フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (423ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334752163

作品紹介・あらすじ

天才科学者フランケンシュタインは生命の秘密を探り当て、ついに人造人間を生み出すことに成功する。しかし誕生した生物は、その醜悪な姿のためフランケンシュタインに見捨てられる。やがて知性と感情を獲得した「怪物」は、人間の理解と愛を求めるが、拒絶され疎外されて…。若き女性作家が書いた最も哀切な"怪奇小説"。

感想・レビュー・書評

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  • 「バクダードランケンシュタイン」を読んだので、
    https://booklog.jp/users/junsuido/archives/1/4087735044
    元祖「フランケンシュタイン」も読んでみた。

    冒頭は、作者メアリー・シェリーが追加した序文と、最初出版されたときにメアリー・シェリーの夫のパーシー・ビッシュ・シェリーが書いた序文の両方が載っている。
    原題は「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス」となっている。これは、人造人間を造ったヴィクター・フランケンシュタインが「人間の叡智を超えてしまい持て余してしまった」というような我が身を嘆いて言った言葉だろう。
    なお、夫のパーシー・ビッシュ・シェリーには「縛を解かれたプロメテウス」という著作があるらしい。夫婦そろってプロメテウスを題名にしているのか。


    さて、この「フランケンシュタイン」だが、小説の構造がなかなか凝っている。
    まずは、イギリス人で北極への海路を探索しているロバート・ウォルトンが、姉のマーガレット姉に出す手紙。
    その手紙で「犬橇に乗った大男を見かけた」ということと、「その後を若い男が犬橇で追っていたが、疲労が激しかったので自分の船で保護した」ということが書かれる。
    この保護された若い男が、スイス人の自然科学者のヴィクター・フランケンシュタインだった。
    ロバートはヴィクターと話すうちのその人柄に惹かれてゆく。そしてヴィクターから怖ろしい経験を聞く。

    子供の頃から自然科学に興味を持っていたヴィクターは大学に進み、死の謎に挑んで生命のないものに生命を宿す研究に没頭する。
    研究の末に墓場から集めた遺体を繋ぎ合わせて一人の体を作り、その体に生命を宿すことに成功する。
    だが出来上がった人造人間はそれはそれは醜くおぞましく怖ろしいものだった。
    あまりの醜態にヴィクターは研究室から逃げ出す。
    彼が戻った時にはその怪物は消えていた。

    …いやいや、いなくなってよかった!ってそういう場合か。
    この人造人間は結局名前はつかずに、”怪物”とか”悪魔”と呼ばれることになる。
    現代感覚だと、造って棄てるな無責任、と思ってしまうが、
    おそらく当時の感覚でのこの怪物への恐怖と嫌悪感は宗教的・哲学的なものも含まれているのだろう。命を創造するのは神。だが神に造られた人間が、禁じられた神の領域に入って命を造った。その行為が人造人間のおぞましい外見に顕れた。…という人への罰則を感じたのかと思った。

    この怪物がヴィクターの前に現れるのは2年後。

    この2年間怪物くん(勝手に造られて憎まれて哀しいところもあるので敬称呼びしてみます。漫画の主人公のようになってしまうが/笑)がどのように過ごしてきたかは、彼自身の言葉で語られる。
    つまり、ロバートの手紙でヴィクターの語りが書かれ、さらにヴィクターが語る怪物くんの独白も入れ込まれているという構造。

    この怪物くんは、気がついたら命があり、しかしはじめに見た人間のヴィクターの拒絶により部屋から逃げ出した。その後はあまりにもおぞましい外見から人目につけば憎まれる日々で、なんとか人目を避けてその日その日を暮らしていた。
    辿り着いた田舎の村で、彼は慎ましく寂しげに互いを思いやり暮らす一家を見る。
    自分も加わりたい、あの一家に受け入れられたい、その想いで怪物くんは彼らの役に立つことをそっと行ったり、言葉を覚えたりしてゆく。
    そう、怪物くんは身を隠しながら食料調達を行いながら完全独学で言語を習得したのだ、すごい!
    しかしその一家に受入られるように計画を立てて姿を表した怪物くんは、一家から完全に拒絶されて恐怖と憎しみを向けられてしまった。

