純粋理性批判 7 (光文社古典新訳文庫 Bカ 1-8)

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  • Amazon.co.jp ・本 (361ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334752439

作品紹介・あらすじ

「わたしたちは神が命じたから、道徳的に行動する義務があると考えるべきではない。わたしたちは、道徳的に行為すべきことを、みずから"内的な"義務として考えるからこそ、こうした法則が神の命令とみなされるようになったのである。」最難間の書物をついに完全読解する。

感想・レビュー・書評

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  • 7巻は今までのまとめみたいな感じ。
    いっそ全部あとがきって感じでいいんじゃないかとも思うくらいだけど。とりあえず読み終わって嬉しい。

    朝の15分だけ読むって決めていたからえらくだらだらと読んだけど(1,2巻は2回ずつ読んだし)とても幸福な読書体験でした。

    これから先何を読んでも純粋理性批判を読むのと読まないのとではきっと理解の仕方が違ってくると思います。

    読み方の良いクセを得ることができた。


    実践~と判断力~は新訳ででないのかな。

  • ようやく読破。最終巻は、これまでの読書のおかげか、それともテキストそのもののおかげか、とても読みやすく平易です。いや、また読み直さねば。カント・ヘーゲルは現代においてとても参考になる人たちです、うん。

  • ようやく読み終わった。
    2021/12〜挑戦し始めたので、1年4ヶ月かかった計算。

    7巻ではカントの語調が徐々に「信じる」に変わっていくことに不満を感じた。
    解説によれば、それらは『道徳形而上学の基礎付け』『実践理性批判』で解決されるらしい。
    期待したい。

    全体の印象としては理性は手綱という感じ。
    この手綱は2本に分かれている。
    1.夢想を制御する面(自然科学)
    経験から証拠を集める努力をやめないことを求める。
    2.快楽を貪るのを引き締める面(道徳)
    本能から自由になるために必要。

    1のことは『純理』で十分に語り尽くされたと思う。
    2の方がまだ私の中ではフワフワしている。

    以下、読書メモーーー

    p25
    「哲学的な認識とは、概念を使った理性認識である。数学的な認識は、概念の構成による理性認識である。しかし概念を構成するということは、その概念に対応する直観をアプリオリに示すということである。だから概念を構成するためには、経験的な性格のものではない直観が必要である。 」

    p46
    「数学の方法は徹底したものであるが、それは定義、公理、証明という方法に基づくものである。……定義、公理、証明は、数学者の理解する意味においては、哲学の分野で役立てることはできないし、模倣することもできないものである。 」

    「定義」について
    p47
    「第一に、経験的な概念は定義することができず、たんに説明することができるだけである。」
    p48
    「第二に、実体、原因、正義、公正さなど、アプリオリに与えられた概念も、厳密な意味では定義することができない。」
    p51
    「すなわち数学の定義では概念をみずから作りだすのだが、哲学の定義ではたんに概念を説明するにすぎないのである。」
    p53
    「要するに哲学においては適切な明晰さをそなえた定義は、仕事を始めるための前提ではないのであり、定義がえられば、そこで仕事を終えねばならない。」
    p54
    「数学では定義は〈存在するために〉必要とされるものであるが、哲学では定義は〈よりよく存在するために〉必要とされる。」

    p61
    「すべての必然的な命題は、証明することができるものであるか、直接に確実なものかのどちらかであるが、わたしはこうした必然的な命題をドグマとマテマに分類している。ドグマとは、概念から直接に総合された [確実な]命題である。これにたいしてマテマとは、概念の構成によって直接に総合された [確実な]命題である。」

