- 本 ・本 (416ページ)
- / ISBN・EAN: 9784334752521
感想・レビュー・書評
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事物・言動の良し悪しの判断に、
普遍性となりうるかどうかと問うことが道徳性を備えたものであるかどうかの判断となる。
客観的かつ長期的かつ本質的な視点をもつ重要性を、気の遠くなるようなロジカルで組み立て、この原理の正当性と有効性を論じている。
難解な書と言われるカントの著書だが、
岩波文庫の『永遠平和のために』と比しても少し読みやすくはあった。
カントの超がつくほどの規則正しい生活感と、このロジカルな思考の組み立て方に、カントという人間の特質を感じて仕方がない。
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毎度のことながらカントの几帳面な議論の進め方に感動しつつも、厳密さにこだわるあまり、一見同じような内容の議論が延々と繰り返される、半ば宗教書のような展開には、集中力がきれそうになる。が、読み通せました。訳者による150頁以上にわたる解説も大変参考になりました。内容的には、ソクラテスやプラトンが訴えていた「善く生きる」ということを、ガチガチに理屈で固めて主張しているような感じです。
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哲学なんて自分とは何の関係もないし、興味もない――そう思っている方は、少なくないかもしれません。でも、次のように質問されたらどうでしょうか。
あなたは、どう生きるべきだろうか?
この問いは、あなた自身についての問いなのだから、あなたと無関係ではありません。自分の人生に関心がないという人も、ほとんどいないでしょう。だから、多くの人間にとってこの問いは興味深いものとなります。ところで、「どう生きるべきか」と問うことは「どう生きるのが一番よいのか」、つまり「何がよいことか」を考えることに他なりません。そして、それこそが(道徳の)哲学が扱いたい問題なのです。というわけで、上述した問いを出されたら最後、哲学は誰にとっても無関係なものではなくなってしまうのです(ああ恐ろしい)。
さて、万が一こうした問いについて考えてみたいと思ったら、やはり哲学者たちにヒントを求めるのがよいでしょう。今回はそのなかでも、18世紀ドイツの哲学者カントによって書かれた『道徳形而上学の基礎づけ』を紹介したいと思います。本書は哲学入門のゼミなどでよく読まれるように 比較的読みやすい作品でありながら、内容としては道徳の哲学史における一つの到達点にある著作です。
カントは、本書冒頭において「絶対的によいもの」は「よい意志」だけだと宣言します。確かに私たちは普段、様々なものを「よいもの」と捉えています。たとえば、「お金」や「勇気」といったものがそれにあたります。しかし、それらをよく活かそうとする「意志」が欠けていれば、「お金」も「勇気」も「よいもの」にはならないでしょう(たとえば人を殺す「勇気」は、よいものではない)。
また、私たちは普段「幸せになること」を人生の目的と見なし、「幸福な人生」=「よい人生」だと考えてはいないでしょうか。しかし、カントは「幸せ」だけを目指して生き方を決定すること(意志を決めること)を批判します。というのも、「何をすれば幸せになれるか」なんて、確実に予測することはできないからです。だから、「幸せになること」をモットーにして、自分がどう生きていくかを決めることはできないとカントは断言します。
では、何を目指した意志が「よい意志」なのか。カントが注目するのは、「人間は不幸になると分かっていながらも、正直に生きようとすることがある」という事実です。ここにカントは、私たちが生きるにあたって、幸せになることよりも優先している「よいもの」を見出すことになるのです。
長くなってしまいましたが、この先が気になる方はぜひ本書を手にとってみて下さい。とりわけ今回紹介した中山訳は、一人でも読み通せると評判のとても分かりやすい訳になっている のでオススメです。
(ラーニング・アドバイザー/哲学 KURIHARA )
▼筑波大学附属図書館の所蔵情報はこちら
https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/search/book.do?bibid=1698072 -
1/3が著者による解説であり、これが本文の理論展開の流れに沿った要約+説明であるため、何ならここだけ読めば理解が成立するという優れものである。
