崩れゆく絆 (光文社古典新訳文庫)

制作 : Chinua Achebe  粟飯原 文子 
  • 光文社
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  • Amazon.co.jp ・本 (361ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334752828

感想・レビュー・書評

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  •  そうして「彼ら」は日本にまでたどり着いて、結局宗教的に、まず占領することはできなかったわけだ。このアフリカの村ように。
     それは戦国時代から、日本のトップの人間が、「彼ら」に対して容赦せず、警戒し、かつその言動に抵抗できる知識や教養を貪欲に摂取していたからだろうか。彼らの世界戦略を瞬時に見破ったからだろうか。この小さな島国で戦争ばかりしまくっていた民族なのだから、それぐらいすぐに見抜いただろう。よくぞ島国が、「こう」はならなかったものである、というのが、読後のまず第一の感想であって、「アフリカ人がかわいそうだねえ」とかは思わなかった。
     思うのは、「日本と違って、こういう風にアフリカはやられたのか。なるほど、よくわかった」という、何百年と続く「白人とそれ以外」の戦いの一端を目撃しているような、ドキュメントのような一冊だった。
     だが、そうは読んではならない空気が世間にはあるだろうし、そう読むことは何か無教養でだらしがないことであるというイメージがなぜか私の中にすり込まれてあり、ゆえに私はたぶん、「この小説の構造は、円環的なものから直線的なものへとなっていて……」といったことを言って、それで終わるべきなのだろうと思う。

     が、とりあえず自分でここはチェックだなと思ったところを書けば、まず最初に銃が登場するのは、P69。銃が登場したとき、「あ、この世界、銃があるんだ」と感心したものだ。それまで、いったいこの話は、いつの時代なのか、まったくわからない。三千年前と言われても納得していただろう。
     あと主人公の暴力がとても良い。主人公の暴力たるや誰もおさえられない。とにかく暴力、そして不運がものすごい。幸せと富と豊かさの絶頂でありながら、息子同然の子を殺し、祭りで殺し、そして最後の集会で殺し。この主人公の「どうしようもない怒り」を理解出来る人は、なんとなくいるだろうし、なんとなくいない。だが、主人公はなぜここまで怒り狂っていたのか。何に焦っていたのか。この小説は、白人とそれ以外の、文明的な公平な対比を描いたものと同時に、この「怒り」……どうしようもない怒り、これは白人が来る前からある怒り、白人が来ても続く怒り……敵味方すべてに怒り続ける主人公は、とても深い。
     また、イナゴが喜びの対象となっているのが面白い。大概イナゴ=悪のイメージだが、ここでは違う。これも、なにやらすり込まれたものを払拭させられる感じがする。
     双子をすてる習慣とか、神聖な蛇や、森の呪いの効果が白人に全く効かない、それから最下層被差別民が真っ先に改宗していくところなど、急激に世界観が代わっていく様の流れが面白かった。
     ちなみに、白い人間についての話題、初登場は121ページであるが、黒人のアルビノの話題も出てきていて、ほんと細かいところをついてるなあと思いながら読んだ。
     そうして、そうして、この村は平定される。パクスはピースであり、最後の注には「平和」をもたらすとあると書いてあり、いや、これはアフリカも日本も同じだと、決して思ってはならない、思ってしまっては、何かしら短絡思考の、低レベルな人間だと世間様に思われるという思考回路が私の中に生まれるので、なので、「実に見事な小説であった。なるほど、この平和によって、この村の悪習はなくなったわけだ、良い面もあれば悪い面もある」と、何か深い感慨を得たような気持ちで思うしかないのだった。

  • 読み終えて、知ることの危険を思った。つまり、知ることで満足してしまう危険を。知ることで満足してしまったら、知ることは考えないこととイコールになってしまう。

    ああ、そりゃ、この本を読んで人々の生き生きとした暮らしがひしひしとと伝わってきましたよ。動物たちと呼応し、自然と密接に切り結ぶ絆、原色あふれる命の式典、躍動するリズムとダンス。素直にすばらしい。白人たちの狡猾さ、欲深さ、冷酷さだってようくわかった。その意味で、この本は註だけで一冊のテクストのよう。不勉強な私にとって知らないことばかりでした。でも、それで決して終わらせられない問題提起がこの文学にはある。

    何の利害関係にもない部外者の私が言うのも何だけど、そもそも、ウムオフィアは問題だらけなのだ。女性蔑視に、賤民差別、迷信に縛られる生活。男の女に対する虐待(少なくとも私にはそう見えるのだが)を許容するようなテクスト(文化)など、滅びたとて何ら惜しむに値しない。

    だが問題は、片方を選んだらもう片方は諦める。私たちの選択はそうなりがちだってこと。どうやったら素晴らしいものたちを多く生かして、どうやったら差別や偏見といった(人間性に背く)おぞましいものたちを少なくできるのか?そして、どうしたら私たちらしく生きられるのか?現状をいかに肯定しようとも、現在がいかに素晴らしい(幸福に満ちた)ものと思って感謝しようとも、歴史を問い直さないことなんてあり得ない。

