- Amazon.co.jp ・本 (366ページ)
- / ISBN・EAN: 9784334752231
作品紹介・あらすじ
超越論的な分析論を終え、いよいよ超越論的な弁証論が始まる。この巻では、理性の誤謬推論として、心が実体(存在するもの)で、単純(分割できない)であり、破壊できないものであり、不死のものとして身体の死後も滅びることがないという伝統的な形而上学の霊魂論が批判される。
感想・レビュー・書評
-
理性とは何か、弁証法、観念論、カテゴリー、合理的な心理学と、次々にでてくる難解なカントの議論だが、解説を「先に読む」とわりと分かりやすく理解できる。物自体を認識できず、認識できるのは現象だけ、という議論が繰り返され、これは僕の「感染症は実在しない」でも取り上げている。超越論的な観念論も「みなし」という点では、「お医者さんごっこ」に例示した「患者様が」医療を壊すの議論に通じている(と読めなくもない)。たぶんね。
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
いよいよ本筋のデカルト批判に入る。やはり難解で、本書以外の他の解説も必要だ。本書は解説が細分化されすぎていて、全体の位置づけが分かりにくい。
-
「批判」の内容からすれば、人間の客観認識を構成するメカニズムを詳解する「超越論的感性論」から「原則論」までが前半とするなら、理性の限界を論ずる本第4分冊の「超越論的弁証論」以降が後半ということになるだろう。しかし実際の章立ては大きく「Ⅰ. 超越論的原理論」と「Ⅱ. 先験的方法論」の2部構成であり、全体の8割が前者に含まれている。こういう章立ての奇妙さも「批判」を近寄り難いものにしている要因だと思う。
本分冊で焦点が当てられるのは「理性」。純粋理性概念、即ち〈理念〉を利用して知性の働きに統一を与えながら、事象の原因を際限なく遡上し〈無条件的なもの〉の探究に邁進するという本性を持つ。この理念はちょうど知性におけるカテゴリーに対応する働きを持つが、後者が〈構成的〉(経験対象を拡大)であるのに対し、この理念は〈統制的〉(経験を理念に包摂)な性格を持つ。逆にいえば、理念は経験を統制することはできるが経験の対象を超えて認識を拡大させることはできない、ということになる。それでいて因果の系列をより高次なレベルに遡り〈無条件的なもの〉の把握に至ろうとするのだから、この純粋理性の能力は大きな誤謬の可能性を孕んでいるのでは?というのが主論だ。
ここで扱われるのが、「批判」内で何度も立ち現れてくるテーマの一つである「誤謬推論」。〈規定する自己=思考する私〉と〈規定される自己=認識する私〉を混同し、2つの命題をつなぐ媒介概念として使用してしまうため、過剰な結論を導いてしまう推論形式のことだ。こうすると、経験によらない分析的命題から経験を伴うはずの総合的命題が出てきてしまう。ここでもやはり批判の対象としてあげられるのはデカルト的観念論であり、〈わたしは思考する〉という命題そのものは成り立つが、内的直感には持続する他の物(=基体?)への参照が伴わないため、ここから直接「〈わたし〉は他者や肉体といった外界から独立して存在可能」という命題は導けない。だからデカルト的「思惟=実体」という推論は誤謬だというわけだ。確かに〈わたし〉が直感可能な客体だとすると、では〈わたし〉を直感しているの別の〈わたし〉がいるのか?という話になり、これは無限後退を必然的に導いてしまう。
「批判」の中で本第4分冊の扱う範囲は比較的短いのだが、解説では初版における観念論と唯物論に対するカントの反駁が詳細に扱われており、結構な読み応え。カントは一貫して思惟主体に客体性・実体性を与える(つまりカテゴリーを適用して認識の対象とする)ことには強く反対している。このことにより、例えば「心身問題」「自由意思」「目的論」といった諸問題について理性が究極原因を追求してしまい、予定調和や不滅の霊魂などの過剰な結論を導いてしまうことを回避するのだが、ここで重要なのはカントが経験の範囲内でのマイルドなデフレ的決定論・目的論は認めているということであり、それがカントのその後の著作の中で「道徳」や「使命」などの重要なテーゼとして立ち現れてくるのだろう。 -
134-K-4
文庫(文学以外) -
哲学書を読むことのメリットは、普段何気なく使っていて気にもとめない言葉「感性、知性、理性」について明確な認識を得ることができることだと思う。
純粋理性批判第4分冊。第4冊目でようやく、タイトルにある「理性」の本格的な考察が始まる。これまで、知性、感性に関する考察が進められてきた。
数学や物理学などに代表される自然科学は、あくまで我々が獲得した経験から規則を作り出すという意味において知性の領域であった。それに対して理性とは我々にとって目標とするもの「理念」に到達するための推論の系列と考えることができる。したがって、無条件に正しいとされる「理念」が重要な意味を帯びてくる。
「理念」が現実的でないという理由で却下してしまい、経験から得られた規則に従って、法律を制定すれば有害である。その意味で立法、行政に携わる者には「理性」が必要なのだろう。
よく「みんながやっているからこうするのが当然なんだ。」という事を言う者がいるが、知性が経験に関わるものであるという意味で知性的発言ではあるが、理性的ではないことは、この批判から明らかだ。
知性とは規則を作る力であり、理性とは原理を作る力である。原理とは、究極の理念を目指してなされる理性推論の系列のことであり、車、発電所を生み出した工学も理性に属する学問である。要するに熱力学の法則や質量とエネルギーの等価性といった規則だけでは、発電所や車を生み出すことはできなかった。発電所や車はこういった規則からなる系列としての原理であることが理解されるべきだ。
実体のカテゴリーについてよく分からなかったのだが、核分裂反応における質量欠損を考えてみるとなるほどと思った。
知性、感性、理性の違いがだんだん分かってきた。
蛇足ではあるが、ライプニッツの機会原因説が神を媒介することを指摘されたときのライプニッツの投げやりな態度が面白い。「それでよござんすよ」 -
訳:中山元、原書名:KRITIK DER REINEN VERNUNFT(Kant,Immanuel)
-
貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784334752293 -
ブックファースト渋谷文化村通り店で買いました。
読み始めました。
(2013年6月6日)
「初版の誤謬推論」は、文章、論理の運びが美しい。
酔いますね、これには。
(2013年6月19日)
読み終えました。
(2013年6月20日) -
狭義の「理性」の領域へと話題は移り、いよいよこの著作の核心部分に入っていゆく。
この巻で非常に興味深いのは<わたし>なるものについての考察である。この<わたし>は、人格とも「こころ」とも異なる、単なる「思考の主体」である。その上でカントはデカルトを論駁し、「我思う、故に我あり」という命題の論理的破綻を指摘、心身二元論をも批判する。
だがカントの思考をたどってゆくと、「他者」なるものの確かさが危うくなる箇所がある。
あの頑迷で尊大で、愚かな中島義道を独我論に導いたと思われる一節も見られる。
「[思考する存在という]対象は、このわたしの自己意識を他の物に<移す>ことによって成立したにすぎない。」(P.108)
しかしこれは私の考えでは倒錯である。
人間は他者たちとの共同性から出発するのであり、<わたし>が出現するのは<他者>がそこにあって思考し、<わたし>にまなざしを向けるその地点からなのだ。だから<わたし>の方が後から現出した「仮象」なのではないかと私は疑う。
それはともかく、デカルトを堂々と批判した点においてこの巻は痛快だった。なるほどカントには、決して古くさくはない面が存在する。
さて次巻は例のアンチノミーだ・・・。