ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか (光文社古典新訳文庫)

著者 : 内村鑑三
制作 : 河野 純治 
  • 光文社 (2015年3月12日発売)
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  • レビュー :7
  • Amazon.co.jp ・本 (372ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334753078

ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか (光文社古典新訳文庫)の感想・レビュー・書評

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  •  自分には本当はどれだけのことができるのか、それを知っているのは、己を頼みとする方法を知っている者だけだ。他者に依存する者は、この宇宙で最も無力な存在である。
    独立は自己の能力を意識的に理解することである。そしてそれは、人間活動の領域における他の多くの能力を理解する端緒になるはずだ。
    これは、どんな性質の独立に対しても適用できる最も寛大で最も哲学的な見方である。独立に対して、反逆だとか、一部の野心家が思慮のない会衆を煽動したと言って汚名を着せるのは、ことにキリスト教徒の紳士らしからぬ不寛容さだ。キリスト教徒は「恨みを抱かない」のがその特質であるはずなのに。(pp.129-30)

    とにかく、真空は存在し、どうにかしてそれを何かで埋めなければならない。この茫漠たる宇宙には、ぼくに幸福と満足を感じさせてくれる何かがあるはずだと思った。しかし、その何かがいったい何なのか、まったく見当もつかなかった。生理学者のメスによって大脳を奪われたハトのように、理由もなく行き先もわからぬまま、ぼくは旅立った。ただとどまることができなかったからだ。このときから、この真空を埋めるという一つの仕事に全精力が注がれた。(p.135)

    ああ、幸いなる無知が懐かしい。無知のままでいれば、ぼくは善良な祖母が満足していたもの以外の信仰を知らずにすんだだろう!祖母は無知だったからこそ勤勉で、辛抱強く、誠実だった。最期の息を引き取るときも、祖母の顔が良心の呵責で曇ることはなかった。祖母が手にしたのは平安であり、僕がいま手にしているのは疑念だ。(p.184)

    中国の賢人の名言に「山にとどまる者は、山を知らない」というのがある。じっさい、遠くから眺めると、より美しく見えるだけでなく、より広範囲に観ることができる。山の本当の大きさは、遠くからでないとわからない。
    自分の国の場合も同じである。住んでいるあいだは、国のことはあまりよくわからない。国の本当の状況、すなわち、大きな世界全体の一部として、その良いところと悪いところ、強みと弱みを理解するには、離れたところから見なければならない。(p.186)

    異国での生活ほど、自己を見つめるのに適した環境はない。逆説的に聞こえるかもしれないが、自分のことをもっとよく知りたければ、世界に飛び出すことである。他の民族、他の国々に接する場所ほど、自分のことが明らかになる場所はない。内省が始まるのは、目の前に別の世界があらわれるときである。(p.190)

    真の寛容さとは、ぼくの考えでは、自分の信仰にはゆるぎない確信を持ちつつ、あらゆる正直な信念を許し、認めることである。何らかの真理を知ることができるという信念と、すべての真理を知ることはできないという疑念を持つことこそ、真のキリスト教的寛容さの基礎であり、あらゆる善意とすべての人々との平和的関係の源である。(p.204)

    神学が、現実のもの、実際的なものをいっさい含まない学問だとしたら、学ぶ価値はない。だが真の神学は現実的なものだ。そう、他のどの学問よりも現実的だ。医学は人の身体的苦痛を和らげる。法学は人と人との市民としての関係を扱う。しかし神学は、身体の病気や社会の混乱の原因そのものを探求する。真の神学者は当然、理想化だが夢想家ではない。彼の理想が実現するのは何百年も先のことである。彼の仕事は、巨大な建物を建てるのに煉瓦を一つか二つ積むのに似ている。建物が完成するまでには無限の歳月がかかるのだ。彼がその仕事をするのは、正直に、まじめに働いた成果は、けっして失われないと、ただ信じているからだ。(p.278)

    ぼくらがキリスト教を必要としているのは、悪をより悪に、善をより善に見えるようにするためである。キリスト教だけがぼくらに罪を確信させることができる。罪を確信させることによって、ぼくらが罪を超越し、征服する手助けをすることができる。ぼくはいつも、異教とは人間の微温的状態だと考えている――あまり温かくもないし、あまり冷たくもない。無気力な声明は弱い生命である。苦痛をあまり感じないので、喜びもあまり感じない。(pp.336-7)

  • 強制的に改宗させられたものの、一神教の素晴らしさに心打たれた鑑三。
    彼の宗教的ストイックさと、アメリカに渡って無数の宗派のどこにコミットしていいかわからずノイローゼになりながら、自らの信仰を見出していく日記に非常に共感。
    どちらかというと橋爪先生の解説の辛辣さに笑ってしまったが、
    明治期の新しい真理に触れた鑑三がいかに、西洋の真理と日本の真理を接木しようと格闘しようとしていたかがわかる。

    ただ、神道や仏教の真の価値をー江戸、明治を経て形骸化していたとはいえー見いだそうとしない鑑三の態度にはぼくは批判的である。
    まだ、日本のキリスト教は始まってすらいないのが現状であると思う。

  • もうちょっと深く鑑三がキリスト教にのめいっていった経緯がわかればなと思った。

  • 内村鑑三の札幌農学校〜アメリカ留学時代の内的記録です。特に前半は明治初期の若者の西洋知の受容の様子がユーモアを交じえて綴られています。キリスト教もその一部であり、一時的な熱狂が過ぎ去ると、離れていく者もあり、真実、信仰の道に入る者もあり、という流れがみてとれます。後半は生真面目で誠実な若き内村の、キリスト教を通じたアイデンティティの模索と葛藤が語られます。個人の記録としてだけでなく、当時の時代感、空気感を感じとることができます。

  • 哲学書?

  • 「無教会主義」で知られる思想家・内村鑑三が、若かりし頃の経験を綴った回想録のような本。原文は英語で書かれていて、それを翻訳したものが本書です。

    「いかにしてキリスト教徒になったか」についてのお話はあっさりと終わってしまい、以降は教会の維持運営や渡米後の苦労などが語られていきます。著者がキリスト教を信仰するに至るまでの心理の移り変わりとか、そういう内容を期待していたのでなんとなく肩透かしをくらった気分になりました。

    それでも著者の思想がどのようにかたちづくられていったのか、ということはよく分かります。いろいろな本を読み、多くの宗派に触れ、自分で考えて悩んで成長していく。キリスト教云々はともかくとして、その姿勢には学ぶべきものがあります。

  • たまに弄られるタイトルの本が現代語訳された。

    ・読んである本なので、「翻訳がどんな具合か知りたい」目的。
    ・タイトルについて:「ぼく」と「いかに」のアンバランスさは如何に。
    ・『余は如何にして四間飛車党となりし乎(高美濃編)』
    ・『余は如何にして利富禮主義者となりし乎』←懐かしい。

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