純粋理性批判 (6) (光文社古典新訳文庫)

  • 光文社 (2011年9月13日発売)
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  • 本 ・本 (384ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334752354

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  • 【はじめに】
    アンチノミーの議論を受け、第六巻では道徳哲学を論じるに当たって神の存在について議論される。

    【純粋理性の理想】
    カントは、「道徳」の概念を積極的に導入する。それはおそらくは当初よりカントが理性の適切な使用によって得られる結果として望んでいたものでもある。
    「道徳的な概念は完全に純粋な理性的概念ではない。道徳的な概念は、快や不快のような経験的なものを根拠としているからである。しかし理性はこうした道徳的な概念を、法則にしたがうことのない事由に、何らかの制約を加えるための原理とみなすのであり、わたしたちが道徳的な概念の形式的な側面だけに着目するならば、これは純粋な理性概念の実例として役立つのである」

    また、同じく神についてもカントは証明はできないもののその存在を確信している。
    「第一に理性は、何かある必然的な存在者が現実存在することを確信している。そして理性はこの存在者が無条件的に現存するものであることを認識する。次に理性は、すべての条件から独立したものという概念を探し求める。そしてほかのすべてのものの十分な条件となるもののうちに、すなわちすべての実在性を含んでいるあるもののうちに、これをみいだす」

    さらには一神教であるキリスト教を悪びれず他地域の宗教よりも一段上におく。いずれどの宗教的活動も一神教に向かうというのである。ここの論理は時代性であるとともにある限界も示しているように思える。
    「私たちはこの最高の原因を、端的に必然的なものとみなす。というのは、わたしたちはこうした最高の原因に到達するまで、[原因の系列を]遡ってゆくことは絶対に必然的なことだと考えるし、この最高の原因[に到達した場合には、それ]を超えるものをさらに探すべき理由はまったくないからである。
    わたしたちはすべての民族が盲目的に崇拝する多神教の信仰のうちにも、一神教のわずかな火花がきらめくのを目撃しているが、それはこうした理由によるのである。どの民族でも省察や深い思索によってではなく。ふつうの知性が自然に赴く道筋をたどりながら、次第に理解を深めることで、ここに到達したのである」

    【理性の限界】
    この後、カントは理性の限界を定めると宣言する。
    「わたしがこれから立証したいと考えているのは、理性はどちらの道を進もうともすなわち経験的な道を進もうとも、超越論的な道を進もうとも、何も実現できないということ、理性がその<翼>をたんなる思索の力だけで広げて、感性界を超越しようとしても空しいということである」

    カントは人間の理性の限界について触れた後、世界の多様さと秩序に驚いてみせる。
    「わたしたちの目の前にある世界は多様であり、秩序をそなえ、目的にかなっていて、しかも美しい。世界は計り知れないほどの景観を、人間に展開している。世界を無限の彼方の[マクロな]空間にまで追い求めても、さらに空間を再現なく分割した[ミクロな]空間にまで追い求めても、世界のこのようなありかたに変わりがない。わたしたちの非力な知性によって学びえたすべての知識をもってしても、この巨大で無数の驚異を前にすると、ただ呆然として、あらゆる言葉はその力を失い、あらゆる数はその計る力を失い、あらゆる思想はすべての限界を見失う。そしてわたしたちは世界の全体について判断しようとしても、言葉に尽くすこともできず、それだけに雄弁に物語る沈黙のうちで、ひたすら驚嘆するばかりである」

    そして、その因果の系列の「外部」の存在を仮定せずにはいられないと結論づける。
    「わたしたちはいたるところに、結果と原因の連鎖を、目的と手段の連鎖をみいだすのであり、事物が規則的に生起し、やがて消滅してゆくのをみいだす。そしていかなるものも、みずからの力でその状態に到達することがないことを考えると、わたしたちはそのものの原因として[そのものを生起させた]別のものが存在するに違いないと考えざるをえない。そしてその別のものを生起させたさらに別の原因を探さざるをえないのであり、この探求をずっとつづけねばならないのである。このように探しつづけるかぎり、もしもわたしたちがこうした無限の偶然的なもの[の連鎖]の外部に、あるものが存在することを想定しないならば、世界の全体が底なしの虚無のうちに落ちこまざるをえないのである。この<あるもの>とは、根源的に、いかなるものにも依存せずに、それ自体で存在するものであり、無限の偶然的なもののすべてを支え、こうした無限の偶然的なものの発生の原因となり、その存続を確保するようなものである」

