崩れゆく絆 (光文社古典新訳文庫)

制作 : Chinua Achebe  粟飯原 文子 
  • 光文社
4.29
  • (20)
  • (16)
  • (4)
  • (2)
  • (0)
本棚登録 : 183
レビュー : 23
  • Amazon.co.jp ・本 (361ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334752828

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
  •  そうして「彼ら」は日本にまでたどり着いて、結局宗教的に、まず占領することはできなかったわけだ。このアフリカの村ように。
     それは戦国時代から、日本のトップの人間が、「彼ら」に対して容赦せず、警戒し、かつその言動に抵抗できる知識や教養を貪欲に摂取していたからだろうか。彼らの世界戦略を瞬時に見破ったからだろうか。この小さな島国で戦争ばかりしまくっていた民族なのだから、それぐらいすぐに見抜いただろう。よくぞ島国が、「こう」はならなかったものである、というのが、読後のまず第一の感想であって、「アフリカ人がかわいそうだねえ」とかは思わなかった。
     思うのは、「日本と違って、こういう風にアフリカはやられたのか。なるほど、よくわかった」という、何百年と続く「白人とそれ以外」の戦いの一端を目撃しているような、ドキュメントのような一冊だった。
     だが、そうは読んではならない空気が世間にはあるだろうし、そう読むことは何か無教養でだらしがないことであるというイメージがなぜか私の中にすり込まれてあり、ゆえに私はたぶん、「この小説の構造は、円環的なものから直線的なものへとなっていて……」といったことを言って、それで終わるべきなのだろうと思う。

     が、とりあえず自分でここはチェックだなと思ったところを書けば、まず最初に銃が登場するのは、P69。銃が登場したとき、「あ、この世界、銃があるんだ」と感心したものだ。それまで、いったいこの話は、いつの時代なのか、まったくわからない。三千年前と言われても納得していただろう。
     あと主人公の暴力がとても良い。主人公の暴力たるや誰もおさえられない。とにかく暴力、そして不運がものすごい。幸せと富と豊かさの絶頂でありながら、息子同然の子を殺し、祭りで殺し、そして最後の集会で殺し。この主人公の「どうしようもない怒り」を理解出来る人は、なんとなくいるだろうし、なんとなくいない。だが、主人公はなぜここまで怒り狂っていたのか。何に焦っていたのか。この小説は、白人とそれ以外の、文明的な公平な対比を描いたものと同時に、この「怒り」……どうしようもない怒り、これは白人が来る前からある怒り、白人が来ても続く怒り……敵味方すべてに怒り続ける主人公は、とても深い。
     また、イナゴが喜びの対象となっているのが面白い。大概イナゴ=悪のイメージだが、ここでは違う。これも、なにやらすり込まれたものを払拭させられる感じがする。
     双子をすてる習慣とか、神聖な蛇や、森の呪いの効果が白人に全く効かない、それから最下層被差別民が真っ先に改宗していくところなど、急激に世界観が代わっていく様の流れが面白かった。
     ちなみに、白い人間についての話題、初登場は121ページであるが、黒人のアルビノの話題も出てきていて、ほんと細かいところをついてるなあと思いながら読んだ。
     そうして、そうして、この村は平定される。パクスはピースであり、最後の注には「平和」をもたらすとあると書いてあり、いや、これはアフリカも日本も同じだと、決して思ってはならない、思ってしまっては、何かしら短絡思考の、低レベルな人間だと世間様に思われるという思考回路が私の中に生まれるので、なので、「実に見事な小説であった。なるほど、この平和によって、この村の悪習はなくなったわけだ、良い面もあれば悪い面もある」と、何か深い感慨を得たような気持ちで思うしかないのだった。

  •  「アフリカ文学の父」の古典的名作を初読。この一作が、叙事詩から小説に向かう文学の系統進化それ自体を凝縮的に表現しているように感じられる。訳者・粟飯原文子による「解説」も充実、とても参考になった。
     
     アフリカ文学に関する知識が皆無な私は「解説」に教えられるところが多かったのだが、同時に、自分自身のテクストの〈読み方〉の偏りというか、出来ていないところにも気付かされた。一つ一つの言葉や記号に拘泥しがたちなわたしは、どうしても発想が硬直的・固定的になるので、テクストの力学や流動性、動態的な様相をうまく分析=記述することが、できていないのである。自らの〈読み方〉のモードを相対化するためにも、〈世界文学〉の現在形とポストコロニアル批評のテクストをきちんと読まねば、と痛感させられる。その意味でも、わたし個人にとってたいへん教育的な一冊だった。

