読書について (光文社古典新訳文庫 Bシ 1-1)

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  • / ISBN・EAN: 9784334752712

感想・レビュー・書評

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  • 【読もうと思った理由】
    もともと生涯で読むべき古典リストの中にリストアップしていた書籍だ。
    村上春樹氏の長編小説に対し、自分の中で苦手意識を克服できたので、文学に関しては小休止してもいいかなと思った。哲学・思想書の中では、本書がもっとも読みやすい部類だと思うので、哲学・思想書を久しぶりに読むのには、適切なタイミングかなと。また読書から得られる気づきを、もっと今後の人生に直結するものにしたかったので、今回読むに至る。

    【ショーペンハウアーってどんな人?】
    [1788〜1860]
    ダンツィヒ生まれのドイツの哲学者。「生の哲学」の祖。ゲッティング大学で自然科学・歴史・哲学を学び、プラトンとカント、インド哲学を研究する。イェーナ大学で論文「充足理由律の四根について」によりドクトルの学位取得後、1820年ベルリン大学講師となったが、当時ヘーゲル哲学が全ドイツを席巻、人気絶頂のヘーゲル正教授に圧倒され辞任し、在野の学者となる。主著である「意志と表象としての世界」(1819-1844)を敷衍(ふえん)したエッセイ「余録と補遺」(1851)がベストセラーになると、彼の思想全体も一躍注目を集め、晩年になってから名声を博した。フランクフルトにて没。ニーチェやヴァーグナーをはじめ、哲学・文学・芸術の分野で後世に大きな影響を及ぼした。

    【感想】
    本書を読む前の読書に対する自分の考え方は以下だ。その本を読む前から自分の知識として持っていた既存知識と、新たに読書を経て得た、新たな知識を融合して、新たな知恵として自分の血肉とする。(詳しくは「行き先はいつも名著が教えてくれる」の感想欄に書いてます)

    上記の読書に対する取り組みで改善したかったところは、過去の知識を自分の記憶の中にいかに取り出しやすい状態で保存しておけるかだ。その部分がまだまだ弱いと思っており、そこを改善したかった。上記の課題をメインテーマに読んだ。

    読了後に僕が感じた、著者が伝えたかったであろう本質の部分は以下です。

    ・読書をするとは、自分でものを考えずに代わりに他人に考えてもらうことだ。

    ・読書をして自分の血肉とできるのは、何度も反復しじっくり考えたときだけだ。

    ・人生は短く、時間は限られている。なので読む本は厳選し、良書のみを読むべきだ。

    ・重要な本はすべて続けて2度読むべきだ。
    2度目になると内容のつながりが、より一層よくわかるし、結末がわかっていれば、出だしからより正しく理解できる。

    ・真に正しく理解された哲学は、実質的で最良の叡智となる。

    ・文章を書くときは平易な言葉を使い、非凡なことを書くべきだ。

    【本書から得た気づき】
    上記ポイントを考えている際に、あぁ、まさしくこのことが最も重要なんだと思った。本を読んでインプットした情報を、ブグログにアウトプットする際に、本質的に重要な部分だけをまとめるときに一番自分で考えている。

    具体的には以下だ。
    1.本を読んでいて重要だと思った部分に付箋を貼っていく。
    2.読了後に、付箋を貼った部分のみをスマホのメモに書いていく。
    3.メモに書いたものを全体を俯瞰して見て、思考する。 
    (具体的には、この部分とこの部分は一つの文章に纏めれるとか、この部分は内容が重複しているので削除できるなとか、分量として多すぎれば何を削るべきかを考えたりなど。)
    4.出来上がった内容を何度も読んで、前後のつながりでおかしいものは無いかなど、チェックし添削する。(その際に村上春樹氏から学んだ、読んでいただける方に向けて、真心を持って、少しでも読みやすい文章になる様に推敲しまくる。)

