2016年の週刊文春

著者 :
  • 光文社
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  • Amazon.co.jp ・本 (528ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334952143

感想・レビュー・書評

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  • 【感想】
    わたしが週刊文春のことを「すげえなこの会社……」と思ったのは、2021年8月8日の電子版に掲載された、『幻の“MIKIKOチーム版”五輪開会式を完全再現!』を読んだときだった。
    当初、東京オリンピックの開会式の演出を担当するのは女性演出家のMIKIKO氏であったが、直前で佐々木宏氏に交代する。ほぼ完成していたMIKIKO氏案を白紙に戻し、代わりに挙げられたのは渡辺直美を豚に見立てるといったお寒いプラン。かねてから組織委員会は人選を巡って燃えていたこともあり、今回の交代騒動も同様に炎上、佐々木氏は辞任に追い込まれた。
    そんな中、文春はお蔵入りとなったMIKIKO案を入手し、デジタル紙面上で「幻の開会式」を完全再現してしまったのだ。(https://bunshun.jp/denshiban/articles/b1486)そのクオリティの高さと記事にかける熱量の大きさを目の当たりにして、「週刊誌ってここまでやるものなのか」、と驚愕してしまった。

    本書は、伝説の編集長である花田紀凱と新谷学に強くスポットを当てながら、月刊誌『文藝春秋』の100年と週刊誌『週刊文春』の60年を振り返る一冊である。前2誌を含む文芸春秋社の各雑誌の創刊秘話や、世間を騒がせたスクープの裏話など、まさに「文藝春秋の全史」が詰まった超大作となっている。

    本書では1923年の『文藝春秋』の創刊から同社の歴史を紐解いていくのだが、タイトルには「2016年の」週刊文春とある。なぜ2016年をメインにしているのかというと、この年週刊文春はベッキー&川谷のゲス不倫や甘利大臣秘書官の賄賂事件といったビッグニュースを立て続けに掲載し、「センテンススプリング」「文春砲」といった新たなワードをネットで流行させたからだ。

    2016年に編集長をしていた新谷学は、文春が注目され続ける理由を「愚直に『スクープ』を狙っているからだ」と語っている。
    週刊誌は時代の移り代わりに翻弄されるメディアだ。スマートフォンの普及で無料ニュースが増加し、人々は雑誌を買わなくなった。またSNSの発達により、「バズリ」や「炎上」といった世間の注目を集める現象が、ネット中心に起こるようになった。デジタル時代において、週刊誌はスピードと話題性で太刀打ちできなくなったのだ。
    そんな中、週刊文春はクレディビリティ(信頼性)を徹底的に重視し、人脈によりスクープネタをかき集めていく。スピードはSNSと比べて遅々たるものだが、記事を掲載したときの爆発力と影響の大きさは凄まじく、何人もの大物をクビにしてきた。
    一方で、文春以外のメディアはスクープの土俵から降りはじめている。個人情報の重要性が高まり、訴訟リスクも増大している今、一度訴えを起こされて負けたら1000万円を超える賠償金を命じられるケースが増えている。そのため、訴訟リスクを背負ってまでスクープを上げようとする気概のあるメディアが、テレビだろうと新聞だろうと減ってきているのだ。

    週刊誌は、正直いえば少しおじさん・おばさん臭い。載っている内容は有名人のゴシップや下世話な恋愛話であり、水着グラビアや袋とじヌードといった下品なイメージもある。今の10代の層は、「週刊誌」と聞いてポジティブなイメージは抱かないだろう。
    しかしながら、「週刊文春といえばあのとんでもない暴露雑誌」と言う認識が、老若男女まで浸透したのである。このSNS全盛期においてだ。これはとんでもない革命だと思う。2016年の週刊文春は今までの価値観を一新し、「お金を払って購読する価値のあるメディア」という印象を、大衆にブランディングしたのである。

