カメラ・オブスクーラ (光文社古典新訳文庫 Aナ 1-1)

  • 光文社
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  • Amazon.co.jp ・本 (365ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334752361

作品紹介・あらすじ

裕福で育ちの良い美術評論家クレッチマーは、たまたま出会った美少女マグダに夢中になるのだが、そこにマグダの昔の愛人が偶然姿をあらわす。ひそかに縒りを戻したマグダに裏切られているとは知らず、クレッチマーは妻と別居し愛娘をも失い、奈落の底に落ちていく…。

感想・レビュー・書評

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  • 地位も名誉もあり、裕福で私生活にも恵まれた男の心に、ふと魔が差して、
    どんどん悪い方へ、抜き差しならない状況へと転がってゆくストーリー。
    途中、タイトルの「意味」がわかった瞬間、慄然としたが、
    彼がいい年をして無茶を仕出かすにしては、
    育ちのよさのせいか、悪いヤツになりきれず、
    むしろ小悪魔と小悪党のペアに翻弄される様子が憐れにして滑稽で、
    そこがこの小説の面白さだと思ってしまう自分の性格には
    幾分問題があるのか、どうか。
    それにしても、巻末のナボコフ年譜、

    > 1916年‐17歳、10月、死んだ伯父の遺産を元手に『詩集』を自費出版。

    という短い記述に嫉妬と羨望を覚えて歯軋り(笑)。

    「そう、生きるのは大変よね」(p.223)by 美少女マグダ

  • 以前に借りて読み面白かったのを思い出し、購入して再読。
    ナボコフはまだこの一冊しか読んでおらず、やはり敷居が高い印象があります……が、少なくともこの作品に関しては、構える必要はいっさいないと思います。いっそ俗っぽいと言ってしまえるようなストーリーは、これは私の偏見を大きく含むけれども昭和時代のテレビドラマ的だな、と。

    しかしただ読みやすく面白いだけではなく、心理描写の数々などはそうそう出会えない素晴らしさで、あまりの的確さと表現の美しさにしばしばハッとします。たとえば、朝早く出かけようとしたクレッチマーの気が変わる場面など。
    私にとっては共感など到底できない人ばかりですが、この人がこう感じてこういう行動をしたという一連が、まったく無理なく理解できてしまう。およそ罪悪感と縁のないホーンのでさえ解るし、終盤苦しみの中でクレッチマーが感じているものも解る。「人間が描かれている」などと手垢な表現はしたくない気持ちはあるものの、これはまさにその極致だと思いました。

    そうそう、大抵の登場人物を好きになれませんでしたが、小説家のゼーゲルクランツは密かに好きでした……。

    ナボコフの他の作品も読んでみたいです。

  • ナボコフがまだ渡米する前、ドイツに住んでいた頃にロシア語で書いた小説。中年男性が少女に恋した挙句に破滅する物語という意味では『ロリータ』の嚆矢と見ることもできるが、マグダの悪女っぷりはロリータの比ではない。一方、再読、再々読を要する数々の仕掛は『ロリータ』ほど複雑ではないので読み易く、かつ細部の呼応を楽しめる程度には仕掛がある。サスペンスとしての緊迫感もいい。

  • おもしろい。芸能人の不倫報道などが気になってしまう人にはたまらないだろう。
    ナボコフといえば「ロリータ」だが、本作もロリコン親父が未成年の美少女に翻弄されてしまう物語だ。
    裕福な美術評論家クレッチマーが、美少女マグダに夢中になる。妻子を捨ててマグダと一緒に暮らし始めるが、そこにマグダの元カレであるホーンが戻ってくる。
    マグダとホーンの関係を知らないクレッチマーは、マグダとの生活の中にホーンが出入りすることを許してしまう。マグダとホーンは、クレッチマーの目を盗んでいちゃいちゃし、しまいにはクレッチマーの財産を奪う計画まで立てはじめる。
    偶然、マグダとホーンが自分を騙していたことを聞かされたクレッチマーは逆上し、事故が起こる。そのせいでクレッチマーは失明する。しかし、クレッチマーはマグダを疑った自分に罰がくだったのだと反省する。クレッチマーはマグダとふたりで療養のために田舎の家で暮らす。しかし、クレッチマーが失明しているのをいいことに、ホーンもその家にもぐりこみ、マグダといちゃいちゃする。
    クレッチマーの義弟マックスが乗り込み、クレッチマーを連れ出す。
    自宅に戻ったクレッチマーはマグダへの殺意を抱いていた。
    やがてマグダの居場所を知ったクレッチマーは、マグダを殺しにいくが、逆に自分が殺されてしまう。
    解説には、これは「見る」「見ない」についての小説だと書かれている。
    カメラ・オブスクーラというタイトルからもそれは想像できる。
    クレッチマーは、マグダの中になにを「見た」のだろう。
    おそらく、彼がそれまでの人生において見ることのなかった「女」を見出したのだ。恋愛の対象となる「女」だ。それはもしかしたら「人生」と言ってもいいかもしれない。それこそ命をかけてのめり込む「人生」。熱意を向ける対象を見たのだ。そういう意味では、この作品は、宝を求めて冒険する男の物語といってもいいかもしれない。