  • 読み終えて、知ることの危険を思った。つまり、知ることで満足してしまう危険を。知ることで満足してしまったら、知ることは考えないこととイコールになってしまう。

    ああ、そりゃ、この本を読んで人々の生き生きとした暮らしがひしひしとと伝わってきましたよ。動物たちと呼応し、自然と密接に切り結ぶ絆、原色あふれる命の式典、躍動するリズムとダンス。素直にすばらしい。白人たちの狡猾さ、欲深さ、冷酷さだってようくわかった。その意味で、この本は註だけで一冊のテクストのよう。不勉強な私にとって知らないことばかりでした。でも、それで決して終わらせられない問題提起がこの文学にはある。

    何の利害関係にもない部外者の私が言うのも何だけど、そもそも、ウムオフィアは問題だらけなのだ。女性蔑視に、賤民差別、迷信に縛られる生活。男の女に対する虐待(少なくとも私にはそう見えるのだが)を許容するようなテクスト(文化)など、滅びたとて何ら惜しむに値しない。

    だが問題は、片方を選んだらもう片方は諦める。私たちの選択はそうなりがちだってこと。どうやったら素晴らしいものたちを多く生かして、どうやったら差別や偏見といった(人間性に背く)おぞましいものたちを少なくできるのか?そして、どうしたら私たちらしく生きられるのか?現状をいかに肯定しようとも、現在がいかに素晴らしい(幸福に満ちた)ものと思って感謝しようとも、歴史を問い直さないことなんてあり得ない。

    辿らなかった道、歴史が歩みの途上でその手によって息の根を止めた可能性たち。それは、森に棄てられた双子のもう一人。知ることは、無限に膨大なそれらの息遣いに思いを馳せ、蘇らせるための第一歩に過ぎない。ディテールで作者のイボ文化の説明は不正確だと仄聞するが、アチェベはその「読み替え」の可能性を決して排除していないからこそ、先見的であり偉大なのだ。

    白人が行った蛮行を嘆くだけの被害者意識に終止符を。

  • 「アフリカ文学の父」と言われるチヌア・アチェベの作。
    アチェベはナイジェリア・イボ族出身で、ロンドン大学のカレッジにあたるイバダン大学(ナイジェリア最古の大学)で学んでいる。
    アチェベはコンラッドの『闇の奥』を批判したことで知られる。アフリカの人間性に目を向けず「ヨーロッパすなわち文明のアンチテーゼ」としたというものである。アフリカ人を「野蛮」としか見ていなかったというわけだ。
    アフリカを描写する「異なる物語が必要」として、実際に創作したのが「アフリカ三部作」と呼ばれる作品群で、この『崩れゆく絆』が最もよく知られる(他の2編、『もう安らぎは得られない』『神の矢』に関しては、少なくとも入手しやすい邦訳は出ていないようである)。本作は別の出版社から数十年前に旧訳が出ていたようだが、この版は2013年刊行と新しい。原著は1958年初版。

    物語は1900年前後のナイジェリアが舞台。
    呪術や慣習に支配される地で、「男らしく」畑を耕し、勇猛に戦って名を築いていたオコンクウォ。強き男、頼りになる夫、恐い父である彼は、古くからのやり方で、精霊や祖先を崇め、一族の秩序を脅かすものと戦ってきた。役立たずだった父親からは多くのものを受け継ぐことは出来なかったが、彼は強い心で働き、自力で名声や財産を勝ち取ってきた。
    妻は3人、広い屋敷も出来た。一族の最高位に登り詰める日も遠くないはずだったが、不運に見舞われ、村を追われた。
    村に戻れる日を待つオコンクウォは、よからぬ噂を耳にする。得体の知れない白い男たちがやってきて、禍をもたらしているようなのだ。
    時が満ち、ようやく故郷の地を踏んだオコンクウォ。凱旋さながら華々しい帰郷を祝うはずだったが、白い男たちのせいで、村はすっかり変わってしまっていた。
    やがて、強い男、オコンクウォは悲劇に見舞われることになる。

    前半は伝説や言い伝えに支配される呪術社会を鮮やかに描き出す。
    動物たちが登場する昔話は想像力豊かで美しいが、こうしたお話は女向けとされている。
    オコンクウォの息子、ンウォイェは実のところ、こうしたお話の方が、父の武勇伝より好きなのだが、男らしくあれと期待する父に背かぬようにそれを隠している。
    世が世ならば、父と子の小さな齟齬は表に出ぬまま、世代が引き継がれていくはずだった。
    この社会はこの社会として秩序を保ち、この社会の論理で物事を解決し、幾分の揺らぎを含みながらも大きくは平穏に過ぎていくはずだった。
    そこに突如、白い人々の論理が持ち込まれた。
    論理と論理がぶつかり合ったとき、そこに武力も加わったとき、社会はがらがらと轟音を立てて崩れ去る。
    軋みの中で、オコンクウォは滅びへと転がり落ちていく。
    残酷なまでの鮮烈さで。