    525ページという大作だが、面白すぎてあっという間に読んでしまった。本当におすすめの一冊だ。

    ―――――――――――――――――――――――――
    【まとめ】
    0 まえがき
    2015年の週刊文春は苦しかった。スクープがなかなか取れず、返品率がジリジリとあがっていた。編集長の新谷学は、紙媒体の売れ行きの減少から週刊文春デジタルの立ち上げに携わるが、なかなか軌道に乗れない。
    10月、新谷は社長の松井から3ヶ月の休養を命じられる。新谷が手掛けた直近の記事は、部数の減少から明らかにブレーキが効いていなかった。上層部は新谷を休ませたほうがいいと判断したのだ。
    事実上の謹慎を命じられた新谷は、かつての週刊文春編集長、花田紀凱に電話を入れた。


    1 週刊文春の誕生
    月刊『文藝春秋』は、大正12(1923)年1月に創刊された。発行部数わずか3,000。定価10銭は当時としても破格の安さだった。発行所である文藝春秋社の住所は小石川区林町。作家・菊池寛の自宅である。

    文藝春秋の新しさは主に四点にまとめられる。
    一つ目は、作家や評論家ばかりでなく、学者や科学者、実業家、政治家、軍人など、あらゆる人々に随筆を書かせたことだ。世の中にはおもしろい話を持っているにもかかわらず、自分では書けない、書かない人がいる。その人のもとにでかけていき、記者が話を聞いて原稿をまとめる。その結果、誰もが気軽に自由に、自分の考えを発表することが可能になった。
    二つ目は、座談会という形式を作り出したことである。
    三つ目は、四段組を始めたことである。企画内容によって活字の大きさを変えることで、読みやすくするという狙いがあった。
    最後は、芥川賞と直木賞を作り、作家や評論家に活躍の機会を与えたことだ。

    文藝春秋が記事にする範囲はとても広い。「中央公論」や「改造」がインテリ向けなのに対し、『文藝春秋』は誰もが理解でき興味を持てる記事を掲載したため、より多くの読者を獲得することができたのだ。

    その後太平洋戦争と日本の敗戦を経験した文藝春秋は、戦中の右翼思想台頭と、敗戦による左翼思想の躍進という世論の動乱を経験することになる。雑誌はその特性上、世論に対してオピニオンを発信する媒体にならざるを得ない。自社の論調も右と左の間で揉まれることになる。
    ただし、文藝春秋のスタンスはあくまで「イデオロギー中立」だった。戦前、戦中という時代を東京裁判史観や左翼イデオロギーによって断罪するのではなく、私たちの歴史の一部として当事者に語らしめようとする「文藝春秋」の姿勢は一般大衆に大きな支持を得た。わずか7万部程度から再スタートした戦後の「文藝春秋」は、数年を経ずして50万部を超え、国民雑誌と呼ばれるようになった。

    文藝春秋初の週刊誌「週刊文春」が発行されたのは1959年4月9日である。
    当時、週刊誌といえば「週刊朝日」や「サンデー毎日」など、新聞社が発行するのが一般的だった。新聞社は自前の取材網と輪転機を持っていたため、毎週記事を提供できるだけの体力があったからだ。ここに雑誌社初の週刊誌である「週刊新潮」が参入する。金と女と名誉、すなわち人間の欲望を中心テーマに据え、新聞記者を遥かに凌駕する圧倒的な取材力と巧みな文章力によって『週刊新潮』は読者の心をつかみ、『週刊朝日』その他の新聞社系週刊誌をたちまち抜き去ってしまった。

    「週刊文春」も部数を順調に伸ばし、1962年新年合併号の発行部数はついに100万の大台に乗った。それでも「週刊新潮」には発行部数でも取材力でも文章力でも、すべての面で敵わなかった。

    月刊「文藝春秋」ならば、作家や評論家とのつき合いの中で同原稿を依頼すればいいが、「週刊文春」は違う。自分で取材をして、自分で原稿を書かないといけない。読者が求めるならば、あさま山荘の銃撃戦も、有名タレントの結婚も、連続強姦殺人事件も追わなくてはならない。「週刊文春」の創刊によって、文藝春秋の古き良き時代は終わったのである。