    >ドグマ 哲学
    マテマ 数学

    p62
    「たしかに純粋理性は、知性の概念を使うことで確実な原則を定めることはできるが、それは概念から直接に定めるのではなく、概念をまったく偶然的なもの、すなわち可能的な経験に適用することで、これを間接的に定めるのである。」
    p63
    「「すべての生起するものにはその原因がある」という命題は、与えられた概念だけから根本的に了解することはできないのである。この命題は、他の観点から考えれば、すなわちこの命題を使用することのできる唯一の領域である経験においては、十分で、必然的なものとして証明できるだろうが、ドグマではない。この命題は証明すべき命題であり、原則であって、定理ではない。この命題は、その証明の根拠である経験そのものを初めて可能にするものであるという性格をそなえているのであり、経験においてつねに前提とされねばならないという特異な特性をそなえているからである。」

    p87
    「自然状態においては、係争を解決するのは[戦争による] 勝利である。どちらの当事者にとっても勝利は誇りとすべきものであるが、多くの場合その後につづくのは、仲裁に入った当局が定めた不安に満ちた平和状態であるにすぎない。これにたいし て法的な状態において係争を解決するのは判決である。この判決は、争いの源泉そのものを処理するものであるから、永遠平和が保証されるはずなのである。」

    p89
    「またある種の大胆な主張が提起されたり、すでにふつうの人々のうちでも最善で、最多数の人々の同意をえている主張にたいして不遜な攻撃が行われたりしたときに、こうした攻撃を危険なものと騒ぎたてるのは、あまり賢明なことではない。このよに騒ぎたてることで、こうした主張にほんらい認めるべきではない重要性を与えることになってしまうからである。」

    p93
    若者のうちから独断論に抵抗する力をつけさせるのが望ましい

    p126
    仮説を仮説で証明してはいけない

    p130
    903 理性の係争の解決方法
    「だから純粋理性の領域において仮説は、何らかの権利を〈根拠づけるための武器として利用するためにではなく、権利を擁護する〉 ための武器として利用することが許されているだけである。……わたしたちが恐れるべき異論は、わたしたちのうちに潜んでいるのである。……これを探しだして破砕し、永遠平和を確立しなければならないのである。……人間の理性の本性のうちには、係争の萌芽が潜んでいるのであり、これを根絶する必要がある。しかしその萌芽に自由を与え、さらに栄養物を与えて葉をださせ、そうすることでそのありかをみつけだして抜き捨てるほかに、これを根絶する方法はあるだろうか。
    だから大切なのは、これまで相手が思いついたこともなかったような異論をみずから考案してみること、そして相手に武器を与え、相手が望みうるかぎりで、もっとも有利な立場を占めることを許してやることである。何も恐れることはないし、むしろ期待することができるのである。将来にわたって決して争われることのないものを所有できることを期待できるのだ。」

    仮説の役割
    p135
    「わたしたちがこうした仮説で相手に示そうとしているのは、人間の理性は経験の領域の外部では何ごとも根拠に基づいて獲得することはできないが、それと同じように相手方もたんなる経験的な法則だけでは、可能的な事物のすべての領域を包括することができないということである。」

    p140
    「理性によって問題を解決することに絶望すると、つねに利用される避難場所が、この常識というものなのである。」

    919 哲学の役割
    p159
    「人間はその純粋な理性を使用することによっては何ごとも達成することができず、かえってその逸脱を抑制するために、そして逸脱から生まれる幻惑からを守るために訓練を必要とするということは、屈辱的なことである。」

    p173
    「……実践的な自由とは、わたしたちが自然の原因からは自由に行動することであり、理性が意志を規定する原因性となることである。」

    932 理性の三つの問い
    p175
    「理性のすべての関心は(すなわち思索に基づく関心と実践的な関心は)、つぎの三つの問いに集約される。
    一 わたしは何を知ることができるか
    二 わたしは何をなすべきか
    三 わたしは何を望むことができるか

    p177
    「第三の問い……は、実践的であると同時に理論的なものである。実践的なものは、理論的な問いに答える際の導きの糸となるものであり、理論的な問いが高次の段階に到達した場合には、思索に基づく問いへと導く。というのは人間のすべての望みは、幸福を目指すからである。 」
    >ここ、一足飛びで人間の生きる目的は「幸福になるため」って結論づけちゃっている気がするので、違和感。

    p178
    「第一の[実用的な]法則は、わたしたちが幸福になることを望むならば、何をなすべきかを勧告する。第二の[道徳的な]法則は、幸福になるに値する存在になるためには、どのようにふるまわねばならないかを命令する。第一の法則は、 経験的な原理を根拠とする。というのは経験によらないかぎり、わたしには自分のうちでどのような自然な好みとしての〈心の傾き)が満たされることを望んでいるのかを知ることができないし、それを満たすことのできる自然原因がどのようなものであるかも知ることができないからである。
    第二の[道徳的な]法則は、〈心の傾き〉も、心の傾きを満たす自然の手段も無視
    するものであり、理性的な存在者一般の自由だけを考察し、自由でありながら、原理にしたがって幸福を実現することのできる必然的な条件を考察する。この第二の法則は、少なくとも純粋理性のたんなる理念に依拠するものであるから 、アプリオリに認識することができる。」

