったなあ」と感慨深くなる。やってくれたな、バージニアウルフ、という感じである。この小説のカギはやっぱり「サリー・シートンとピーター・ウォルシュ」だろう。この二人が実はいまでも子どものままである、そして、ダロウェイ夫人はとうとう「大人」になってしまった、という、小説である。

  • アメリカの映画やドラマを見ていると、本好きの女性が必ずといっていいほど好きな作家にヴァージニア・ウルフを挙げるようなので、読んでみなければとずっと思っていて、やっと読んだんだけど。。。
    うーん、バカなわたしにはまったくといっていいほど、ピンとこなかった。「ダロウェイ夫人」はタイトルは昔から知ってはいたけれども、こんな話だったのか。。。上流階級のダロウェイ夫人の一日のうつろいゆく思い、みたいな感じで、ストーリーらしいストーリーがない。とりとめのない思いがとりとめなく描かれていて、あまり強い感情はない。一瞬、強く思ってもすぐほかのことに移っていく感じで。
    しかも、ダロウェイ夫人だけじゃなくて、登場人物すべて、すごい脇役みたいな人たちもすべての思いが、つながるように書かれているので、正直、え、今だれの話?と何度も見失っていた。。。。
    確かに、文章は詩的で美しいとは思ったけれども。
    あと、ときどき、人々の人生への思いとか、50歳をすぎた人々の老いることへの感情とか、いろいろ、はっとする文章はあった気がするけれど、それも一瞬で流れていって、あまり残らなくて。。。一度でさらっと流して読むのではなく、一文一文じっくりと読んでいくべき本なんだろうなー。そういうのがわたしは苦手だけど。
    あと、ヴァージニア・ウルフって、フェミニストで、孤高の強い女性、ってイメージなんだけど、この小説、解説含めて読んでも、あんまりそういうイメージがわかなかったなあ。。。

    訳者あとがきがおもしろかった。フランク・マコート「アンジェラの祈り」が読みたくなった。(ダロウェイ夫人の靴が何色だか知ったことか!とキレる生徒が出てくるとか)。あと、ヴァとバの表記についてとか。

    映画「めぐりあう時間たち」は見てみようと思う。原作も読みたい。

    • meguyamaさん
      私もウルフは一冊は読んでおかねばと思いつつ今に至っています。『めぐりあう時間たち』の原作者の『星々の生まれるところ』っていう小説が大好きだっ...
      私もウルフは一冊は読んでおかねばと思いつつ今に至っています。『めぐりあう時間たち』の原作者の『星々の生まれるところ』っていう小説が大好きだったので『ダロウェイ夫人』は第一候補だったのですが、どれにしようか迷います(笑)
      2017/06/15
    • niwatokoさん
      いや、わたしはなんだか退屈してしまったんですが。やっぱり古典って難解だなあとか。でも読んでみてください、詩的だし、すばらしいと思うかも。わた...
      いや、わたしはなんだか退屈してしまったんですが。やっぱり古典って難解だなあとか。でも読んでみてください、詩的だし、すばらしいと思うかも。わたしは、もっとストーリーがあるという「灯台へ」とか、エッセイの「自分ひとりの部屋」とかにすればよかったかな。「めぐりあう~」も「星々の~」も品切れみたいで残念。。。
      2017/06/15
  • 初夏のきらきらした日射しや花の香り、生のよろこびを見つめる小説なのに、第一次世界大戦の残した傷と影を強く感じてちょっと苦しいような気持ちになった。50代の登場人物たちの、この先の人生がもっとよくなることはなくても、それでもよかった探しをしながら生きていくしかない感じ。本作はウルフが比較的幸せな時期に書かれたそうなのだけれど、そのぶん彼女の抱え続けた不安が素直に表れているのかも。

  • 登場人物の環世界(主体にとって知覚できる空間・時間)が織りなすシャボン玉の中で、バスケやサッカーでボールをパスしあうように、次々と主観がシャボン玉からシャボン玉へ渡り歩いていく、と私はとらえています。
    1つの主観が、別のシャボン玉の客観になっていくところが面白いです。また、それぞれのシャボン玉がよくできているのが、バージニアウルフの読み応えだと感じました(この本しか読んでないけど)

    アガサクリスティの「春にして君を離れ」も、主観からはじまりそれを俯瞰していきながら人間模様が暴かれていく(環世界の狭さ愚かさを赤裸々にしていく)話で、なんか似ている気がします。イギリスの女性作家の特徴なのかも??

