ハックルベリー・フィンの冒険(上) (光文社古典新訳文庫 Aト 4-2)
- 光文社 (2014年6月12日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (420ページ)
- / ISBN・EAN: 9784334752927
感想・レビュー・書評
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相棒の黒人奴隷とひたすら川を下る中で、ハックの逞しさ、賢さ、鋭さが光る。うん、やっぱこいつかっこいい。
にしても、まさか最後に「彼」が登場するとは……まさに、「ヒーローは遅れてやって来る」??詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
本作を読んだ多くの人が,ハックに同情し,トムを不快に思うだろう。自分もそう思いつつ,物語の枠組みを強める上では必要不可欠なものであると解した。さまざまなテーマに満ちた逃亡小説。
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マークトウェインの小説の中では、トムソーヤの冒険よりもハックルベリーフィンの方が評価が高いと知っていたが、これまで読む機会がなかった。
図書館で何気なく手に取って読んでみた。
ハックの独白(回想)で物語が進んでいくが、その口調がとても読みやすく、すらすら読めた。
ミシシッピ川を筏で下りながら様々な出来事が起こる。
すべてがこの小説が書かれたその当時(1880年代)の社会を反映していると思われるのでめちゃくちゃな内容でもとても興味深い。
さらにハックが時々漏らす本音(筏の上が一番自由である、等)や、考えても考えてもわからないこと(黒人のジムと一緒に旅していることの善悪)などにとても共感でき、この本が歴史的に評価されている理由が少しわかる。
トムソーヤも読んで比較してみたい。 -
「トムソーヤの冒険」の続編。トムの相棒ハックが主人公でありトムは序盤しか登場しない。トムとの冒険で大金を手に入れ、ある未亡人の家に引き取られるがそこへ実父が現れたことをきっかけにハックは今の生活を捨てて筏で旅に出てしまう……。
「トムソーヤの冒険」を読んでいても思ったが作中に出てくる食糧が美味しそうで食べたくなってくる。随所で当時のアメリカの風習・生活に対する問いかけがハックを通じてコミカルに描かれているのが面白い。「トムソーヤの冒険」もこんな感じだったっけ。 -
誰もが一度は耳にしたことがあるであろう作品、「ハックルベリー・フィンの冒険」。これは同じトウェインの「トム・ソーヤーの冒険」の続きにあたる作品である。
自分は「トム」は読まずに本作を読んでしまったのだが、「ハック」だけでも十分読むに値する作品である。
時は19世紀半ば、アメリカ南部ではまだ奴隷制が普通に存在した時代。
主人公のハックルベリー・フィンは、父親の元からの逃避行の途上で、知り合いの黒人奴隷ジムと行動を共にするようになる。
ハックは、ジムを逃がそうとし、北部の奴隷制の無い自由州へ向かおうとする。
その道中の物語が本作の内容である。
今のアメリカで奴隷制を正しいと思っている人はいないだろうが、当時はごく当たり前のこととされていた。
当然ハックもその「常識」に捉われていたのだが、ジムとの個人的な交流をとおして、彼も自分も同じ人間であることを知らされ、奴隷として扱うことに躊躇いを見せるようになる。
作中、彼自身はそれを「地獄に行ってでも」というほどの覚悟で宗旨替えをすることになるのだ。
この作品を読んで強く感じたことは、「常識」が人を捉える力の強さと、その「常識」の相対性だ。
どんなに開明的で先入観のない人であっても、人間社会で過ごしている以上は、何かしらの常識の元で育ってきているわけで、そしてそれは自身と渾然一体となっていて、不可分のものとなっている。
だから、その常識から解き放たれるということは、文字通り自己の一部を喪失する体験に違いない。
それほど重く困難なことなのだ。
歴史上の人物のその時々の判断に対し、現代の視点から評価をしてしまいがちだが、その時代の常識の枠から超え出ることがどれほど困難なことか、それはよくよく差し引いて考えねばならないことだろう。
そして、どんなに堅固に見える常識であっても、絶対不変なものもない。
つまり、今正しいと思われていることも、数百年後の人々にはおかしな風俗の一つと見られるようになる時が来るということである。
だから、世の常識・良識や倫理観に抗う必要はないのだが、あまりにカチカチの原理主義に陥るのもどうだろう、
まあそういう考えもあるよね、とりあえずは妥当だよね、という程度の距離感で捉えておくのがよいのかもしれない。