    【カントによる神・最高存在】
    「自然的な神学は、この世界には秩序と統一という性質がそなわっていることに基づいて、世界の創造者の現実存在と、その性質を推論しようとする。ただしその場合にも、自然と自由という二つの原因性とその規則を想定する必要がある。だから自然的な神学が、この世界から最高の叡智的な主体にまで上昇する道も二つあることになる。[自然という原因に基づいて]すべての自然的な秩序の原理による道を採用した自然的な神学は、自然神学と呼ばれる。また[自由という原因に基づいて]すべての道徳的な秩序と完全性の原理による道を採用した自然的な神学は、道徳的な神学と呼ばれる」

    カントはあらためて神の存在を理性の働きによっては否定できないと主張する
    「いかなる人間も、たんに純粋な思索の力だけでは、[神の存在を否定しようとする主張を裏付ける目的で]以下の事柄を判断することはできない。[第一に]すべてのものの根源的な根拠となる最高の存在者が存在しないこと、[第二に]この最高の存在者の性質のうちには、その結果から判断して、思考する存在者[人間]のうちに実在する力学的な性質と類似した性質はまったくみいだされないこと、[第三に]人間の性質との類似がみいだされるとした場合、わたしたちが経験によって知っているような叡智的な主体には、感性がさまざまな制約を加えざるをえないのであるが、最高の存在者にそなわる性質も、こうした制約にしたがわざるをえないこと、である」

    その上で最高存在を仮定することは理性の役に立つがゆえに理性は最高存在の存在を受け入れるべきだとカントは続ける。
    「この最高の形式的な統一は、理性概念[理念]だけに基づくものであって、これは物のある目的にかなった統一である。そして理性の思索に基づく関心のために、世界のすべての秩序が、あたかも最高の理性の意図から生まれたかのようにみなすことが必然的なものとなっているのである。この原理によって、経験の領域に適用されるわたしたちの理性にとって、まったく新しい展望が拓かれる。世界の物を目的論的な法則にしたがって結びつけることができるようになり、このような方法で世界の物に最大の体系的な統一をもたらすことができるようになるからである。
    このように世界全体の唯一の原因として、最高の叡智的な主体の存在を想定することは(もちろんたんに理念においてであるが)、つねに理性に恩恵を与えるものであり、理性を損ねることはまったくない」

    カントは人間を含む動物の各器官の合目的であたかも意図をもって構成されているかのような様をもって最高原因とそれをもたらす最高存在を仮定する。
    「だから(医者たちの)自然学の研究においては、有機的な身体の肢体の構造の目的について、これまでえられているごくかぎられた経験的な知識を、純粋理性の示す原則にしたがって拡張するのであり、やがては動物のすべての器官には固有の効用があり、優れた意図をもって作られたものであると想定するようになる。そしてこのきわめて大胆な想定には、あらゆる聡明な人々が同意するようになる。こうした想定は、それが構成的な性格をもつべきであると主張されるようになれば、これまでの観察によって根拠づけられることのない行きすぎた主張となるだろう。だからここから明らかになるのは、この想定は理性の統制的な原理にほかならないということであり、わたしたちはこの原理によって、世界の最高原因が目的にかなった因果関係を実現しているという理念に基づき、世界の最高の体系的な統一を達成することを目指しているのである。この世界の最高原因は、あたかも最高の叡智的な主体であって、もっとも賢明な意図にしたがって、すべてのものの原因となるかのようにみなされるのである」

    一方でカントは、魂の不死については自然の様からしてどこかしら懐疑的である。
    「このようにして独断論的な唯心論者は、人間には、さまざまな状態の変動をこうむることのない不変な人格という統一性が存在することを、思考する実体の統一性に基づいて説明するのであり、唯心論者はこの思考する実体の統一性を、<自我>において直接に知覚すると主張する。また、わたしたちは、自分たちが死んだ後にはいったいどうなるのだろうかということに関心をもっているのであるが、唯心論者はこれについても、わたしたちの<思考する主体>のもつ意識というものが、非物質的な性格のものであることから[死後もこの意識としての魂が存続すると]説明するのである。このような説明をうけいれるならば、わたしたちは[意識という]人間の内的な現象の原因を、自然的な根拠によって説明しようとするすべての自然研究の試みを放棄してしまうことになる。そして唯心論者は、<超越的な>理性が命じたという理由から、経験の<内在的な>認識の源泉を無視するのであって、これは唯心論には快いものであるかもしれないが、わたしたちのすべての洞察を失わせるものである」