    絶望した怪物くんは、ヴィクターの部屋から逃げ出すときにたまたま持ち出していたノートから、自分自身が誰になんのために造られたのかを知る。そしてその絶望を創造主ヴィクターに向けるために彼の故郷に向かったのだった。
    造られた当初は善か悪かどっちに転ぶとも分からなかった怪物くんだが、人間たちからあまりにも拒絶されてすっかり拗ねてしまい、身も心も完全に怪物になっていた。
    自分が抑えられなくなっている怪物くんは、ヴィクターに近い人間を殺したり、破滅させたりしてゆく。

    この場面、怪物くんがヴィクターに訴える心情がなんとも哀切も感じる。これは女性作家ならでこそだろう。
     「おれは今まで苦しんできたが、命は愛おしい。おれは何も悪いことをしていないのに喜びを奪われた堕天使のようではないか(←怪物くんの独学の教養がすごい!)。俺だってもとは善良だった、おれの願いを叶えて幸せにしてくれれば創造主であるお前に優しく従おう」
    そしてヴィクターに要求を突きつける。「自分と同じように醜くおぞましい女を造って欲しい。自分とともに生きる自分だけに従う女だ。そうすれば二人で山の奥で静かに暮らし、二度と人間の元には現れない」
    ヴィクターは、怪物くんを追い払える手段として一度はその要請を承知する。
    だがヴィクターは逡巡する。はたしてあの怪物の言うことを信じてよいのか?もう一体怪物を造っても良いのか?
    そして怪物くんの目の前で造りかけの人造女性を壊すのだった。

    をいこら、ヴィクター、二度も怪物くん突き放したな。しかも今回は完全に故意。

    ヴィクターに願いを拒絶された怪物くんは絶望のどん底に落ちこみ、「俺が悲惨にあるのにお前だけ幸せになどさせない、どこまでもお前の前に現れ、お前を恨み復讐してやる」と宣戦布告。

    そこからはヴィクターと怪物くんの追いかけっこ。
    怪物くんはヴィクターの大切な相手の命を奪ってゆく。
    ヴィクターは怪物くんを追う。自分が作り出したあいつを片付けることこそが自分の最後の役目だ。

    この時期に北極を目指すロバートがヴィクターを船に乗せたのだった。
    この物語は怪奇話なのだが、ヴィクターやロバートの辿る自然や街の描写も良い。ヨーロッパの街並み、怪物くんが潜む山、氷を割って進む探索船。

    助けられたときすでに衰弱していたヴィクターは、遺言としてロバートに告げる。「私がこのまま死んだら、あの怪物を必ず殺してください」

    その夜、ロバートはヴィクターの遺体を寝かせている船室に大きな体のひどく醜い男の姿を見る。
    それはロバートに自らの悲壮と憎悪を告げる。そしてすべてが終わったからには、自分自身の体を葬り去ることを約束して、海へと消えてゆくのだった。

  • 今年の1月に映画「メアリーの総て」を観て、俄然読む気になった本作をやっと読んだ。本当の題名は「フランケンシュタインーあるいは現代のプロメテウス」である。神話で人類を創ったプロメテウスをなぞり、今から約200年前に人造人間を造ったフランケンシュタイン博士の悲劇と、名前のない人造人間の悲劇を描く。巷間に有名なストーリーは、後々の映画によって広まったものだ。

    一般イメージを忘れて人造人間を単に「怪物」とだけで読んでいくと、まるで感覚を持ち、知恵をつけ、文学を理解し、愛と憎しみに揺れる「近代的自我」に目覚めた19世紀英国人の精神史をなぞっているようにも読めるし、科学文明批判のようにも見える。女性差別は出てこないが、凡ゆる差別されるものに寄り添った悲劇のようにも見える。また、夫のシェリーについて旅した見聞を生かしたヨーロッパ旅行記のようにも見える。様々な要素を、それこそ古い映画の中のフランケンシュタインの容貌のように「継ぎ接ぎ」しながら、二重入れ子状態の小説構造を持って描く。解説子の言うように、クローン人間が現実的になった現代、更にいろいろな読まれ方が可能だろう。この長編小説を仕上げた若干19歳の才媛の存在は、確かにビックリ以外の何者でもないだろう。
    一方で、人造人間の成長部分は大変面白いのだけど、そこに至るまでの導入部と、物語の閉め方は、現代の我々から見ると退屈である。ただ、あの当時に手紙形式や告白形式が流行っていたのだとしたら、若い彼女に作品の完璧を求めるのは酷なのかもしれない。

    アニメの名作「人造人間ベム」は、虚心坦懐に原作を読んだ人が、もし人造人間が望んだように伴侶と息子を手に入れたならばどんな物語になっただろうか?と想像して作られたのではないかと、私は推察した。