そうでないと、それこそ世の「絆」に縛られて、身動きできなくなってしまうだろう。 -
唯一無二の、きらきらした感じ。
物語の細部は、実は暴力と非情。ハードボイルドな「みんな悪者」ワールド。なのに、めくるめくピュア。「詩情」という実態の分からないコトバとは、この本の為にあるのかも知れません。
最強のペアの物語です。DV被害少年・ハックと、逃亡黒人奴隷・ジム。
ふたりの筏の旅は、ミシシッピーをくだり、黒人自由州へ。「ジムを密告するべきでは?」という張り裂けそうな危機を孕みながら。ハックの決断はー。
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「ハックルベリー・フィンの冒険」光文社古典新訳文庫で上下巻。マーク・トウェイン。1885年発表。
世界は、(というかアメリカは、なのか)なんてグロテスクに不条理で、残酷で、暴力的で、反知性で、貪欲で下品で偽善的で、そして差別と偏見に満ちていることか。
だからと言ってそれを写実するだけではなくて、小説というサービス精神の中で描く。
そして読者は楽しませなくてはいけないし、最後には「良かった」という後味が必要、という作者の側のモラルを感じました。
なんて瑞々しく、スバラシイ。
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「トム・ソーヤ―の冒険」(1876年発表)の、今風に言えば、スピンオフ。
なんだけど、元ネタの「トム・ソーヤーの冒険」の倍くらいの長さの長編小説。
話は「トム・ソーヤーの冒険」の直後から。1830〜40年頃の、ミズーリ州。偉大なる田舎。
ハックルベリー・フィンのもとに、飲んだくれで最低な父親が現れて、ハックを監禁して暴力を振う。
脱出したハックは、逃亡奴隷のジムとともに街を脱出。
目指すは、ジムが奴隷の身分から逃れられる自由州。ふたりの行く手には、さまざまな冒険が現れる。
発表されたのは1885年。リンカーンによる奴隷解放宣言が1862年、大まか20年前。発表当時の世論は黒人差別反対なんです。建前としては。
物語の中でハックは、逃亡奴隷のジムに友情を感じながらも、
「人の持ち物の奴隷を逃亡させるのは、してはいけないことなんだよなあ」
という、良心の咎めを感じながらミシシッピを流れていきます。密告か、共犯か。社会のルールなのか?個人の心情なのか?
社会のルール、正義って言うのは、ほんとに正しいのか?強者に都合の良いだけなんぢゃないのか?
もうこれだけで、永遠不滅の物語。
2017年現在ニッポンの僕たちも、他人事ではありません。
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微妙に一話完結のように、連綿とつづられるふたりの冒険。親の暴力からの脱走。理不尽な殺戮。道徳にまで昇華している人種差別。拝金主義。詐欺。だまされやすい人々。残酷な集団ヒステリー。エトセトラエトセトラ...
大人社会の偽善を抉りながら、ジムの逃亡補助を巡る、ハックの葛藤が貫かれて行きます。ドキドキ。
実にハードボイルドに、そして明るくアッケラカンと局面をしたたかに生き抜くハックの一人称が、もぎたてで食べごろトマトのようなタマラナイ甘さと酸っぱさ。
人目を避けて、昼間はいかだを隠して休みます。そして日が暮れると流れを下る。
悠々たる巨大なミシシッピの闇。ウソのようなつぶらに近い星空。その自然を興奮豊かに描く下りは鳥肌もの。
(自然情景描写って、だいたいは僕は苦手なのですが、コレにはヤられました)
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話しは随分と豊饒な寄り道を経つつ、大河を下るように不要不急にたゆたいます。
そして残酷な現実にジムとハックは追い詰められていきます。絶体絶命に。もう、だめか。
そのときもハックだけは諦めません。
諦めないハックのもとに、最終盤に現れる最強の味方。そう、トム・ソーヤーその人なんです。「いよっ!待ってました!」
大向こうの気分。ここからのわくわく感って言ったら、身悶えものです。
世界観は痛くて辛いんですが、それはそれ。
小説は小説です。イッキに愉快なハッピーエンドに向けて舵を切ります。この安心感。
正直、直前まで
「頼むからハックとジムを幸せに終わってあげてください!」
とトウェインさんに祈るばかりだったんです...恥ずかしながら。
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ヘミングウェイが、そしてその後の文学者の多くが、「アメリカ文学が始まった瞬間」と位置付けた名作。さすが。
ではアメリカ文学とは何か?
