悪霊 (3) (光文社古典新訳文庫 Aト 1-13)

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  • / ISBN・EAN: 9784334752422

感想・レビュー・書評

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  • 前二巻までは展開がぬるく、正直かなり読むのに耐久力を要したが、この三巻から一気に話が進む。
    人も大勢死ぬと予告されていた通り、この三巻で十人近くバタバタと死んでいく。

    亀山さんが解説で言っていてなるほどと思ったが、『罪と罰』の結末はこれに比べるとめちゃくちゃ甘い。
    ラスコーリニコフは二人も殺しておきながら十年以下の労役刑で済んで、しかも毎日のように面会に来てくれる上に、出所を待っていてくれる彼女がいるのだから。
    そんなわけあるか! って感じですらある……笑

    酸鼻をきわめる殺人・自殺の一方、滑稽な言動でバランスを取ってくれるカルマジーノフとヴェルホヴェンスキー氏が救いだ!
    ツルゲーネフとドストエフスキーの投影キャラであるこの二人が、体を張って笑いを引き受けるところにロシアの作家魂を感じる。
    もっともツルゲーネフのほうは同意なく舞台に引っ張り出されているわけだが……笑

    ドストエフスキーのツルゲーネフ嫌いが前二巻よりもさらに加速して、とことんカルマジーノフを恥ずかしい過去の栄光にしがみつくキャラに仕立てているのが執拗で面白い。
    (オレンジ色、瑪瑙色、エメラルド色の樹木に腰を下ろして…)
    (わたしを褒めてくれ、褒めてもらうのが好きでたまらないんだ…)

    「女性がいないと生きていけない」と叫んでソフィヤの脚にキスして作家の脚フェチをぞんぶんに表現したかと思ったら、ワルワーラ夫人に今さら「愛していました!」と告げて亡くなるヴェルホヴェンスキー氏が悲しくも愛らしい。

    それにしてもソフィヤ。
    ヴェルホヴェンスキー氏の強制看病からワルワーラ夫人の強制拉致と、本当にいい迷惑だ。
    「行くところですって? あなたに行くところなんてあるもんですか!」
    というワルワーラ夫人の全面否定セリフは個人的に好き。

    実の(かどうかはわからないが)息子のピョートルよりも、スタヴローギンとヴェルホヴェンスキー氏のほうが父子のように思える。
    ピョートルよりもスタヴローギンのほうが時間を多くすごしているし、三十歳以上は年のはなれた少年スタヴローギンに、ヴェルホヴェンスキー氏は夜中まで彼を寝かせず愚痴を聞かせたりしたりで、いびつではありながらも関係が濃い。

    スタヴローギンは完璧なヨーロッパ的教養を身につけながら、ロシア語能力が低くて下手な手紙しか書けないという欠陥も見逃せない。
    もっとも私は限られた語彙と構文からでも、彼の知性の高さや表現力の高さがなんとなく伝わってくるからすごいなとは思った。

    ユーリヤ夫人の女性家庭教師応援パーティは、講演会の時点で暴動寸前の危ない雰囲気だったのに、それでも舞踏会までやるのかという感じだった。
    文学カドリールの変な仮装や逆立ちする人の主張はよくわからなかった。

    キリーロフが自殺前に暗闇でおかしくなってしまうところは、映画「オーメン」みたいで本当に怖い。

    スタヴローギンとリーザが対岸の火事を傍観する場面、神に対する最大の冒涜「黙過」を示唆しているということらしい。
    この、災厄が眼の前にあるとわかっていて見ないふりをする姿勢というのは、ビジネス書から漫画までよく言葉を変えて糾弾されている。

    ドラッカーの『マネジメント』で「知りながら害をなすな」と書かれ、漫画『キングダム』で桓齮将軍が「世の中のほとんどの無関心な人間こそ、殺し足りないほどのクソだ」と言っている。

    そういえば小野不由美の『十二国記』でも、主人公の陽子が誰にでも良い子に見えるよう振る舞うが、人間関係には正面から立ち向かわない卑怯な一面を指摘されている。
    (陰湿ないじめを受けている同級生に対して、ふたりきりの時だけ優しく声をかけるが、皆の前では見て見ぬふりをしていたこと)

    ちょっと思い出すだけでもけっこう出てくるなぁ。
    私も現実生活でそういう一面を見せる人によく会ってきたし、しかし自分もきっと他人からそういう人間に見られていたこともあっただろう。

    シャートフ殺害には加わらずに離脱するシガリョーフも、彼にできる最大限の善を発揮したように思えるが、実際のところは一番許されざる「黙過」だ。
    「途中でシャートフに会ったとしても、これからあなたが殺害されるとは言わない、ひょっとして挨拶くらいはするかもしれませんが」などと言っているのだから。