    辿らなかった道、歴史が歩みの途上でその手によって息の根を止めた可能性たち。それは、森に棄てられた双子のもう一人。知ることは、無限に膨大なそれらの息遣いに思いを馳せ、蘇らせるための第一歩に過ぎない。ディテールで作者のイボ文化の説明は不正確だと仄聞するが、アチェベはその「読み替え」の可能性を決して排除していないからこそ、先見的であり偉大なのだ。

    白人が行った蛮行を嘆くだけの被害者意識に終止符を。

  • 「アフリカ文学の父」と言われるチヌア・アチェベの作。
    アチェベはナイジェリア・イボ族出身で、ロンドン大学のカレッジにあたるイバダン大学(ナイジェリア最古の大学)で学んでいる。
    アチェベはコンラッドの『闇の奥』を批判したことで知られる。アフリカの人間性に目を向けず「ヨーロッパすなわち文明のアンチテーゼ」としたというものである。アフリカ人を「野蛮」としか見ていなかったというわけだ。
    アフリカを描写する「異なる物語が必要」として、実際に創作したのが「アフリカ三部作」と呼ばれる作品群で、この『崩れゆく絆』が最もよく知られる(他の2編、『もう安らぎは得られない』『神の矢』に関しては、少なくとも入手しやすい邦訳は出ていないようである)。本作は別の出版社から数十年前に旧訳が出ていたようだが、この版は2013年刊行と新しい。原著は1958年初版。

    物語は1900年前後のナイジェリアが舞台。
    呪術や慣習に支配される地で、「男らしく」畑を耕し、勇猛に戦って名を築いていたオコンクウォ。強き男、頼りになる夫、恐い父である彼は、古くからのやり方で、精霊や祖先を崇め、一族の秩序を脅かすものと戦ってきた。役立たずだった父親からは多くのものを受け継ぐことは出来なかったが、彼は強い心で働き、自力で名声や財産を勝ち取ってきた。
    妻は3人、広い屋敷も出来た。一族の最高位に登り詰める日も遠くないはずだったが、不運に見舞われ、村を追われた。
    村に戻れる日を待つオコンクウォは、よからぬ噂を耳にする。得体の知れない白い男たちがやってきて、禍をもたらしているようなのだ。
    時が満ち、ようやく故郷の地を踏んだオコンクウォ。凱旋さながら華々しい帰郷を祝うはずだったが、白い男たちのせいで、村はすっかり変わってしまっていた。
    やがて、強い男、オコンクウォは悲劇に見舞われることになる。

    前半は伝説や言い伝えに支配される呪術社会を鮮やかに描き出す。
    動物たちが登場する昔話は想像力豊かで美しいが、こうしたお話は女向けとされている。
    オコンクウォの息子、ンウォイェは実のところ、こうしたお話の方が、父の武勇伝より好きなのだが、男らしくあれと期待する父に背かぬようにそれを隠している。
    世が世ならば、父と子の小さな齟齬は表に出ぬまま、世代が引き継がれていくはずだった。
    この社会はこの社会として秩序を保ち、この社会の論理で物事を解決し、幾分の揺らぎを含みながらも大きくは平穏に過ぎていくはずだった。
    そこに突如、白い人々の論理が持ち込まれた。
    論理と論理がぶつかり合ったとき、そこに武力も加わったとき、社会はがらがらと轟音を立てて崩れ去る。
    軋みの中で、オコンクウォは滅びへと転がり落ちていく。
    残酷なまでの鮮烈さで。

    物語の時代設定は、アチェベ本人が生まれるより前のことである。アチェベ自身は言うなれば欧州流の教育を受けている。
    本作に関しては、「村」の描写が正確でないという批判もあったという。確かに幾分か「鮮やかすぎる」ような印象は受ける。しかし、「村」の「空気」やオコンクウォの「気質」は如実に描き出されているのではないか。それがフィクションというものだろう。

    原作には一切の注がないという。訳者には注を付すことにいささかの躊躇いもあったようだが、本文に添えられた詳細な注と解説が作品のよい導き手となっていることは間違いないように思う。あとがきに記された訳者の真摯さに敬意を表したい。

