ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか (光文社古典新訳文庫 Bウ 2-1)

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  • Amazon.co.jp ・本 (372ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334753078

感想・レビュー・書評

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  •  自分には本当はどれだけのことができるのか、それを知っているのは、己を頼みとする方法を知っている者だけだ。他者に依存する者は、この宇宙で最も無力な存在である。
    独立は自己の能力を意識的に理解することである。そしてそれは、人間活動の領域における他の多くの能力を理解する端緒になるはずだ。
    これは、どんな性質の独立に対しても適用できる最も寛大で最も哲学的な見方である。独立に対して、反逆だとか、一部の野心家が思慮のない会衆を煽動したと言って汚名を着せるのは、ことにキリスト教徒の紳士らしからぬ不寛容さだ。キリスト教徒は「恨みを抱かない」のがその特質であるはずなのに。(pp.129-30)

    とにかく、真空は存在し、どうにかしてそれを何かで埋めなければならない。この茫漠たる宇宙には、ぼくに幸福と満足を感じさせてくれる何かがあるはずだと思った。しかし、その何かがいったい何なのか、まったく見当もつかなかった。生理学者のメスによって大脳を奪われたハトのように、理由もなく行き先もわからぬまま、ぼくは旅立った。ただとどまることができなかったからだ。このときから、この真空を埋めるという一つの仕事に全精力が注がれた。(p.135)

    ああ、幸いなる無知が懐かしい。無知のままでいれば、ぼくは善良な祖母が満足していたもの以外の信仰を知らずにすんだだろう!祖母は無知だったからこそ勤勉で、辛抱強く、誠実だった。最期の息を引き取るときも、祖母の顔が良心の呵責で曇ることはなかった。祖母が手にしたのは平安であり、僕がいま手にしているのは疑念だ。(p.184)

    中国の賢人の名言に「山にとどまる者は、山を知らない」というのがある。じっさい、遠くから眺めると、より美しく見えるだけでなく、より広範囲に観ることができる。山の本当の大きさは、遠くからでないとわからない。
    自分の国の場合も同じである。住んでいるあいだは、国のことはあまりよくわからない。国の本当の状況、すなわち、大きな世界全体の一部として、その良いところと悪いところ、強みと弱みを理解するには、離れたところから見なければならない。(p.186)

    異国での生活ほど、自己を見つめるのに適した環境はない。逆説的に聞こえるかもしれないが、自分のことをもっとよく知りたければ、世界に飛び出すことである。他の民族、他の国々に接する場所ほど、自分のことが明らかになる場所はない。内省が始まるのは、目の前に別の世界があらわれるときである。(p.190)

    真の寛容さとは、ぼくの考えでは、自分の信仰にはゆるぎない確信を持ちつつ、あらゆる正直な信念を許し、認めることである。何らかの真理を知ることができるという信念と、すべての真理を知ることはできないという疑念を持つことこそ、真のキリスト教的寛容さの基礎であり、あらゆる善意とすべての人々との平和的関係の源である。(p.204)

    神学が、現実のもの、実際的なものをいっさい含まない学問だとしたら、学ぶ価値はない。だが真の神学は現実的なものだ。そう、他のどの学問よりも現実的だ。医学は人の身体的苦痛を和らげる。法学は人と人との市民としての関係を扱う。しかし神学は、身体の病気や社会の混乱の原因そのものを探求する。真の神学者は当然、理想化だが夢想家ではない。彼の理想が実現するのは何百年も先のことである。彼の仕事は、巨大な建物を建てるのに煉瓦を一つか二つ積むのに似ている。建物が完成するまでには無限の歳月がかかるのだ。彼がその仕事をするのは、正直に、まじめに働いた成果は、けっして失われないと、ただ信じているからだ。(p.278)

    ぼくらがキリスト教を必要としているのは、悪をより悪に、善をより善に見えるようにするためである。キリスト教だけがぼくらに罪を確信させることができる。罪を確信させることによって、ぼくらが罪を超越し、征服する手助けをすることができる。ぼくはいつも、異教とは人間の微温的状態だと考えている――あまり温かくもないし、あまり冷たくもない。無気力な声明は弱い生命である。苦痛をあまり感じないので、喜びもあまり感じない。(pp.336-7)

  • 題名だけ知ってて読んでみたかった本。訳のおかげもあって思ったより平易で読みやすく、面白かった。
    強制的な改宗から始まったものではあったが、その清廉な信仰のよろこびと苦悩、熱意には胸を打たれた。武家の息子として八百万の神と儒教思想の中で育ってきた人間が、自分の根本・世界の原理としてキリスト教を受け入れるために格闘する。ごりごりの儒教思想の御父上も改宗させたというのは本当にすごい。しかし日本では信仰の渇きを満たすことができず、アメリカにわたって様々な宗派と出会い、キリスト教国に対する幻滅も味わい、神学に疲れ、それでも自分なりの真理と呼べるものはつかみ取って帰国した。