  • おもしろ哀しい災厄の恋愛。終盤の対決シーンは完璧で美しくてあっけない。

    おおむね喜劇として楽しんだのだけれど、悪のエキスみたいなホーンのふるまいは怖かった。クレッチマーとマグダがわりとそこらにいそうな人物だったからなおさら。そして喜劇だから何かと拳銃が出てくることを気にせずに読んでいたけれど、裏切られたから殺そうとするのは、外見が美しいから愛すると同じぐらい、相手が人間に見えていないのだ。愛じゃなくて恋だし狂気だった。

  • 1933年、ナボコフ初期の小説で、『ロリータ』の原型をなすような、オヤジの、少女への愛と裏切られる受難をえがいている。
    後年のナボコフは文章自体がすさまじく濃密なディテールに溢れ、読みにくいのだけど、この初期作品はずっと読みやすい。ストーリーも明快で、普通に面白い。
    ロリータは12歳だがこの作品の少女マグダは16歳。ふつうなら高校1年か2年生だ。援助交際とかで女子高校生を漁るエロオヤジもたくさんいるみたいだから、性的に異常とはもはや言えないだろう。ロリータの12歳はかなり若い(小学5年か6年)が、13歳で結婚させる社会もこの世にはあるのだから、ローティーンの少女を性的対象として見ることをタブーとするのは、単にわれわれの社会/文化の機制であろう。かく言う私も、20歳以下の女性は「子供」というイメージしかしないので、とても恋愛の対象にはできそうにないが、それは無意識裡に文化にすりこまれたというところか。
    まあ、年齢はちょっと低いけれども、妻子のある中年オヤジが若い女性にメロメロになってしまうという点では、個人的にとても共感できる。
    この小説では少女マグダが別の男性とべったりになって中年主人公を裏切る。ブニュエルの映画「欲望のあいまいな対象」に似ているが、谷崎潤一郎的なマゾヒズムの契機は、ナボコフには存在しない。彼はヘンタイとは言えない、普通な心性を持ったまじめな文学者というべきだ。
    この小説も、谷崎的ないしドストエフスキー的なマゾヒズム、破滅志向が存在しないため、意外にも健康的な、純粋に小説的構成を楽しむための作品となっている。それはまるで推理小説的な構造をもった『ロリータ』でも変わらない。
    ナボコフの興味は倒錯的心理にあるのではなく、あくまでも純粋な「小説作法」にあるわけだ。その意味では、この初期作品はまだ円熟期の濃縮が足りないのだが、ふつうに楽しく読めることは確かだ。後味も意外と悪くない。

  • ロリータを読んでから、ナボコフという作家に興味がわいて買いました。
    前作よりも読みやすく、比喩もロリータよりかは息をひそめている感じがしてすらすらと読めました。


    後半の盲目になった時の絶望感はすごかったです。描写から今見えている視界がきえたかのように、その時に感じる肌の風の感触とか、遠くの衣擦れの音とかも聞こえてくるような気がして・・・
    読後感がすごいです。何とも、自らまいた種というべきなのでしょうけれど、娘と妻を捨てて他の女の所へ行ったとしても、この最後はあまりにも酷過ぎる。
    恐怖がぞわぞわと眼球を撫でているかのような感覚。
    クレッチマーも悪いけど、後半のマグダとホーンを見ていると微々たるものに思えます。

