道徳形而上学の基礎づけ (光文社古典新訳文庫)

  • 光文社 (2012年8月8日発売)
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  • 本 ・本 (416ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334752521

感想・レビュー・書評

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  • カントの名言「汝の意志の格率が〜」をこの年になって詳しく知りたくなったので読んでみた。この名言に関連する「定言命法」、「仮言命法」、「目的の国」、「自律」という高校倫理で取り上げられるカントの思想も本書で登場するので、カント哲学に興味を持った人はまず読んでみてほしい。カントの著作の中では読みやすい方と言われているが、素人にはそれなりに応える一冊だった。本文と同じくらい長い訳者による解説があるのが救い。本書を読んで『実践理性批判』まで読んでみようと思うかどうかが、カント哲学を志すか否かの別れ目になりそう。

    本書を読む前に、世界には2つの世界、我々が知覚する世界(感性界)に対して、経験や知覚を全て排した世界(叡智界)があるということは前提知識として持っておきたい。本書のテーマである道徳は叡智界側に結びつく。上の名言は法則に従うことを私たちに命ずることを示しているが、それだけでなく理性的存在者である人間は「法則を自ら作り出す」存在でもある。外からの影響を全く排した状態で、法則に従い、自ら法則を作り出すその姿は、どこか宗教的な印象を受け、常に物事の原因や理由を考えがちな現代人にとってはイメージがしづらいだろう。(法則が「〜せよ」と私たちに命ずるところもどこか宗教っぽい)

    それにしてもカントの理性というか人間への信頼はすごい。本書はカントが61歳のときに刊行されたようだが、60年も生きていれば、「人間なんて大体バカ」とか思ってしまって、このような著作は書けないのではないだろうか。

  • 事物・言動の良し悪しの判断に、
    普遍性となりうるかどうかと問うことが道徳性を備えたものであるかどうかの判断となる。

    客観的かつ長期的かつ本質的な視点をもつ重要性を、気の遠くなるようなロジカルで組み立て、この原理の正当性と有効性を論じている。

    難解な書と言われるカントの著書だが、
    岩波文庫の『永遠平和のために』と比しても少し読みやすくはあった。

    カントの超がつくほどの規則正しい生活感と、このロジカルな思考の組み立て方に、カントという人間の特質を感じて仕方がない。

  • 毎度のことながらカントの几帳面な議論の進め方に感動しつつも、厳密さにこだわるあまり、一見同じような内容の議論が延々と繰り返される、半ば宗教書のような展開には、集中力がきれそうになる。が、読み通せました。訳者による150頁以上にわたる解説も大変参考になりました。内容的には、ソクラテスやプラトンが訴えていた「善く生きる」ということを、ガチガチに理屈で固めて主張しているような感じです。

  • 哲学なんて自分とは何の関係もないし、興味もない――そう思っている方は、少なくないかもしれません。でも、次のように質問されたらどうでしょうか。

    あなたは、どう生きるべきだろうか?

    この問いは、あなた自身についての問いなのだから、あなたと無関係ではありません。自分の人生に関心がないという人も、ほとんどいないでしょう。だから、多くの人間にとってこの問いは興味深いものとなります。ところで、「どう生きるべきか」と問うことは「どう生きるのが一番よいのか」、つまり「何がよいことか」を考えることに他なりません。そして、それこそが(道徳の)哲学が扱いたい問題なのです。というわけで、上述した問いを出されたら最後、哲学は誰にとっても無関係なものではなくなってしまうのです(ああ恐ろしい)。

    さて、万が一こうした問いについて考えてみたいと思ったら、やはり哲学者たちにヒントを求めるのがよいでしょう。今回はそのなかでも、18世紀ドイツの哲学者カントによって書かれた『道徳形而上学の基礎づけ』を紹介したいと思います。本書は哲学入門のゼミなどでよく読まれるように 比較的読みやすい作品でありながら、内容としては道徳の哲学史における一つの到達点にある著作です。

    カントは、本書冒頭において「絶対的によいもの」は「よい意志」だけだと宣言します。確かに私たちは普段、様々なものを「よいもの」と捉えています。たとえば、「お金」や「勇気」といったものがそれにあたります。しかし、それらをよく活かそうとする「意志」が欠けていれば、「お金」も「勇気」も「よいもの」にはならないでしょう(たとえば人を殺す「勇気」は、よいものではない)。

    また、私たちは普段「幸せになること」を人生の目的と見なし、「幸福な人生」=「よい人生」だと考えてはいないでしょうか。しかし、カントは「幸せ」だけを目指して生き方を決定すること(意志を決めること)を批判します。というのも、「何をすれば幸せになれるか」なんて、確実に予測することはできないからです。だから、「幸せになること」をモットーにして、自分がどう生きていくかを決めることはできないとカントは断言します。