    「黙過」と同じく神への最大の冒涜とされる「教唆」も興味深い。

    スタヴローギンは具体的にいつ誰を殺せとは言っていないが、流刑囚フェージカはレビャートキン兄妹を殺せという指示だと受け取る。
    こういう忖度させることが最悪の行為だということなのだろう。
    よく横領や詐欺事件でも、犯罪集団のトップが逃げ道を作るために明示的にやれとは言わず、手下に忖度させて実行させるということがある。

    ともかく五人組はそれぞれ正義のために行動したはずだが、それぞれがエゴむきだしの愚かな行動で、みっともない結末をたどる。

    ピョートルに至ってはメフィストフェレスのごとき「教唆」の権力を駆使して君臨していたはずが、事件後はどこへ行ったかすらもわからない。
    作家自身がピョートルにページを裂こうとせず、物語そのものから無視されて終わるというのがまた強烈……笑

    正義とは何か、この本はその問いに尽きるとドストエフスキー本人が言っている通り、「黙過」と「教唆」の導く最悪の結末を通して、正義を考えることが、『悪霊』を読むという行為なのだと今のところは感じている。

  • 一、二巻は展開が冗長でまどろっこしい印象を抱いたが、この三巻で『悪霊』の筆舌に尽くしがたい面白さが一気に畳み掛けてきた。この面白さを味わう資格のある者は一、二巻を辛抱強く読み終えた者達だけである。『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』に散りばめられた“救い”の部分がこの作品からは殆ど感じられないぐらい陰惨めいている。人物の“死”が多く描かれるが、その描写自体は淡白な印象を抱いた。革命事件に主軸を置きながらキリスト教と無神論(人神思想)といった宗教哲学が濃厚に詰まった作品である。殊に人神思想が登場人物によって語られる描写に魅了された。

  • 『罪と罰』『白痴』とこの『悪霊』と読んできて、どれもまだるっこしい序盤に不穏になりはじめながらも混沌とした中盤、一気にスピードをあげて破局になだれ込む終盤、というのは同じだなと思った。特に『悪霊』と『白痴』は、終盤のなだれ込み加減と、あまりにも急展開かつあっけない幕切れが似てる。

  • 「スタヴローギンの告白」だけは3種類の訳を読んだ。
    しかし、現代はもうスタヴローギンさえ「悪」とはいえない時代。

  • ドストエフスキーが後年に著した『五大長編』の内、政治的な意味あいが最も強いといわれる『悪霊』その完結編です。全ての物語上の複線が回収され、狂乱と崩壊に向かって疾走する様子が描かれております。

    登場人物の実に3分の1が何らかの形で死を迎えるという陰惨極まりない小説であるドストエフスキーの『悪霊』その完結編です。しかし、改めて思うのはストーリー全体の時間軸が秋から冬にかけての「一季節」であるということに衝撃を受けた、ということです。ようやくこの第3部で全ての複線が回収され、物語は一気に崩壊へと突き進んでいくのです。『革命組織の内ゲバリンチ殺人事件』と美貌。知力。腕力に加え、貴族という特権的な身分と、巨額の資産まで併せ持ったニコライ・スタヴローギンという一人の人間が以下に自壊し、その最期を遂げていくのか…。この二つを主軸として、無政府主義、無神論、ニヒリズム、信仰、社会主義革命などの多種多様なテーマを詰め込みに詰め込んでいる小説であると思われます。

    第3部の最初のクライマックスであるところの第1章及び第2章の『祭り』と『祭りの終わり』では、今まで『権威』とあがめられた存在が貶められ、辱められることになります。ユーリヤ夫人の肝いりで始まった『慈善パーティー』で、まずは『前座』としてしたたかに酩酊したレビャートキン大尉が現れ、どうしようもない詩を披露したあと、強制的に退場させられます。ここからすでに不穏な空気を発し始めるのですが、次に壇上に上った『大作家』であらせられるカルマジーノフやステパン氏の持つ『聖性』や『権威』の『仮面』が次々と剥ぎ取られ、冒涜と否定と笑いと奪還のカオスの中へと引きずり込まれていくのです。カルマジーノフ先生は自身の作家人生の集大成である「Merci(ありがとう)」というエッセイを読み上げるのですが、聴衆からの轟々たる罵声により、内容を途中でショートカットし、結びの部分を強引に読み上げる形で控え室へと戻ってきます。

    ステパン氏の講演も大失敗に終わり『美は全ての事象の上にある』という趣旨の発言をしたときに、ある神学生から、脱獄囚のフェージカは昔あなたがカードで負けたカタに売り飛ばさなければああならずにすんだのでは?と野次を投げつけられ、ステパン氏はそれに答えることができずに壇上を後にするのです。3人目の男は『偏執狂』と呼ばれ、彼がロシアを公然と侮辱し、さらにはヴィルギンスキーの親戚も舞台に上がり、しっちゃかめっちゃかの状態となっていきます。夜の舞踏会に至っては参加者が少なく、その少ない参加者達も胡乱げな連中ばかりという体たらくでございました。