    >第一の法則 処世知の規則
    第二の法則 道徳の法則

    p184
    「みずからにも[幸福という] 報酬をもたらす道徳性という体系は理念にすぎないものであって、これが実現されるために必要な条件は、すべての人がなすべきことをなすことである。……
    すべての人はみずから自由を行使する際に、道徳的な法則にしたがうことを義務づけられているが、他人はこの法則にしたがって行動しないかもしれない。その場合には、世界の事物の性格から考えてみても、行動そのものの原因と、行動と道徳との関係から考えてみても、その人の [道徳的な法則にしたがって]行動した結果が、幸福とどのような関係になるかは、規定されない。」
    >最高善
    全ての人が道徳的に振舞わないと実現しない。

    p199
    「現在ではわたしたちはこうした神的な存在者の概念を正しいものとみなしているが、それは思索に基づく理性がその正しさを納得させるからではなく、この概念が道徳的な理性の原理と完全に一致するからである。」

    p211
    「わたしたちが自分の主張することに、自分の生活のすべての幸福を賭けるという場合を思い描いてみよう。するとそれまでの勝ち誇っていたような判断も急に縮こまり、まったく臆病になって、ようやく自分の信念というものも、それほ
    どのものではないことを発見するものである。」

    968 仮説と信念
    p215
    信念
    主観的にそのことを確固として信じているもの
    擁護できないが、離れられない考え
    仮説
    主観的にそのものの特性について十分な知識を持っているもの
    そのものの現実存在を仮に想像することは許されるもの

    臆見(=思い込み)
    主観的にも仮でしかないもの
    確信(=知)
    主観的にも客観的にもそうであると説明ができるもの

    980 歴史的な認識と理性的な認識
    p233
    「その人は他人の理性にしたがって自分を形成した(>歴史的な認識)のであるが、模倣する能力は何かを生みだす能力ではない。その人の認識は、自分の理性から生まれたものではない。……
    客観的な意味での理性認識は、最初は人間のほんらいの理性からしか生まれることができないものであるが、それが主観的な意味でも理性認識と呼ぶことができるようになるには、それが理性の一般的な源泉から、すなわち原理から生みだされるものでなければならない。習得された知識の批判や否定も、このような源泉からしか生まれることはないのである。」

    p235
    「すべてのアプリオリな理性の学のうちで、学ぶことができる学は数学だけである。哲学は、歴史的な認識を別とすれば、学ぶことはできない。哲学では理性にかかわる事柄を、せいぜい哲学的に考察することを学べるにすぎない。」

    解説
    p304
    仮説の第二の用途―論争的な用途
    「カントは仮説にはこのような第一の用途としての「発見的な役割」 (897) のほかに、論争的な用途が存在することを指摘している。理性は経験の領域の事柄については、問題を解明するために、発見的な役割で仮説を利用することはできるが、思索だけにかかわる領域については、「理性はすべてを必然的なものとしてアプリオリに認識することができるか、それともまったく何も認識できないかのどちらか」 (901)なのである。この領域で理性が必然的ではなく、たんに「確からしい」(同)ことを語るのは、
    幾何学の命題を「確からしい」として示すのと同じように不合理なことである。
    しかし理性はある命題を証明し、「根拠づける」(902)目的ではなく、「擁護するという目的」では、仮説を利用することができるとカントは考える。」
    p305
    「人間に自由があるという実践的な命題は、たんなるドグマとして語られるの
    ではない。この命題は、人間が道徳的な存在でありうるためには必要な主張なのである。このように「理性の実践的な使用の場合には、たんなる思索の領域においては十分な証明根拠が欠けていたために、前提として認める権限のなかったものについても、前提として容認する権利を理性は所有している」(902)とカントは考える。」