カントの道徳論と言えば「実践理性批判」であるが、そこでは序盤に登場し、ほとんど所与の事実とされていた道徳法則(=定言命法=君の意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ)の可能性を探求する、まさしく「基礎づけ」である。本書での道徳法則の登場は中盤だ。また同時に、カントの歴史哲学あるいは政治哲学の基礎としても読めると思う。
カントらしく、個人の経験や傾向性を排除して『道徳性の最高の原理を探求し、確定すること』が本書の目的である。「実践理性批判」と比べると、日常的な具体例が多いのと、無理やりな理念(『心の不死』『神』のような)の出番が少ないため、あちらよりは納得しやすいと思う。
カントの道徳論に特徴的なのが「行為の結果は道徳の考察においては考慮の外」と断言する点である。これは『無制限に善であるとみなせるもの』は『ただ善い意志だけである』という言葉にも表れている。これは個人的な(つまり経験的な)道徳論を排除するために必要な措置だと理解はできる。しかし、正しい意志による行為の結果が大惨事だったとしても、それは道徳的に肯定されるのか、という反論がすぐに思いつく。むしろ歴史上の大惨事は、当人からすれば「正しいことを為そう」とした結果であることが多いのではないか。結果を問わず意志のみを問う(ように読める)道徳論など無責任ではないか、と思った。この点は、やはり『実践理性批判』と同じであった。
疑似道徳的な行為として「長期的な損得勘定」や「特定の客に対する好意」のために「正規の価格で販売する店主」が挙げられる。この店主の行為自体は「義務に適った行為」ではあるが「義務に従った行為」ではない。カントの考え方では、意志が道徳法則と一致していないため、道徳的には肯定されない。他にも『自殺の否定』、『他者への親切』、『自己の幸福の追求』、『隣人愛』のように、具体的な例が多く、イメージを持ちやすい。
このような道徳性の有無を判断するにおいて、一般人の普通の感覚も大いに信頼されており、『尊敬の感情』が判定原理だとされる。要は誰でも「その人の行為を尊敬できるかどうかくらい判断がつくだろう」というわけである。
そして、そこから普遍的な道徳に至る理路が示される。カントは、道徳的に善であるためには、ただ『わたしは、自分の行動原理が普遍的な法則となることを意欲しうるか』と尋ねるだけで十分だと言う。つまり、自分の行動原理を誰も彼もが採用したとしたら、その時に世界はどうなるだろう、と考える。私が思いついた例は「ポイ捨て」であった。それする人ですら、世の中全員がそれをして良しとは思っていないだろう。このように「エゴを克服する原理」として考えることはできる。これだけで個人に善行を期待するのはさすがに理想的過ぎると思うが、法律や組織のルールを作る際には大前提となる考え方にもなるだろう。
この普遍の考え方を時間的に未来に延長することで『目的の国』という、一種の哲学的ユートピアが夢想される。そこでは、人間が自らの普遍的な道徳法則を作り出し、またそれに従っている。そうすることで、各人の素質を完全に開花させるという。このあたり、マルクスの未来像に少し重なるものがあるように思った。
このようなカントの考え方は理想主義的過ぎるように思う。ただ、カントに言わせれば、だからこそ逆説的に、『自由』で『自律』した人間が、悪をなす可能性を退けて道徳的であること(=道徳法則=定言命法に従う義務を引き受けること)が『崇高』な『尊厳』を持つとされる。
終盤では、カントの奥の手である二世界論が導入される。
理性的存在者は、外部(=感性界)からの影響から独立して『自由』であり、それがゆえに『道徳性』を持つことができる。そして、この『自由』を確保するため二世界論が導入される。
(1)感性界=他律=傾向性や衝動=本来の自己が現象したもの
(2)叡智界=自由=理性=本来の自己
『人間の理性は自然の必然性の概念も自由の概念も、どちらも放棄することができない』
(1)にも属しているからこそ、(2)である『べし』という義務が成立し、だから道徳的になり得る、ということになる。
…しかしこれは一種の逃げではないだろうか。本書の中の他の材料だけでも、もっと説得的な結論が出せそうな気がしてならない。
また本筋とは関係ないが、(2)でしかあり得ない天使や神は、つまり道徳的であることが可能なのか、という疑問を持った。 -
久しぶりにトライしたが、やはり辛い。。
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めっちゃわかりやすい! カントじゃないみたい!
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大先生
著者プロフィール
イマヌエル・カントの作品





