- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784334782252
作品紹介・あらすじ
岡林信康『手紙』、赤い鳥『竹田の子守唄』、泉谷しげる『戦争小唄』、高田渡『自衛隊に入ろう』…。これらの歌は、なぜ放送されなくなったのか?その「放送しない」判断の根拠は?規制したのは誰なのか?著者は、歌手、テレビ局、民放連、部落解放同盟へとインタビューを重ね、闇に消えた放送禁止歌の謎に迫った。感動の名著、待望の文庫化。
感想・レビュー・書評
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本のタイトルだけ見れば、放送禁止になった歌を集めた解説本だと勘違いされる方もいるだろうけれど、これは1999年5月23日の深夜に放送されたドキュメンタリー番組「放送禁止歌」の制作過程を追ったノンフィクション作品になっている。
著者の森達也氏はこの番組のディレクターだった人(僕はオウムを扱ったドキュメント番組絡みでこの人の名前だけは知っていた)。
日本には法的に規制された「放送禁止歌」は存在しない、ということは実は知っていた。
ある程度の規範が示され、それに伴う各メディアの自主規制によって、いわゆる「放送禁止歌」が生まれてくる、ということも知っていた。
ただ、表面的に知っていただけであり、本書を読むまで全く知らなかったことが実に多く、本当に目からウロコの読書体験にもなった。
本書を読んでいると、「え、冗談でしょ?」なんて理由で放送を自粛するケースが結構ある。
本当かどうかはわからないが(ネットで検索すると「本当にあった」らしい)、例えば「ブラック・サバス」という名前のバンドの曲が全て放送自粛になった。
理由は「ブラック・サバスという言葉の響きが部落差別に似ている」から。
北島三郎のとある曲に「キュッ、キュッ、キュッ」という合いの手が入るが、これも放送自粛となった。
理由は「このキュッ、キュッ、キュッという音がベッドのきしむ音を連想させる」から。
この曲の詩の前後をどう読んでも、ベッドのきしむ音を連想させる内容は一切出てこないにも関わらず。
勿論、「ああ、これはちょっと公共の電波に乗せるのはまずいかな」という内容の曲もあるが、殆どが「とにかくちょっとでもクレームがありそうな箇所があったら自粛しちゃえ」というやり方のように思える。
あるいは、自分たちの頭で何も考えずに機械的に自粛してしまう。
自粛する方は楽だろうけれど、された方はたまらない(実際に歌手生活を絶たれたアーティストもいるし)。
とまぁ、読んでいるうちに腹が立ってくることにもなるのだけれど、本書のメインはもっと違ったところにあったように思う。
始めにドキュメンタリー番組の制作過程を追った作品、と書いたけれど、メインは「竹田の子守唄」を軸とした被差別部落の問題提起なのだろうな、と僕は解釈した。
被差別部落に対する知識は全く持ち合わせていないし、(差別された)経験も、(差別した)経験も(多分)ないし、非常に微妙で注意を要する問題だと想像できるので、ここでこの問題云々を書くことは出来ない。
ただ、「差別」ということに対して、色々と自問し、考えを巡らさざるを得ない状態に陥ってしまったことは事実だ。
僕は本当に差別をしてこなかったのか?
知らないうちに差別をしてきたのではないのか?
ここでいう差別とは部落問題のことだけではなく、大きなところではナショナリズムが絡んでくる差別や、小さなところではほんの些細な優越感が生み出す他人を見下すような態度も含む。
そう考えてくると、はたして自分は差別を一切行ってこなかったのだろうか、といった自問に対して自信を持って答えることは出来なくなってしまう。
そして、そう考えてくると、前出の「冗談のような理由で自粛を決定してきた」人々を、果して僕は笑えるのか、という疑問にも直面する。
著者の森氏は、無自覚に自粛しているメディアに憤りを覚えながらも、自分自身もメディアの人間であることにジレンマを抱えている。
そして本書を読む方の僕も、読み終えた後にすっきりとしないモヤモヤを抱えている。
人間って何だろうねぇ……。
後書きを読むと「アジール」という単語が出てくる。
「聖域。自由領域。避難場所」(森氏は「異界・外界」としている)という意味の言葉で、あまりなじみがないのでご存知ない方も多いと思う。
僕は日本のロック・バンド「ソウル・フラワー・モノノケ・サミット」のアルバム「アジール・チンドン」でこの言葉は知っていた。
この「アジール・チンドン」には、赤い鳥ヴァージョンの「竹田の子守唄」が収録されている。
また、同バンドの「デラシネ・チンドン」というアルバムには、「竹田の子守唄」の元唄となった「竹田こいこい節」「竹田の子守唄(元唄)」が収録されている。
これら元唄も、赤い鳥ヴァージョンに負けないくらいに胸にしみてくる。
ちなみに「デラシネ」とはフランス語で「根なし草。祖国を失った人。故郷から疎外された人」という意味。
いずれにしても、非常に複雑な読後感を味わうことになった作品だった。 -