    では、何を目指した意志が「よい意志」なのか。カントが注目するのは、「人間は不幸になると分かっていながらも、正直に生きようとすることがある」という事実です。ここにカントは、私たちが生きるにあたって、幸せになることよりも優先している「よいもの」を見出すことになるのです。

    長くなってしまいましたが、この先が気になる方はぜひ本書を手にとってみて下さい。とりわけ今回紹介した中山訳は、一人でも読み通せると評判のとても分かりやすい訳になっている のでオススメです。
    (ラーニング・アドバイザー/哲学 KURIHARA )

    ▼筑波大学附属図書館の所蔵情報はこちら
    https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/search/book.do?bibid=1698072

  • 1/3が著者による解説であり、これが本文の理論展開の流れに沿った要約+説明であるため、何ならここだけ読めば理解が成立するという優れものである。
    カントの道徳論と言えば「実践理性批判」であるが、そこでは序盤に登場し、ほとんど所与の事実とされていた道徳法則(=定言命法=君の意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ)の可能性を探求する、まさしく「基礎づけ」である。本書での道徳法則の登場は中盤だ。また同時に、カントの歴史哲学あるいは政治哲学の基礎としても読めると思う。
    カントらしく、個人の経験や傾向性を排除して『道徳性の最高の原理を探求し、確定すること』が本書の目的である。「実践理性批判」と比べると、日常的な具体例が多いのと、無理やりな理念(『心の不死』『神』のような)の出番が少ないため、あちらよりは納得しやすいと思う。

    カントの道徳論に特徴的なのが「行為の結果は道徳の考察においては考慮の外」と断言する点である。これは『無制限に善であるとみなせるもの』は『ただ善い意志だけである』という言葉にも表れている。これは個人的な(つまり経験的な)道徳論を排除するために必要な措置だと理解はできる。しかし、正しい意志による行為の結果が大惨事だったとしても、それは道徳的に肯定されるのか、という反論がすぐに思いつく。むしろ歴史上の大惨事は、当人からすれば「正しいことを為そう」とした結果であることが多いのではないか。結果を問わず意志のみを問う(ように読める)道徳論など無責任ではないか、と思った。この点は、やはり『実践理性批判』と同じであった。

    疑似道徳的な行為として「長期的な損得勘定」や「特定の客に対する好意」のために「正規の価格で販売する店主」が挙げられる。この店主の行為自体は「義務に適った行為」ではあるが「義務に従った行為」ではない。カントの考え方では、意志が道徳法則と一致していないため、道徳的には肯定されない。他にも『自殺の否定』、『他者への親切』、『自己の幸福の追求』、『隣人愛』のように、具体的な例が多く、イメージを持ちやすい。
    このような道徳性の有無を判断するにおいて、一般人の普通の感覚も大いに信頼されており、『尊敬の感情』が判定原理だとされる。要は誰でも「その人の行為を尊敬できるかどうかくらい判断がつくだろう」というわけである。
    そして、そこから普遍的な道徳に至る理路が示される。カントは、道徳的に善であるためには、ただ『わたしは、自分の行動原理が普遍的な法則となることを意欲しうるか』と尋ねるだけで十分だと言う。つまり、自分の行動原理を誰も彼もが採用したとしたら、その時に世界はどうなるだろう、と考える。私が思いついた例は「ポイ捨て」であった。それする人ですら、世の中全員がそれをして良しとは思っていないだろう。このように「エゴを克服する原理」として考えることはできる。これだけで個人に善行を期待するのはさすがに理想的過ぎると思うが、法律や組織のルールを作る際には大前提となる考え方にもなるだろう。

    この普遍の考え方を時間的に未来に延長することで『目的の国』という、一種の哲学的ユートピアが夢想される。そこでは、人間が自らの普遍的な道徳法則を作り出し、またそれに従っている。そうすることで、各人の素質を完全に開花させるという。このあたり、マルクスの未来像に少し重なるものがあるように思った。

    このようなカントの考え方は理想主義的過ぎるように思う。ただ、カントに言わせれば、だからこそ逆説的に、『自由』で『自律』した人間が、悪をなす可能性を退けて道徳的であること(=道徳法則=定言命法に従う義務を引き受けること)が『崇高』な『尊厳』を持つとされる。

    終盤では、カントの奥の手である二世界論が導入される。
    理性的存在者は、外部(=感性界)からの影響から独立して『自由』であり、それがゆえに『道徳性』を持つことができる。そして、この『自由』を確保するため二世界論が導入される。
    (1)感性界=他律=傾向性や衝動=本来の自己が現象したもの
    (2)叡智界=自由=理性=本来の自己
    『人間の理性は自然の必然性の概念も自由の概念も、どちらも放棄することができない』
    (1)にも属しているからこそ、(2)である『べし』という義務が成立し、だから道徳的になり得る、ということになる。
    …しかしこれは一種の逃げではないだろうか。本書の中の他の材料だけでも、もっと説得的な結論が出せそうな気がしてならない。
    また本筋とは関係ないが、(2)でしかあり得ない天使や神は、つまり道徳的であることが可能なのか、という疑問を持った。

  • 久しぶりにトライしたが、やはり辛い。。

  • めっちゃわかりやすい! カントじゃないみたい!