    物語の時代設定は、アチェベ本人が生まれるより前のことである。アチェベ自身は言うなれば欧州流の教育を受けている。
    本作に関しては、「村」の描写が正確でないという批判もあったという。確かに幾分か「鮮やかすぎる」ような印象は受ける。しかし、「村」の「空気」やオコンクウォの「気質」は如実に描き出されているのではないか。それがフィクションというものだろう。

    原作には一切の注がないという。訳者には注を付すことにいささかの躊躇いもあったようだが、本文に添えられた詳細な注と解説が作品のよい導き手となっていることは間違いないように思う。あとがきに記された訳者の真摯さに敬意を表したい。

    読み通してみると、三部作の残りの2作品が読めないのは残念なことに思う。なかなか困難なことなのかもしれないが、もしも訳書が出るようであれば手に取ってみたいものだ。

  • ヤムイモのリアリズム。アチュべはナイジェリア出身の作家。ナイジェリアはヤムイモ産出量世界1位。なによりもまず重要なのはイモであり、あらゆる食事にヤムイモなのである。
    客人がやってきてに「コーラあるよ」ともてなすのだが、これはコカコーラの原料の「コーラの実」のようである。覚醒作用があるようなのでやっぱりお酒かドラッグみたいなものなのか。
    ナイジェリアの生活様式が興味深い。村で生活するためのシキタリ。それを決めるのは長老かお告げ師である。長生きできることが尊敬に値する、というのは子供の生存率が低いということからも分かる。
    コミュニティでは親分から種イモをもらって小作は畑を肥やしそれが生活の糧となる。一夫多妻制で、主人公の妻は3人いる。家屋は主人を中心とし放射線状に離れがあり、妻はそこで子供と暮し、毎日主人の食事を用意する。家長はとても威張っている。作ってくれた食事に文句を言うし、安易に妻へ暴力もふるう。いろいろとしょうがない。
    村の余興はレスリング。もちろん強い男が評価される。村人たちはそれを見るのが娯楽。村には巫女がいて「憑かれていない」ときは普通に生活している。(←これはあとで豹変する)
    近隣のコミュニティとの軋轢もある。おそらく生贄状態でやってきたよその村の子供を囲って主人公は息子同然に育てるが、村の長からお告げによりそいつは殺すべしと指示され、親代わりだった男が自ら手をくだすことになる。ひどい。それは成長した他所の男が女を孕ませることができる歳になっているという危機感による、原始的な男らしさでもある。
    女性は16歳で嫁に行く。婿希望者は持参金を持って女性の父親とかけあう。男同士は椰子酒を飲んで仲良くなる。嗅ぎ煙草を入れている「山羊の革の袋」がよく出てくるが、これはおそらく山羊の胃袋で携帯するポーチのような役割として使われているのではないだろうか。
    一夫多妻なので、男子を生むことが女性の地位をあげることになる。子供をたくさん産んでも成長させることが難しいのは悪霊のせいなのであったりする。あるいは大事な石をどこかに埋めてしまったからであったりする。

    (登場人物がどんどん増えていく。舞台はアフリカなので「ン」ではじまる名前も多く、慣れないと覚えるのが難しい)

    そして後半、突如外部から白人が宗教を布教しにやってきて、長く続いていた土着コミュニティはもろく崩れていく……。ここからですよキモは。キリスト教と白人の欺瞞が。ああ、アフリカの文学。コンラッド『闇の奥』が苦手だった人にもお勧め。今の時代、わたしたちが知るべきはこっちの世界だ。

  • https://twitter.com/africakotowaza/status/972963632064573440
    「他人の物語が気に入らないなら、自分の物語を書け」 チヌア・アチェベ(ナイジェリア人作家)

  • 初めてアフリカ文学を読んでみた。内容としては特に難解というわけではない。始まりから2/3程度までは、主人公のコミュニティの儀礼、慣習、信仰などが細かく描かれている。若干冗長だなと思いつつ読み進めていくと、イギリス人がキリスト教という道具を持参して、植民地化の目的のもと渡来してくる。そこからはあれよあれよという間に物語が進展していき、あっけなく悲惨な結末を迎えてしまう。終盤のあまりに淡泊な描写には呆気に取られてしまった。だが、そこにはアチェベの思念が宿っているのだろう。長い年月をかけて築かれてきた現地の文化(始めから2/3)が、植民地化政策によってあっという間に瓦解していく。(残り1/3)その速度は、このページ数の配分によって具現化されていると感じた。
    文化の脆さというのも感じずにはいられなかった。人間は空想する能力があるからこそ、神話や宗教を作り上げて、他の動物とは比べものにならない規模のコミュニティを形成することができる。そうして育まれた文化にも、どかしらに欠陥がある。この作品で言えば、差別対象とされていた人々が端的な例だろう。そうした人々をキリスト教が受け入れ、対立因子を徐々に拡大させていった。そうして、強固だったはずの絆は崩れてしまったのだろう。
    帝国主義時代のダイナミズムを存分に感じ取れる一冊だと思う。