    上記一連の作業をしているときに、自分一人の力で考えている。あーでもない、こーでもないと。その思考時間が長ければ長いほど、自分の長期記憶に残りやすくなり、その後、期間が空いても、必要なときに記憶を取り出しやすくなる。インプットしてからアウトプットするまでの思考時間が、もっとも大事なんだと気づけたことが、今回の読書から得れた最大の気づきだ。

    ブグログに感想をアップする前は、一冊の本を読んでここまで思考していなかったと思う。アウトプットそのものが重要ではなく、アウトプットするまでの思考時間が最重要だと明確化できた。このことが今後の人生において、結構ターニングポイントになるかもしれない。

    【雑感】
    本当はこの後、ニーチェの入門書(飲茶氏の本)を読んで、本番の「ツァラトゥストラ」を読みたかった。ただ図書館の予約本である、「口訳 古事記」(町田康氏著)が届いたとの連絡がきたので、次は上記を読みます。町田康氏は初読みだが、この人すごい異色の経歴の持ち主だ。元々パンクロッカーとしてメジャーデビュー後に、作家に転身。芥川賞も受賞している。今作は誰もが知っている日本最古の歴史書、古事記を口語でかつ、関西弁バリバリで語っているという。そんなハチャメチャな人は大好きなので、俄然読みたくなった。

  • 【本を読む、それだけで終わらせないために】

    いまこうやって、どんな感想を書こうかパソコンの前でぼんやりしていると、ショーペンハウエル先生の、「書くまで考えないタイプの物書きは、運を天に任せて狩りに出る狩人のようなものだ。多くの獲物をたずさえて帰路につくのは難しい。」というお叱りの言葉が聞こえる気がしてきます。
    うう……申し訳ございません(私は物書きではないけれど)。
    現代の文章ではあまり出会えない、はっきりした批判の言葉に圧倒されつつ、たまにめげそうになりつつ、たくさん刺激を受けて読了。

    「本は著者の思想を印刷したものにほかならない。思想の価値を決めるのは、素材か、表現形式だ。素材とは『何について考えたのか』であり、表現形式とはどう素材に手を加えたのか、『どう考えたのか』だ。」

    「真に簡潔で力強く、含蕃のある表現をするためには、どの概念にも、どんなに微細な変化や微妙なニュアンスにも厳密に対応する語を自在にあやつる国語力がなければならない。」

    などなど。
    ショーペンハウエルはただ本を読むこと、冊数を重ねることを良しとしないけれど、それは読書の否定的な面を指摘することで、「読む」ことの一歩先へ進みなさい、と読者に促しているのだと思います。
    厳しく激しい批判の言葉の数々は、それだけ強い危機感と真の思想への愛の裏返し。
    「読む」だけで終わらせずに、「自分の頭で考える」……うーん、難しそうだし、大変だなあ、と思いつつ、次に手にとる本は、本書に書かれたヒントを意識して読んでみよう、と少しわくわくしています。

  • 哲学者・ショーペンハウアーが、読むこと・書くこと・考えることについて綴った3つの文章が収められています。

    本を読むことは他人の頭で考えること。
    本に書かれていることを読んだだけ満足してるだけじゃ意味がない。
    自分の頭で考えろ!
    耳に痛い…と反省しつつ、「本を読む=いいこと」と言い切ることはできないということに気付かされました。

    お金を稼ぐためだけに駄文を綴る三文文士への切れ味鋭い批判は、痛烈ながら爽快感もあるのです。
    こんな風に言い切れたら、さぞ気持ちがいいのだろう!

