純粋理性批判 (5) (光文社古典新訳文庫)

  • 光文社 (2011年5月12日発売)
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  • 本 ・本 (440ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334752293

感想・レビュー・書評

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  • 【はじめに】
    第五巻では、有名な四つのアンチノミーとその帰結について解説される。

    【純粋理性の弁証論的な推理】
    カントは、世界に関する二律背反する四つの命題(アンチノミー)を次のとおり挙げる。
    ■ 第一アンチノミー (世界の時空間は有限か無限か)
    定立命題: 世界は時間的な端緒をもち、空間的にも限界によって囲まれている
    反定立命題: 世界は時間的な端緒をもたず、空間的な限界をもたない。世界は時間的にも空間的にも無限である。
    ■ 第二アンチノミー (世界の基本要素は存在するか)
    定立命題: 世界において、合成された実体はすべて単純な部分で構成されている。また世界には、単純なものか、単純なものから合成されたものしか現存しない。
    反定立命題: 世界のうちのいかなる合成されたものも、単純なものではない。だからまた世界のうちには単純なものはまったく現存しない。
    ■ 第三アンチノミー (自由意志は存在するか)
    定立命題: 自然法則に基づいた因果関係が、世界の現象の全体を説明できる唯一の因果関係ではない。現象を説明するためには、自由[意志]に基づいた因果関係についても想定する必要がある。
    反定立命題: 自由[意志]というものは存在せず、世界ではすべてが自然法則だけによって生起する。
    ■ 第四アンチノミー (世界に「神」は存在するか)
    定立命題: 世界にはその一部であるか、その原因であるような絶対に必然的な存在者が含まれる。
    反定立命題: 世界のうちにも、世界の外にも、原因として絶対に必然的な存在者などというものが現存することはない。

    カントは、いずれのアンチノミーにおいても、本来両立しえない定立命題と反定立命題の両方が背理法により証明していく。そのことはつまり、これらのアンチノミーは理性の範囲内ではどちらであるかを確定しえないとするのである。

    【世界の有限性について】
    例えば、世界においては永遠に過去を遡ることの不可能性をもって「無限」の概念をわれわれの理性はうまく扱うことができないとしている。
    「第一に、世界は端緒をもたないと想定してみよう。すると世界はわたしたちの知性の概念にとっては大きすぎることになる。わたしたちの知性は[原因の系列を]連続的に背進していくことで、世界の端緒に到達するはずなのに、過ぎ去った永遠の時間のすべてを完全に遡ることはできないからである。反対に世界には端緒があると想定してみよう。すると世界は必然的に経験的な背進をつづけようとする知性の概念にとっては、小さすぎることになる。というのは<端緒>という概念は、つねにそれ以前に存在していた時間を想定するものであり、この<端緒>そのものはまだ無条件なものではないことは明らかだからである。そして知性の経験的な使用の法則によって、さらに高次の時間の条件を探さざるをえなくなる。だから世界はこの[知性の使用の]法則にとっては、明らかに小さすぎるのである」

    「「世界は無限であるか、有限(無限の否定)であるかのどちらかである」と主張した場合には、この両方が偽である可能性がある。どちらの主張でも、世界がそれ自体において量的に規定されていると考えているからである。この判断における対立命題においてはわたしは、たんに無限性を否定するだけでなく、そして無限な状態でまったく独立して現存するすべてのものを否定するだけでなく、それ自体で現実的なものである世界に[有限性という]一つの規定をつけ加えているのである。しかしこのような規定をつけ加えるのは偽であることがある。というのは世界が物自体として与えられていない場合があるはずだからであり、すなわち世界が量的にみて、無限なものとしても有限なものとしても与えられていない場合があるはずだからである。
    たがいに対立する命題がこのようにいずれも偽であるような対当を弁証論的な対立と名づけ、本来の矛盾対当的な対立を分析的な対立と名づけることを認めていただきたい。このようにたがいに対立した判断のどちらも偽であることがありうるのである。それは一方が他方に矛盾しているだけでなく、矛盾するために必要な事柄を超えたことを主張しているからである」