    1997年4月に本誌編集長から週刊文春編集長へと異動した田中健五は、「日本の週刊誌にはクレディビリティ(信頼性)がない」と感じていた。13年前の夏、田中健五は「TIME」ワールドの編集部を見学している。アメリカを代表する週刊誌は、正確性、客観性の高い記事を掲載し、多くの読者から信頼を得ている。
    翻って日本の週刊誌はどうか。モラルに乏しく、思想もなく、働きづめのサラリーマンの束の間の娯楽として、主観的かつ感情的な記事を書き散らしているだけではないのか?「週刊文春」を「TIME」のような信頼できる雑誌にしよう。そう決意した田中健五は、表紙を一新。エロを少なく、テーマはやや重めに変えた。それがゆえに、人間の欲望を正確に捉えて記事にする、ライバルの週刊新潮には手も足も出なかったのだ。


    2 花田紀凱の抜擢
    1988年7月、花田紀凱が週刊文春の編集長に抜擢される。
    花田紀凱がそれまでの編集長と決定的に異なる点は四つある。
    一つ目は、雑誌が圧倒的に好きなことだ。雑誌づくりは最高におもしろい。好きな雑誌を、隅から隅まで自分の思い通りに作りたい。それができるのは編集長だけで、だからこそ花田は編集長になりたかったのだ。社会的地位や社内での出世など、最初から考慮の外にある。部下の能力が低くても、取材がうまくいかなくても、花田が責めることはない。だからといって、部下がやる気をなくすことは決してない。雑誌はおもしろい。おもしろい雑誌をみんなで作ろう。全身でそう言っている編集長がいれば、編集部員の土気が上がるのは当然だろう。

    花田がこれまでの編集長と異なる点の二つ目は、都会的な雰囲気があり、広い分野に関心を持っていることだ。花田紀凱のように映画にも音楽にも造詣が深く、 「LIFE」「宝島」「POPEYE」「BRUTUS」などの雑誌のバックナンバーを全巻揃え、話題になればマンガも読み、芝居も行き、写真展までフォローするという人間はまずいない。

    異なる点の三つめは、タイトルをつけるセンスが、歴代編集長の中でもずば抜けて優れていたことだ。
    タイトルをつけるときに重要なことは五つある、と花田は言う。
    ①覚えやすいこと
    ②個性的なこと
    ③簡潔なこと
    ④他と容易に区別できること
    ⑤声に出して読んで響きがいいこと
    花田紀凱がつけるタイトルには、この五原則が見事に表現されており、かつギリギリのところで下品にならない。

    異なる点の四つめはカリスマ性があったことだ。筆者でも編集者でも、花田は力のある人物を見抜き、気持ちよくさせ、一生懸命にさせてしまう力があった。

    花田紀凱が編集長になって最初の半年間で、つまり1988年下半期の平均実売部数は55万7,332部。30年間のライバルであった週刊新潮をついに抜き去った。1991年下半期には68万3,529部となり、週刊新潮に約16万部もの大差をつけたばかりでなく、「週刊ポスト」を抜いて総合週刊誌五誌のトップに立った。女性読者を重視し、楽しく笑える記事をつくり、スクープを狙う。その社風が実を結んだ結果だった。

    花田週刊はさらなる快進撃を続けていく。「野獣に人権はない」という言葉で有名となった、「女子高生コンクリート詰め殺人事件」での加害者実名報道。土井たか子率いる社会党とパチンコ業界および朝鮮総連との癒着報道。オウム真理教信者による坂本弁護士一家失踪事件。
    恐るべき朝鮮総連やオウム真理教にも決して屈することなく、法律があるからと思考停止することもなく、正しいと信じたことを勇気を持って主張し、それでいて童話や子供向けの文章にも感動する柔らかい心の持ち主。都会的で明るく、それでいてわずかに孤独の影がある。時に行動は謎に包まれ、雑誌編集者という仕事を心から愛し、身体を張って部下を守る。花田紀凱はそういう男だった。


    3 花田週刊の失墜
    1991年、文藝春秋は過去最高の活況ぶりであり、「マルコポーロ」「サンタクロース」「ノーサイド」の三誌の同時創刊を予定していた。結果として、この決断が好調だった文藝春秋の足元を揺るがすことになる。
    怒涛の三誌同時創刊、を打ち出して大宣伝をかけたものの、売り上げはいずれも不振を極め、文萎春秋始まって以来の大失敗となってしまう。翌1992年はバブル崩壊によって雑誌広告が急速に減少に転じ、状況はさらに悪くなった。
    花田紀凱編集長体制の「週刊文春」がついに平均実売部数76万部に達した1993年4月、田中健五社長はかつてないほど大規模な人事異動を行った。第一編集局長の堤堯を出版総局長へ。出版総局長の新井信を広告局長へ。広告局長の酒井信光を第一編集局長へ。雑誌、広告、出版の総費任者のポジションを総取っ替えしたのだ。