    p333
    「世界と自然、人間の意志の自由、神と彼岸の存在という三つの次元で、自然神学、超越論的な神学、道徳的な神学がそれぞれの役割をはたすのである。」

    p344
    「幸福になることと幸福になるに値することが一致することを、理論的には証明できない。現実はその反対のことを示しているからである。そのためにカントは
    最高善をある種の要請として示すしかなかったのである。
    そこでこの第三節では、カントはこのドクサとエピステーメーの概念の中間に、信念という概念を提起する。臆見と知のあいだにたつ第三の項として信念を導入することによって、この理性の要請をその主観的な根拠の側から説明し、最高善の概念の重要性とその信憑性を示すことにしたのである。」

  • ようやく、読み終わったが、いよいよこれからが本番である。わかりやすいという評判の本訳であるが、いわゆる定番の訳語を当てはめていないことによって、かえってわかりづらい部分も多い。また、丁寧に訳者が解説していることは、細かすぎて全体が見えづらく、巻数も多くなっていることも含めて、やや「おなか一杯」という感じである。他の解説書や他の訳本も読んでみたい。どちらにしても難解である。なんとなくわかった部分はまだ多くないので、再読しながら、理解できる部分を増やしていきたい。

  •  ようやく最終分冊。これまでが「超越論的原理論」という長い長い第一部で、ここからが第二部「超越論的方法論」という、なかなかにアンバランスな構成であったことに今更ながら気づく。世界認識において働く感性・知性・理性の各々の機能とそのための材料が明らかになったところで、今度は実践的な見地から、何のために世界認識を「すべきか」が語られるのが本分冊である。これまでの議論に比べてやや教条的な色彩が強く、読んでいてやや退屈なのは否めない(7冊目でこちらがダレて来ているのも当然あるが)。

     物自体を直感できず世界の実像を認識できない我々が、それでも世界の認識に取り組むのはなぜか。それは我々が動物的・感性的な衝動の影響を脱し、理性の指示のみにおいて〈実践的な自由〉を志向するからだという。この実践的な自由とは、「幸福のために何をすべきか」という処世術的・実用的な基準ではなく、「何があるべきか」という理性の判断における基準すなわち〈道徳法則〉のもとに規定される自由のこと。つまり、我々の理性の関心はそのような実践的な自由を入手することに向けられているのだという。

     そして、この道徳法則は必ずしも処世術的な「幸福のために何をすべきか」という実用的な見地には立っていないため、この法則に従って行動していても幸福になれるとは限らない。ではどうするか?全人類の行動が道徳の法則つまり「あるべし」という〈定言命法〉に従うよう統制する「神の国(恩寵の王国)」の存在を想定すれば、道徳法則と処世智の規則は一致する、というのだ。そんなこと本当に可能なの?と当然に思うがこれが本分冊の一応の結論であるようだ。詳細は続編「実践理性批判」に引き継がれることになる。
     
     というわけでどうにか読了(読破とは言いづらい、何となく)。正直、各分冊の訳者解説がなかったら一冊も読み通せなかったのではと思う。独断論を批判するカントのそのロジックが「それこそ独断論じゃないの?」というような突飛さを持っていることも多く、納得感がないままに読み進めることになる。これが苦痛この上ないため、僕には訳者解説や副読本のような補助線なしには到底読むことができなかった。しかし、何とか最後まで読み通したことで、少なくとも同種の観念的な議論には幾分免疫がついたのではないかと思う。

  • 134-K-7
    文庫(文学以外)

  • 純粋理性批判をようやく読み終えた^_^

    数学は定義から仕事を始めるが、哲学は定義することによって仕事を終える。

    第7巻で理念に関する論争について考察される。現代において神の存在や死後の世界については公開討論が行われることはなくなった。しかし超能力などについては論争がしばしば行われる。こういった論争をどう眺めるのかについての視点を与えてくれたのが本書だった。

    出生に関する問題として、神の性質を持った人間が、(少子化のような)政治的、社会的な問題と言った極めて世俗的な事柄に影響されたりクズばかりが子供を生むことの不合理さが挙げられる。これについて、理性は明確な回答を指し示すことはできないものの、仮説を提示することはできる。しかしこのような仮説は論敵を論破することには役立つが、真理の証明に関してはそれほど役に立たないことを指摘しておく必要がある。