    ドリアンナ・カレーニナの名前ににやり、としていた頃が懐かしいです。

  • 怖い小説。

  • ・どこで間違ったか、かわいそうなクレッチマー。

  • 古典

  • 2011-10-1

  • 初めて手にしたナボコフであり噂通り強烈な印象を残した「ロリータ」と、この「カメラオブスクーラ」で作者の著書は2作目です。
    あとがきにもありましたが、読みはじめ辺りから感じるこの気持ちの悪さは読んだ覚えがあるなぁなんて思っていましたが、「ロリータ」と流れが似ている。
    私はなぜ、大人の男性の狂おしいまでの想いに少なからず違和感を覚えたのか、読みながら考えていました。
    おそらく、彼が求めていた少女と実際に接触するまでの男性の内面の描写が、女である自分には馴染みのないものだからかな、というのが読み終わってから気づいた私なりの気持ちです。

    美術評論家であり、妻子とともに裕福な暮らしを送るクレッチマーは、映画館で見かけた美しい少女マグダに激しい恋心を抱きます。
    なめらかな肢体に触れる幸運に目がくらみ、クレッチマーの行動はエスカレートしていきますが、マグダもまた止められない情欲を他の男性に抱いていました。

    最後には本当の「破滅」が待っていますが、ストーリー自体に新鮮さは特に感じませんでした。
    ナボコフの良さを感じたのは、その描写の方法です。

    クレッチマーがむちゃくちゃやろうが、愛人マグダがさらにマイ愛人を作ろうが、まるで美しく花から花へ飛び交う蝶のように、ナボコフは情景を二次元、三次元と描いていきます。
    聞くだに気が滅入りそうな人物やストーリーも、精緻に描き出された情景がもたらす効果によって、どんどんと映画のように視覚的なスピード感を持って頭の中を流れていくようでした。
    言葉というものを生涯かけて操ろうとしたような、なんとも不思議な深さを感じました。

  • ナボコフさんなのに読みやすいってちょっとびっくりした。初期だかららしかった。ストーリーがさくさく進んでくれるからですね。そう考えるとナボコフお得意のよくわかんない修辞とかもうちょっとあってもよいのかも(偉そう)解説にもあったけど視覚っていう主題を表現するにはイメージをもっと膨らませてあってもいいのかもと思ったので。
    ストーリーは一種面白いくらいのふぁむふぁたーるでした、マグダが思ったより狡猾でどこか矮小な存在に思えたのはたぶんロリータのほうと無意識的に比べてる(まだ読んでないけど)。

  • 真面目な中年男性が小悪魔的な少女にあらぬ思慕を抱いた揚句破滅への旅に向かう・・・というプロットはまさに「ロリータ」。ロリータの原型にしてナボコフが初期にロシア語で書いた作品というのが興味深い。ナボコフはこのテーマがよほど気に入っていたのだろう(笑)マグダの蠱惑的な悪女ぶり、クレッチマーが蟻地獄のようにトラップに嵌っていくどうしようもなさを、実に巧みで緻密に描写しており、「うーん巧い」とうならされる。
    タイトルが示しているように視覚がポイントとなっているようだ。クレッチマーはマグダとの旅の途中で事故に遭い視力を失う。マグダの愛人との奇妙な3人同居生活を強いられていることに気付かない。このあたりの設定の分かりやすい「いかにも」感は、面白いがナボコフの若さでもあるのだろう。

  • 一言でいうと、中年の妻子持ちの男が、16歳の少女にのめりこみ破滅していくさまを描いた話だが、裏テーマは、性的魅力のない妻を持った妄想男の行く末、と読んだ。
    (とはいえ、ロリータよりだいぶ以前のこの段階では作者が未成熟の女性に興奮する性向を隠したいがために性的魅力のない妻を利用した、とも読めるが、自分の都合で前者と解釈することにする。)

    妻/母を長いことやっている私は、いいお母さんだけれど日々の生活でもベッドの中でも大人しく、徹底的に退屈でセクシーじゃなく描かれている作中の妻を、反面教師とした。

    妻/母を長いことやっている私はまた、主人公の男が、いけないとわかりながらも性的嗜好に翻弄されてあれよあれよと堕ちてゆく様を疑似体験し、自分の破滅願望をすんでのところで食い止めた。

    妻/母を長いことやってきた私は、モラルというガラスの水槽に自分を閉じ込めていたとようやく気付いた。だからこの小説のようにモラルを蹴散らすような話が好きなんだとようやく理解した。
    安心で退屈な家庭生活を長く続けるために、魔がさして破滅する前に、多少の波風~秘密とインモラルというスパイスを織りこんでゆく所存です。