    1994年春、田中健五社長は大きな決断をする。平均実売部数が4万部に満たない「マルコポーロ」を大きく浮上させるためには、花田紀凱を編集長に据えるしかないと考えたのだ。

    波乱含みで新生「マルコポーロ」がスタートした直後、新たに設楽敦生を編集長に迎え入れた「週刊文春」で大きなトラブルが起こる。JR東日本の最大の労働組合であるJR東労組(東日本旅客鉄道労働一組合)の松崎明委員長が、じつは革マル派の最高幹部であり、革マル派は労働組合を支配するばかりかJR東日本の経営権にまで介入しているという記事を掲載したのだ。
    これにJR東日本は激怒。鉄道弘済会に働きかけ、株式会社文藝春秋との販売契約を解除させ、管内にあるキヨスクでの販売をストップ。電車内の中吊り広告の掲出も拒否した。90万部の売上のうちの11万部の販売ルートが断たれる危機に陥った。(後に以前の半分の部数で取引を再開することで合意)

    そしてさらなる大事件が1995年2月号で起こる。「第二次世界大戦におけるホロコーストは存在しなかった」という記事を掲載したのだ。
    この記事に人権団体とイスラエル大使館が猛抗議。マルコポーロに広告を載せている企業に対して、文藝春秋への広告掲載を中止することを強く要請したのである。
    事態を重く見た株式会社文藝春秋は本誌に謝罪社告を掲載。編集長の花田紀凱は「戦後史企画室」という実態のない部署に異動させられた。

    1996年1月12日、花田紀凱は28年勤めた株式会社文藝春秋に辞表を出し、強く誘われた朝日新聞に移った。2月末には勝谷誠彦も社を去った。

    勝田「文春はオーナー社長のいない共和国。でも、共和国だからこそ、同僚が失敗すると、必ず足を引っ張ろうとする人間が出てくる。そいつが下がれば自分が上がるから。新聞に叩かれてもどうってことはないけど、社内で後ろから撃たれるのは本当につらい。花田さんが辞めた時に、文藝春秋は死んだと思った。この人を追い出すようじゃもうダメだ、と俺は会社に見切りをつけた」。


    4 新谷新編集長
    マルコポーロの廃刊が決まってすぐの1995年3月、新谷学は週刊文春編集部に配属される。

    「(新谷は)編集者としても能力が高いと思うんですが、一番驚異だったのは取材者、記者としての能カでしたね。要するに人脈。『新谷くん以外には会わへん、話さへん』というタマを山ほど持っとるわけです。そこまで落とし切っている。人間関係をズブズブにしてしまう力、人に可愛がられるカがとんでもない。花田(紀凱)さんは雑誌づくりの天才。でも、人脈を情報に変えてしまう能力に関しては、新谷さんが圧倒的に上じゃないでしょうか」
    そう西岡は語る。

    「人脈を情報に変える力」として象徴的な出来事がある。小泉内閣発足から田中真紀子外務大臣罷免までの一連のスクープだ。わずか9カ月の出来事だったが、その間に新谷は、新聞記者から小泉首相の側近中の側近である飯島勲を紹介してもらうと、たちまち飯島を口説き落として現役の総理大臣を週刊誌に初登場させて大きな話題を呼んだばかりでなく、さらに外相罷免によって内閣の支持率が低下すると、小泉首相に代わって飯島秘書官に罷免の正当性を主張させる記事まで作ってしまった。

    「俺のモットーは、 『親しき仲にもスキャンダル』。友達でもネタ元でも何かあれば書くよ、と。情に流されやすくて、誰とでもすぐに仲良くなってしまう自分への戒めもこめています」
    「良い人間の悪いところを突いたり、逆に悪い人間のいい部分に光を当てたりしながら、愚かさ、恐ろしさ、浅ましさ、美しさ、面白さ、そのすべてを持つ人間の営みをエンターテインメントとして読者にお届けするのが『週刊文春』だと思っています。人間は人間からしか学べないから」(新谷学)

