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本 ・本 (600ページ) / ISBN・EAN: 9784334753375
感想・レビュー・書評
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文学系YouTuberムーさんの動画を見て、今まで敬遠していたバルザックを読んでみようと思った。それでも最初二の足を踏んでいたのはムーさんが「冒頭の30ページだけはしんどいけど我慢して読まなければならない」とおっしゃってたから「私なら最初の30ページ読みきれずに挫折するかも」と思ったから。
なので、どうせなら、いつもブクログの有名レビュアー、H・Mさんが翻訳本としてお勧めされている「光文社古典新訳文庫」で読むことにした。
そしたら!
噂に反して冒頭から面白いのなんのって!
物語の舞台は1819年〜20年のパリ。標題になっている「ゴリオ爺さん」と語り手の大学生ウジェーヌ・ド・ラスティニャックという学生の住んでいる「ヴォケール館」という食事付き下宿屋の説明から始まる。それが!笑っちゃうくらい毒舌!
・パリの中でもとりわけ醜い界隈のヌーヴ=サント=ジュヌヴィエーヴ通りにぴったりと接して建つヴォケール館
・ここの料理女は勝手口から下宿人の出した汚物を通りに捨てている
・玄関サロンには、名状しがたい「下宿臭」としか呼びようのない異様な匂いがする。しかし、救いようもなく醜悪なそのサロンも、隣の食堂と比べれば、エレガントで芳しい貴婦人の居間のようにさえ思えてくるだろう。
・家主のヴォケール夫人は、表情が秋の初霜のように冷たく、皺に埋もれた目がポン引きのように微笑んだかと思うと、手形を割り引く世知辛い仲買人の顔に豹変する
下宿人については
・老嬢ミショノー
憐れみの天使でさえ及び腰になりそうな、針金の輪に汚らしい緑色のタフタ地を貼ったサンバイザーのごときものを常にその疲れた目にかかるように被っている。無残に擦り切れたフリンジの肩掛けを掛けると角張った体が目立ち、かえって骸骨を覆っているように見える。
・ポワレ氏
ゼンマイ仕掛けの人形のごとく生気がない。よく植物公園の散歩道で見かけるが、うっかりすると道に広がった灰色の影かと思ってしまう。
・ゴリオ爺さん
この下宿のいじめられっ子。
もと製麺業者の男寡で、初めは金品を持っていたので、ヴォケール夫人はチヤホヤしていたが、だんだん身の回りの金品を売り始め、無口で貧しく汚い老人になっていた。
他に母親が亡くなり、お金持ちの父親に認知されないため不幸なタイユフェール嬢と彼女の面倒を見ている叔母のクチュール夫人。逞しくさまざま知識にたけ、人が困っているとすぐに手を貸そうとする四十男のウォートランがいるが、ヴォートランはどこか怪しく恐ろしく、相手に恐怖を覚えさせる男だった。
そして、この小説の語り手であるウジェーヌ・ド・ラスティニャックである。かれは南仏の貴族の家庭で育ち、パリの大学で学ぶ学生だが、親は彼に仕送りするのは楽でなく、倹約を強いられていた。
せっかくパリに出てきたのだから、社交界に出て出世したいウジェーヌは親戚であるポーセアン夫人を頼って舞踏会に招待してもらうのだが、服装などがなっていない田舎者であるため、相手にされない。
実家の母と妹に「出世のためと」言って、まとまったお金を送ってもらい、身支度をして出直すと美しい夫人達の目を引くようになった。
パトロン?になってもらおうという下心を持って近づいているためか、恋する相手がみんな独身女性ではなく、お金持ちの〇〇夫人であり、その夫人たちには旦那がいても別に若い恋人がいるのは当たり前、そして旦那のほうも浮気しているから妻をある程度泳がしておく。というパリ社交界の事情に読者のこっちはカルチャーショックを受けるが、語り手のウジェーヌ君はもっともっと汚く悲しい泥沼のような社交界の現実を知っていく。
ポーセアン夫人の伝手でレストー夫人、ニュッシンゲン夫人という美しい姉妹に出会うのだが、彼女達はなんとあのゴリオ爺さんの娘たちなのだ。
「あなたのお父様は私の隣人です」ということでニュッシンゲン夫人の気を引き、恋仲になるのだが、娘達がゴリオ爺さんの元に来てせびるのを聞いてしまう。