    ナボコフはほかに「ロリータ」と「絶望」を読んだが、妄想や変態性を、独創性あふれる空想を盛り込みながら、ごく客観的に描く、面白い人だと思う。酒を飲んでみたいと思う作家のひとりだ。

  • 「カメラ・オブスクーラ」とは「暗い部屋」という意味で、ピンホールカメラの元になった装置のことを言うそう。暗い映画館でマグダを見出したときからクレッチマーはカメラ・オブスクーラから映しだされた虚像を見ていたということか? だとしたらマグダがスクリーンに映された自分を観ることに耐えられなくなるシーンはある種の皮肉なのだろうか? 映画もカメラ・オブスクーラと同様に、スクリーンに虚像を映し出す機械であるはずだが、その虚像によってマグダは自分の凡庸さに気づくのだから。

    マグダが視覚的に描写されているのに対し、アンネリーザは「オーデコロンの香り」に象徴されている。これは、アンネリーザがクレッチマーの欲情(これは視覚ベースの欲求であるようだ)の対象ではないことを象徴している。

    にしても、視覚が欲情の象徴で、嗅覚がもっと曖昧で希薄な愛着(というか、クレッチマーがアンネリーザと離婚できないでいること)の象徴というのは、ヨーロッパ的というのか、男性的というのか……。

  • ノワールだw クレッチマーの堕ちざまもさることながら、マグダやホーン、ゼーゲルクランツら脇を固めるキャラが、クレッチマーの歪んだ世界に見えない照明で残酷に浮かびあがらせる様もどす黒いw

  • 面白かった。定評あるナボコフのレトリックを意識しながら読んだので一層楽しめた。三文芝居的ストーリーがなんとふくよかになることか。さすが言葉の魔術師。『カメラ・オブスクーラ』というタイトルは絶妙。視覚的意識の描写ゆえかヒッチコックの映画を観ているかのような錯覚に陥る。

  • えらいもん読んでしまった。活字を介していろんな感覚を乗っ取られてるような錯覚。なんだかクラクラしてきた。話しは分かりやすくスリリングな展開にグイグイ引き込まれる。

  • 2013/3/8購入

  • 「ロリータ」とストーリー的に重なるところは大きいが、「ロリータ」ほど複雑でないぶんだけ、よく言えば気軽に、別の言い方をすれば〈読む〉という行為に無自覚に読める作品であった。

    後半、盲目になったクレッチマーをマグダとホーンがあれこれ騙すが、騙される側の無力は解説にもあるように、読者と同じといえる。
    また他方、騙す側のいやらしさ、見えないことが常にふくむいやらしさは、小説であれ何であれ輪廓や構造を有するものに内包されるものといえそうだ。

    読者は常にマゾヒスティックにならざるを得ず、だからこそせめて、どうせ騙されるなら華麗に騙されたい。
    小説において騙す側は、マグダのように、いやらしければいやらしいほど読者を惹き付けるのではないだろうか。

  • (後で書きます)

  • 『ロリータ』の原型になったといわれている作品みたいですが、年下の美少女に入れ込んだ男が破滅する、という大筋以外は、さほど似通ってもいない印象。

    なによりヒロインのマグダが酷い女すぎる(苦笑)。ロリータは、どちらかというと無垢な少女に一方的に入れ込んだオッサンの盲目的な愛の話だったと思いますが、こちらのマグダはもっと大人(といっても16~17才)の女性で、妻子ある主人公クレッチマーが妻子を捨てて彼女に入れあげていることに漬け込んで、離婚を迫り、彼を利用して女優になろうとしたり、失明した彼が見えないのを良いことに元愛人を家に連れ込んで影であざ笑ったりしていてかなり最低。

    この元愛人というのもかなり最低な男なのですが、でもこの物語のすごいところは、ここまで最低な女と最低な男に振り回され踏みにじられつつも、主人公がちっとも可哀想じゃないところ(笑)。若い女に熱をあげて妻を捨て、娘が病死しても愛人と暮らし続ける主人公のバカさ加減には到底同情する気になれない。でもそういう人間の弱さ汚らしさもふくめて、小説としてはとても面白かったです。

