ゴリオ爺さん (古典新訳文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (591ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334753375

感想・レビュー・書評

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  • 19世紀フランス。ラスティニャック青年は田舎の貧乏貴族出身で出世を夢見てパリで法学を学ぶ。ヴォケール夫人が営む場末の安宿で貧乏暮らし。しかし、野心を捨てず、パリ社交界の華で伯母のマルシヤック夫人のつてを辿り社交界に潜り込む。
    そこで出逢ったのは美貌の令夫人レストー。同じ安宿にいるゴリオ爺さんの娘だという。爺さんは元製麺業者で財を成したが、いまは財産すべてを娘たちに与え続けている。それほどの溺愛ぶり。しかし二人の娘は・・・。

    ストーリーの表面はゴリオ爺さんの父性愛とラスティニャックの恋愛が軸だが、この小説は徹頭徹尾、お金の貸し借りつまり富の話だ。フランスの経済学者トマ・ピケティの「21世紀の資本」で本作が言及された理由もよくわかる。
    特に魅力的な悪党のヴォートラン。彼はラスティニャックを唆し、同じ安宿に住む不遇な貴族の娘と結婚するようにけしかける。おまけにこうも囁く。仲介してやるからうまく金持ちのお嬢ちゃんと結婚できたら俺に謝礼を払え、と。
    彼はこうも云う。「法律家になって給与もらうより(賃金労働する)、金持ちのお嬢さんと結婚したほうが手っ取り早い。簡単に金持ちになれるし出世も早いぞ」。

    この忠告はピケティの経済書の内容と重なる。賃金上昇率より資本収益率のほうが高く(r>g )、がために世界中で経済不平等と格差が広がっているという事実をデータから論証した「21世紀の資本」は世界中でベストセラーとなった。

    ゴリオ爺さんの父性愛は、なにもそこまで・・、と思うほど規模が大きく奥深い。それを計り知れない2人の娘は不幸だが、親の愛とはいつの世でもこういうものだろうか。子どもに対する親の愛の不均衡。それを表現したり、あるいは埋め合わせるのは結局はお金なのだろうか。父性愛と虚栄を混ぜ合せて19世紀パリを描いた本作はそれだけでも楽しめるが、普遍的な問いも読む者に突きつける。

  • 2019.7.10付け朝日新聞掲載の「マンガ時評」で学習院大学教授の中条省平さんは、あの『闇金ウシジマくん』のことを「社会の諸相を細密で巨大な壁画のように描きだす現代日本のバルザック」と例えている。「ウシジマくん」に関する文章にいきなりバルザックが出てきたので、とても驚いた。

    中条教授はさらに書く-「ウシジマくんは、そうした人々の運命を震えがくるほどのスリルで描きだしながら、彼らを生みだす時代の残酷な力、権力関係のメカニズム、そして金と金融社会の病理を抉りだします」と。
    私は冒頭の「ウシジマくん」を「ゴリオ爺さん」へと置き換えてみた。すると違和感がまったくないではないか。

    もちろん時代背景はまったく異なるので、「パチンコにはまり闇金に手を出す人」や「イベントサークルであぶく銭を追う人」をそのままバルザック作品に当てはめることはできない。しかし前もって「ウシジマくん」を読みその世界観に慣れておけば、「ゴリオ爺さん」の読解をかなり手助けしてくれるはず、とまで私は思っている。

    実際に「ゴリオ爺さん」の登場人物をウシジマ的な視点から観察してみよう。
    主人公のラスティニャックは、田舎貴族出だがその境遇に満足できず、大都会パリの貴族社会の一員に加わることを夢見る。しかし実際のパリ社交界は権謀術数が渦巻き、たとえ人間の魂の誠実さが踏みにじられようとも自己の欲望を吐き出すことを躊躇わない魑魅魍魎が蠢いており、その様子に一方で嫌悪を催しながら、それでもその有象無象の中に身を投じ、成り上がりの栄光に向かって突き進もうとする。
    これは「ウシジマくん」で、特にこれといった取柄もなかった一青年が、読者モデル雑誌に取り上げられたことをきっかけにファッション界のカリスマとかオーラとかを際限なく求めていく「楽園くん」のエピソードと重なる部分はないだろうか?

