ドルジェル伯の舞踏会 (光文社古典新訳文庫 Aラ 1-2)

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  • Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334753993

感想・レビュー・書評

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  • でぇえ…本当に20歳(執筆している間は10代)でこれを書いたの、すごいな……自分が20歳の頃なんて思い出したくもないから比較はしたくない(できない)が…「早熟」なんて言葉では括れない才能な気がする…

    解説も読みごたえあって面白かった、何となくコクトーと仲良かったみたいなイメージしかなかったからもう少し詳しく知れて良かったな(コクトーが手直ししてるとこ想像してしまいました…)

    言い回し好きすぎる、どうしてそんな比喩引っ張ってこれるの?終わりかたも好きだなぁ、まさに舞踏会が終わってしまう感じ。
    でもやっぱり『肉体の悪魔』より、文体がより洗練されてキレキレになってた感じがした(ちゃんと文体について言及するには原文を読まなきゃ分からないですが…)けど、『肉体の悪魔』の方が好きかなぁ。うーん…。あと特徴的だなぁと思ったのは、1章とか1部とか区切りがないところ。これも幻想的な恋という舞踏会が続いてることを表してる?のかと思ったけど、前作でもそうだった気もする…。気になる。

  • この小説において"誤解"は重要なキーワードになるのではないかと思った。
    他者への誤解、または自分自身の心の誤解。
    語り手の焦点が定まっていないため、全登場人物の内面を覗き見ることができるが、皆なんらかの誤解をしながら物語が進んでいく。
    一方で、自分自身の心を素直に読み取れている人物もいる。しかし、それは貞淑な人妻への恋心…。
    純粋無垢な恋心は決して成就することはない。成就したところで、それは邪な関係性となり、信頼している人物を裏切ることになる。それは誰も望まないこと。
    登場人物の素直な恋心と自分の気持ちを誤解して受け取ってしまった恋心、それぞれ揺れ動く内面の描写がなんとも激しく、繊細であった。

  • 久しぶりに素敵な小説に出会えました。
    登場人物の心理描写を1人の語り部が優れた洞察力でもって豊かに表している
    中でも三角関係という泥々な恋愛シーンは殆ど少なく、主人公は2人の夫婦を丸ごと愛しているように思える所から思いやりに溢れるシーンがたくさんあり、癒された。
    クライマックスのセリユーズ夫人にマオが恋心を打ち明ける所は心を打たれるのであるが
    その手紙を読んだことによりフランソワが恋心をさらに確信してしまうという奸計も見逃せないロジカルな構成となっている。

  • 自分はこの作家のことは全然知らなくて、20歳で亡くなった後に、友人らの手によって発表されたのが今作らしく、日本の文壇にも衝撃を与えたようなのだが、実際はどんなもんなんだけー(方言)と思ったが、すげいよ。物語自体は社交界に属するある夫婦の話というだけだが、差し込まれるエピソード(外国の戦争とか、政治の話とか、人の立ち位置とか、緻密冷静わかり易く、どうやったらこんな10代の人間が誕生するのか怖。話→世間からも自分たちも、まぎれもなくおしどり夫婦と思われている二人が全く水と油のように親和しない様子が書かれる。

  • 三島由紀夫が愛読したことでも知られる、ラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』が古典新訳文庫から。つい『ドルヂェル伯の舞踏會』と書きたくなるのは、家にあるのが堀口大學訳の角川文庫だからかw
    既読は堀口大學訳なので、どうしてもそれと比較することになるのだが、随分と現代的な印象を受ける新訳だった。まぁ、堀口大學訳が初めて世に出たのは戦前、角川文庫ですら1950年代なので、現代的に感じて当たり前ではあるのだが。
    寧ろ興味深かったのは、実は過去の邦訳は全て、ラディゲの死後、代わって著者校に当たったコクトーをはじめとする友人たちが、原稿にかなり手を入れた形跡があること。古典新訳文庫版ではラディゲ本人が書いた最終稿を元にしており、そこが既訳との決定的な違いであるそうな。そういうこともあるんだなぁ。

  • 三年半ほど前、高校生のときに古書店で古い文庫を買って
    積んだまま読まずに〈引っ越し処分〉していたことを思い出し、
    反省しつつ光文社古典新訳文庫を購入。
    早熟・夭折の天才と言われるレーモン・ラディゲの(短めの)長編小説。

    1920年2月、パリ。
    高等遊民の一種である二十歳の青年フランソワ・ド・セリユーズは、
    社交界の花形アンヌ・ドルジェル伯爵およびマオ夫人と出会った。
    フランソワの友人で外交官のポール・ロバンも交えて
    サーカスを楽しんだり非合法のダンスホールで踊ったりして、
    彼らは親交を深めていった。
    フランソワは次第にマオ夫人に恋情を覚えるようになり、
    距離を取るべきか縮めるべきか思い悩む。
    一方、マオの心は……。