  • 帯に書かれている通り「ロリータの原点」ともいえる作品。
    妻子を持った中年の男が16歳の少女に惚れて家を出て堕落していくというか少女マグダの悪戯により強制的に堕落させられていく姿が描かれている。
    ただの、少女との楽しげな不倫の恋だったら芸がないんだけど、マグダがなかなかのあばずれで、その未熟ならではの底知れない悪さが後半どんどんエスカレートして怖くなった。

    特にクレッチマーが盲目になったのをいいことに愛人を一緒の家に住まわせ、せめて自分の部屋の色彩を教えて欲しいと頼むクレッチマーに愛人に吹き込まれたでたらめな色を教えるあたり、ぞくぞくした。ステレオタイプではない、悪意を悪意とも思わず振舞える本物の悪女。

  • ナボコフは、お話を作るのがうまい人なんだと気付かされる作品。

    細部の言葉づかいに関心が向かいがちな後期のナボコフ作品に比べて、今作の構成は非常にシンプル。登場人物の役割がはっきりしており、無駄なく物語の進行に貢献する。細部の描写もあるにはあるが、冗長ではなく(ロリータのそれと比べてみるといい)、むしろ、一切の無駄がない(にもかかわらず何層にも折り重なっている)。

    シンプルであるがゆえ、尚更ナボコフの才能を感じずにはいられないし、シンプルであるがゆえ、登場人物を徹底的に苛めぬくナボコフの意地悪さが余計に際立つ。

    単純に小説として面白いので、力を抜いてナボコフを楽しみたい人にはうってつけではないかと思う。

  • 読み始めは今ひとつ話に入り込めない感があったが、中盤から一気に読まされた。 やはり、何かに溺れて落ちていく物語は面白い。(私だけかも知れないが...)

  • 2012年3月21日読み始め 2012年3月27日読了
    裕福な中年男性が小娘に一目惚れして家庭崩壊し、人生も崩壊していくお話。あらすじだけだと、まったく興味のない小説ですが、さすがというかナボコフなんでこれが面白かったです。ちょっとしたミステリのようでもあり、破滅型の男を楽しむ小説でもあり、エロティックでもあり…普通に小説としても面白いのですが、細部を読み解く楽しみもあります。そりゃ「ロリータ」の方が傑作だけど、これはこれで。
    巻末の解説が秀逸。「見る」「見られる」こと、小説を読む行為自体が「盲目」の状態ではないか?など興味深いです。

  • ストーリーよりもむしろ、人が誘惑・欲望に負ける瞬間や将来の希望や絶望を夢見る瞬間などを描く言葉の使い方にとても惹き付けられた。

    「中年男が小娘に夢中になる」という展開にはそこまで引き込まれなかったにも関わらず、飽きることなく読めたのは、そのような言葉の使い方によって、登場人物たちの心情をすんなりと受け入れることができたからかもしれない。

    特に誰かに感情移入したわけではないのだが、彼らの苦悩が胸に染み込んできました。

  • 物語終盤のマグダとホーンは本当に下衆である。
    でもそれをドキドキしながら眺めている読者というわたしもたいして変わらないのかも。

    見える こと
    見えない こと

    このふたつがこの小説ではいろいろな意味を持っている。

    良い本でした!

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著者プロフィール

ウラジーミル・ナボコフ(Владимир Набоков, Vladimir Nabokov)
1899年4月22日 - 1977年7月2日
帝政ロシアで生まれ、ヨーロッパとアメリカで活動した作家・詩人。文学史上、亡命文学の代表者とされることもある。昆虫学者としての活動・業績も存する。
ロシア貴族として生まれたが、ロシア革命後の1919年に西欧へ亡命。ケンブリッジ大学に入学し、動物学やフランス語を専攻。大学卒業後にベルリンで家族と合流して文筆や教師などの仕事を始める。パリを経て1940年に渡米、1945年にアメリカに帰化。1959年にスイスに移住し、そこで生涯を閉じた。
ロシア時代から詩作を開始。ベルリン、パリにおいて「シーリン」の筆名でロシア語の小説を発表して評価を受ける。パリ時代の終わりから英語による小説執筆を始めた。渡米後も英語で創作活動を続け、詩・戯曲・評伝を記すだけでなく翻訳にも関わった。
代表作に、少女に対する性愛を描いた小説『ロリータ』。映画化され、名声に寄与した。ほかに『賜物』、『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』、『青白い炎』、自伝『記憶よ、語れ』。

ナボコフの作品

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