    ほかの登場人物も同様に見ていくと、「ゴリオ爺さん」と「ウシジマくん」に共通のキーワードがあることに気づいた。それは《欲望》だ。
    欲望というキーワードから照射するようにそれぞれの登場人物を見ていくと、たしかにゴリオの2人の娘をはじめとしたパリの貴族たち、アパートの住民たち、ヴォートラン、そしてゴリオまでもが《欲望》のるつぼに落ち込んだかのように描かれている。

    ここで「ちょっと待って。ゴリオ爺さんだけは欲望のるつぼに落ちていないんじゃないの?」と言う人がいるかもしれない。しかし私はこう考える。
    ゴリオは悲しいかな2人の娘に冷たくあしらわれ続ける。しかし彼はいくらそうされても(いや逆にそうされるがゆえに)娘への愛情をさらに深めるべく、自己の生活を切り詰め貧困化することがすなわち娘たちへの愛情の成就の証なのだというように見える。これは一種の被虐的な欲望の体現ではないか。

    バルザック以前は、人間は神に見られているという一般観念のもと、文学作品は人間の理想や清い魂のあり方を求めていたと思う。しかしバルザックはその逆をいった。欲望にまみれて堕ちた人間の生き方にこそ、真実の姿を見出したのだ。そして欲望がもたらす不可避な現実(人はそれを運命という)に抗えない人間の悲しみを作家として追求したのだ。

    善と悪という単純な二元論を超越した人間の真のありようを描こうとする視点。そして自分の欲望に翻弄される人間のおかしさと悲しみ。それはすなわちこの作品と闇金ウシジマくんとに共通して見られるものだ。

    最後に、蛇足かもしれないけれど…
    昭和の特撮TV番組コンドールマンでは、ゼニクレイジーなどのモンスターを生みだしたのは悪の組織ではなくて実は「人間の心」だった。
    「ゴリオ爺さん」がバルザックによって世に出された数十年後には、さらにドストエフスキーの数々の長編作品によって人間の欲望に潜む複雑な裏面性が示された。
    そして2021年の日本では、皇室の令嬢を巻き込んで人間の欲望が自己増殖していく様子(としか私には見えない)が世間を賑やかした。
    いつの世でも人間の根源はすなわち《欲望》なのかと考えざるを得ない。

  • 19世紀パリ社交界を舞台に描かれるフランス文学の傑作。モームの世界十大小説の一つ。光文社古典新訳文庫版。

    人間描写力すごすぎワラタ。いや人間観察力ともいうべきか、細密な心理や行動の描写が逐一的を得ていて圧倒される。段落などの区切りがなく長い文章が延々と続くため、序盤の間、舞台設定をつかむまではやや読みにくい。しかし謎解きのようになっているゴリオ爺さんの実像が見えてくる第一章の後半ごろには、込み入った人間関係の興味深さに引き込まれていた。その後物語は加速に加速を重ね、第四章あたりには、もう読みきらなければ本を閉じられないというほど夢中にさせてくれた。

    しかし壮絶で切ない話だ。社交界という華やかかつ恐ろしい世界で、人間の醜さと愚かさを骨の髄まで見せつけられる。純真で好感の持てる青年・ラスティニャックの人格形成の顛末が巧みでその後が気になるし、もう一人の主人公級人物ヴォートランは前日譚も後日譚も読みたくなる。そのあたりがうまいつくりで、本作はバルザックの書いた《人間喜劇》という膨大な物語群の入口だという。彼らは主人公だったり脇役だったりでいくつもの他作品に登場するらしい。

    社交界の泥沼で人間性を貶めてしまったせいなのか、行き過ぎた父性愛が罪作りだったのか、二人の女性の姿が読者の怒りを誘う。だがどちらが悪いと言い切れるほど真相は単純ではなかった。最後の彼の独白の叫びが愛憎の複雑さを呈していてすさまじい。これが古典として残る作品のすごさかと恐れ入った。

    個人的には、おとなしいあの女性のその後が一番気になるのだが……。

  • 単純に不実な娘たちを描いているだけでなく、ゴリオ爺さん本人にもエゴ的な面もあるところが難しい

  • 父性愛の極地
    レアリスム小説のはしり。ここから20世紀小説は「本当らしさ」からの脱却を求め始める。
    映画もあるらしいから観てみたい。

  • フランス文学の傑作とされているゴリオ爺さんだ。一回読んだだけではなんのことやらよくわからなかった。
    ただ、この小説はゴリオ爺さんと法学を学ぶ学生ラスティニャックの関係性を書いた物語と捉えることもできるのではないかと感じた。

