純粋理性批判 5 (光文社古典新訳文庫 Bカ 1-6)

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  • Amazon.co.jp ・本 (431ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334752293

作品紹介・あらすじ

世界には時間的な始まりがあるか、空間的な限界はあるか。世界は無限に分割できるか、それ以上は分割できなくなるのか。人間に自由はあるか、それとも必然的な自然法則にしたがうだけなのか。そして、世界には必然的な存在者(=神)が存在するのかどうか。この四つの「二律背反」を考察する。

感想・レビュー・書評

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  • ようやく何をやるためにここまで読んできたか、1つ意味を見い出せた巻だった。

    1、2巻では人間の感性と知性について説明。
    世界の受容の仕方に人類共通の形式があることを示した。
    3巻では現象を他者と共有するには、感性と知性の協力(想像力)が必要なことを指摘。
    知性だけで独断することの危うさを示した。
    4巻は人間の自我、心について説明。
    人類共通で世界に法則(理想)を見つけたい欲望があることを示した。
    5巻では人類が受容できる以上の世界を話し合うことの難しさを語っている。
    それと同時に、それを行なわざるをえない人類共通の性を指摘している。
    また、人類が共有できる一定の法則(理想)=道徳が存在していることにも触れていた。


    もしかしてカントは自然の中で、その秩序に逆らって自由にふるまえる人間という存在を明らかにするために、理性について明らかにしようとしたのかな?


    以下、読書中のメモ

    原因を探る→弁証?
    推論する→帰納

    P35
    4つの理念
    1. 量一すべての現象の与えられた全体の合成の絶対的な完全性
    2.性質一現象において与えられた全体の分割の絶対的な完全性
    3.関係一現象一般の発生の絶対的な完全性
    4.様態一現象における〈変化するもの〉の現実存在の依存性の絶対的な完全性
    P44
    1.2は世界概念
    3.4は自然概念

    P41
    世界と自然
    世界一数学的
    合成、分割
    自然一力学的
    現実存在、原因

    P44
    世界概念
    この理念は「感性界だけにかかわるものの、この総合を推し進めるあまり、すべての可能な経験を超え出てしまう」

    P91
    自由≒自然法則?

    P133
    プラトン=独断論
    エピクロス=経験論

    P163
    この服はAさんが着るには小さすぎる
    →Aさんは基準(伸び縮みしてはいけない)

    理念は経験的な概念にとって
    大きすぎる/小さすぎる

    概念に実在性を与えるのは経験だから、基準となるのは経験的な概念でなくてはならない

    P170
    我思う、故に我あり
    じゃなくて
    私が外部を思い描くから、その空間と時間は存在するってことかもな

    P186
    対当関係
    すべての物体はよい匂いを放つものであるか、悪い匂いを放つものであるか、そのどちらかである
    →そのどちらでもない第三の命題が成立

    矛盾対当関係
    すべての物体はよい匂いを放つか、よい匂いを放つわけではない
    →いかなる匂いも放たない物体も含まれるため、正しい

    先の4つの命題は対当関係
    →物自体を扱えないという第三の命題が立つため
    →人は現象を経験することしかできない

    P194
    理性は究極の理由を与えるものではない
    究極の理由を求め続けるものである

    p270 >最も印象に残った一文「悪質な嘘つき」
    「ある人が嘘をついたことを非難できるのは、その人の生育環境など過去のことを全て考慮に入れない、絶対的に変わらない『理性』があると人々が考えているため」

    p339
    自己の心
    内的な直感
    考える〈わたし〉の単一性

    p343
    自然法則とは異なる因果関係、原因
    「超越論的な自由」

    p377
    「カントはこのように三つの見地(実践的な関心・思索にかかわる関心・通俗性)から、独断論と経験論のそれぞれの利点と欠点を比較対照してみせる。宗教と道徳という実践的な見地からは、独断論が大衆のためには望ましいが、経験論は大衆の熱狂をさますための鎮静剤として好ましいというのが、カントのここでの暫定的な判断である。」

    p388 数学の命題(論理学)の話
    全称命題「すべての道はローマに続く【A】」
    →否定「すべての道はローマに通じない【B】」

    特称命題「一部の道はローマに続く【a】」
    →否定「一部の道はローマに続かない【b】」

    AとBは「反対対当」
    両方が真であることができないが、両方が偽であることができる
    →数学的な二律背反(1、2/世界が無限か有限か、世界は単純なものに分けられるか)はこれ。ともに偽でありうることを指摘。
    aとbは「小反対対当」
    ともに真でありえる
    →力学的な二律背反(3、4/自由はあるか、神はいるか)はこれ。ともに真でありうることを指摘。
    >カントは「弁証論的な対立」と名づけた

