- 本 ・本 (544ページ)
- / ISBN・EAN: 9784334752132
感想・レビュー・書評
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【はじめに】
第三巻では超越論的論理学の概念の分析論に続き、原則の分析論が進められる。
【超越論的論理学 - 原則の分析】
カントは、カテゴリー表に基づいて、実在性と否定性の図式、原因の図式、相互性の図式、や可能性の図式、現実性の図式、必然性の図式、などカテゴリーに合わせてさまざまな「図式(シエマ)」が説明される。それらはかなり詳細であり、かつ現代的価値をもつものとは思われないのでここでの記載は省略したい。一方で、この議論で出てくる「判断力」や「フェノメノン」と「ヌーメノン」の概念についてみていきたい。
カントはここで知性一般の中で「判断力」を規定して、規則にしたがっているかどうかを判別する能力とする。この「判断力」についての考察は後の著作『判断力批判』で深められることになる。
「一般論理学は、<高級な認識能力>の区分とまったく同じ形で構成されている。<高級な認識能力>は知性、判断力、理性に区分される。だから一般論理学の理論体系における分析論も、これに応じて概念、判断、推論を考察する。これは人間の心の能力のもつ機能と秩序にまことにふさわしい分類であり、わたしたちはこれらの能力を<知性一般>という広い名称で呼ぶのである。
....知性一般を、規則の能力と呼ぶならば、判断力は規則のもとに包摂する能力と呼ぶことができる。すなわちあるものが、定められた規則にしたがっているかどうか(与えられた規則の事例)を判別する能力である。
規則を使うことで知性を教え込んだり、整えたりすることはできるが、判断力は特別な能力であり、これを教え込むことはできず、たんに練習して鍛えるしかないことが、明らかになる。
判断力はだから<生まれつきの才知>と呼ばれる特殊なものであり、それが欠けているからといって、学校で教えることのできるものではない」
カントは、純粋知性をそれ自体が原則の源泉となるものとして想定する。カテゴリーや図式を事細かに規定するのも、カントのこの思いを反映してのことなのである。
「もしも原則というものが成立するのであれば、それは純粋な知性だけによるものである。純粋な知性は、あるものが生起するための規則を定める能力であるだけでなく、それ自体が原則の源泉となる。この原則にしたがうことで、わたしたちにとって対象として現れることのできるすべてのものが、必然的に規則にしたがうようになる。このような規則が存在しなければ、現象に対応する対象についての認識を、その現象に割り当てることはできなくなる。自然法則ですら、それを経験的な知性の利用の基本法則とみなした場合には、同時に必然性を表現するもとなる。そしてわたしたちは自然法則というものは少なくとも、アプリオリですべての経験に先立って妥当する根拠によって規定されたものだと推定するのである。
しかし自然法則は、それがいかなる法則であっても、知性の高次の原則にしたがうものである。というのは自然法則とは、こうした知性の高次の原則を、現象の個別の事例に適用したものにすぎないからである。だから知性の高次の原則だけが、規則一般の条件と同時に、条件と判断の関係を含んだ概念を与えるのであり、経験はこの規則にしたがう事例を示すだけである」
カントは知性に関する議論の中で「経験」について次のように語っている。知性による総合的な統一が経験の本質である。
「経験とは、経験的な認識のこと、すなわち知覚によって客体を規定する認識のことである。だから経験とは知覚の総合であるが、この総合は知覚そのもののうちに含まれているものではなく、知覚された多様なものの総合的な統一を、一つの意識のうちに含んでいるのである。この総合的な統一が、感覚能力による客体の認識の本質であり、(たんに直観や感覚能力による感覚ではなく)経験の本質である。
ところで経験において知覚は結びつけられているのだが、その結びつきは偶然的なものにすぎず、その必然性は、知覚とのものからは解明されないし、解明できるものでもない。[対象を]把握するということは、経験的な直観において、多様なものをたんに合成することにすぎないのであり、把握が空間と時間において合成した現象が、結合されたものとして存在するという必然の観念[=表象]は把握のうちには存在しないのである。」
経験するために知性は、現象と現象の存在を時間のうちに位置づけることから始めるのである。ここで述べたすべての知性の原則は経験を可能にするためのアプリオリな原理なのである。
「人間が経験するためには、そして経験することができるためには知性が必要であるが、知性がそのためにする最初の仕事は、さまざまな対象の像を判明にすることではない。まずある対象の像を心のうちに描くことが可能であるようにしなければならない。そのために知性はさまざまな現象と現象の存在を、一つの時間の順序のうちに配置する必要がある。さまざまな現象を時間のうちに配置するためには、ある現象をそれに先行する現象の帰結として位置づけ、時間のうちにアプリオリに定められた位置を設定するのである」
【フェノメノンとヌーメノン】