    パリの社交界に憧れるラスニャック。パリの社交界に身を置く娘にひたすら尽くそうとするゴリオ爺さん。注目すべきはこのメイン登場人物の二人が、「どちらも自分は現在社交界に身を置いていない」という点にあると考える。社交界に身を置いていない者を通じて社交界の有り様、そこにいる人間の様子を描き出した小説であるといえる。

  • 時代は19紀前半。パリの下町にある下宿屋「ヴォケール館」が舞台。小説の主人公は、地方の下級貴族の出で、パリに〝上京〟し法学部の学生となったウジェーヌ・ラスティニャック。
    ラスティニャックは、法曹界に職を得ることに早々に見切りをつけ、パリの「社交界」でうまいことやって富と地位を築くことを目標に掲げ、夜な夜な活動を始めるのであった。

    一方、下宿屋には、様々な人間が寄宿しており、その中の1人がゴリオ爺さん。かつて、小麦の商いと製麺業で財を成し、いまは年金生活を送る老人だ。娘が二人居り、パリ社交界にデビューしており、娘たちを溺愛している。

    物語は、ラスティニャック自身の、パリ社交界への船出を描いてゆく。
    そして、中盤くらいから、ラスティニャックの目を通して、ゴリオ爺さんの人生のストーリーが太くなってゆく。

    ヴォケール館の女主人を筆頭に、金に汚い人物が目白押し。あるいは、金こそ全てという近代のありようを、えげつなくありのままに描いているのであった。

    箴言のような、名文句がちらほら登場、その点、なかなか味わい深い。 例えば、
    ・「お金というのは、愛がなくなって初めて重さを持ち始めるのです。」
      (ニュッシンゲン夫人/デルフィーヌ/ゴリオ爺さんの次女)
    ・「可能なことによって不可能なことを説明し、予感によって事実を打ち砕くのは女性のさがだ。」
      (作者の、〝神の視座〟)
    ***
    下宿人のひとり、ヴォ―トランは、とりわけ魅力的な人物。実は犯罪者で、犯罪者のネットワークを築き、その独特の手法で財を成す切れもので、人間社会と金に関して独自の価値観をもっている。
    ラスティニャックに、パリ社会のシビアな局面を説き、人生の真実を説く。滔々と説く(p185~205)。

    以下、その一部…
    ・曰く、「どこで金を手に入れるかという話さ。/女の持参金という手段がある。」
    ・「働くのか?働いて得られるものなんて、たかが知れてるぞ。」
    ・「きみのような若者が五万人はいるんだから大変だ。きみはそういう有象無象のひとりにすぎない。」p194
    ・「そのへんにごろごろいる凡人にとっては不正が武器になるのさ。」  (ヴォートラン談)

    汚いやりくちであっても勝者になるべし、という考えを実践している。いわば、アンチヒーロー。
    彼の処世術のくだりを読んでいて、ちょっと、ドストエフスキーの作品を想起した。
    そのあと、巻末解説を読んで、逆に本作「ゴリオ爺さん」が、ドストエフスキーに影響を与えたとする説もある、と知り驚いた。さらには、ラスコーリニコフの名は、ラスティニャックから来ている、とする説もあるという。
     第3章は、「トロンプ=ラ=モール/死神の手を免れた男」と題されている。トロンプ=ラ=モールは、ヴォートランの別名。この章は、ヴォ―トランがフィーチャーされる。

    **以下、ネタばれ、含む**** 

    終幕、ゴリオ爺さんは、失意のうちに病死。ほろ苦い読後感で、頁を閉じた。
    ゴリオ老人の人生に関しては、救いの無い、もの哀しい終幕なのである。
     ゴリオ氏は、娘ふたりを溺愛し、その生涯で築いた財の全てを、娘たちに投入。
    しかし、娘たちは、ゴリオ爺さんに対して冷たい。彼の今わの際でも、父を見捨て、裏切るかたちになるのだった。

  • 長かった。500ページ。とある食事つき下宿屋さんに集う人達の群像というのか、喜劇というのか。そのうちの一人にゴリオ爺さんという人がいる。娘二人いる。二人共、爵のついてる人の所に嫁にいった。そして互いにイケメン詐欺師に利用され、旦那は愛人かわい、で金払わず、爺さんが金払う。二人共。爺さんの死に目にも来ない。これどうみても、爺さんの教育が間違ってた。なぜ三人とも最後まで金=愛のまま終わるのか。これが名作扱いされてるのがちょっと理解できない。

  • 冒頭がとにかく読みにくく、時間がかかった。
    読んではやめを繰り返して、1年くらい?

