- 本 ・本 (368ページ)
- / ISBN・EAN: 9784334752231
感想・レビュー・書評
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【はじめに】
第四巻からいよいよ超越論的な弁証論として「理性」についての論考が始まる。
【超越論的な弁証論 - 理性・理念】
カントは認識における感性、知性、理性の関係を次のように説明する。
「わたしたちのすべての認識は、感覚能力に始まって知性を経由し、理性で終わる」
....知性は規則に基づいて現象を統一する能力であるが、これにたいして理性は原理のもとで知性の規則を統一する能力である。だから理性は直接に経験や、ある経験の対象にかかわるのではなく、知性に働きかけるのである」
さらに「理性推論」の構造について、規則(大前提・小前提)と理性の関係を次のように述べる。この前提構造は、第五巻のアンチノミーにおいて踏襲されるものである。
「あらゆる理性推論においてわたしは第一に、知性を使って一つの規則(大前提)を考える。第二にわたしは判断力を使って、ある認識をこの規則の条件のもとに包摂する(小前提)。最後にわたしは、理性を使ってアプリオリに、わたしの認識をこの規則の述語によって規定する(結論)」
理性は知覚したものの理解を超えて概念を把握する能力である。
「しかし理性の概念という名称だけからすぐに明らかになることがある。理性の概念は経験の枠組みには制約されないということである。
....知性の概念は(知覚したものを)理解することを目指すが、理性の概念は概念的に把握することを目指すのである」
カントはその理性を、(思考主体としての)心、(現象の系列としての)世界、(最高存在としての)神について超越論的な理念を与えるものであるとする。
「だからすべての超越論的な理念は、次の三つの理念に分類されることになる。第一の理念は、思考する主体の絶対的な(無条件的な)統一を含むものである。第二の理念は、現象の条件の系列の絶対的な統一を含むものである。第三の理念は、思考一般のすべての対象の条件の絶対的な統一を含むものである。
<思考する主体>は心理学の対象である。<すべての現象の総括>、すなわち世界は、宇宙論の対象である。思考しうるすべてのものの可能性の最高の条件を含む<物>、すなわちあらゆる存在者のなかの[最高の]存在者[=神]は、神学の対象である。
だから純粋な理性は、超越論的な心の理論(合理的な心理学)と、超越論的な宇宙論(合理的な宇宙論)と、超越論的な神についての認識(超越論的な神学)のそれぞれに、理念を与えるのである」
そしていよいよ序論でも述べた形而上学が解決すべき課題としての神、自由、不死について理性の能力によって洞察を進めていくのである。
「その本性からして、形而上学の探究の目的とするところは神、自由、不死という三つの理念だけである。第二の[人間の]自由という概念は、第一の神という概念と結びついて、その必然的な結論として第三の[霊魂の]不死という概念にたどりつく。形而上学が検討するその他すべての問題は、これらの理念の手段として、これらの理念に実在性を与えるための手段として役立つにすぎない。形而上学がこれらの理念を必要とするのは、自然科学の求めに応じるためではなく、自然を超えでるためである。形而上学がこれらの理念を洞察しえたならば、それによって神学と道徳哲学を、その両者によって宗教を、すなわちわれわれの存在の最高の目的を、ただ理性の思弁的な能力だけに依存させることができるようになり、他のものに依存させる必要はなくなるのである」
【まとめ】
感性と知性を経ていよいよ「理性」の議論に至る。形而上学の目的としての神、自由、不死について理性という武器を持つことで、いよいよその解明に当たる準備ができたというところだ。これまでの感性や知性の議論はそもそもの人間の認識の正しいプロセスを発見することにあるのではなく、この形而上学が解決をするべき三つの課題に対応するための道具立てのために必要な整備であったとも言えるだろう。そして、次の第五巻からは有名なアンチノミーの議論に踏み込んでいくのである。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
理性とは何か、弁証法、観念論、カテゴリー、合理的な心理学と、次々にでてくる難解なカントの議論だが、解説を「先に読む」とわりと分かりやすく理解できる。物自体を認識できず、認識できるのは現象だけ、という議論が繰り返され、これは僕の「感染症は実在しない」でも取り上げている。超越論的な観念論も「みなし」という点では、「お医者さんごっこ」に例示した「患者様が」医療を壊すの議論に通じている(と読めなくもない)。たぶんね。
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いよいよ本筋のデカルト批判に入る。やはり難解で、本書以外の他の解説も必要だ。本書は解説が細分化されすぎていて、全体の位置づけが分かりにくい。