  • 印象派やマリー=ローランサンの絵画のような淡い色彩を思わせる作品。全体的に少々退屈で、主人公ダロウェイ夫人がお上品すぎるきらいはある。ただ、第一次大戦に従軍した青年セプティマスのPTSDに苦しむ心理描写や、ダロウェイ夫人の回想の中の女友達とのキスシーンなどは大変素晴らしい。

  • 面白い。美しいけど、難しい本。

  • ダロウェイ夫人のロンドンでの一日のお話。
    たまたま切り取ったなんでもないようなある日の出来事の話に過ぎないようでありながら、自在に視点を変えながら、語りが重ねられているうちに人物の造形が立体的になっていく感じが読んでいてとても楽しい。
    音とか匂いの小道具で時間と場の共有を暗示しながら、一瞬すれ違ったと思ったら、ばちんと視点が巧みに転換していくのが小気味良くて、なんとなくロバートアルトマンの群像劇を見ているような感覚を思い出しました。
    その一方で死の気配が色濃く漂ってもいて、最期に自死を選んでしまったウルフ自身のことが思い浮かべずにはいられなくて、身につまされる思いでありました。

    もし、いつの日か、できることなら、ロンドンで同じルートを歩きながら読んでみたい。

  • 6月のとある一日における、ダロウェイ夫人を初めとした登場人物たちの意識の流れを描いた小説。
    改段もなしに別の人物の意識に次々とすり変わっていくので、あまり真面目に読み込もうとすると大変だけど、さらさらと読み流していけば、様々な人々の様々な意識の流れの交差点が見えてきて面白い。
    生と死、若さと老い、美と醜、性、金銭・・・誰もがそれぞれの頭の中でそうしたものに囚われて生き続けるわけだ。

  • 意識の流れを用いた作品。最後にかけて疾走感を感じた。

  • 感想が上手く書けないけれど、ゆっくり反芻してみている。そんな小説。
    ロンドンのストリートが交差し、全ては同じ空間ヘ、時間も空間も超えて、交差し、つながっていく。
    道行く人も人生を変えた人も、今というこの瞬間につながる感覚をふと覚える。

  • さざ波のように始まって、次第に大きな流れとなり、ひとつの大きな渦に巻き込まれるように一気に読めた小説。ロンドンの街。

  • イギリス貴族社会・中産階級社会の俗物性を描きつつ、それで世の中が成り立っている側面を認めながらも、それに対する違和感を拭えない人々の独白を重ねていく。「私」とは?人生とは?幸せとは?屋内のパーティーの俗物性と屋外に広がる暗闇の虚無。その境界にある窓際が象徴的。

  • 6月のある朝、ダロウェイ夫人はその夜のパーティのために花を買いに出かける。陽光降り注ぐロンドンの町を歩くとき、そして突然訪ねてきた昔の恋人と話すとき、思いは現在と過去を行き来する。生の喜びとそれを見つめる主人公の意識が瑞々しい言葉となって流れる画期的新訳。

  • イギリスの女流作家。初期の“Jacobʼs Room”(1922)あたりから伝統小説のプロットや性格概念に対して実験的再検討を試み、”Mrs. Dalloway”(1925)や”To the Lighthouse”(1927)などで刻々と移り変わる人物の意識の流れを叙述していく方法を確立