父親であるゴリオ爺さんが持たせてくれた多額の持参金を旦那が自分の財産としてしまい、自分には自由に使えるお金がないこと。旦那に内緒で若い恋人に貢いでしまい、その恋人が破産したので、「パパ何とかして」という訴え。
ゼロから自分で製麺所を立ち上げ、苦労して財産を築いたゴリオ爺さんは娘たちに激甘なので、娘の幸せを願い、言われるがままに散財し、一文なしになってしまった。
彼女たちのお屋敷では「なんかかっこ悪い」父親のは決して屋敷に入れず、お金が必要な時だけ、自分たちからせびりにくる。そして、父親の危篤であっても「自分を幸せに見せてくれる」若いかっこいい恋人を連れて舞踏会に行くことのほうが大事なのだ。
ゴリオ爺さんの一件を終えて、大人になったウジェーヌ君はこれから社交界と闘うらしい。
私は歴史小説にあまり興味がなく、フランス文学にも苦手意識があったが、今まで読んだ18世紀から19世紀のフランス文学…ユゴー「レ・ミゼラブル」、ゾラ「居酒屋」とそしてバルザックの本作品はどれも面白かった。それはその時代に生きた作家が同時代人の目で激動時代のパリを写してくれているからだと思う。
この作品の時代のパリはナポレオンの第一定政が倒れ、復古王政の頃である。社交界のようなところに貴族と市民の成功者が混ざるようになったころなのか?虚栄で成り立っていたことを明かしている。小説を読むと歴史にも興味が出てくる。
訳者の後書きを読むと、光文社の担当者から「冒頭の読みにくい部分を何とかして下さい」と注文を受けられ、頑張られたことが書かれている。光文社古典新訳文庫にして良かったっす^_^
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「今度はおれが相手だ!」
物語の最後、主人公のラスティニャックがパリの街へ向かって放ったセリフです
ラスティニャックとパリの間に何があったのか?めっちゃ気になるよね
ならない?いやなってよ!(懇願)
はい、というわけでユッキーのリクエストに応えて19世紀のフランスを代表する作家のひとりバルザックの『ゴリオ爺さん』を読みました
いやーすげーわバルザック
こんな悲劇いや喜劇を読まされるかね
『ゴリオ爺さん』はバルザックが書いた〈人間喜劇〉という小説群の1作なんよね
〈人間喜劇〉というのはひとつの世界観の中でたくさんの小説が書かれていて、それぞれが当時のフランスを分析して描いているんだけど、大きな特徴として「人物再登場法」と呼ばれる手法を使って書かれているんです
これはあっちで主人公だった◯◯がこっちで脇役として登場するってな具合に登場人物が作品を横断して登場することで作品同士を繋ぎ合わせるって手法です
分かりやすく言うと森山明夫さんですね(珍しくほんとに分かりやすい)
森山明夫さんの超先駆けつか元祖ですな
最多で三十一作品登場するキャラクターがいるのでスケールがでかい
はい『ゴリオ爺さん』の話に戻りますよね
う〜ん、難しいな〜
あらすじとか書く?
いやめんどくさいなw
まぁ、とにかく19世紀パリの社交界を舞台に悲喜こもごもの物語が展開するわけです
社交界でのし上がりたいけど、田舎で家族に愛されながら育った学生ラスティニャックは純真な心も捨てきれない
ひと癖もふた癖もあるつわ者たちに翻弄されまくる中でゴリオ爺さんと二人の娘たちの間の歪んだ愛憎劇にも巻き込まれちゃう
いやこれがほんとひどいのよ、どいひーなのよ
もう腹立ってしゃーない
なぜならさ、わいの心のなかにもきっとそんなひどい感情があることをバルザックに見透かされてるような気がするからなんよね
人のもつ利己的な内面を「隠しても無駄、お前も持ってるだろ?」ってバルザックに暴かれてるような気がするんよね
これからいつもいつも影の中でバルザックに見られていて自分勝手な振る舞いをする度にバルザックにニヤリと笑われているような
そんな気にさせられる物語でした
今度はスタンダールが相手だ!-
2024/12/30
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わお!ひまわりめろんさんもH.M.さんお勧めの光文社古典新訳文庫で既に読まれてたんですね。さすが!
「人間喜劇」の中で「ラスティニャックを探...わお!ひまわりめろんさんもH.M.さんお勧めの光文社古典新訳文庫で既に読まれてたんですね。さすが!