    読み通してみると、三部作の残りの2作品が読めないのは残念なことに思う。なかなか困難なことなのかもしれないが、もしも訳書が出るようであれば手に取ってみたいものだ。

  • ヤムイモのリアリズム。アチュべはナイジェリア出身の作家。ナイジェリアはヤムイモ産出量世界1位。なによりもまず重要なのはイモであり、あらゆる食事にヤムイモなのである。
    客人がやってきてに「コーラあるよ」ともてなすのだが、これはコカコーラの原料の「コーラの実」のようである。覚醒作用があるようなのでやっぱりお酒かドラッグみたいなものなのか。
    ナイジェリアの生活様式が興味深い。村で生活するためのシキタリ。それを決めるのは長老かお告げ師である。長生きできることが尊敬に値する、というのは子供の生存率が低いということからも分かる。
    コミュニティでは親分から種イモをもらって小作は畑を肥やしそれが生活の糧となる。一夫多妻制で、主人公の妻は3人いる。家屋は主人を中心とし放射線状に離れがあり、妻はそこで子供と暮し、毎日主人の食事を用意する。家長はとても威張っている。作ってくれた食事に文句を言うし、安易に妻へ暴力もふるう。いろいろとしょうがない。
    村の余興はレスリング。もちろん強い男が評価される。村人たちはそれを見るのが娯楽。村には巫女がいて「憑かれていない」ときは普通に生活している。(←これはあとで豹変する)
    近隣のコミュニティとの軋轢もある。おそらく生贄状態でやってきたよその村の子供を囲って主人公は息子同然に育てるが、村の長からお告げによりそいつは殺すべしと指示され、親代わりだった男が自ら手をくだすことになる。ひどい。それは成長した他所の男が女を孕ませることができる歳になっているという危機感による、原始的な男らしさでもある。
    女性は16歳で嫁に行く。婿希望者は持参金を持って女性の父親とかけあう。男同士は椰子酒を飲んで仲良くなる。嗅ぎ煙草を入れている「山羊の革の袋」がよく出てくるが、これはおそらく山羊の胃袋で携帯するポーチのような役割として使われているのではないだろうか。
    一夫多妻なので、男子を生むことが女性の地位をあげることになる。子供をたくさん産んでも成長させることが難しいのは悪霊のせいなのであったりする。あるいは大事な石をどこかに埋めてしまったからであったりする。

    (登場人物がどんどん増えていく。舞台はアフリカなので「ン」ではじまる名前も多く、慣れないと覚えるのが難しい)

    そして後半、突如外部から白人が宗教を布教しにやってきて、長く続いていた土着コミュニティはもろく崩れていく……。ここからですよキモは。キリスト教と白人の欺瞞が。ああ、アフリカの文学。コンラッド『闇の奥』が苦手だった人にもお勧め。今の時代、わたしたちが知るべきはこっちの世界だ。

  • 文体がおもしろかった。これは新しい文学だったんだろうな。

  • 「アフリカ文学の父」による最高傑作と言われる。

    物語の前半は、徹底した労働により一代で名声を築く主人公オコンクウォの半生が語られる。彼の考える勇気の大切さ、怠惰への嫌悪などは息をのむほど。一方で、一夫多妻制の下での(現代の感覚から見れば)信じがたいほどの男尊女卑、子どもへの抑圧、「迷信」と呼ばざるを得ないような呪術。同時に、争いを避けるために精霊たちが村人に与える平和への知恵。そして後半、ここにキリスト教の宣教師がやってくる。

    初代宣教師は、村人のするどい突っ込みに受け答え、伝統的な慣習に理解を示しながら少しずつ信者を増やしていく(「神は一人といったり、神の息子がいると言ったりどっちなんだよ」といった質問から始まり、キリスト教を理解しようとするアフリカ人の合理的思考が胸を打つ。村の長老と宣教師の応酬は明らかに長老が勝っている)。

    こうして、村人たちの中に「・・・(キリスト教にも)どうやら何かが、とんでもない狂気のなかにも、おぼろげながら理屈のようなものがありそうだ、という感覚が広まりつつあった」(P.266)。
    厳格な父オコンクウォ(当然ながらキリスト教を激しく憎んでいる。)におびえながら生きる穏やかな息子ンウォイエが、讃美歌の響きに心揺さぶられるシーンは感動的。

    しかし後任の宣教師は、(よくあることだが)ゼロからスタートでないだけにかえって「正しい教えが浸透していない。迷信が残っている」と村人と摩擦を引き起こす。村人の抵抗。それを「鎮圧」する英国の植民地官僚たち。その様子は、先住民暴動の「平定」として記録されていく。

    「ライオンが自分の歴史家を持つようになるまでは、狩りの歴史はつねに猟師のものだ」
    “Until the lions have their own historians, the history of the hunt will always glorify the hunter.” アチェベが好んで使った言葉だそうだ・・・。
    (2015年11月のThe Economistより)

  • 文学

  • ナイジェリア出身のイボ人作家 Chinua Achebe (1930-2013)による、アフリカ文学の金字塔と言われる作品です。

    前半は、19世紀後半の植民地化前のイボ族の共同体が、複雑かつ精緻な統治、信仰、慣習システムにより運営されている様子が、主人公であるオコンクウオを中心に描かれています。後半では、それが白人の宣教師たちによるキリスト教布教を境に瓦解していく様へと進行していきます。このあたりが、題名である”崩れゆく絆”をよく体現しています。

    この小説は1958年に出版されてますが、そのわずか2年後の1960年にナイジェリアが独立を果たしており、時代は違うものの過度期の不安定や焦燥といった気分が、当時の世相を反映していた、とも言われているようです。

    しかし、この小説をそうした歴史的あるいは民族史的側面からよりも、私はオコンクウオという男一人の生き様からとらえるほうが、面白く読めるような気がしました。そして、守護神であるチが運命を先導しつつ、個人の努力にもある程度呼応していく、という宿命論と自力更生的考え方の対置など、自省を促すようなテーマも込められており、多面的な側面を持つストーリーで一気に読んでしまいました。

  • 2014-1-30

  • 有害なマスキュリニティーを突き放して描いているところが特に印象的だった。

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