    ウルフは外側のリアリズム、すなわち人間の外面的なものをいかに現実らしく書くかを重視した19世紀のリアリズムを否定し、独自の新たなリアリズムを作り出そうとした。

    いわゆる実験小説と呼ばれる彼女の三つの作品、『ジェイコブの部屋』『灯台へ』『ダロウェイ夫人』を比較してみると、それぞれの作品における客観的時間の長短は極端に異なっている。

    『ジェイコブの部屋』→ジェイコブの幼少期から戦争に出て死ぬまでの20年間

    『灯台へ』→10年を挟んだ前後それぞれ1日づつ

    『ダロウェイ夫人』→朝起きてからパーティーまでの10数時間人物を外側からでなく、内側から描こうとする。

    『灯台へ』においてもウルフはこの方法を採用しているが、実験第一作『ジェイコブの部屋』では多数の人物を登場させ、各場面でそれらの人々の目に映るジェイコブを描いたが、それに比べると、彼女の技法の用い方はその時より効果的になっている。

  • 生きることを歓び、パーティで幸せそうに振る舞うダロウェイ夫人。でもその心の奥には、恐怖や悲しみがあふれている。本心を押し込めて日常の美しさを眺める姿が、上流階級の女性の典型的な生き方のひとつだったんだなあと思う。自分の周囲にもいそうな気がする。

  • 淡くて美しい、まさにロンドンの6月のような文章。ラベンダーやヒヤシンスの香りが漂ってくるよう。

    一方、権威への恐怖や自分の狂気への恐怖、同性愛に違い感情等も描かれているのが意外だった。

    細部を読む小説だと思う。

    ウルフは難しいと言われている通り、最初は、意識の流れや事実を流れるように織り交ぜて描く手法に戸惑った。

    でも、普段自分達の意識や考えもそんなものだし、そういう小説として距離を取って読むと途端に細部の美しさが花開いた。

    『ダロウェイ夫人』が発表されたのは1925年。大正14年。日本では普通選挙法が施行された年。
    私の祖母はすでに生まれている。

    その時イギリスでは、第一世界大戦の深い爪痕を、特にミドル〜ロークラスに残しながらも、
    (ハイクラスが始めた戦争だろうが、実際に打撃を受けるのは彼らではなく、そして彼らに戦死した者達の死は意味を及ぼさない、なんてこともこの小説の中には示されている)
    一方では豪奢で19世紀的なパーティが開かれている。
    そのパーティの主であるクラリッサが、パーティの日の1日、ロンドン内を散歩し、起こった出来事と考えを流れるように描いている。

    ウルフの「時」の描き方が好き。
    「広場の濃い茂みのあちこちには、強烈な光がまだしがみついている。夕方が蒼ざめ、薄れていく。」

    「夕方をそこに串刺しにした。引き止められる夕方。」

    ビッグベンの刻の音とともに。

    時をこんな言葉と共に感じられるなんて、なんて贅沢。

  • 2022年1月3日 NHK Eテレ「100分deパンデミック論」で紹介
    摂南大学図書館OPACへ⇒
    https://opac2.lib.setsunan.ac.jp/webopac/BB99208906

  • 「ダロウェイ夫人」のロンドンは、都市の地層に確かにケルトやローマの文化を潜めていて、そうした土地の記憶の厚みが、登場人物たちの今このときの「意識の流れ」がたゆたう明るい水面を支える仄暗い水底として、物語に陰影を添えている。

    谷川俊太郎訳「マザー・グース」にひんやりとした太古の墓石を思わせる一篇があり、ロンドンの地下鉄、地の底から響く声と重なった。

    「イー アム ファー アム ソー
    フー スウィー トゥー イーム ウー……
    年齢もなく性別もない声、大地から湧き出す太古の泉の声だ。地下鉄リージェント公園駅の真向かい――そこに震えながら立つ背の高い姿から響いてくる。煙突のようでもあり、錆びついたポンプのようでもあり、吹きさらされて永久に葉を奪われた木のようでもある。」

  • どの人もほんの少し私であって、私も全て私だけでできてはいない。
    とても心地の良い小説だった。
    ほんの少しの私は時折死に、たいてい生きる。

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