知性は認識を生むがそれは感覚能力から得られる対象(現象)に限られ、物自体にはかかわることはできないことが改めて説明される。
「ここから反論の余地のない結論が引き出される。純粋知性概念は、決して超越論的に使用されることはできず、つねに経験的に使用できるだけである。また純粋な知性の原則は、可能的な経験の一般的な条件においてのみ、感覚能力の対象だけにかかわるのであり、わたしたちが物を直観する方法を無視して、物一般にかかわることができないのである。」
....こうして超越論的な分析論において、重要な結論がえられることになった。知性がアプリオリに遂行することができるのは、可能的な経験一般の形式を先取りすることだけである。そして現象でないものは経験の対象となることができないために、知性は感性に定められた限界を乗り超えることができないのである。この感性に定められた限界の内部においてしか、わたしたちには対象が与えられない。知性の原則は、現象を解明するための原理にすぎない。[伝統的な哲学の]体系的な理論においては、存在論は物一般の総合的でアプリオリな認識を示すことができると自称しているが(たとえば原因の原則など)、存在論は、純粋な知性の分析論というもっと謙虚な名で呼ばれるべきなのである」
そして、この後にカントはそうした現象としての存在を「フェノメノン」と名づけ、感覚能力ではなく知性の対象としてだけ考えられる存在を叡智的な存在「ヌーメノン」と規定する。このヌーメノンの存在が純粋理性批判以降に発展するカント哲学のひとつの肝ともなっていくのである。
「わたしたちは現象としての存在を、感覚的な存在(フェノメノン)と名づける。一方では、わたしたちがその存在にそなわる特性を直観することがないために、感覚的な存在とは異なると考えられる存在がある。これは感覚能力の客体となることがまったくない可能的な物であり、知性の対象としてだけ考えられる対象である。わたしたちはこうした存在を感覚的な存在と対比するために叡智的な存在(ヌーメノン)と名づける」
【まとめ】
果たして原則の図式の議論はまったく頭に入ってくるものではなかった。カントはこのあたりの議論を論理学という当時すでに確立していた学問分野の考えを流用して説明を進める。ここはカントはそのようにして知性の位置付けを整理していると理解することとして、その精緻な議論を理解する必要は必ずしもないのではないかと思う。
判断力についての議論で、判断力を生まれながらの能力であり、後の人生で教えることができないとするところが現在からみると違和感がある主張であることは多くの人が同意するところであろう。カントがどういう人を優れた判断力を持つ人として、どういう人をそういう能力を十分に持たない人としているのかはここからはわからない。
この部分を読んで、ピーター・ドラッガーがその古典的名著『マネジメント』の中で「学ぶことのできない資質、後天的に獲得することのできない資質、始めから身につけていなければならない資質が、一つだけある。才能ではない。真摯さである」とし、「真摯さの欠如は、マネジメントの地位にあることを不適とするほどに重大である」としたことを思い出した。
当時の身分社会、人種差別的社会、性差別的社会の社会常識のようなものを反映しているのではないかと時代のせいとして批判的に読むことも可能ではあろう。しかし、判断力はカント哲学の構築にとって非常に重要な概念である。そのような解釈としてよいものなのかは慎重になる必要があろう。
そして、もうひとつ重要な概念が「ヌーメノン」の存在の定義であろう。ここまでの論理の中では「ヌーメノン」の存在の余地はなかったように理解される。カントが人間の能力として規定する知性という能力が、人間の生物進化の中で獲得されたものであるとして、その獲得の過程において副次的に「ヌーメノン」の存在を知性が把握することになった、と理解するべきではないか。純粋理性批判を含めた当時の議論の中で大きく欠けている要素は進化論的考察であるが、進化論的考察を含めて考えた場合、フェノメノンとヌーメノンの獲得の順序とヌーメノンの副次性の理解は非常に重要な要素だろう。ヌーメノンに関する議論はここではあまり深く行われないが理性批判を行う上で非常に重要な概念であると言えることからも、それをどのように理解するかはカント哲学の理解において本質的なものになると思うのである。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
決して読んで分かったとは言えない。しかし、同じインタレストを共有できた納得の気持ちはある。三巻はより近づいてる。因果関係、時間、現象、物自体(あるいは病気自体)、空間。存在、観念論、反省といった僕ら臨床屋が毎日取っ組み合っている命題がここでは議論される。
カントの文章は分かりづらい。あえて言おう。文章が下手である。一説には当時のドイツ事情からわざと分かりにくくしたという説もあり、ドイツ語独特の長々した文章の特徴という説もあり、翻訳の問題という説もあるが、それを差し引いてもカントの文章が下手だ、という要素は大きいと僕は思う(素人が偉そうにごめんなさい)。中山元の解説を先に読むほうがよい。こちらはとても理解しやすい、納得のいきやすい文章である(難しいけど)。そのあとでカントの地の文を読むとずいぶん違う。
4巻も楽しみだ。一所懸命読みたい。 -