  • 哀切に満ちた感情描写と構造の妙による余韻が冷めない。
    思ってたんと違う…!が読み初めの感想で。
    次に、星新一に悲哀と激情と復讐心を大量投入して長編化したような…と考え。いや、それは我ながら強引な発想だわ…でも、三重仕立ての立体構造と分厚い心理描写ほんとすごい…と、すっかり虜になってしまった、SF系独白小説とでもいうべき作品。

    生命の神秘を探り当てた青年科学者ヴィクター・フランケンシュタインは、人造人間をつくることに成功した。
    しかし、動き出したその醜悪な姿に嫌悪し、望んでつくったはずの「惨めな怪物」を捨てる。

    知性と感情を獲得した怪物は、数年後、おぞましい事件と不幸を携えて、創造主であるフランケンシュタインの前に現れて…。

    物語は、三人の人物たちによる一人称語りが入れ替わりなされることで展開していきます。

    青年科学者フランケンシュタイン。
    名前すら与えてもらえなかった哀れな怪物。
    そして、二人の末路を見届けることになった、完全なる第三者である青年ウォルトン。

    この三重構造が、様々なものを対比的に捉えさせる効果を生み出し、物語に奥行きをあたえています。

    フランケンシュタイン自身は、生まれて以来家族や友人たちからの多くの愛と理解を当然のものとして享受し甘えているのに。
    その子どもであるはずの怪物は、愛情の欠片ですら与えられず見捨てられ。

    フランケンシュタインは、怪物の復讐に怯え怒り、後悔しながらも、その原因となった自らの罪にはどこか無自覚で無責任で。
    残虐なはずの怪物のほうが、自身が犯した罪の重さと、激情と後悔、寂しさの狭間で苦しむ自身の心の繊細な動きを、よっぽど理性的かつ的確に把握しているし、それを言語化するだけの頭の良さもある。

    だからこそ、本人にはどうすることもできない異質な外見を理由に誰にも愛されず理解されず拒絶され続けた彼の姿と最後の決断は、あまりにも悲しい。

    現代的に言えば、フランケンシュタインは反省のない感情的なネグレクト親で、怪物は健気な努力実らずその犠牲となって歪んでしまった放置子なんですよ…。
    復讐はよくないんだけど…どうしても、怪物の悲壮な告白のほうに気持ちを揺さぶられ、同調してしまいます。

    訳者あとがきで引き合いに出された某ノーベル賞作家の代表作のタイトルには納得。
    現代科学の一大問題とその犠牲者を取り上げたあの作品に復讐要素を織り混ぜた感じです。

    こんな小説が、19世紀初頭に誕生していたなんて。
    解決されるどころか、200年後の今こそかえって危険度の高い差し迫った課題となっているし、それに伴うエゴと倫理を掘り下げているし…作者のシェリー、先見の明ありすぎでは?

    とっても緻密な作品なのに、とっても読みやすいので、多くの方におすすめしたいです。

  • 訳者曰く、「フランケンシュタインは怪物のことだと思っている人が多い」。かくいうこの私も、この本の110頁目にくるまで、ずっとそう思っておりましたぞ…。それはさておき、とっても読みやすい訳文。解説も多面的で、参考になりました。

    展開には若干のぎこちなさも感じたけれど、科学者の社会的責任とか、人間の孤独とか、今日にも(今日だからこそ)十分通じるテーマゆえに、読み継がれてきたのだろう。作品自体よりも、この作品を19世紀前半に書き上げた作者メアリー・シェリーに、より興味をそそられた。

  • ゴシックホラーの古典。
    生命の秘密に興味を持つフランケンシュタインは、研究の結果、人造人間を造り出すことに成功する。だが造り出された「怪物」の不気味さに怖れをなし、これを放棄してしまう。どこへともなく消えた怪物だが、フランケンシュタインの身近で不幸な出来事が立て続けに起こり、彼は怪物の仕業と確信する。
    創造主であるフランケンシュタインは、被造物である怪物に付け狙われる立場となる。
    怪物がそこに至った理由は何か。フランケンシュタインは怪物の手から逃れることができるのか。

    あらすじは比較的よく知られている物語だ。
    ボリス・カーロフが怪物を演じた映画の造形から、ボルトが刺さりつぎはぎだらけの異様な姿として怪物を思い浮かべる人も多いだろう。
    だが原作はそれほどは読まれていない物語でもある。
    「フランケンシュタイン」はよく怪物自身と誤解されているが、怪物を造った「科学者」の名前であり、怪物自身には名前は与えられていない。