    カントは、二律背反の問題は現象のレイヤでは解決することができず、「物自体」の世界においてはその制約からは解放されているがゆえにそのようなことが発生するのだと主張する。
    「このようにして、宇宙論的な理念において示された純粋理性の二律背反が解消された。この二律背反は、たんに弁証論的な対立にすぎず、仮象のあいだの抗争にすぎないことが示されることで解消されたのである。この仮象は、物自体のみにとっての条件である絶対的な全体性という理念を、現象に適用したために生まれたものだった」

    世界そのものは現象ではなく、空間と時間の限界も感性界の形式であり、世界そのもの(物自体の世界)はこれによって限界づけられるものではないのである。そして、それは同時に理性の範疇を超えているものなのである。
    「世界は、そしてすべての現象の総括は、それ自体で現存する全体であるという主張も偽である。このことからも、現象一般は、わたしたちが心に思い描いた像の外部では<無>であることは明らかである。現象の超越論的な観念性とはまさにこのことを意味しているのである」
    ....端緒というものはすべての時間のうちに存在するし、広がりのあるものの限界というものはすべての空間のうちに現存する。しかし時間と空間は、感性界のうちのものである。だから世界のうちの現象だけが、条件づけられるという形で限界をもつのであり、世界そのものは条件づけられるという形でも、無条件的にも、限界をもつものではない」

    【自由意志について】
    第三アンチノミーで扱われた自由意志は、近代西洋社会を根拠づけるものであり、切実な議論でもあった。ニュートン力学が一世を風靡し、原因と結果の一意性に対して物事がどうなるかは力学的に決定されているのか(自由意志はない)、物事の系列を何もないところから始める自由意志は存在可能なのかがここでは議論されている。
    「これにたいしてわたしが宇宙論的な意味で自由と言うとき、それはみずからの力で新しい状態を引き起こすことのできる能力を意味しており、だからこの自由の原因の原因性は、自然法則にしたがって、時間においてそれを規定するような別の原因に服するものではない。この意味では自由は純粋に超越論的な理念であり、次の二つの特徴がある。第一に、この自由は経験から<借りた>ものをもっていない。第二に、自由[な行為]の対象は、経験のうちで規定されて与えられることができない。
    ....そうだとすると、因果関係のうちの条件の絶対的な全体性を自然のうちに求めることができないことになるから、理性は自発性という理念を作りだしたのである。これは、それ以前に別に原因が存在していて、この原因が自発性の作用を因果関係の結びつきの法則にしたがって規定しなくても、みずから作用を始めることのできる能力である」

    カントは、人間の選択において自由意志は存在するとする。人間にはそのような能力が備わっていると明確に主張するのである。
    「人間の選択意志は<感性的な選択意志>ではあるが、<動物的な選択意志>ではなく、<自由な選択意志>である。人間の選択意志は[感性的なものによって]その行為を必然的なものとされていないからである。人間にはある能力が宿っていて、それによって感性的な衝動による強制から独立して、みずからを規定することができるのである。
    これはすぐに理解できることなのだが、もしも感性界におけるすべての原因性が、たんに自然による原因だけによるものだとしたら、すべての出来事は時間のうちで必然的な[自然]法則にしたがって、ほかの出来事によって規定されているだろう。だから現象が選択意志を規定するのであれば、人間のすべての行為は超越論的な自由というものは否定され、すべての実践的な[すなわち道徳的な]自由というものも根絶されてしまうのである。
    実践的な自由というものは、実際にはあることが起こらなかったとしても、それは当然に起こるべきであったということを前提とする。現象におけるそのあることの原因というものは、[人間の意志を]必ずしも全面的に規定するものではなく、人間の選択意志には、もっと別の因果関係が潜んでいることを前提としいるのであり、こうした自然の原因の暴力と影響力に抗してでも、[新しい]出来事の系列をまったく自発的に開始することができるのである。ただし[このように自発的に始められた出来事もまた]経験的な法則にしたがって時間の秩序のうちに含まれるのである」