    • kwosaさん
      すずめさん

      はじめまして

      ブクログのお仲間のタイムライン経由で、こちらのレビューに出会いました。
      ちょうど今「読書」について考...
      すずめさん

      はじめまして

      ブクログのお仲間のタイムライン経由で、こちらのレビューに出会いました。
      ちょうど今「読書」について考えている時期だったので、この本とても気になります。

      本棚、すこし拝見しました。
      すずめさんというお名前で「ちいさなつづら」 なんて気の利いた屋号(!?)
      まさに宝物が詰まった、わくわくするラインナップで、路地裏に隠れ家のような本屋さんを見つけた気分です。
      これからもちょこちょこ通いたいので、フォローさせていただきました。
      2014/02/24
    • すずめさん
      kwosaさん、はじめまして☆
      コメントありがとうございます(*^^*)

      私にとって初めてのショーペンハウアー。辛口の批判にギクッと...
      kwosaさん、はじめまして☆
      コメントありがとうございます(*^^*)

      私にとって初めてのショーペンハウアー。辛口の批判にギクッとさせられつつも清々しさを感じました。
      ぜひお手に取ってみてください!
      2014/02/24
  • 傲慢なほどにハッキリした主張。
    主張の内容もよかったけど、著者の主張行為そのものが明快で気持ちよかった。
    とはいえ、口の悪さには閉口した。

    「大事なのは、なにを読むかではない。
    なにを読まないで済ませるか、だ」

    これは本当にそう思う。
    迷ったときは、ロングセラー 一択。
    とはいえ、古典やロングセラー 一辺倒だと息が詰まるので注意。

    他にも名言多数。
    繰り返し読みたい本。

  • ショペンハウアーの考える本の選び方、読み方、書き方が書かれている。

    とにかく無駄な言い回しをせず分かりやすく書くことが良書の条件と言っていた。

    いままでショペンハウアーを読んだことがなかったわたしは、ショペンハウアーの本はきっと難しくて読むことができないだろうと思っていたけど、とても簡潔でわかりやすかった。

    1788年生まれのドイツ人哲学者の本が、2020年の日本人の小娘が読んで分かりやすいってすごいことだと思う。

    そして、悪書を時に名指しして批判する姿は、(いい意味で)性格の悪さを感じた。そして、ウィキで調べたら結構イケメンじゃん、イケメンで性格悪いとか、マジウケル。

  • ブクログ利用者に冷水を浴びせる名著となるか。
    それとも、ただの腹立たしい炎上商法か。


    読書をすべきではない。

    特に新書。数年後に忘れられる本を読む時間があるならば、
    その有限な時間を古典に注ぐべきだと説く、不思議な刺激を受ける「本」です。
    本から本の批判をされる、面白い体験をしました。

    そして、言い方が力強い。
    20世紀のSF作家、スタージョン(世の中の90%はクズ、で有名)や、
    現代の堀江貴文、ひろゆきに通じる痛快さがあります。

    注釈を含めても160Pそこそこ。その短さから、勢いは終わりまで弱まること無く、最後まで読み切れました。

    自分がもっていた固定観念をこの短いエッセイで壊してくれたこと。
    この1つの大きなメリットで、星5評価にしています。

    その偏見は、
    「誰もが読書をすべき。」
    「読書をより多くするほど、人格は深まる。そうでない人は、考える力が弱い。」

    どちらも、諸先輩方から繰り返し教え込まれ、同時に諸後輩達に伝えていたメッセージです。

    ショーペンハウアーは、こうした読書至上主義をシンプルな言い回しでたしなめてくれました。
    読書という、いわば「巨人の肩に乗る」行為が過ぎると、思考力は洗練されるどころか、弱まる。これまでとは逆の説です。

    そして、この本を読み終えたあとに、私の偏見は一部修正を余儀なくされます。

    「誰もが読書をすべき。ただし、自分で考える時間を優先し、日がな一日読書に費やさないこと」
    「自分で考える時間をより多くするほど、人格は深まる。ただし、四六時中は難しいので、その補助として書籍を活用する。」