    本作は枠物語の構造を取る。
    最初の語り手は極地探検を志すウォルトンで、北極近くでフランケンシュタインを発見する。
    次の語り手はフランケンシュタインで、出自の説明から怪物を造り出すまで、そしてなぜ北へとやってきたのかを回想する。
    その回想の中で、フランケンシュタインと邂逅した怪物自身の語りが挿入される。

    おどろおどろしいだけの物語かといえばそうではない。
    美しい自然描写もあれば、欧州各地の旅行記のように読める部分もある。
    怪物はかなり高い知能を持つ存在であり、赤子のように知識を吸収していくさまも詳細に描かれる。怪物がかかわった人々のエピソードも興味深い。
    物語の構造ががっちり計算されつくされているとは言いにくいが、ほとばしる才能のみずみずしさを感じさせる。
    メアリ・シェリー弱冠20歳の作品である。

    前回読んだときには、怪物を生み出しておきながらその不気味さにさっさと逃げ出してしまうフランケンシュタインの無責任さに苛立った。ともかくも彼が踏みとどまって怪物の面倒を見ていれば、のちの悲劇はすべて起きずに済んだのではないかとも思えた。
    彼を「科学者」と見るならば、己の知りたい確かめたいという欲望に身を任せ、結果が思いもよらぬものとなったら逃げだすとは何事か、というところだ。

    だが、今回、読み返してみて、フランケンシュタインが感じた恐怖や不安が少しわかるような気もした。

    本作はそもそも、仲間内で、それぞれ「幽霊物語」を書いてみようという余興から生まれたものである。
    メアリ・シェリーが思いついたのは、「青白い顔をした科学者」が「呪われた作業」によってつくりあげたものの物語だった。おぞましいものを作ってしまったと彼は逃げ出す。だが、ふと気づけば、月明かりにぎょろりと光る黄色い眼が窓からこちらを覗いている。
    放っておけば死ぬと思ったのに、自分の為したことは想像を超えたものを生み出してしまった。
    その一線を越えた感覚。禁忌を犯したのか、神を冒涜したのか、ともかく入ってはならぬ領域に彼は入ってしまったのだ。

    怪物は結局のところ、殺人を犯してしまうのだが、もとから悪辣だったわけではない。彼はただともに語らい安らげる仲間がほしかったのだ。そういう意味では怪物は非常に「人間的」ですらある。その一方、怪物をただただ忌み嫌い、まったく理解しようともしないフランケンシュタイン自身が「怪物」であるようにも見えてくる。

    神と人の境界。人と怪物の境界。そんなことも思う。

    さまざまなことを考えさせ、多様な解釈の余地を許す。
    古典というものの懐の深さを改めて感じる。

  • 知っているようで、きちんと読んだことがなかった有名な作品を
    光文社古典新訳文庫で。
    アルベルト・マンゲル『図書館』での言及がきっかけで購入。
    先にメアリー・(ゴドウィン)シェリーが
    いかにして『フランケンシュタイン』を書いたか――を
    描いた映画『メアリーの総て』を観てしまったが、
    特に問題なし。

    さて、ここはあくまで小説『フランケンシュタイン』の
    感想を述べるということで、
    『メアリーの総て』の印象は切り離します。

    三層から成る枠物語で、
    一層目【A】は北極探検を目指す青年ロバートが
    姉マーガレットに宛てた手紙。
    ロバートが指揮する船の乗組員は、
    砕けた氷に載って漂う橇の主を救助した。
    その男ヴィクターが語った身の上話が二層目【B】、
    【B】の中に織り込まれた「怪物」の独白が三層目【C】。

    ヴィクターは錬金術に興味を持ち、
    生命の原理を探究しようと考え、創造主になろうと目論んで、
    人間や動物の死骸の断片を集めて新しい命を生み出そうとした。
    しかし、出来上がった生命体の醜さに衝撃を受けて、
    それを見捨て、結果、報復を受けることになる。――【B】

    翻案作品などのイメージから、人造人間製造のプロセスが
    事細かく描写されているものと思い込んでいたが、
    実はその辺りは非常にアッサリしていて、
    何だか簡単に「出来ちゃった」みたいな感じ(笑)。
    作者が詳述したのは、
    人間が神の領域に踏み込んで被造物を生み出すことの是非であり、
    生み落としてしまったなら、
    その後はどうするべきか、といった問題。