    ともかく、純粋理性批判を読破して、本当の意味で賢くなったのは確かだ。

  • 原書名:KRITIK DER REINEN VERNUNFT
    超越論的な方法論(純粋理性の訓練;純粋理性の基準;純粋理性の建築術;純粋理性の歴史)

    著者:イマヌエル・カント(Kant, Immanuel, 1724-1804、ロシア・カリーニングラード、哲学者)
    訳者:中山元(1949-、東京都、哲学者)

  • amazon に注文します。
    (2017年7月24日)

    届きました。
    読んでいます。
    (2013年7月26日)


     ◆エベレストからは、何が見える?

     カントの『純粋理性批判』は、世界最高峰です。
     エベレストみたいな本です。

     実物のエベレストには、登れっこありません。
     本のエベレストは、登れます。
     自分の頭で。

     もちろん、この本(光文社古典新訳文庫)の訳者、
     中山元先生という名登山ガイドがいて初めて、
     なんとか登ることができます。

     全7巻。
     最終巻まで、来ました。
     もうあと少しです。

     一挙に登ってしまうのが、もったいない気がします。

         *

     登り切ったら、どんな風景だろう。

     (2013年8月7日)

    読み終えました。
    時間がかかりますが、時間をかけてでも読むと楽しい本です。
    普通の日本語で読める本をつくった中山先生と版元の努力に、恐れ入ります。
    日本の財産です。
    (2013年8月8日)

  • この巻は、理性をいかに鍛錬するかとか、「道徳」の構築に向けた思考の動きとか、本書の「応用編」的な部分となっている。つまりカントは既に、次の「実践理性批判」へ向けて、カントは動き出しているのである。
    やっと光文社新訳文庫版『純粋理性批判』全7巻を読み終えたわけだが、カントのこの著作とは、結局何だったか。
    それまでの経験主義としてくくられる著作家たちを「独断論」として批判し、緻密な思考を展開して見せたこの書物は、18世紀「近代」を切り開いた、やはり革命的だったと思われるし、現在読んでみてもその思想はじゅうぶんに刺激的で、挑発的である。
    しかしカントの思考の枠組みが、せいぜい18世紀までの範疇に限定されて見えることも否めない。
    なんでも分類する事が大好きなカントは、人間精神の活動を「感性」「知性(旧訳では悟性)」「理性」に分けるのだが、現在の我々のパースペクティヴから見ると、このような分け方は便宜的なものではあっても、それ自体リアリティを欠くし、さほど意味がない。
    こんにち的な位置から見ると、私たちは脳をさらに細かく「分ける」こともできるが、人間が思考するとき、それらの各部が複雑に作用し合っていることを理解できるし、また、人間の心的な営みが「脳」という局所にだけ孤立的に限定されているというより、人間存在全体として考えているのだ、という風にも考えられる。
    「感性」「知性」「理性」といった「カテゴライズ」は、西洋の言語体系のなかでは便宜的に成立し・活用される概念ではあるが、そうそう截然と区分けされるわけもなく、我々は意識と、意識外(無意識)、あるいは神経伝達物質、シナプス、あるいは身体すべて、といった全要素が複雑に絡み合った「全体」=ゲシュタルトとして、思考活動を行っているのだ、と思う。
    だから「感性」も「知性」も「理性」も、人間の心性のちょっとした一面(特性)を示す用語ではあっても、それ自体として「存在するもの」ではないのに、それらを「主語」とし、あたかも独立して機能しうる何者かであるように記述するのは、明らかに「近代の誤謬」に過ぎないと私は思う。
    この点で、カントの哲学もまた、「批判」されるべきであった。
    しかし緻密な「批判」なる知的営為を確立したカントの「革命」の価値が損なわれることはないだろう。

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著者プロフィール

1724-1804年。ドイツの哲学者。主な著書に、本書(1795年)のほか、『純粋理性批判』(1781年)、『実践理性批判』(1788年)、『判断力批判』(1790年)ほか。

「2022年 『永遠の平和のために』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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