    ブクログを使っている方は、読書が好き。少なくとも、関心が高い方だと推察します。

    だからこそ、この本を読んで、どのような感想をいだくのか興味がわきます。

    どのようなことでも、一見メリットしか無いようでいて、デメリットも必ず備えている。両面思考を学ぶ良書でした。


    余談です。

    先日この本をテーマに読書会を行いました。
    ただ読んで終わりにするのではなく、自分の考えを深める。さらに他人と共有する機会をもちました。

    著者に賛同しつつも、個々の参加者から出た意見がとても参考になりました。

    ・自分の考えを補強するために読む ということに終止すると、
     その反対意見を見過ごすのではないか。自己正当化バイアスに陥らないか。
    ・悪書とは何なんだろうか。これはショーペインハウエルに求めるのではなく、令和の日本に生きる私達、個々人が定義すべき。
    ・大衆を避けるべき、という点は部分的に同意できる。しかし、大衆が好きな本だから、という理由で避けているとしたら、価値基準はやはり大衆文化になるのではないか、出版部数や書評を気にせず良書を追い求めるという視点がよいのではないか。

    考えながら読む、そして友人と話すテーマとして「読書について」は最適でした。
    ショーペンハウエルは私達の頭の中を解きほぐしてくれます。

  • 『読書は自分で考えることの代わりにしかならない。自分の思考の手綱を他人にゆだねることだ』
    『多読に走ると精神のしなやかさが奪われる』
    なかなか厳しい言葉で紡がれたこの本は、粗悪な文字書きや多読をする者、乱れた文体を使う者たちをばっさばっさと斬りまくる。
    それと同時に筆者のショーペンハウアーは本当に本を、文章を愛していたんだな、と。
    この本が生み出されて二百年。”書くこと”はより身近になり、それを”発信する”人も爆発的に増えた。
    この世に溢れかえる文章たちに、彼は何を感じるだろう。



  • 感想を書くのにこんなに気が重たくなる本もなかなかない。

    「自分の頭で考える」「読書について」では、多読するな、本当に優れた本だけを読め、という旨の主張が豊富な比喩表現で示されている。
    多くの箇所で、読書なんか他人に思考を預けることでしかないんだからあんまり時間かけてやるもんじゃないよ、という主張がされているが、気になったのは以下の箇所。
    ————————————
    読書が書く修業になる唯一の方法は、私たち自身の天賦の才の使い方を学ぶことで、それは私たちがそういう素質を持っていることを前提とする。この前提がなければ、読書から学べるのは、冷たい血の通っていない、わざとらしい技巧だけで、私たちは底の浅い模倣者になってしまう。
    ————————————
    ここは、ショーペンハウアーが、読書を我々が役立てる方法や有益性について語っている(数少ない?)箇所なのではないかと感じた。
    たしかに、適切な訓練を積んだ上で優れた本を読むと、「あぁこうやって表現すると良いのか」というのが真に理解できるという気がする。

    他にも、新聞記者やジャーナリストが多く攻撃されているのが興味深い。現代だと、特に新聞記者なんかは、文章に関する訓練を受けている人という印象が強いけれど、ショーペンハウアーのこき下ろしようは凄まじい。また、そもそも「読書」というものが文化としてどう捉えられているかが、現代とショーペンハウアーの生きた時代だと異なるんだろうと思った。
    現代だと「読書」は、(漫画を除き?)正統なあるいは若干スノッブな?文化だと捉えられている気がする。一方、ショーペンハウアーの時代は、今よりも娯楽の要素が強い気がする。
    とすると、現代で例えばYouTubeやTikTokが旧世代から下に見られたりするのと、相似な事象なのかもしれないなと、なんとなく感じた。

    あとは、ドイツの国民性をいやにこき下ろすが、これはドイツを嫌っているというよりも、憂国というか、ちゃんとしてくれよと喝を入れているように感じた。

    最後に、ショーペンハウアーは「読書会」をどう評価するんだろうと、ふと思った。本を読むこと自体はたしかに彼がいうように誰かに思考を受け渡すことかもしれないけれど、読書に刺激されて他人と議論を交わすことは、より能動的な作業なので、少しはポジティブに評価してくれるかな、と。