    享楽的な暮らしを送る、
    20世紀になっても貴族としての特権意識を失わない伯爵と
    控え目な妻の間に、
    上品だが物怖じしない青年が割って入るという
    三角関係の物語。
    フランソワはマザコンであることを自覚し、
    母から精神的に自立するには一人前の男として
    誰か特定の女を愛す必要があると考え、
    最良の相手がマオ・ドルジェルだと思い至る。

    それは恋ではないと思うが(笑)。

    一方、マオは名家の出で、
    若くして伯爵夫人となったため、
    一般的な意味での社会経験に乏しい女性で、
    夫の庇護下で安閑と暮らしていることに
    引け目を感じていたかもしれない。
    そんな彼女が――『肉体の悪魔』の人妻マルト・グランジエとは違って
    ――実際に不貞を働くわけではないけれども、
    不意に現れた気品のある――しかし、
    実は内面はウジウジ、グシャグシャしている――青年に
    心を動かされ、思い悩むという話。
    彼女は秘密を抱え込んでいられず、
    自分と彼を引き離してくれとフランソワの母に手紙を書き、
    遂には夫にも心情を告白してしまう。
    面白いのはエンディングでの夫のリアクション。
    彼はあくまで妻を籠の中の鳥のように愛で続ける意思を翻さず、
    結果、彼女の心は
    現状以上にフランソワへ傾くことはないとしても、
    夫との間には、
    さながら一枚の紗幕が掛かったかのような距離感が
    生じてしまうのだった。
    マオにもっとバイタリティや図々しさがあれば、
    苦労を承知で自由を求めて外へ飛び出す、
    イプセン『人形の家』のノラのようになれたのだろうか。

    仮装舞踏会は準備すら中途半端で、
    一同はこれから改めて各々の役回りを定め、
    それに従って上辺だけは楽しそうに、
    力尽きて倒れるまで踊り続けるのだろう。

  • 20歳の若さで夭折したラディゲの死後に出版されたもの。これまで出回っていたものは生前、ラディゲが師と慕っていたジャン・コクトーらによってかなり手直しがされたものだっととのこと。こちらは、ラディゲが私家版として限定数で発行した本人の手による最終稿をもとに出版されているということ。ラストの解釈が難しいが、解説によるとこの小説にはいろんな読み方があるんだなと思った。10代の書く文章ではないなぁと思うくらいに洗練されている。

  • フランス貴族の生活はなじみのないものなので、優雅で現実離れした様子は想像を掻き立てられる楽しい描写だった。何かにつけて自分の行動の意味や原因の詮索、正当化などをするのは、生活に余裕がある人々の常套手段で、時代も場所もなく連綿と繰り返される習慣なのだと思った。一番いいと思ったのはアンヌの人物像。浅薄な人物で世間並みのことしか考えられない社交会人間として描かれているが、そんなつまらない器の男に私には思えなかった。特に最後の二ページのアンヌは秀逸としか言いようがない。マオの言っていることは本来彼を少なからず動揺させるはずだったのに、それを聞いた途端取り繕う方法を思案している彼は、むしろ冷静沈着ともいえるではないか。期待と異なる反応を占めす異星人のようである。価値観が異なるとどのような悲劇的結末を迎えるかを端的に描写したシーンで一番好きな部分だった。
    この描写を読んで思いだしたのは、齟齬が生じるときは決まってどちらかがより迷惑をこうむっているのではないかということだ。アンヌはマオがショックを受けてるなど毛頭思いも及ばないのだから、マオ一人が心を痛めているだけにすぎない。二人の成就しない願いとか、悲劇的別れとかはよくある話だが、ある意味彼ら彼女らは同じ思いを共有することにおいてはこれ以上ないほどの成功を収めている。こういう作品は悲劇であると同時に喜劇でもあるのだ(もしこんなことを帝国劇場の前などで言おうものなら、ロミオとジュリエットのファンに軽侮されるのだろうが)。つまるところ最もみじめで残酷なのは、マオとアンヌのように二者の感情が同じベクトルではなく、ねじれの位置になっている時なのだと私は思う。

  • それぞれの登場人物の行為を、全てお見通しの第三者が説明して描く方法。
    読み始めて、全く興味を惹かれない。

    Wikipediaに三島由紀夫が『美徳のよろめき』を書くときに参考にしたと書いてあった。
    マオもフランソワも自身では説明できない心理を、全てお見通しの第三者がずーっと説明していくところを参考にしたんだろう。

    その第三者が、いかにも分かったように説明するが、その心の説明は本当なのだろうか?
    一人称で自分の心情を語る時も、その語りが本当かどうかは分からない。
    心の本当の説明なんて、分からない。

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