放送禁止歌はまことしやかに言われて来た事で、子供の頃から様々な曲が放送禁止になっていると耳に入ってきたものでありました。最も昔に聴いたのは「キンタの大冒険」と「お万の方」の2曲でしたが、これに関してはそりゃそうだろうとしか思わなかったし、むしろ聞きたくなるためのスパイス位に思っていました。
それなりの年になった時に「イムジン河」という発売禁止だった曲が改めてリリースされてニュースになった時、何とも言えない違和感を感じたものでした。
自分もギターを弾くようになって、過去のフォークを勉強する時に沢山の放送禁止曲が有る事を知りました。放送禁止になりそうな体制批判や過激な内容。性的な内容など分かりやすいものの中に「なぜ」と思わせる曲が混ざっている事を不思議に思っていました。
この本で森さんは放送禁止をする大きな権力と戦うつもりでありましたが、そもそも放送禁止歌というものはなく、「要注意歌謡指定」というガイドラインがあっただけで罰則は無かったし、1983年を最後に自然消滅しているとの事でした。
これは何を意味しているかというと、見えない何かに配慮して放送自粛した挙句、その相手は既に消滅して存在していなかった。これって物凄く怖い話だと思います。
他の事に関しても、誰も困らない慣例になっている禁止事項に関しても、そういった忖度で永遠に禁止し続ける事があり得るという事です。
何とも虚しく、無限に怖い話です。 -
●こんなに放送禁止歌があるとは驚く。
●見えない何かを追い続けて、それは自分の中にいたというような…
●忖度の自主規制が膨大な禁止事項を生み出す。そこには中心はない。
●難しい問題だけど、向き合って、考えていくしかないんだよね。ガイドラインは思考を停止できるから楽だけど、やっぱり頼ってしまったらダメ。表現者、ジャーナリズムなら尚更。 -
キッカケは紅白歌合戦で「ヨイトマケの唄」が放送されたこと。
放送禁止=発禁と思っていたのだが・・・・・・
放送禁止歌とは、放送に使用する適否=取扱に注意を要する音楽である。放送各社の自主規制のもとで、一覧表が作成されたようだ。発売禁止(レコ倫)とは別である。自主規制の根拠についは、あいまいなまま指定され、(関係者間では)異議を誰も考えようとしないまま、受け継がれていた。何と刹那的であり、これほど不条理なことが、放送の世界では行われてきた。現代では自主規制は無いし、一覧表の効力は無いが、根底にある規制という幻想は続いているのだろう。
放送禁止に関する、日本と米国の見方の違いが、語られている。日本では横並び(決まりは業界で作る)だが、米国では個人(自分の判断)を単位としているようだ。
あらためて「竹田の子守唄」を聞いてみる。
私は東の人で、感覚が分からないのかもしれないが、ココロに響く音楽だと思う。紙ふうせんの歌では、背景を意識しすぎていると思う。 -
早朝に一気読み。
256頁の文庫本を、本当に、一息に。
目からウロコ。
そして、ちょっと涙。
ドキュメンタリーフィルム作家である森氏の本を読んだのは、
これが三冊目。
何だかどんどん好きになってしまう。
人間的な魅力を大いに感じます。 -
8歳下の森達也が心の奥の小さな炎に燃料をくれた。こんな人だろうとは思っていたがそれ以上だった。
岡林の声が聞きたかった!
Spotifyで岡林の「手紙」や「チューリップのアップリケ」を聴きながら。 -
図書館より。
放送禁止用語の存在は知っていましたが、放送禁止歌の存在はこの本のタイトルを知るまで知りませんでした。なんとなく知っていたのはイラク戦争時アメリカでイマジンが流れなくなったくらいです。
この本で取り上げられる放送禁止歌は部落差別を背景としたものが多いです。著者の森達也さんは自分は東日本育ちで西日本の部落差別文化は知らないから、このテーマを取り上げることはどうかと思った、と書かれているのですが、京都出身、京都育ちの自分も全く知らなかったことがたくさんあり、自分の住んでる地域の近くの地名も出てきたのが衝撃でした。
思い返すと部落差別がいまだに存在していると知ったのは、大学に入ってからでした。小・中・高と京都の公立学校でしたが、同和教育は全く覚えがありません(あったのかもしれないですが、ことさら強調されていなかったのは事実だと思います)。
よく言えばフラットに相手を見れるということでもあるかもしれないですが、知らない弊害も多いと思います。そしてそれは表現する側のメディアには、さらに強く言えることだと思います。この本で森さんが明らかにしていったのは、放送禁止歌というメディア関係者の恐れや怠惰が生んだ幻の存在であったように思います。
何年か前、紅白歌合戦で三輪明宏さんが『ヨイトマケの唄』を歌ってられました。少しずつメディアに表現する勇気や覚悟を持ってほしい、そうすれば視聴者も自然とついてくる、そう思います。
どこまで触れるかというのは確かに難しいことではあるに違いありません。でも、表現者である以上、触れにくい問題を避けて通るのではなく、どこまで表現できるのか、なぜ表現するのか、なぜ表現しなければならないのか、そう考えることはきっと必要なのだと思います。
あとこの本で著者の森さんとデーブ・スペクターさんの対話が載っているのですが、いい意味でデーブの印象が変わりました(笑)