  •  本論でさらに詳しく考察されるが、「道徳的な法則にかなっているようにみえ」(同)る行為が、その行為者の道徳性のためではなく、たまたまその行為者にそなわっている偶然的な要因のために行われることも多いのである。たとえば友人が好きで、困っている友人を助ける人がいるとしよう。この人の行為は、友人にたいする愛情の表現であり、好意の表現であり、善いことである。しかしこの行為は、その人の友人を愛する「心の傾き」によって行われたものである。たしかに困っている人を助けると言う道徳的な法則に適っている行為ではあるが、「道徳的な法則のために」(同)、道徳的な法則に基づいて行われた行為ではないのである。
     この「道徳的な法則に適っている」行為と、「道徳的な法則に基づいて行われる」好意の違いを明確にするための基準として役立つのが、純粋な道徳的な原理であり、純粋な道徳形而上学は、この原理を確立することを目指すのである。

     カントはこの義務の概念と善い意志の結びつきを明らかにするために、正価で商品を販売する小売店の店主の実例をあげている(以下で明らかになるようにカントは本書で多くの身近な実例をあげている。これらの実例によって本書は、『実践理性批判』よりも読者の思考を刺激する力をそなえているのである)。その店主が「買い物に慣れていない客に、高い値段で商品を売りつけないとすれば、これは義務にかなった行為である(023)。しかしこの行為が善い意志に基づいた行為、すなわち道徳的な行為であるかどうかは、すぐに明確にはならない。「義務に適った行為」には、次のような三種類の行為が考えられるからである。
     第一はこうした行為が、その人の「直接的な心の傾き」(同)のために行われる場合である。たとえば買い物にきた人が幼い子供であって、店主は子供好きだったとしよう。この店主はふつうなら、値段もわからない客には高い値段をふっかけるのだが、たまたまその客が子供だったから、正価で販売したとしよう。その場合には、店主は自分の「直接的な心の傾き」のために「義務に適った」かのようにみえる行為をしたにすぎない。いつもはその義務は守っていないのである。だからこの場合には店主のこの行為は「善い意志」から行われたものとは言えないだろう。
     第二は、その人の直接的な心の傾きからではなく、「自分の利益を重んじた」(同)ために義務に適った行為が行われる場合である。この場合には店主は、たしかに商品を正価で販売するが、それは義務によってではなく、「すべての人に定価で販売する」(同)ようにすれば、「子供でも他のすべての人と同じように、この商人の店で安心して買い物ができる」(同)という評判が高くなることを期待してのことなのである。この場合には、このような評判が高くなれば店は繁盛するだろうから、結局は利益になると計算して、店主は「義務に適った」行為をしたことになる。この行為もまた、善い意志に基づいたものではなかったのである。
     第三に、心の傾きからでも自己の利益のためでもなく、「義務に基づいて」(同)こうした行為が行われた場合である。店主は、客を欺くことは自分の義務に反するし、誠実であろうという意志に反するという理由から、幼い客に正価で販売したとしよう。この場合だけが、善い意志による行為と判断される。この場合にかぎって店主は「義務や誠実さという理由からこのような客の扱いをした」(同)と考えることができる。これはたんに「義務に適った」行為ではなく、「義務に基づいた」行為と判断されるのである。
     このように、ある行為が良い意志による行為であるかどうかを判断するためには、その行為が直接的な心の傾きによるものでも、計算高い利己心によるものでもなく、義務に基づいたものであるかどうかを点検してみればよいことになる。

     ところで本書の序文では、この基礎づけの課題を「道徳性の最高の原理を探求し、確定すること」(013)にあると定めていた。定言命法の最終的な定式化が行われた今、この課題がいよいよ表現される段階に到達した。
     カントは自分の義務を忠実に遂行する人には「崇高で尊厳がある」(114)と感じることを指摘していたが、その尊厳の由来は、たんにその人が道徳的な法則に適って行動するところからは生まれない。わたしたちは道徳的な法則に適って行動するだけではなく、道徳的な法則に基づいて行動する人、しかもその法則を外的な強制とみなすのではなく、みずから法則を定める人、そして「それがゆえに法則に服従している」(同)人に、尊厳を感じるのである。
     だからここで真の意味での道徳性をつくりだしているのは、たんに道徳的な法則に服従するという側面ではなく、道徳的な法則を自らの意志で自由に作り出し、それに服従するありかたなのである。カントはこの意志の自由を「自律」(095)と呼んだのだった。

  • 大先生

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著者プロフィール

1724-1804年。ドイツの哲学者。主な著書に、本書(1795年)のほか、『純粋理性批判』(1781年)、『実践理性批判』(1788年)、『判断力批判』(1790年)ほか。

「2022年 『永遠の平和のために』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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