    ヴォートランがラスティニャックに取引を持ちかけるところから、面白くなって一気に読了した。
    間に鹿島茂氏の『馬車が買いたい!』を挟んだおかげかもしれない。

    ゴリオの結末は知っていたけど、それでも悲しかった。
    恩とか愛は、当たり前のものになってしまったら、存在に気が付けなくなってしまうものなのかも。

    ラスティニャックのこの先も気になるし、ボーセアン夫人も印象に残ったので、別の作品も読んでみたい。

  • 19世紀のパリを舞台に、いろんな事情を抱えて生活している老若男女が織りなす金の話。
    主人公である貧乏貴族の学生が出世のために金持ち貴婦人の後ろ盾を得ようと奮闘するのだが、不思議と恋愛色が薄い。見かけ上はロマンスなのだが各人それぞれの目論見が腹の底にあり、出世を賭けたビジネスの駆け引きをしているような様相をなしていておもしろい。社交界とは仕事へ繋がるコネクションを結んでいくビジネスの場として機能していることを実感させられた。
    意外にも一番ロマンチックなのはヴォートランだったようにも思う。

    ゴリオ爺さんは非常に過干渉な親で、とうに成人して家庭まで持っている自身の子供をひとりの人間というよりかは、人形かペットかのように愛玩している。娘の愛人を利用して父子の半同居生活を実現させようとしたときの父の甘たれた振る舞いに、いい大人がうんざりさせられるのは当然であり、娘の白けた態度も妥当であろう。
    娘たちは幼児のように親へ依存している反面、自分へベッタリな親を疎ましく思ったり、家から追い出したり等、きちんと親に反抗できる自立精神を有している面もある。
    娘はしばしば自分が不幸なのは父親のせいだと愚痴を零すが、いくら問題のある親といっても親のせいにして立ち止まっていられる歳ではもうない。父親の死を契機に、自立の方向へ比重が傾けば娘たちの人生も幾分スムーズになるのではないだろうか。幸か不幸か、娘の夫たちは本作で見る限りでは、ゴリオが娘にするようには妻に耽溺するタイプではないようなので、父亡き後は夫へ依存するという安易な逃げ道は塞がれているというのがある種の希望になっている。
    経済的には依存せざるを得ないが、子供が何か思考する前から手を出してしまっていた親と別れ、敵か相棒かとして立ちはだかる夫を前に、自身の身の振る舞いについて嫌でも思考していかなければならないサバイバル状態はポジティブに捉えれば逞しさへ繋がるかもしれない。

    ところでゴリオはなんだかんだ幸せな一生だったのではないだろうか。最後の最後に娘たちに会えたと勘違いして逝けたので。

    印象的だったのは、ヴォートランの逮捕の瞬間。
    赤毛が地獄の炎のように豪胆な顔を輝かせたり、墜ちた大天使のような好戦的な眼差しといった表現が勇ましくて良い。二つ名や偽名を持つ脱獄囚ヴォートランの濃い経歴が本編ではほとんど触れられないので余計に想像が掻き立てられた。ヴォートランを裏切ったとされるフィル・ド・ソワ〈絹糸〉なる男は他シリーズに出てきたりはしないのだろうか?

    それはそうと、ラスティニャックが大学をサボるために出欠の点呼にだけ答えて帰るという、現代の日本の大学生の間では珍しくもない光景が、フランスではすでに19世紀初頭でフィクションに採用されるほど常態化していたという歴史の先行性が新鮮だった。

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著者プロフィール

オノレ・ド・バルザック
1799-1850年。フランスの小説家。『幻滅』、『ゴリオ爺さん』、『谷間の百合』ほか91篇から成る「人間喜劇」を執筆。ジャーナリストとしても活動した。

「2014年 『ジャーナリストの生理学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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