大いなる田舎であり、無知であり、欲望であり。剥き出しの暴力と偏見と人種差別の渦。なんだと思います。
その代わり、欧州よりも宗教も身分制度も弱く、混沌と自由、そして不安と絶望もより強くあります。全て欧州より大味。
そんななかで、どうやって秩序を持って幸せに生きていけるのか。そんな冒険の物語。
そう考えると、風土として、習慣として、後味として、ヘミングウェイでありフィッツジェラルドであり。キングやエルロイまで至る大河の源泉をたゆたった気分です。
(そして考えようによっては、その流れにはジョン・フォードやイーストウッドや、そして村上春樹までが見え。ハックルベリーの子どもたちの、なんと豪華なことでしょう)
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光文社古典新訳文庫、僕は相変わらず素敵な仕事をしていると思います。
こなれた訳文で、するすると読めました。
翻訳、大事なんですよね。ほんと。
(でも、読み終えて、「村上春樹訳で読んでみたいな」と思ってしまいました...。村上さん、やってくれないかなあ...) -
読み始めたきっかけは特別覚えていないけど、読みながらディケンズの「デイヴィッド・コパフィールド」を思い出した。デイヴィッドの方は一人称の語りだったような気がするんだけど、もしかしたら違うかもしれない。こっちはハックの一人語りだけども。今と比べるといつの時代の昔も純粋だったし素直だったように見えるんだけど、やっぱりそれはそれでねじれてるしこんがらがっている。そんな時代に必死に明るく生きようとした少年の物語っていう、そういうのが僕は好きなのかもしれない。
時代は1830年ほどらしい。南北戦争前のアメリカ。直接的に間接的に、黒人奴隷の存在が物語の通奏低音になっている。しかしそれを良し悪しいう直接的な言説はない。ハックは白人でその時の見方で黒人を見下げてるし、黒人は黒人である意味での奴隷根性が染みついている。でもそれに染まりきっていない黒人もいて、それがハックの家のジムで、そのジムの逃亡を不可避的に助けながら冒険をするように話が進む。
大体こういう時代の話お決まりの、思い込みが激しいキャラの連発で、そんなキャラクターたちががやがやとやりながら話が進んでいく。結構悲惨な出来事も少なくないんだけど(親しくしていた人が死ぬなど)、そこに重力を与えない。
宗教的な道徳的な正しさを明るく信じているハックだが、不可避的に投げかけられる人間の生に対する問いかけに何度も立ち止まり、考え、時に答えを与えられ、時に悩むままでおわる。黒人奴隷のジムが自由州に到着しそうだと喜ぶ姿に良心がジクジクする。奴隷の逃亡は違法であるし、それを偶然にでも手伝ったのは紛れもなく自分であるし。それはただのコンプライアンスの問題ではなく、命に根差したハックの良心の問題として描かれている。
トウェインは物語以上の政治的、人格的なメッセージは一切ないし、それを読み取ろうとすることも望まない、と巻頭にわざわざ述べているが、それを読み取らずにおれようか、という感じである。下巻に続く
17.5.19 -
ハックルベリーフィンの冒険は昔から、
読みたいと思っていて機会がなかったのですが
新訳ということで読みやそうだったので購入。
感想は下巻の後 -
名作だが、下巻を読んでからの評価としたい。