  •  ナイジェリアの伝統や文化が、ヨーロッパの支配(特にキリスト教による教化)によって崩れていく姿を描いています。著者のチヌア・アチェベは「アフリカ文学の父」と呼ばれているそうです。

     第一部ではウムオフィアの村での古くからの暮らしがいきいきと描かれています。しかし、長老や巫女や呪術師のいうことを信じて人を殺したり、オバンジェ(邪悪な子供の霊)を懲らしめるため死んだ子の体を切り刻んだりする村の伝統や文化には、正直なところ違和感を覚えました。ウムオフィアのコミュニティの規範がそこに住む多くの人を不幸にしていることも事実でしょう。現に、物語の主人公であるオコンクゥオの末路は、この規範に翻弄された結果だといえます。

     一方で、キリスト教宣教団はどうでしょうか? 彼らは、神は唯一であるとしてアフリカの人たちのアミニズムを蔑視し、石や木彫りの像を拝むことを偶像崇拝として否定するなど、原理主義的であると感じました。この原理主義に基づく正義に則り、ヨーロッパ諸国は世界中で植民地化を進めていった訳です。

     そしてアチェベはこの作品で、アフリカの伝統的コミュニティとキリスト教宣教団のどちらが正しくどちらが間違っているといった価値判断を示してはいません。むしろ、ヨーロッパによるアフリカの支配が開始された当時の状況を、ひたすらありのままに描ききろうとしています。

     話は変わりますが、ジャレド・ダイアモンドはその著書である「銃・病原菌・鉄」(http://booklog.jp/item/1/4794218788)の中で、ヨーロッパ人が世界を征服したのは彼らが人種的に優れていたからではなく、単に地理的条件に恵まれていたからだと述べています。ナイジェリアのイボ族についても、彼らの文化がキリスト教文化に比べて必ずしも遅れていた訳ではなく、ましてや彼らを征服したイギリス人よりも人種的に劣っていたわけではないのでしょう。

     イボ族とイギリス人の対立を深刻化させる原因となった人々の心の動き(不安、敵意、自尊心など)は、アフリカ人やヨーロッパ人に限らず世界中の人類が常に共通して持っているものだと思います。そしてこのような心の動きが、未だに世界中で民族間・国家間の対立を招き続けているのみならず、社会や家族の中にあってさえ人々の対立の原因となっているように思われてなりません。この本は文化人類学の本ではなく、あくまで小説でありフィクションですが、用意周到に書かれた文学作品であるがゆえに、人間社会の普遍の原理をあからさまにしているのだと思います。

  • アフリカ文学というくくりが正しいのか、自信が持てないが、疑いの余地なく、優れた文学である。

    未知の世界。加えて、読みにくい、非直線的な書き口。私から見ると、非情で、矛盾を感じる文化。

    しかし、最後まで読み通し、その言われようのない悲劇的結末に接し、全てに予期せぬ意図を感じたのだ。人間社会、人間とはいかに信頼に値しないか。

    社会分裂、変化、崩壊の触媒としてのキリスト教。

    『ルーツ』で書かれた世界は一面に過ぎなかった。

    語り手が、登場人物の視点が、内と外を往還し、不条理をあぶり出す。その文学性に感嘆した。

    くり返すが、深い次元で声を失った作品であった。

  • 2017.02.09
    アチェベの『崩れゆく絆』読了。『やし酒飲み』に通じると思ったら同じナイジェリア出身らしい。やし酒は通快だったが、こちらは文化の衝突。西洋的な考えが正しいようで、実は矛盾も多いと考えさせられた。特に蛇のエピソードは象徴的。傑作!

全23件中 1 - 10件を表示

崩れゆく絆 (光文社古典新訳文庫)のその他の作品

崩れゆく絆 (光文社古典新訳文庫) Kindle版 崩れゆく絆 (光文社古典新訳文庫) チヌア・アチェベ

チヌア・アチェベの作品

崩れゆく絆 (光文社古典新訳文庫)を本棚に登録しているひと

ツイートする