    親になったら、誕生した子供が大人になるまでは、
    きちんと養育しなければいけないし、
    物事の善悪を教える必要がある。
    AIについても然りで、
    暴走しないように制作者及びユーザーが「倫理観」を
    刷り込むべき。
    外枠の語り手ロバートは
    孤独な探究者という立場が自らと重なるせいか、
    ヴィクターに同情的だが、
    読んでいて「それはおかしくね?」と思ってしまった。
    何故ならヴィクターは、自身の頭のよさを誇示するために
    暴挙に及び、しかも、責任を放棄したから。

    作者はそんな、独善的で綺麗事を並べる割りに
    行動が伴わない男を批判するつもりで書いたのか、どうか。

    ところで、ヴィクターの自分語りを読んでいると、
    ナルシスティックで熱に浮かされた調子なので、
    ひょっとして実験云々は全部妄想じゃないのか?
    などと疑いたくなってしまった。
    いや、最終的にロバートと怪物が対峙するので――【A】
    小説内現実として怪物は確かに実在したのですがね……。

  • 創造 主 よ、 土塊 から わたし を 人 の かたち に つくっ て くれ と 頼ん だ こと が あっ た か?   暗黒 から わたし を 起こし て くれ と、 お願い し た こと が あっ た か?
     この言葉が印象に残った。
     フランケンシュタイン博士を、よく文明の暴走のように比喩されることがある。 原子爆弾のように、それを生み出した為に人類に多大な被害をもたらした。
     それは科学者のエゴであり罪であるという議論だ。怪物を生み出したため、愛する人たち、自分をも殺された博士。化学は暴走する。少し読みにくい。名作ではある。

  • 「フランケンシュタイン(の怪物)」は、吸血鬼、狼男と並ぶ古典的な三大モンスターとして世界中で浸透し、今も〝娯楽の素材〟として流通している訳だが、唯一伝承や宗教的な典拠を持たず、一作家の創作から誕生したという点で、独創性に富み、尚且つ汎用性に優れている。

    1818年、シェリーが若干20歳の時に発表したゴシック小説。まさか後世に残る作品になるとは、作者自身も想像していなかったことだろう。実際、若書きのために小説としては拙い。構成が粗く、人物造形も浅い。往時には主流だった書簡体のスタイルもテンポが悪く、含蓄のある修辞も少ない。ただ、素人じみたまとまりのない恣意性は、逆に何でもありの発想で奇抜な世界を創り出し、連続する予想外の展開で読者を振り回す。
    〝原典〟の内容は、現在流布する「フランケンシュタイン」のイメージとは遠い。そもそも、幕開けの舞台が北極圏で、逃走する怪物をその創造主が追い掛けている、という異常なシチュエーションから始まるのだから。

    物語は、北極点に向かう英国人冒険家の船に、遭難しかけていたフランケンシュタインが救助されたのち、自らの過去を回想/告白する形で進行していく。野心に突き動かされた若い科学者による人造人間の創造。怪物を生み出すまでの過程が曖昧なのは止むを得ないとして、墓場から掘り起こした死人を繋ぎ合わせ、再び生命を吹き込んだ動機を明確にしていないのは、多少の倫理観に絡め取られた結果なのだろうか。物語は、人間の業に焦点を絞り、寓話的なエピソードを重ねていく。
    怪物を生み出した直後、恐怖に駆られた科学者は全てを放り出し、その場から逃げ出す。この時点で既に男の身勝手さに呆れ返るのだが、次々と近親者らが怪物に襲われる段になっても、自責の念に一切駆られることがない。中盤で、フランケンシュタインが怪物と語り合う長いシーンがあり、本作での山場ともなっているのだが、切々と創造主の独善、無責任を饒舌に非難する怪物に対して、科学者は何一つ悪びれることなく糾弾し、身内の不幸は己の狂気が引き起こした因果応報であることに思い至らない。遂には物別れとなり、互いを狩ることに没入するのである。恐らくこの辺りで、怪物は「犠牲者」であり、フランケンシュタインこそが「加害者」である、という逆転現象が起こる。

    不条理極まりない己の境遇に同情を求め、理解と幸福を得ようと虚しく〝生きる〟怪物は、醜悪な生体故に差別され虐げられていく。一方、〝人にあらざるもの〟に対して全責任を負うべきフランケンシュタインは、どこまでも利己的に罪過を否定し、暴力を用いて復讐に赴いた怪物の必然性を遺棄する。深層に於いて両者は表裏一体だが、最後まで互いを理解し合うことなく、未来に対して希望を灯すこともない。同様のテーマとして、後のスティーヴンソン「ジキル博士とハイド氏」で、怪物と人間が同一の身体を持つという、より怪奇性を強めた形で継承している。