「人間喜劇」の中で「ラスティニャックを探せ!」やってみます^ ^2025/01/26 -
まこみはん
驚嘆すべき影響力ですな
具体的な作品名はまるっきり覚えてませんが、彼けっこう出てますよ
『ゴリオ爺さん』が一番若い時で、この...まこみはん
驚嘆すべき影響力ですな
具体的な作品名はまるっきり覚えてませんが、彼けっこう出てますよ
『ゴリオ爺さん』が一番若い時で、このあとけっこう性格変わっちゃうんじゃなかったかな?残念な方に2025/01/26
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19世紀フランス。ラスティニャック青年は田舎の貧乏貴族出身で出世を夢見てパリで法学を学ぶ。ヴォケール夫人が営む場末の安宿で貧乏暮らし。しかし、野心を捨てず、パリ社交界の華で伯母のマルシヤック夫人のつてを辿り社交界に潜り込む。
そこで出逢ったのは美貌の令夫人レストー。同じ安宿にいるゴリオ爺さんの娘だという。爺さんは元製麺業者で財を成したが、いまは財産すべてを娘たちに与え続けている。それほどの溺愛ぶり。しかし二人の娘は・・・。
ストーリーの表面はゴリオ爺さんの父性愛とラスティニャックの恋愛が軸だが、この小説は徹頭徹尾、お金の貸し借りつまり富の話だ。フランスの経済学者トマ・ピケティの「21世紀の資本」で本作が言及された理由もよくわかる。
特に魅力的な悪党のヴォートラン。彼はラスティニャックを唆し、同じ安宿に住む不遇な貴族の娘と結婚するようにけしかける。おまけにこうも囁く。仲介してやるからうまく金持ちのお嬢ちゃんと結婚できたら俺に謝礼を払え、と。
彼はこうも云う。「法律家になって給与もらうより(賃金労働する)、金持ちのお嬢さんと結婚したほうが手っ取り早い。簡単に金持ちになれるし出世も早いぞ」。
この忠告はピケティの経済書の内容と重なる。賃金上昇率より資本収益率のほうが高く(r>g )、がために世界中で経済不平等と格差が広がっているという事実をデータから論証した「21世紀の資本」は世界中でベストセラーとなった。
ゴリオ爺さんの父性愛は、なにもそこまで・・、と思うほど規模が大きく奥深い。それを計り知れない2人の娘は不幸だが、親の愛とはいつの世でもこういうものだろうか。子どもに対する親の愛の不均衡。それを表現したり、あるいは埋め合わせるのは結局はお金なのだろうか。父性愛と虚栄を混ぜ合せて19世紀パリを描いた本作はそれだけでも楽しめるが、普遍的な問いも読む者に突きつける。 -
19世紀パリ社交界を舞台に描かれるフランス文学の傑作。モームの世界十大小説の一つ。光文社古典新訳文庫版。
人間描写力すごすぎワラタ。いや人間観察力ともいうべきか、細密な心理や行動の描写が逐一的を得ていて圧倒される。段落などの区切りがなく長い文章が延々と続くため、序盤の間、舞台設定をつかむまではやや読みにくい。しかし謎解きのようになっているゴリオ爺さんの実像が見えてくる第一章の後半ごろには、込み入った人間関係の興味深さに引き込まれていた。その後物語は加速に加速を重ね、第四章あたりには、もう読みきらなければ本を閉じられないというほど夢中にさせてくれた。
しかし壮絶で切ない話だ。社交界という華やかかつ恐ろしい世界で、人間の醜さと愚かさを骨の髄まで見せつけられる。純真で好感の持てる青年・ラスティニャックの人格形成の顛末が巧みでその後が気になるし、もう一人の主人公級人物ヴォートランは前日譚も後日譚も読みたくなる。そのあたりがうまいつくりで、本作はバルザックの書いた《人間喜劇》という膨大な物語群の入口だという。彼らは主人公だったり脇役だったりでいくつもの他作品に登場するらしい。
社交界の泥沼で人間性を貶めてしまったせいなのか、行き過ぎた父性愛が罪作りだったのか、二人の女性の姿が読者の怒りを誘う。だがどちらが悪いと言い切れるほど真相は単純ではなかった。最後の彼の独白の叫びが愛憎の複雑さを呈していてすさまじい。これが古典として残る作品のすごさかと恐れ入った。
個人的には、おとなしいあの女性のその後が一番気になるのだが……。 -
2019.7.10付け朝日新聞掲載の「マンガ時評」で学習院大学教授の中条省平さんは、あの『闇金ウシジマくん』のことを「社会の諸相を細密で巨大な壁画のように描きだす現代日本のバルザック」と例えている。「ウシジマくん」に関する文章にいきなりバルザックが出てきたので、とても驚いた。
中条教授はさらに書く-「ウシジマくんは、そうした人々の運命を震えがくるほどのスリルで描きだしながら、彼らを生みだす時代の残酷な力、権力関係のメカニズム、そして金と金融社会の病理を抉りだします」と。
私は冒頭の「ウシジマくん」を「ゴリオ爺さん」へと置き換えてみた。すると違和感がまったくないではないか。
もちろん時代背景はまったく異なるので、「パチンコにはまり闇金に手を出す人」や「イベントサークルであぶく銭を追う人」をそのままバルザック作品に当てはめることはできない。しかし前もって「ウシジマくん」を読みその世界観に慣れておけば、「ゴリオ爺さん」の読解をかなり手助けしてくれるはず、とまで私は思っている。
実際に「ゴリオ爺さん」の登場人物をウシジマ的な視点から観察してみよう。
主人公のラスティニャックは、田舎貴族出だがその境遇に満足できず、大都会パリの貴族社会の一員に加わることを夢見る。しかし実際のパリ社交界は権謀術数が渦巻き、たとえ人間の魂の誠実さが踏みにじられようとも自己の欲望を吐き出すことを躊躇わない魑魅魍魎が蠢いており、その様子に一方で嫌悪を催しながら、それでもその有象無象の中に身を投じ、成り上がりの栄光に向かって突き進もうとする。
これは「ウシジマくん」で、特にこれといった取柄もなかった一青年が、読者モデル雑誌に取り上げられたことをきっかけにファッション界のカリスマとかオーラとかを際限なく求めていく「楽園くん」のエピソードと重なる部分はないだろうか?