    終盤にある、真理の話がとてもよかった。キリスト教は真理だ、と言い切りながら、真理を定義することはできない、とも繰り返す。
    「生命についての真の知識はそれを生きることによってしか得られない。メスと顕微鏡でわかるのはメカニズムだけだ。──真理もそうだ。ぼくらは真理を守ることによってのみ、真理を理解できるようになるのだ。理屈をこねたり、些細なことにこだわったり、こじつけをしたりしていては、真理から遠ざかるばかりだ。真理はそこにある。まぎれもなく、堂々と。そしてぼくらは自らそこまで行くしかない」
    自分で生き抜くことによってしか得られない、とはいかにも東洋的な哲学に感じるが、真理を得るためには自ら近づくしかない、というのはとてもキリスト教的だなと思う。儒教はいまだ自分の中で生きているというようなことを内村は言っていて、日本のこうした思想的土壌の上でキリスト教が豊かに育つことができるはずだという確信もあった。それを見事に示したのがこの真理についての話ではないかと思う。
    しかし解説の人が、定義と教義についてきっちり議論することなしに正統派キリスト教徒を気取るなぞおかしい、内村はキリスト教徒になり損ねたのではと書いていてこの本の何を読んだのかとびっくりしたが、あの悪名高い「ふしぎなキリスト教」の人だと気づいてなるほどねと思った。解説だけ取り替えてほしいなあ。

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/742258

  • 渡米した内村鑑三は、
    自身が崇拝してきたキリスト教を根幹としたキリスト教国で絶望する。

    これが、キリストの教えを実践する国なのか?と。
    「山にとどまる者は、山を知らない」
    外へ出ることで始めて自分自身が何者かをよく知ることができると内村鑑三は言う。

    がっかりした内村鑑三は、
    欧米の宗教であることを根拠にキリスト教を擁護することを止めることを決意。

    まさに自身の頭で考え、自身の心で感じることこそが、根拠となりうるのであって、
    欧米であるという外的証拠などでは、足元はグラグラだということを痛感したからである。


    内村鑑三は、正しい道徳と正しい行為のためには、身体が正しい状態でなければならないということを、つまり胃袋が大事だということを痛感する。
    また、どんなに崇高な志がある活動であっても、その活動を通して人々に貢献するには、明瞭な頭脳と鉄の意志が必要だと知る。

    内村鑑三は、
    信仰を重んじながら、リアルな現実を直視することも忘れなかった。


    日本の本質的な敗戦要因の一つとして、
    現実を無視した過度な精神主義が見られる。
    アメリカとの戦いは物質的な戦いではなく、精神力の戦いだとみなしていた。
    それが、例えば兵士の睡眠や胃袋を軽視し、精神力過多の思想によって、無理が募り敗戦につながった。大きな要因の一つだろう。


    ひるがえって、
    内村鑑三は敗戦前の人間としては、
    かなり現実的な視点をもっていた宗教家でなかっただろうか。

  • 強制的に改宗させられたものの、一神教の素晴らしさに心打たれた鑑三。
    彼の宗教的ストイックさと、アメリカに渡って無数の宗派のどこにコミットしていいかわからずノイローゼになりながら、自らの信仰を見出していく日記に非常に共感。
    どちらかというと橋爪先生の解説の辛辣さに笑ってしまったが、
    明治期の新しい真理に触れた鑑三がいかに、西洋の真理と日本の真理を接木しようと格闘しようとしていたかがわかる。

    ただ、神道や仏教の真の価値をー江戸、明治を経て形骸化していたとはいえー見いだそうとしない鑑三の態度にはぼくは批判的である。
    まだ、日本のキリスト教は始まってすらいないのが現状であると思う。

  • もうちょっと深く鑑三がキリスト教にのめいっていった経緯がわかればなと思った。

  • 内村鑑三の札幌農学校〜アメリカ留学時代の内的記録です。特に前半は明治初期の若者の西洋知の受容の様子がユーモアを交じえて綴られています。キリスト教もその一部であり、一時的な熱狂が過ぎ去ると、離れていく者もあり、真実、信仰の道に入る者もあり、という流れがみてとれます。後半は生真面目で誠実な若き内村の、キリスト教を通じたアイデンティティの模索と葛藤が語られます。個人の記録としてだけでなく、当時の時代感、空気感を感じとることができます。

  • 哲学書?

  • たまに弄られるタイトルの本が現代語訳された。

    ・読んである本なので、「翻訳がどんな具合か知りたい」目的。
    ・タイトルについて:「ぼく」と「いかに」のアンバランスさは如何に。
    ・『余は如何にして四間飛車党となりし乎(高美濃編)』
    ・『余は如何にして利富禮主義者となりし乎』←懐かしい。

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著者プロフィール

1861年生まれ、1930年没。思想家。父は高崎藩士。札幌農学校卒業後、農商務省等を経て米国へ留学。帰国後の明治23年(1890)第一高等中学校嘱託教員となる。24年教育勅語奉戴式で拝礼を拒んだ行為が不敬事件として非難され退職。以後著述を中心に活動した。33年『聖書之研究』を創刊し、聖書研究を柱に既存の教派によらない無教会主義を唱える。日露戦争時には非戦論を主張した。主な著作は『代表的日本人』、『余は如何にして基督信徒となりし乎』など。
佐藤優
作家、元外務省主任分析官。1960年、東京都生まれ。同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。現在は、執筆活動に取り組む。著書に『国家の罠』(新潮社)で毎日出版文化賞特別賞受賞。『自壊する帝国』(新潮社)で新潮ドキュメント賞、大宅壮一ノンフィクション賞受賞。おもな著書に『国家論』(NHKブックス)、『私のマルクス』(文藝春秋)、『世界史の極意』『大国の掟』『国語ゼミ』(NHK出版新書)など。『十五の夏』(幻冬舎)で梅棹忠夫・山と探検文学賞受賞。ほかにも著書多数。

「2021年 『人生、何を成したかよりどう生きるか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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