    Aとbは「矛盾対当」
    どちらかが真である時、どちらかが偽である(矛盾)
    >「分析的な対立」

    p393
    「構成的な原理」
    数学的
    経験的な総合から独立した客観的な実在性(概念)を構成できる
    「全体の系列が経験的に与えられている」(アプリオリ?)
    〈無限〉への遡行→ヘーゲル「真の無限」

    「統制的な原理」
    力学的
    「経験的な背進」の進行の規則を統制
    「完結したものとみなしてはならない」
    〈不定〉への遡行→ヘーゲル「悪無限」
    →1、2の二律背反は〈不定への素行〉
    <そういや、物理学的な問題だなぁ

    p405 3の二律背反の説明
    自由とは
    「みずからの力で新しい状態を引き出すことのできる能力」
    経験から借りたものをもっていない
    自由な行為の対象が経験のうちで規定されたものではない
    →行動の能力とより深く関わる
    〈実践的な自由〉
    ⇄〈超越論的な自由〉の概念、『実践理性批判』で根拠づけ詳しくやる

    動物は「外・自然法則/内・感性的な欲動(本能もしくはその反動)」に服するだけ
    人間だけが逆らうこともできる
    そうでなければ「すべての実践的な(道徳的な)自由というものも根絶されてしまう」

    人間の行動
    「経験的な性格」≠自由
    現象の系列の内にあり、「自然」の秩序に従う
    「叡智的な性格」=自由
    行動主体としてふるまう、自身はそれを現象として認識できない
    →外は現象として見れるが、自分は「自己統合の意識」のもとで認識するしかない

    「すべての観念のうちでもっとも貧しい観念」である自己統合の意識が、人間と動物の違い、道徳の根拠をなしている
    例:「悪質な嘘つき」
    「その人が理性を持つ人間として、自由に、すなわち道徳的にふるまうべきであったにもかかわらず、理性を働かせることにおいて「怠慢であった」とみなされるのである。」<この一文が心にキタ!図星!ワタシ、怠慢だった!

  • アンチノミーについてがメイン。比較的わかりやすい。

  •  本第5分冊の帯には「最大の難所、あのアンチノミーがついに理解できる」とある。アンチノミー。この歳になるまで全く知らなかった言葉だが、それほどまでに重要な概念なのだろうか。ともかく読み進める。

     前分冊に引き続き、主眼は経験を超越しようとする理性の批判。西洋形而上学における「世界が絶対的・無条件的全体性を有する」という理念はどこから出てくるのか。カントは経験可能な総体としての「世界」と、現象が全体性を持つための条件としての「自然」からこの問題にアプローチするが、それぞれ対応するカテゴリーを2つずつ当てがうため、検討するアンチノミーも4つになっているというわけだ。

     ここで「無限」の概念が重要な役割を果たすのが個人的には意外だった。
    ①全体性を担保する〈無条件者〉が系列に含まれる場合は、スピノザの神即自然よろしく系列全体が無条件ということになり、理性の無条件なものへの遡求(系列の背進)は〈無限への背進〉になる。
    ②無条件者が系列の外部に独立して存在する場合は、系列全体がこのライプニッツ的な神に従属することになり、系列の背進は〈不定への背進〉ということになる。
     正直なところ、特に①の前提となっている「無限でありながら全体が把握可能な系列」というのがよくわからない。無論、有限な系列全体を説明するのに無限回のステップでこれを行う、ということなら理解できる。しかしここで言われているのは、「世界全体が把握される前からそれが無限であることが諒解されている」という事態だ。無限であることが初めからわかっているシステム、とは一体どういうことなのか。カントのロジックからすれば、無限のような経験を超越した概念をいきなり直感する能力を持つのは、ヌーメノンを把握できる神のような叡智的主体に限られるのではなかったか?無限/有限という排中律が前提であるからこそこのような議論になるのであって、「そもそも有限か無限かは経験してみなければわからない」のだとしたら、ここでの議論は成り立たないのではないだろうか。

     ともかく、ここから4つのアンチノミーの定立/反定立命題それぞれの証明が行われるのだが、先述の無限を巡る議論に加え、それぞれ帰謬論(背理法)を用いているため論理の流れが非常に煩雑でわかりにくい。しかも、そもそも使用されるロジックも納得感のあるものとは言い難いのだ。例えば第一アンチノミーの定立命題で言えば、無限の時間が経過したと仮定→無限の時間は完結しない→現在の世界も生じないはず、として世界の端緒の存在を背理的に証明するのだが、現在の世界を無限時間の完結後の姿だと断定する根拠が明らかに脆弱だ。現在の世界は無限前進の最中の過渡的な姿だと見れば、無限の時間が存在する(端緒はない)ことに矛盾はない。このロジックは他のアンチノミーの議論にも用いられているので、4つのアンチノミーに関する議論全ての存立基盤が怪しい、ということになってしまう。