ほかの登場人物も同様に見ていくと、「ゴリオ爺さん」と「ウシジマくん」に共通のキーワードがあることに気づいた。それは《欲望》だ。
欲望というキーワードから照射するようにそれぞれの登場人物を見ていくと、たしかにゴリオの2人の娘をはじめとしたパリの貴族たち、アパートの住民たち、ヴォートラン、そしてゴリオまでもが《欲望》のるつぼに落ち込んだかのように描かれている。
ここで「ちょっと待って。ゴリオ爺さんだけは欲望のるつぼに落ちていないんじゃないの?」と言う人がいるかもしれない。しかし私はこう考える。
ゴリオは悲しいかな2人の娘に冷たくあしらわれ続ける。しかし彼はいくらそうされても(いや逆にそうされるがゆえに)娘への愛情をさらに深めるべく、自己の生活を切り詰め貧困化することがすなわち娘たちへの愛情の成就の証なのだというように見える。これは一種の被虐的な欲望の体現ではないか。
バルザック以前は、人間は神に見られているという一般観念のもと、文学作品は人間の理想や清い魂のあり方を求めていたと思う。しかしバルザックはその逆をいった。欲望にまみれて堕ちた人間の生き方にこそ、真実の姿を見出したのだ。そして欲望がもたらす不可避な現実(人はそれを運命という)に抗えない人間の悲しみを作家として追求したのだ。
善と悪という単純な二元論を超越した人間の真のありようを描こうとする視点。そして自分の欲望に翻弄される人間のおかしさと悲しみ。それはすなわちこの作品と闇金ウシジマくんとに共通して見られるものだ。
最後に、蛇足かもしれないけれど…
昭和の特撮TV番組コンドールマンでは、ゼニクレイジーなどのモンスターを生みだしたのは悪の組織ではなくて実は「人間の心」だった。
「ゴリオ爺さん」がバルザックによって世に出された数十年後には、さらにドストエフスキーの数々の長編作品によって人間の欲望に潜む複雑な裏面性が示された。
そして2021年の日本では、皇室の令嬢を巻き込んで人間の欲望が自己増殖していく様子(としか私には見えない)が世間を賑やかした。
いつの世でも人間の根源はすなわち《欲望》なのかと考えざるを得ない。 -
なんという悲劇、いや喜劇か。こんな日常にはとても我慢できないだろうな。金、金、金の生む人間喜劇というか、パリという国が生み出したものなのか…いや、こんなことは世界のどこにだってあるよな。日本で言えば、始まったばかりの大河の時代なんかその最たるものなんだろうな。
まぁでも、ゴリオ爺さんの奥さんはいつどこでいなくなったんだろう… -
【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/742547 -
薄情な娘たちに裏切られたゴリオ爺さんの最期の場面は心を動かされる。
しかし、叙述が長いのと回りくどいのとで感情が遅れて追いつく感じになってしまうので、どうもダイレクトな感動には結びつきにくい。そこは古典なので致し方ないのかもしれないが読みにくいことには違いない。
死の床のゴリオ爺さんの錯乱しながらの長台詞や、ヴォートランの異常なほどの長広舌には唖然とした。
著者プロフィール
オノレ・ド・バルザックの作品






どなたか存じませんがH.M.さんのおかげですね
もう茨城に足を向けて寝れませんね
どなたか存じませんけど
どなたか存じませんがH.M.さんのおかげですね
もう茨城に足を向けて寝れませんね
どなたか存じませんけど
ブクログで超有名なH.M.さんという茨城在住の方のおかげです^_^
ブクログで超有名なH.M.さんという茨城在住の方のおかげです^_^