    カントはこの最高存在は、実在としての対象ではなく、理念としての対象であるとする。
    「超越論的な神学について[次の三つの問いが問われ、それに答えが示される。その]第一の問いは、世界とは異なるもの[世界から超越した神]が存在するか、そのものには、世界秩序の根拠と、普遍的な法則にしたがう世界の枠組みの根拠が含まれているかというものである。この問いには次のように答えることができる。「もちろん存在する。世界とは、現象の相対であって、それを支える超越論的な根拠、純粋な知性だけが考えることのできる根拠というものが[世界の外部に]存在しなければならない」。
    第二の問いは、この存在者[世界と異なるもの、神]は実体であって、最大の実在性をそなえていて、必然的であるか、などというものである。この問いにわたしは、「そのような問いはまったく意義のないものである」と答えよう。・・・
    最後の第三の問いは、この世界とは異なる存在者を、少なくとも経験の対象との類比によって、思考することは許されるのではないかというものである。この問いの答えは、「もちろん許される。しかしそれは理念における対象としてであって、実在としての対象ではない」

    その理念の対象としての最高存在者=世界創造者、をわれわれは前提としなくてはならないとまで主張する。
    「しかしまだ問いをつづけたいと考える人がいるかもしれない。たとえば「それでもこのような方法で、唯一で、賢明で、全能の世界創造者というものを、想定することができるのだろうか」と。それにたいする答えは、「もちろんできる。それだけでなくわたしたちは、世界創造者を前提しなければならない」というものである。また「それでは可能的な経験の領域の外へと、わたしたちの認識を拡張することにならないだろうか」という問いには、「そのようなことはない」と答えるだろう」

    そして神がそう望んだ、ということと自然がそのように配置したということは同値だともいう。
    「さらに問いを重なる人もいるだろう。そして「わたしが世界を理性的に考察する際にも、このような方法で最高の存在者という概念と前提を使用することができるだろうか」と問うかもしれない。それには「できる。そもそも理性はそのためにこの理念を根拠としたのである」と答えるだろう。
    また「それでは目的に適ったようにみえる世界の秩序を、神の意志から導きだして、その意図の現れと考えることができるだろうか。もちろん世界において特定の目的に適うように仕組まれた計画によるものとしてだが」と問うかもしれない。これには「できる。あなた方がそうすることに問題はない。しかしもしも誰かがあなた方に、<神の叡智は、すべてのことを神の至高の目的に適うように配置されたのだ>と語ったとしても、あるいは<最高の叡智という理念は、自然研究においては統制的な理念であるとともに、普遍的な自然法則にしたがう自然の体系的で目的に適った統一のための理念でもある、わたしたちがその統一を確認できない場合にも、そのことに変わりない>と語ったとしても、また正しいと、認めねばならない。というのは、あなた方が自然の統一を確認したとして、そのときには、<神が賢明にも、これを望んだのだ>と主張することと、<自然が賢明にもそのように配置したのだ>ということは、まったく同じことを意味することを認めねばならないからだ」と答えるだろう」

    【カントによる認識論】
    カントは人間の認識についてここまでの議論を次のようにまとめ、理性の探索の使命とその限界について語るのである。
    「このように人間のすべての認識は、直観によって始まり、概念を経由して、理念で終わる。人間には、この三つの要素すべてについて、アプリオリな認識源泉が存在するのである。この三つの源泉は、一見するところ、すべての経験の境界を平然と無視するかのようにみえるが、[人間の認識能力について]完全な批判を遂行してみれば、すべての理性は思索に基づく使用において、これらの要素によって、可能な経験の領域の外にでることはできないことが納得できるのである。そしてこれらの最高の認識能力のほんらいの使命は、すべての方法とその原則を使用することであり、そしてそれはひたすらすべての可能な統一の原理にしたがって、自然をそのもっとも奥深いところまで探ることであり、自然の境界を越えた領域にまで進むことではないのである。自然の境界の外には、わたしたちにとっては空虚な空間しか存在していないのである」

    【まとめ】
    カントがここで言う最高存在は、キリスト教の神とは違うものであろう。しかしな」がら、カントが望む道徳哲学を構築するにあたっては最高存在によって底が抜けないようにしておく必要があった。そのためにこの第六巻ほぼ丸々を通して神(=最高存在)について論じられたと考えるべきだろう。
    「<神が賢明にも、これを望んだのだ>と主張することと、<自然が賢明にもそのように配置したのだ>ということは、まったく同じことを意味する」と言うときのカントの神はほとんど現世とのインタラクションがない単にあるだけの神のようにも解釈できるのだが。
    いずれにせよ、この時代およびカントの道徳哲学における「最高存在」の重要性をここでは見たのだ。