     だから、ここから論ぜられるアンチノミーの誤謬の指摘(二律排反の解消)も、論理的にかなり頼りないものと言わざるを得ない。各命題は現象と物自体を混同している、とカントはいうが、そのカント自身による各命題の証明自体が「無限の系列の全体」という物自体を前提を認識可能だとする、純粋/経験的カテゴリーを混同したものなのだから当然だろう。またアンチノミーが実は矛盾対等ではないとの指摘についても、各命題の証明で排中律をおきながらその検証では否定するというのでは、そもそも検証になっているのだろうかという疑問が湧く。

     全般的にみて「カントのアンチノミーの議論は〈無限〉の取り扱いを誤っている」というのが僕の感想。過ぎ去った時間の総体などのような「無限の系列の全体」という自家撞着した概念を前提とすれば、矛盾を含む結論を導出するのは容易なので、ここで行われていることがすごく意味のあることだ、とは少なくとも僕には思えなかった。砂の山を作って自らそれを壊しているだけに思えてならないのだ。当時のキリスト教神学に与えた打撃が相当のものであったろうことは理解できるが、結局のところ「どっちとも言えない」という結論もなんとなく拍子抜けしてしまう。

     ただそうは言っても、素人の僕にここまで疑問を持たせるのだから、この箇所の読み応えは相当なものと言っていいと思う。これから何度も読み返す分冊になりそうだ。

  • 134-K-5
    文庫(文学以外)

  • 世界の始まり、世界の果て、因果関係の端緒、神の存在これら4つの問いは普通の知性の持ち主なら誰もが考えたことのあるものではないだろうか?
    第5巻はこれらの問題について、存在する、存在しない双方の主張を比較検討することで、これらの問いが生まれる源泉をあぶりだそうとするものである。存在するとする主張を定立命題、存在しないとする主張を反定立命題としているのであるが、定立命題は独断論に依拠し、反定立命題は経験論に依拠しているとし、カントは経験論の妥当性から反定立命題に肩入れしているように思える。

    このシリーズを読んでいて思ったのは、宇宙論だとか知性だとか一見人生に関係ないようなことを考察しているようでいて、結構人生における考え方を的確に示しているということだ。例えば、人間の自由意思は存在するかという問題についても、存在すると主張するものは、人生は自己責任によっていくらでも切り開けると主張するだろうし、存在しないと主張するものは、社会の力学によって人生は制限してしまうのだと主張するだろうということだ。そして僕はこの2つの考え方をいったりきたりしている。その意味で下手のビジネス本や自己啓発本なんかに手を出して自己満足にひたるより、こういう古典を読むほうがよっぽど自分のためになるというのは正しいと思った。

  • 原書名:KRITIK DER REINEN VERNUNFT

    超越論的な原理論(超越論的な論理学)

    著者:イマヌエル・カント(Kant, Immanuel, 1724-1804、ロシア・カリーニングラード、哲学者)
    訳者:中山元(1949-、東京都、哲学者)

  • 貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
    http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784334752293

  • amazon で注文します。
    (2013年6月17日)

    届きました。
    (2013年6月19日)

    二律背反がわかるという帯の言葉はウソではないらしい。(2013年6月30日)

    読み終えました。
    (2013年7月11日)

  • 二律背反の巻。なんとなーくうさんくささを感じるのは私だけですかね。あと、ようやく身体性のある話になってきたなぁとほっとしております。

  • 有名な「四つのアンチノミー(二律背反)」が載っている巻。
    あまりにも有名で、解説書の類にもよく書かれているが、再読してみて、さほど面白くなかった。定立、反定立ともに全部詭弁に見えてしょうがなく、退屈してしまった。
    なまじ解説書等で馴染んでしまったのでこう感じたのだろうか?
    この巻は何となくぼんやりと読み流してしまった。
    そろそろ疲れてきたかな・・・(笑)

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著者プロフィール

1724-1804年。ドイツの哲学者。主な著書に、本書(1795年)のほか、『純粋理性批判』(1781年)、『実践理性批判』(1788年)、『判断力批判』(1790年)ほか。

「2022年 『永遠の平和のために』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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