  •  とても長い時間をかけてようやっと読了。他の人のレビューを見て、「どんだけひねくれてる人なんだろう、友達絶対できなさそうな人でしょ」と思い読み始めてみたけど、ホントに遠慮がない。特に「著述と文体について」では、売れる本ばかり書いているとボロクソに言っている。読み手である自分にとっては、ほんとにその通りです……スイマセンと思うこともあった。
     この本には3つの作品が収録されているが、共通して言えることは、本読んで知った気になってはいけないということだと思う。本を読んで、自分で考えたり、行動に移したりする。ただ、本を読めばいいわけではない。もちろん、読んで益になればいいのだけれど(少し毒)。

  • 「誰だって、判断するよりも、むしろ信じたい」
    ドキっとさせられましたね。
    #
    ショーペンハウアーさん。
    ドイツの哲学者さんだったそうです。
    1788-1860、だそうなので。ご活躍は主に19世紀。
    日本で言うと、坂本竜馬さんとか新選組とかっていう時代に、死んだ人ですね。
    「二都物語」などの、イギリスのチャールズ・ディケンズさん。
    「三銃士」などの、フランスのアレクサンドル・デュマさん。
    「初恋」などの、ロシアのツルゲーネスさん。
    この辺が皆さん、ショーペンハウアーさんと同世代。
    ちなみに、ショーペンハウアーさんが生まれた年に、ロンドンでは新聞「タイムズ」が創刊。
    #
    グーテンベルグさんが15世紀。
    ルターさんが聖書をドイツ語に翻訳して出版、
    世界で初めて、
    「ラテン語が読めない庶民でも、
    聖書を書物として読めるようになった」
    これが、16世紀。
    イギリスから始まった産業革命が18世紀。
    つまり、中世から近世になる。
    いろいろあっても国家権力が整備される。
    街道ができて、商売が大きくなり始める。貿易が始まる。
    会計が必要で帳簿が必要で。
    読み書きの能力を身に着けた人口が膨張したでしょう。
    そして、
    「農民に比べると、時間の余裕のある、成功した商人」、
    という階層が成立してくる。
    #
    そういう流れを受けて。
    ディケンズさん、デュマさん、ツルゲーネスさん、
    このあたりからようやく、
    ●新聞・雑誌などが、特権階級以外の人々向けに
    娯楽・情報媒体として普及。
    「ジャーナリズム」「職業作家」が成立するようになる。
    ●「印刷物を愉しみとして読む」ことが、
    これまた、特権階級以外の広大な人数に普及。
    「本屋」「ベストセラー」「ベストセラー作家」が誕生してくる。
    という時代なんですね。
    ※もちろん、今と違って強烈な身分格差があったでしょうから。
    「貴族や役人以外が、活字を読むようになった」と言っても、
    「ブルジョワジー」「市民階級」と呼ばれていた人たちに過ぎなかったのでしょう。
    人口全体からみると、恐らく1割程度だったのでは。
    農民、労働者階級、は、まだまだだったと思います。
    ※ちなみに、日本は恐らく世界比較しても、かなりな「読書大国」。
    印刷技術は木版だったり、恐らくいろいろ違うのでしょうが、
    ほぼ同じ時期に同じような普及があったようですね。
    平和が長かった江戸時代のお蔭で、恐らくまずは京大阪、次いで江戸で、「出版物を娯楽として愉しむ余裕のある商人=ブルジョアジー」が成立したからでしょう。
    「好色一代男」(1682)、「曽根崎心中」(1703)、などは、出版物として話題になったそうですし、ちょっと下ると、
    「東海道中膝栗毛」(1802)、「北斎漫画」(1814)、「南総里見八犬伝」(1814)、と、今でも有名な出版物が続々ベストセラーになっています。
    東海道中膝栗毛は、「もうネタがないのに、版元が、売れるから書け、と言ってきてやめられない」という記録が残っているそう。
    うーん。2016年のマンガ界と、既に同じ現象(笑)。
    #
    閑話休題。それはさておき。
    ショーペンハウアーさん。「読書について」。