    いっぽう、マヴリーギーという婚約者がありながら、ひそかにスタヴローギンを思い慕うリーザはそんなカオスそのものとなった舞踏会の混乱に紛れ、婚約者であるマヴリーキーを振切って、スクヴォレーシニキに走りスタヴローギンと一夜を共にするのですが、ペテルブルグ時代から続く彼の放蕩三昧の遍歴に『生ける屍』と化した彼の姿に幻滅してしまうのです。

    第3章の『愛(ロマン)の終わり』に彼らの会話の様子が描かれるのですが、リーザは自分の『運命』を予感していたことを言うのです。彼との『関係』を示唆する《》付きのあれほどの幸せ。その一瞬。一時間。一瞬。というフレーズ。スタヴローギンの
    「ぼくを苦しめてくれ、ぼくを罰してくれ、ぼくに憎しみをぶちまけてくれ」
    といった果てに彼らの元に来たピョートルにリーザが出て行った後『彼女を愛していない』とのたまい、さらには
    「いや、ぼくは自分の中の猿を笑っているだけです」
    という。この恐るべき空虚さに戦慄しました。その一方で舞踏会が終ろうとする夜更けに、何者かの手によって対岸の郊外の家々に火が放たれ会場は大混乱となっていくのです。その混乱の中、レンプケー氏はその様子を見て
    「ぜんぶ放火だ!こいつはニヒリズムなんだ!燃えているものがあればそいつはニヒリズムだ!」
    と叫び、発狂するのです。G氏はレンプケー氏の政治生命は終わったと述懐しております。

    そんな狂乱の一夜の翌朝に、炎上した川の向こうの一軒屋(借主はスタヴローギン)からスタヴローギンの『正妻』であるマリヤ・レビャートキナとその兄であるレビャートキン大尉。そして女中の惨殺体が発見されるのです。レビャートキン大尉は喉をかき切られ、マリヤは全身をナイフでメッタ刺しにされ、女中は頭を叩き割られるという陰惨なものでした。スタヴローギンから
    「彼らが殺されることは分かっていました。それでも、人殺しどもをとめようとしなかった」
    というまさに『黙過』の告白を聞いたリーザは婚約者のマヴリーギーの静止も聞かず、スクヴォレーシニキの屋敷から火事の現場に駆けつけ、現場にたどり着いた彼女は
    「そいつだぜ、スタヴローギンの女は!」
    (別の方向から)「殺すだけじゃ足りねぇで、見物にまで来やがった」
    という声とともに狂乱した群集によって撲殺されるのです。まさに死に向かって疾走するかのようでした。

    第4章の『最終決断』では「五人組」を脱退しようとするシャートフが密告する恐れがあるということで、彼を殺害し、その罪を「人神思想」のために自殺するキリーロフに負わせるという計画をピョートルが使嗽するのです。ここでもピョートルは旺盛な食欲を発揮し、ステーキを平らげ、キリーロフのところに行って自殺の意思を「念押し」するのです。そこで、脱獄囚のフェージカが登場し、ピョートルは殴り飛ばされるのですが、彼はその後、シュピグリーンの労働者であるフォームカを使い、彼を始末してしまうのです。

    第5章の『旅の女』ではその翌日、シャートフの元妻であるマリヤ・シャートワ(マリイ)が彼の元へと戻ってくるのですが、彼女はスタヴローギンの子供を妊娠しており、シャートフの家で居候しているときに産気づいてしまいます。シャートフはキリーロフや「五人組」のメンバーであるヴィルギンスキー、リャムーシン達のところを駆けずり回り、金や出産にかかわるもろもろのものを確保しようとします。産婆は要らないと言い張るマリイ、それを助けたのはヴィルギンスキーの妻であるアリーナ・ヴィルギンスカヤでした。彼女はシャートフ夫妻の面白さに無償で産婆を引き受け、一人の男の子が生まれます。その際にマリイは
    「ニコライ・スタヴローギンはろくでなしよ!」
    と叫びます。こうして生まれた赤ちゃんにシャートフは彼に「イワン」と名づけ、養子にしようというのです。