    シェリーは、無神論者/無政府主義者の父親、フェミニストの母親という特異な家庭環境に育ったらしい。深読みすれば、その思想的なバックボーンが本作に影を落とし、〝異形〟の存在への畏怖、科学主義/信仰への警鐘を、内包していたと捉えることもできる。何れにしても、怪物と対比することで、人間の卑しさが生々しく浮かび上がるという〝怖さ〟は、作者が意図せずとも本作に刻み付けられていると感じた。

  • 少しずつ読んだので、時間がかかった。怪物の求めていたものは愛。ひとりで家で過ごす時間も多いだろうと思われるコロナ禍の今、怪物の寂しさがとても切なかった。

  • ここ最近読んだ本の中で群を抜いてで面白かった。
    文学の力を再認識。

    好奇心に突き動かされ夢中で悪魔を作った人間の苦悩と、作られた悪魔の苦悩。

    悪魔とフランケンシュタイン(以下フラン)の関係性は、不遇な状況にある子が親に「なんで自分を産んたんだ!」という怒りをぶつけるのと同じように思う。
    元々心優しい悪魔は不遇な状況が故にフランに復讐心を燃やし、一方のフランは悪魔の嘆きに応えようとする程に自分を破滅に追い込み、復讐心を燃やす。

    これは丁度人間を創造した神と、造られた人類の関係性にも似ている。不遇な人類はなぜ神々が我々を創造したのかを憂う一方で、神々は罪を犯す人類に禍をもたらす。

    そんな二項対立が延々と続く。
    親子が憎しみあい、時に生と死の狭間を彷徨いながらも復讐心を糧に生を選択し、物語が展開する。

    その中でフランは何度も自殺しようとするが、その度に生を選択する。人間は何かにつけて必死に生きようとするもんなんだな、と感心した。

    ところで、これまで僕は″悪魔″と言ってきたが、本当にその呼び名は適切なのだろうか?
    この作品を読んでいると、決してそうは思わなくなる。なぜなら″悪魔″は人間視点の言葉だからだ。悪魔からすれば醜い姿で自分を作り、また自分を排除する人間は″悪魔″なのだ。

    結局、自分とは異質の存在を″悪魔″という言葉で表現しているに過ぎない。たとえそれが悪ではなく、善の性質を持っていたとしても。

    『千と千尋の神隠し』のカオナシは、『フランケンシュタイン』における悪魔と同じ立ち位置にあると捉えられると思う。
    カオナシは元々千尋に優しくする善の存在として登場するが、千尋に好意を拒まれるや否や暴走し、彼女を追い回す。作品の鑑賞者である我々はカオナシを″悪魔″と認識する。しかし、カオナシからしてみれば、自分を拒む存在が″悪魔″なのだ。
    そして最終的には相互理解し、話は終わる。

    要するに、両作品に共通して言えることは「異質な存在である他者を相互理解する前に排除してはいけない!」ってことなんだと思う。

    当たり前かも知れないが、案外できないこと。例えば、日本人は外国人と相互理解する前に異質な存在と捉え、″悪魔″と思っていると言えないだろうか…?

    同様の例は山ほどあるはずだ。

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著者プロフィール

Mary Wollstonecraft Godwin Shelley.
(1797-1851)
政治思想家で作家のウィリアム・ゴドウィンと
女権拡張論者で作家であるメアリー・ウルストンクラフト
の間にロンドンで生まれる。
急進的思想を持ってゴドウィンの思想に共鳴した
ロマン主義詩人パーシー・ビッシュ・シェリーと
駆け落ちの末、結婚。
1818年に初の小説『フランケンシュタイン』を出版して
一躍有名になる。
その後、ゴシックな作品のみならず、歴史小説や
ヴィクトリア時代風の家族的なテーマを扱った小説、
さらには人物伝、旅行記など、多彩な執筆活動を行った。
そこでは西洋古典から同時代のヨーロッパ文芸にまで
至る該博な知識と、欧州様々な土地での体験が
ふんだんに発揮されている。
また、夫亡き後はその作品を整理して
詩集の編集・出版にも尽力した。

「2018年 『マチルダ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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