    そういった観点で、自由意志の存在は心理学ではなく、超越論的な哲学の問題と言えるのである。
    「だから自由は可能かどうかという問題は心理学にかかわる問題ではあるが、端的に純粋な理性の弁証論的な論拠に依拠するものであるため、この問題を提起し、解決する役割をはたすことができるのは、ただ超越論的な哲学だけである。超越論的な哲学はこの問題にたいして満足できる回答を拒むことはできないのだから、超越論的な哲学がその課題をはたせるように、ここでわたしは、超越論的な哲学がこの課題を遂行するための手続きについて考察しながら、さらに詳細に規定しておかねばならない」

    自然科学の進展は一方で自由意志の問題を引き起こした。カントは「自由は原因性の自然法則の一般性と両立する」と宣言する。
    「ここでわたしたちは、自然と自由の問題に関して、すぐに次のような困難な問題に直面することになる。すなわち、そもそも自由というものが可能なのかどうか、自由が可能だとしたら、自由は原因性の自然法則の一般性と両立することができるのだろうか、そして「世界において発生したすべての作用は、自然の原因から生まれるのか、それとも自由の原因から生まれるのか、そのどちらかである」という選言的な命題が正しいものか、それとも同じ出来事をそれぞれに異なる関係において眺めることによって、二つの命題は両方とも成立するのではないか、という問題である」

    人間は新しい系列を叡智的な原因となって始めることができるというのがカントの主張である。ここでも、現象だけを見ると自由は否定されるが、現象の背後にあって人間は自由意志をもつと言えるのである。
    「このようにして自由と必然は、同じ行為について、それを叡智的な原因と比較するか[そのとき行為者は自由である]、感性的な原因と比較するか[そのとき行為者は自然の法則にしたがう]によって、いかなる矛盾もなく、そのほんらいの意味において両立するのである」

    カントは、理性は仮象の二律背反に縛られることなく自由をもつものであるとする。ここにおいて慎重に定めてきた理性の限界とともにこの後の西洋社会に影響を与える理性の特権性もまた生まれるのである。
    「ここでは自由はたんなる超越論的な理念として考察されているのであって、理性はこの自由という理念を使うことで、現象における条件のある系列を、感性的な条件にしたがわないものによって始めようとするのである。そのときに理性はみずからの法則と、すなわち理性が知性の経験的な使用のために定めた法則と、二律背反的な状況に陥る。しかしこの二律背反はたんなる仮象にすぎず、自然は自由による原因性と少なくとも矛盾しないこと、それがわたしたちがここで示すことのできたことであり、示そうと考えてきた唯一のことなのである」

    【神の存在について】
    カントは続いて第四アンチノミ―で矛盾を生じた神の存在についても経験を超えた論理においてその存在の可能性を言明するのである。
    「だからわたしたちが考察している見掛けだけの二律背反には、一つの抜け道が開かれているのである。すなわちこれらのたがいに矛盾しているようにみえる命題も、異なった関係においては同時に真でありうるのである。そして感性界に含まれるすべての事物は完全に偶然的なものであり、経験的に条件づけられた現存しかもたないものであるが、その系列の全体については、経験的ではない条件が、すなわち無条件に必然的な存在者が存在しうるのである」

    つまり二律背反を生じさせたのは経験の対象の範囲を超えるものに対して
    「ところでわたしたちは偶然的なものを経験によって認識するのであるが、ここで問題になっているのは経験の対象となるはずがない物[=神]なのである。だからわたしたちはこうしたものについての知識を、それ自体として必然的なもの、すなわち物一般の純粋な概念から引きだしてくるしかなくなる。このようなわたしたちが感性界の外に最初の一歩を踏みだすとともに、わたしたちは絶対的に必然的な存在者について調べ始めて新しい知識を獲得し、この存在者についての概念から、まったく叡智的なすべての物についての概念を導きだすことを試みずにはいられないのである。わたしたちが次の章で試みるのは、この作業である」