    ショーペンハウアーさんは、上記のような時代を受けて、1800年代の中盤くらいに活躍。
    つまり、「国家や貴族や国立大学という権威に認められる」というだけではなくて。
    「書きたいものを書いて、それを出版して、それが売れて話題になる」という選択肢があった世代の哲学者さん。
    プラトンさんとか、ソクラテスさんとは、違うわけです。
    また、曲がりなりにも2016年現在と同じように。
    出版界とかジャーナリズムとか、
    またその中にも、「売らんかな」の酷い媒体もあれば、
    岩波書店みたいな?インテリ向け硬派もある、
    という状況を生きていた人なんですね。
    すぐに忘れ去られるベストセラーもあれば、
    「永遠の古典」も本屋さんに並んでいる。
    そんな時代。
    ということを踏まえての、「読書について」。
    光文社古典新訳文庫。
    恐らく1850年前後くらいに、
    そこそこ老人で晩年のショーペンハウアーさんが書いた、まあ、今風に言うとエッセイ、と呼んでいい文章が3篇。
    ※①「自分の頭で考える」②「著述と文体について」③「読書について」。
    ②は、ドイツ語の文法についての論で、これは正直サッパリでした(笑)。
    #
    けっこう、面白かったです。
    ショーペンハウアーさんというと。
    かつて昭和のインテリ文系大学生たちが
    「デカンショ、デカンショで半年暮らす」
    と言われたのですが、
    デ=デカルト
    カン=カント
    ショ=ショーペンハウアー
    の略ですので、つまりは「なんだかムツカシイ哲学者ベスト3」。
    色々と実は大事なんでしょうけど、存在とか真実とか定理とか認識とかっていうオハナシは、僕は一切、興味がまだ持てません。
    なので、「哲学者ショーペンハウアーは、つまり、どういうことを、訴えたのか」ということについても、実は興味なし。
    ただ、本を読むのは好きなので、
    「エライこと昔、読書という習慣が始まったばかりのころのインテリさんが、読書についてエッセイ書いてるんだー。読んでみよう」ということです。
    #
    で、だいたいどういうことを書いているか、というと。
    これがまあ、笑っちゃうくらい、2016年現在でも通用するお話ばかり。
    ※光文社古典新訳文庫、やはり読み易い。
    他社版とちょっと比べてみたけど、あまりに違う(笑)。
    「なんでわざわざそんな難解な日本語使うの?」
    #
    ●あんまり読んだ知識ばかり詰め込んでも、あかんで。自分で考えるのが大事やで。つまり、自己啓発本とか、ハウツー本とかに依存したら、あかん。
    ●特に、「今、これ、売れてます!みんな読んでます!」という広告に踊らされたら、あかんで。新しいものっていうのんは、悲しいかな、「いちばんおもろいもの」では、ほとんどないねんで。
    ●やっぱりな、読みにくいかもしれへんけど、読み継がれてきてるものにはそれなりに価値があんねん。古典をお読み。
    ●新聞、雑誌、ネット記事、みんなそうやけど、「伝えるべきことがあるから書いている」のと、ちゃうねんで。
    あれは全部、「売らなあかんし、〆切あるし、食べてかなアカンから、必死になってマスを埋めています」というだけやねん。
    取り上げている話題について、問題について、ほんまに深く考えて、愛情を持って、色々検証して、勉強して、考え抜いた末の文章...では、無いに決まっとんねん。
    早い話が、ベテラン俳優のインタビュー記事があって、書いてるライターがその俳優の重要な仕事を全部、観ていて、十分に比較検討して、考え抜いてインタビューしている...なんてことは、まず無いに決まっとんねん。
    上から言われて、お金が欲しいから、一夜漬けで無難なことを書いてるだけやんか。
    そんなん、読まん方がええねん。
    (活字じゃないけど、テレビもそうですね)
    ●もっと言うとな、匿名で書かれたものなんて、ロクなものはないで。
    結局雑誌かてネットかて、ほとんど匿名やろ?
    匿名で、誰かさんの誹謗中傷、あるいは尻馬で褒めそやす。