    運命の第6章『多難な一夜』ではいよいよシャートフ殺害のために「五人組」のメンバーが集まります。しかし、結構の直前にシガリョーフは異を唱え、現場を去ります。スタヴローギン公園の隅に呼び出されたシャートフは3人掛で地面に押さえつけられ、ピョートルが銃を額に押し当て、射殺されるのです。その遺体は重石をつけたあとで池に投げ込まれます。とても陰惨な場面でした。その数時間後に、ピョートルはキリーロフの家に行き、ピョートルははシャートフ殺害の罪をキリーロフに請負わせ、彼を自殺させてしまうのです。そのときの狂気に満ちたやり取りはここだけでも是非ご覧になっていただけるとありがたいのですが…。二人の「せめぎあい」が本当に鬼気迫るものがあるのです。そして、ピョートルは国外逃亡を果たし、二度と戻ってくることはないのです。

    第7章の『ステパン・ヴェルホヴェンスキー氏の最後の放浪』で全てを失ったステパン氏は失意のうちに放浪の旅に出るのです。そこでであった福音書売りの女であるソフィアと出会い、彼女と行動を共にするのですが、熱病を患い、死の床に就くのです。聖書の一説を読んでほしいと懇願するステパン氏に対し、ソフィアはエピグラフにあるルカ福音書第8章32-36節ともう一つ。「ヨハネ黙示録」の中にある『ラオディキアの教会にあてた手紙』を読むのです。印象的な内容なので、ここに引用したいと思います。
    『ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。 「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。 あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。』
    という箇所を告げられ、激しいショックを受けるのです。その後彼は自分を追ってきたワルワーラ夫人に愛を告げ、彼女の腕の中で息絶えていくのです。

    全ての終わりである第8章の『結末』ではまずシャートフの死を知ったマリイは無茶をした挙句産褥で死に、イワンもまた病死してしまいます。シャートフとキリーロフの遺体が次々と発見され、『五人組』の仲間たちは次々と逮捕されていきます。『リャムーシンは持ちこたえられなかった』という記述があり、自壊した彼の供述が事件解決の決め手となりました。リプーチンはペテルブルグに滞在2週間後に逮捕され、エルケーリは減刑の見込みはなく、トルカチェンコは逃亡後10日ほどして、どこかの郡部で逮捕されます。リーザの婚約者であったマヴリーギーは行方不明となり、母親であったドロズドワ老婦人は精神崩壊を起こしてしまいます。最大の衝撃は主人公であるニコライ・スタヴローギンの『自死』でありましょう。ダーリャに
    「スイス・ウリー州への市民登録を済ませ、家もあるから一緒に行きませんか?」
    と誘いながらも別荘の屋根裏部屋で縊死を遂げる…。その最後にはただただ絶句するともに、
    『だれも責めてはならない、ぼく、自身だ』
    とだけ記された遺書。事前に選び抜かれたであろう丈夫な絹紐や釘、そして苦痛を和らげるために絹紐にべっとりと塗った石鹸…。彼の死は『神になろうとした男』が最後に敗れて自壊していった末の死であり、彼の『限界』こそが人間の持つ『希望』なのかもしれないと思い、ここで筆を擱きます。この陰惨極まりない話にやっと『出口』が見えたことに安堵の息をもらしつつ…。

  • 待望の3巻を読む。1→2→3と進むにつれて深みが増す。堰が切れたように、死んでいく人々の描写が圧巻で、一気に読めた。ロシアの当時の世情に疎く、何が起こっているのか詳細はわからないのに、圧倒的に押し込まれる気持になった。

    今年読んだ中でベストの本。解説などは、これから読むけれど素直にそう思う。

  • 正直ちゃんと理解はできてないと思うけど、それでも面白かった。
    特に三巻目はいろんな事件が起こり大量に人が死ぬなど、動きが激しいしわかりやすい部分も今までの巻よりは多かったので読みやすかった。

    『祭り』でのカルマジーノフのあたりはすごく笑えた。
    実在の人物であるツルゲーネフがカルマジーノフのモデルらしいが、どれだけドストエフスキーは彼に不満があったのかと…。

    最後に読書ガイドもついているので、あぁなるほどあれはそういうことだったのかと発見できることも多くて良い。

    (2024/02/16:再読)

  •  もう一度読んでみたい。 一度読んだだけでは、作者が意図することを読み取る力が足りない。訳者あとがきを読んで初めて、あーそういうことだったかと少しわかった気になる。だからもう一度通して読んでみたい。

  • 一番好きな小説。自分が歳をとったからなのか、亀山さんの訳が分かりやすいのか、これまで何度も読んできた本のはずなのに、新たな気づきも多く、世界も広く感じられた。

  • 新潮文庫で以前読んでから10年ぶりくらいの再読。

    観念にとりつかれた人々の織りなす陰惨な悲劇。愛さえも、より大きな悲劇を引き起こすだけなんだけど、それでも観念と同時に愛にも取り付かれていた人たちの悲劇にはまだ救われる気持ちがする。
    愛と縁がない登場人物たちの殺伐さたるや!

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