    【まとめ】
    アンチノミーに対する背理法による「証明できないことの証明」は、後のゲーデルが数学の領域においても証明できない命題が存在することを証明したことを聞いたとしたらどう思うのだろうか。カントはもちろん、証明できないことを証明したいのではなく、これらの二律背反は仮象のものであり、感性-現象-経験の範疇において二律背反に陥るものが、物自体-叡智界の領域において決して二律背反を生じるものではないと主張するために持ち出したのである。
    四つのアンチノミー自体は、現代科学の進展によって自然科学的観点から具体的な議論が可能なものの存在する。世界が有限かどうかについては、時間についてはビッグバンによって宇宙は開闢されたことがほとんど確実視されている。空間については相対性理論と膨張宇宙論によって有限ではあるが境界はないとされている。もちろん、ビッグバン以前の世界や、この宇宙の外側を考えたときに同じようなアンチノミーの議論を継続させることができるかもしれないが、そうなるとまた違った形での議論にもなるだろう。世界の要素については、少なくともこの宇宙においては物理的特性が普通の物質とはまったく違うものではあるが、素粒子が基本構成要素であることが科学的事実として共有されている。自由意志については、意識は無意識の決定を後から自ら決定しているように認知しているだけだということも言われている。一方で決定論的な自由意志の否定については仮にそうであったとしてもあまりにも複雑すぎるがゆえに実際には時間を進めている以上に早く決定論的な結論を正しく計算することは不可能であるということから決定論的であったとしてもそれは決定論的ではないとはいえるだろう。神の存在について、それが存在しない方が世界をよりよく説明できると思われる。

    おそらくアンチノミーの議論自体は色あせたところはあるだろう。しかしながらカントが目的とするところは西洋社会の根拠づけとしての自由意志の存在とその根拠(最高存在)なのであり、そのこと自体は現代においても明確に否定されてはいないのかもしれない。
    アンチノミーの議論は、それ自体が忘却されたとしても、そこから導かれた結論はその後の西洋的民主主義社会の成立に影響を与えたという点で画期的なのである。

  • アンチノミーについてがメイン。比較的わかりやすい。

  •  本第5分冊の帯には「最大の難所、あのアンチノミーがついに理解できる」とある。アンチノミー。この歳になるまで全く知らなかった言葉だが、それほどまでに重要な概念なのだろうか。ともかく読み進める。

     前分冊に引き続き、主眼は経験を超越しようとする理性の批判。西洋形而上学における「世界が絶対的・無条件的全体性を有する」という理念はどこから出てくるのか。カントは経験可能な総体としての「世界」と、現象が全体性を持つための条件としての「自然」からこの問題にアプローチするが、それぞれ対応するカテゴリーを2つずつ当てがうため、検討するアンチノミーも4つになっているというわけだ。

     ここで「無限」の概念が重要な役割を果たすのが個人的には意外だった。
    ①全体性を担保する〈無条件者〉が系列に含まれる場合は、スピノザの神即自然よろしく系列全体が無条件ということになり、理性の無条件なものへの遡求(系列の背進)は〈無限への背進〉になる。
    ②無条件者が系列の外部に独立して存在する場合は、系列全体がこのライプニッツ的な神に従属することになり、系列の背進は〈不定への背進〉ということになる。
     正直なところ、特に①の前提となっている「無限でありながら全体が把握可能な系列」というのがよくわからない。無論、有限な系列全体を説明するのに無限回のステップでこれを行う、ということなら理解できる。しかしここで言われているのは、「世界全体が把握される前からそれが無限であることが諒解されている」という事態だ。無限であることが初めからわかっているシステム、とは一体どういうことなのか。カントのロジックからすれば、無限のような経験を超越した概念をいきなり直感する能力を持つのは、ヌーメノンを把握できる神のような叡智的主体に限られるのではなかったか?無限/有限という排中律が前提であるからこそこのような議論になるのであって、「そもそも有限か無限かは経験してみなければわからない」のだとしたら、ここでの議論は成り立たないのではないだろうか。