人間が世界に触れる時、人の中では何が起きているのか。人が現実だと思っているものは、本当に現実なのだろうか。人は世界をありのままに捉えているのだろうか。おそらくそうではなくて、人はそれぞれ別の見方で世界を捉えていると思う。そして同じものを見ていても、人それぞれ捉え方が違うのだ。カントのこの本は非常に難解だ。もちろん読む価値はある。だからこそ読む価値があるとも言える。時間と空間を重要な要素として、現象とは何かについて考察する。
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全巻の中でも、かなり難解な巻で、通読するのに時間がかかった。まだまだ消化不足であるが、先を急いでいくことにしよう。
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感性が受け取る直感すなわち経験的対象に、カテゴリーがいかに適用されるかを論じる「図式論」とその各論となる「原則論」。この図式を用いて理性の定める原則との適合性をジャッジする「判断力」と、前分冊で出てきた知性が個別の直感をまとめ上げる際に用いられる「想像力」との関係がよくわからず混乱したが、どうやらそれぞれの「根拠づけ」の対象が異なるようだ(前者は理性、後者は知性に権限がある)。
しかしこの「図式論」も厄介な代物だ。現象とカテゴリーを媒介する純粋な形式としての図式即ち〈時間〉が多様な私的経験のうちに含まれているからこそ、客観性を担保するカテゴリーが感性のうちに与えられて自己の追加的な判断即ち〈総合判断〉が成り立つというのだが、本当にこのような複雑な過程を経てアプリオリな総合判断というものが生まれているのだろうか。そもそもこの感性・図式・カテゴリー・原則というメカニズムは実証不可能なカント一流の説明にすぎない。しかし、「現象などの物自体にカテゴリーは直接適用できない」というカントの金科玉条からすれば、特にこの図式は人間認識の制限項として導入不可避なメカニズムだったのだろう。
「原則論」はよく言われるように、「本当にこれだけの原則で概念が網羅されているの?」という素朴な疑問を否応なく惹起するが、僕に関しては特に力学的な原則(関係と様態のカテゴリーに対応する「経験の類比」と「経験的な思考一般の前提条件」)についてはある程度の納得感を伴って読めた。例えばスピノザやライプニッツ的な決定論に対し、因果律は人間が現象認識の結果として確立したものだというカントの主張は、若干情緒的に感じられはするが、人間中心主義的な世界観に立脚する点で共感を覚えた。
なお本分冊では全くメジャーな論点ではないが、個人的には原則論の観念論への反駁で出てくる「基体」の扱いが微妙だなと感じた。カントは我々が対象の変化を知覚する際に、時間そのものは知覚できないのでその代わりに不変なるものとの相対変化を知覚しているという。ここが外部の実体性を要請する点でバークリ的な際限のない懐疑論やデカルトの唯心論的懐疑に対する論駁の根拠となっているのだが、この不変な基体というものの実体が判然としないのだ。どうやら対象の変化というのは対象の不変な基体すなわち「実体」そのものではなく、その属性が変化するさまを指すようだが、やはりライプニッツが言うように「対象の実体」という変化しない本質というのはそれこそ人間が認識不能な「物自体」の最たるものではないのか。それとも、カントは人間に認識可能な「変化」を定義するためにそのような基体という概念を構成的に導入したのだろうか。つまり人間がアプリオリにもつ法則に従い変化を認識する際に、構成的に後付けで設定される基準点のようなものか。確かに「コペルニクス的転回」ではあるが、しかしそれだと循環論そのものになってしまうような気がするのだが…。 -
134-K-3
文庫(文学以外) -
訳:中山元、原書名:KRITIK DER REINEN VERNUNFT(Kant,Immanuel)
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ハイデガーの「カントと形而上学の問題」を読むために本棚から引っ張り出してきた。「観念論論駁」部分をとりあえず先に読む。
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貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784334752132 -
買いました。
青山ブックセンター本店
(2013年2月25日)
読み始めました。
(2013年5月9日)
やっぱり、こう、分かるというのは、偉大なことです。
こうした訳業をなさる人は、偉大です。
また、訳業を支える出版社も、偉大です。
また、それを支える読者がいるということに勇気をもらえます。
(2013年5月10日)
14歳の時に、『啓蒙とは何か』を手にしてから、
カントは常に、自分の近くに置いていました。
でも、この『啓蒙とは何か』を除くと、
常に、もやもやして、分からないのがカントでした。
分かるカントに出会えて、本当にうれしい。
(2013年5月10日)
山手線車内、原宿駅付近で読み終えました。
(2013年6月6日)
著者プロフィール
イマヌエル・カントの作品