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「批判」の内容からすれば、人間の客観認識を構成するメカニズムを詳解する「超越論的感性論」から「原則論」までが前半とするなら、理性の限界を論ずる本第4分冊の「超越論的弁証論」以降が後半ということになるだろう。しかし実際の章立ては大きく「Ⅰ. 超越論的原理論」と「Ⅱ. 先験的方法論」の2部構成であり、全体の8割が前者に含まれている。こういう章立ての奇妙さも「批判」を近寄り難いものにしている要因だと思う。
本分冊で焦点が当てられるのは「理性」。純粋理性概念、即ち〈理念〉を利用して知性の働きに統一を与えながら、事象の原因を際限なく遡上し〈無条件的なもの〉の探究に邁進するという本性を持つ。この理念はちょうど知性におけるカテゴリーに対応する働きを持つが、後者が〈構成的〉(経験対象を拡大)であるのに対し、この理念は〈統制的〉(経験を理念に包摂)な性格を持つ。逆にいえば、理念は経験を統制することはできるが経験の対象を超えて認識を拡大させることはできない、ということになる。それでいて因果の系列をより高次なレベルに遡り〈無条件的なもの〉の把握に至ろうとするのだから、この純粋理性の能力は大きな誤謬の可能性を孕んでいるのでは?というのが主論だ。
ここで扱われるのが、「批判」内で何度も立ち現れてくるテーマの一つである「誤謬推論」。〈規定する自己=思考する私〉と〈規定される自己=認識する私〉を混同し、2つの命題をつなぐ媒介概念として使用してしまうため、過剰な結論を導いてしまう推論形式のことだ。こうすると、経験によらない分析的命題から経験を伴うはずの総合的命題が出てきてしまう。ここでもやはり批判の対象としてあげられるのはデカルト的観念論であり、〈わたしは思考する〉という命題そのものは成り立つが、内的直感には持続する他の物(=基体?)への参照が伴わないため、ここから直接「〈わたし〉は他者や肉体といった外界から独立して存在可能」という命題は導けない。だからデカルト的「思惟=実体」という推論は誤謬だというわけだ。確かに〈わたし〉が直感可能な客体だとすると、では〈わたし〉を直感しているの別の〈わたし〉がいるのか?という話になり、これは無限後退を必然的に導いてしまう。
「批判」の中で本第4分冊の扱う範囲は比較的短いのだが、解説では初版における観念論と唯物論に対するカントの反駁が詳細に扱われており、結構な読み応え。カントは一貫して思惟主体に客体性・実体性を与える(つまりカテゴリーを適用して認識の対象とする)ことには強く反対している。このことにより、例えば「心身問題」「自由意思」「目的論」といった諸問題について理性が究極原因を追求してしまい、予定調和や不滅の霊魂などの過剰な結論を導いてしまうことを回避するのだが、ここで重要なのはカントが経験の範囲内でのマイルドなデフレ的決定論・目的論は認めているということであり、それがカントのその後の著作の中で「道徳」や「使命」などの重要なテーゼとして立ち現れてくるのだろう。 -
134-K-4
文庫(文学以外) -
訳:中山元、原書名:KRITIK DER REINEN VERNUNFT(Kant,Immanuel)
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貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784334752293 -
ブックファースト渋谷文化村通り店で買いました。
読み始めました。
(2013年6月6日)
「初版の誤謬推論」は、文章、論理の運びが美しい。
酔いますね、これには。
(2013年6月19日)
読み終えました。
(2013年6月20日) -
狭義の「理性」の領域へと話題は移り、いよいよこの著作の核心部分に入っていゆく。
この巻で非常に興味深いのは<わたし>なるものについての考察である。この<わたし>は、人格とも「こころ」とも異なる、単なる「思考の主体」である。その上でカントはデカルトを論駁し、「我思う、故に我あり」という命題の論理的破綻を指摘、心身二元論をも批判する。
だがカントの思考をたどってゆくと、「他者」なるものの確かさが危うくなる箇所がある。
あの頑迷で尊大で、愚かな中島義道を独我論に導いたと思われる一節も見られる。
「[思考する存在という]対象は、このわたしの自己意識を他の物に<移す>ことによって成立したにすぎない。」(P.108)
しかしこれは私の考えでは倒錯である。
人間は他者たちとの共同性から出発するのであり、<わたし>が出現するのは<他者>がそこにあって思考し、<わたし>にまなざしを向けるその地点からなのだ。だから<わたし>の方が後から現出した「仮象」なのではないかと私は疑う。
それはともかく、デカルトを堂々と批判した点においてこの巻は痛快だった。なるほどカントには、決して古くさくはない面が存在する。
さて次巻は例のアンチノミーだ・・・。 -
超越論的な弁証論の巻。
「わたしは考える」という命題の特殊性。これに尽きる巻です。
合理的な心理学という枠組みを得ることによって理解しやすくなったです。
著者プロフィール
イマヌエル・カントの作品