     ともかく、ここから4つのアンチノミーの定立/反定立命題それぞれの証明が行われるのだが、先述の無限を巡る議論に加え、それぞれ帰謬論(背理法)を用いているため論理の流れが非常に煩雑でわかりにくい。しかも、そもそも使用されるロジックも納得感のあるものとは言い難いのだ。例えば第一アンチノミーの定立命題で言えば、無限の時間が経過したと仮定→無限の時間は完結しない→現在の世界も生じないはず、として世界の端緒の存在を背理的に証明するのだが、現在の世界を無限時間の完結後の姿だと断定する根拠が明らかに脆弱だ。現在の世界は無限前進の最中の過渡的な姿だと見れば、無限の時間が存在する(端緒はない)ことに矛盾はない。このロジックは他のアンチノミーの議論にも用いられているので、4つのアンチノミーに関する議論全ての存立基盤が怪しい、ということになってしまう。

     だから、ここから論ぜられるアンチノミーの誤謬の指摘(二律排反の解消)も、論理的にかなり頼りないものと言わざるを得ない。各命題は現象と物自体を混同している、とカントはいうが、そのカント自身による各命題の証明自体が「無限の系列の全体」という物自体を前提を認識可能だとする、純粋/経験的カテゴリーを混同したものなのだから当然だろう。またアンチノミーが実は矛盾対等ではないとの指摘についても、各命題の証明で排中律をおきながらその検証では否定するというのでは、そもそも検証になっているのだろうかという疑問が湧く。

     全般的にみて「カントのアンチノミーの議論は〈無限〉の取り扱いを誤っている」というのが僕の感想。過ぎ去った時間の総体などのような「無限の系列の全体」という自家撞着した概念を前提とすれば、矛盾を含む結論を導出するのは容易なので、ここで行われていることがすごく意味のあることだ、とは少なくとも僕には思えなかった。砂の山を作って自らそれを壊しているだけに思えてならないのだ。当時のキリスト教神学に与えた打撃が相当のものであったろうことは理解できるが、結局のところ「どっちとも言えない」という結論もなんとなく拍子抜けしてしまう。

     ただそうは言っても、素人の僕にここまで疑問を持たせるのだから、この箇所の読み応えは相当なものと言っていいと思う。これから何度も読み返す分冊になりそうだ。

  • 134-K-5
    文庫(文学以外)

  • 原書名:KRITIK DER REINEN VERNUNFT

    超越論的な原理論(超越論的な論理学)

    著者:イマヌエル・カント(Kant, Immanuel, 1724-1804、ロシア・カリーニングラード、哲学者)
    訳者:中山元(1949-、東京都、哲学者)

  • 貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
    http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784334752293

  • amazon で注文します。
    (2013年6月17日)

    届きました。
    (2013年6月19日)

    二律背反がわかるという帯の言葉はウソではないらしい。(2013年6月30日)

    読み終えました。
    (2013年7月11日)

  • 二律背反の巻。なんとなーくうさんくささを感じるのは私だけですかね。あと、ようやく身体性のある話になってきたなぁとほっとしております。

  • 有名な「四つのアンチノミー(二律背反)」が載っている巻。
    あまりにも有名で、解説書の類にもよく書かれているが、再読してみて、さほど面白くなかった。定立、反定立ともに全部詭弁に見えてしょうがなく、退屈してしまった。
    なまじ解説書等で馴染んでしまったのでこう感じたのだろうか?
    この巻は何となくぼんやりと読み流してしまった。
    そろそろ疲れてきたかな・・・(笑)

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著者プロフィール

1724-1804年。ドイツの哲学者。主な著書に、本書(1795年)のほか、『純粋理性批判』(1781年)、『実践理性批判』(1788年)、『判断力批判』(1790年)ほか。

「2022年 『永遠の平和のために』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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