    オリンピックのメダリスト。スキャンダルの芸能人。
    ほめるにせよ、けなすにせよ、マッチポンプで、まともに取材もせんと、憶測と型にはまった物語に相手を押し込めて、二束三文の文章で、「一丁上り」。
    いやー、ほんま、物書きのひとりとして、腹がたって、しゃあないわ。
    #
    ...まあ、意訳すると、本当に、こういうことが書き連ねてあります(笑)。
    例えの部分は、当然僕が勝手に書いていますが、要点はほんとに、こんな調子です。
    そして、なかなかに、毒舌です。
    なんだか、筒井康隆さんの文章を読んでいる気分(笑)。
    ###
    ほんとうに、
    「自分で考えろ!
    なぜなのか、どうしてなのか、考えろ!」
    ということなんですね。
    「みんな言ってるから」
    「偉い人がそう言ってるから」
    「ネットで書いてあった」
    「新聞もそう言ってた」
    「テレビもそんなニュアンスだった」
    ...そういうことでは、アカンねん!
    ということ(笑)。
    そらまあ、確かにその通り。
    だって、たったの80年くらい前に、そうだったわけですからねえ。
    「みんな言ってるから」
    「偉い人がそう言ってるから」
    「ネットで書いてあった」
    「新聞もそう言ってた」
    「テレビもそんなニュアンスだった」
    なーんて信じているうちに。
    その頃だって、初めのうちは。
    「ほんとに戦争になんかはならない」
    「戦争になっても、すぐに終わるし、市民に実害はないよ」
    「だってねえ、正義は俺たちにあるんだからサ。あの国、あの民族が、だいたいおかしいんだよ」
    なーんて言われてね。
    信じてるうちに、何時の間にやら。
    ユダヤ人っていうだけで虐殺されちゃったり、虐殺する側になっちゃったり。
    聖戦だ神風だ非国民だ特攻だ「欲しがりません勝つまでは」、まで、行っちゃったんですからねえ。
    ...ま、そういうの、確信犯で始めたグループのメンバーで。
    「鬼畜米英」って煽ってたのに、敗戦後は、こっそりアメリカの言いなりになって。
    それでもって、「あの戦争は悪くなかった」「俺は悪くない」と言ってた人。
    そんな人のお孫さんが、長く君臨している国ですから。
    君臨させているのは、他ならぬ僕らなんですが。
    怖い怖い...
    #
    「誰だって、判断するよりも、むしろ信じたい」
    そこの弱さに、付け込まれるような情報の摂取。
    本、雑誌、ネット、テレビなど。
    つまりは、メディアとの付き合い方。
    「気を付けようね」。
    ...っと、ショーペンハウアーさんは、
    150年前におっしゃっておられます。
    いやあ、ほぼ衝動買いだったので、予想と全く違う内容の本でした(笑)。でも、面白かったです。薄かったし。

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著者プロフィール

19世紀ドイツの哲学者。1788年、ダンツィヒ生まれ。富裕な貿易商である父と女流作家である母のもとに生まれる。父に連れられて幼少期からヨーロッパ諸国を旅行し、その経験が世界観・哲学観に影響を与える。父の死後、1809年よりゲッティンゲン大学で自然科学・哲学を学ぶ。1819年に主著『意志と表象としての世界』を刊行し、ベルリン大学の私講師となった。ショーペンハウアーの名が世に認められるようになったのは1851年に刊行された晩年の著『余録と補遺』であり、日本では『読書について』『自殺について』『知性について』などの抄訳で広く読まれている。戦前日本の若者たちには「デカンショ」として、デカルト、カントと並んでショーペンハウアーはよく読まれていた。

「2022年 『今を生きる思想 ショーペンハウアー 欲望にまみれた世界を生き抜く』 で使われていた紹介文から引用しています。」

アルトゥール・ショーペンハウアーの作品

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