  • なんで西洋の哲学者は神の存在証明にあんなにやっきになるのかと不思議に思っていたが、、、純粋理性批判の神の存在証明批判。超越論的弁証法もようやく腑に落ちてきた。あと一巻

  • 純粋理性批判は、主に時間と空間を軸に、世界と人間の関係についての考察を続けてきたが、6巻ではいよいよ神の証明というデリケートな話題に切り込む。
    さまざまな方位から、神の存在を分析していくが、いずれもカントの理論によって矛盾が露呈する。要するに神という存在は虚構なのか。
    しかし、神は存在しなければならない、というのがカントの結論のようだ。ようだ、と書いたのは、小生はカントの結論が読み取れず、解説を読んでようやく理解したからだ。理解、というか、解説にそう書いてある、というのが正直なところだ。
    そういった難解さがあるとはいえ、カントの分析眼は鋭い。そして、時代的に、神はいない、という結論はありえないとはいえ、存在は証明できないが、存在はしなければならない、という落としどころは、かなり挑戦的だったのではないか。
    カントは純粋理性批判という一連の書物において、人間とはこの世界において、現実だと考えているものは果たして本当に現実なのか、それは意識が作り出したものであり、誰もが同じ「現実」を生きているわけではないという観点から、時間や空間は本当に継続的に存在しているのか、神はいるのか、というところまで理論を展開した。人間はみずから作り上げた虚構の中に生きているのだなあ。
    いよいよ次は最終巻となる。
    ここまで広げた理論をどのようにまとめるのか楽しみだ。

  • 神の存在についての巻。デリケートな問題を含みつつ、どのように存在するかを論じている。

  •  「超越論的な理想」で神の存在証明の不可能性を論じる第六分冊。超越論的な神学を扱う下りで、初めはカントがID(Intelligent Design)を信奉しているのかと思ったが、よく読むと絶対存在の想定が自然科学の探究のために〈実践的な〉意義を持つ、ということが語られており納得。例え理性が構築した虚構であっても道徳的理念を実践する上での実用的な意義(統制的原理)がある、とする点には目的論と自然科学の調和の必要性を謳ったカントの先見性が垣間見え、流石と思わせる。

     本分冊の神の存在証明のポイントは、存在証明の3類型、すなわち自然神学的な証明、宇宙論的な証明、存在論的な証明のうち、前2者は結局のところ存在論的証明の変形である、というところ。こうしてしまえば、「概念の存在が必ずしも実体の存在を導かない」というアクィナス以来の否定神学を適用することが可能になるからだ。

     しかしここで行われていることが単純に神の否定というわけではないことも注意すべき。「神は存在する」という理論的な認識を証明することは不可能だが、その逆もまた然りである。理神論的な道徳神学の立場に立てば、「神は存在すべきである」という実践的な要請はアプリオリに想定される原理であり、人間の生き方や世界観に指針を与えるという統制的原理として有用なのだという。これが「実践理性批判」で定立される「道徳的命法」、すなわち「己の意志の格律が常に同時に普遍的立法となるように行為せよ」の基盤になっているのだろう。

  • 134-K-6
    文庫(文学以外)

  • 貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
    http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784334752354

  • amazon に注文しました。
    (2013年7月8日)

    届きました。
    (2013年7月10日)

    読みます。
    (2013年7月12日)

    読み終えました。
    この巻は、これまでの復習です。
    (2013年7月25日)

  • 神の存在は証明できないけどいると考えてもいいよ、だってそのほうが便利だからね、みたいな感じの巻だったんですが尖ってるなあとしみじみ思いました。

  • この巻では「神」について扱われる。
    ヨーロッパにおける既存の「神の存在証明」は批判され、カントオリジナルな物として、「道徳的な神学」が提起される。
    これは神が最初に存在し、その認識(信仰)から人間的な様々の思考が生まれてくるのではなく、その逆に、道徳的思考の果てに、人間みずからが「神の存在」を「要請」するのである。(P.128-132付近)
    この驚愕すべき倒錯により、神学は人間の「理性」に服従するものとなり、ここに西洋的な「近代」が出現するのだ。
    これは歴史的にきわめて画期的な飛躍であるが、この新たな神学については、この本ではそれ以上深く追究されない。

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著者プロフィール

1724-1804年。ドイツの哲学者。主な著書に、本書(1795年)のほか、『純粋理性批判』(1781年)、『実践理性批判』(1788年)、『判断力批判』(1790年)ほか。

「2022年 『永遠の平和のために』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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