    権力の監視者を標榜しつつも、実際には極端に臆病で従順なのが日本の新聞やテレビだ。諸外国とは異なり、日本の新聞社とテレビ局は資本関係でつながる異常な構造を持つ。読売新聞と日本テレビ、朝日新聞とテレビ朝日。テレビ局は許認可事業であり、規制に弱いのは当然だ。政治記者は政治家に食い込み、同様に芸能記者は芸能事務所に食い込み、様々な形で便宜を図ってもらううちに、いつのまにか取り込まれ、何も言えなくなる。権力者は、自分にとって都合のいい情報だけを発信し、都合の悪い情報は徹底的に隠す。だからこそ不都合な真実を伝える週刊誌、特にタブーを恐れない「週刊文春」は権力者からはことさらに危険視され、敵視され、忌避されるのだ。

    週刊文春は相次ぐ訴訟を受けながらも攻めの姿勢を崩さなかった。大島農水相、NHKの海老沢会長、朝日新聞の箱島社長など、有力者たちをスクープにより次々と辞任に追い込む。他社の記者たちは新谷班を「殺しの軍団」と呼んでいた。


    5 2016年の週刊文春
    2012年3月、新谷学は週刊文春編集長に就任した。
    しかし、雑誌を取り巻く情勢は悪くなる一方だった。広告費の激減、訴訟の増加、書店の相次ぐ倒産、スマートフォンの普及による無料ニュースの増加および新聞・雑誌読者の激減。週刊文春は2010年以降、半期ごとの平均実売部数が50万部を上回ることはなく、なおジリジリと部数を減らし続けた。

    社上層部のデジタル化への反発や「春画事件」といった内部の問題が重なり、新谷は3ヶ月の休養を命じられる。再び戻ったのは2016年1月3日。戻った新谷は編集部員にこう告げた。
    「過酷な戦いをしているみんなを置き去りにしたまま戦線を離脱してしまって本当に申し訳なかった。俺もこの三カ月でいろいろ考えた。ウチの最大の強みは何か。新潮にも朝日にもNHKにも絶対に真似できない得意技、必殺技、価値を生み出すものは何か。それはやっぱりスクープだ。世の中をあっと言わせるようなスクープを取りまくって、毎週のように出しまくっていれば、風景は必ず変わる。俺は業界では狂犬と呼ばれているらしい。何にでも噛みつくからだそうだ。『週刊文春』はいままで以上にスクープを狙いにいく。ただし、噛みつく相手と噛みつき方は俺がしっかり考えるから」

    復帰明けの新谷が最初に作ったのは1月14日号。内容はベッキーとゲス川谷の不倫騒動だった。「センテンススプリング」流行のきっかけである。
    続く1月28日号では甘利大臣の秘書官が建設会社から賄賂を受け取っていたことをすっぱ抜く。文春砲という言葉がインターネット上で頻繁に使われるようになったのはこの頃からだった。

    新谷「『スクープをとるのが俺たちの仕事だ』と現場の記者はみんな思っている。そう思って取材しているし、現場に行っている。いまここまで愚直に『スクープ』を狙っているメディアはあまりないように思います。新聞でもテレピでもスクープの土俵から降りはじめているような気がする」。
    新谷学の週刊文春編集長としての長年にわたる努力は、この時にひとつ報われたといっていいかもしれない。

    実際のところ、2016年の週刊文春とは何だったのだろう?
    「ひとことでいえばブランディングです」と新谷学は言う。
    「雑誌読者ばかりでなく、日本全国津々浦々まで、『週刊文春』からはとっておきのスクープがじゃんじゃん出てくる、お金を払う価値があるメディアだよね、というイメージが浸透した。それが2016年だったと思います。この不正は許せない、どこかに告発したいと誰かが考えた時に、真っ先に思い浮かぶメディアが『週刊文春』にならないといけない。俺はずっとそう思っていました。『週刊文春』なら腕は確かだし、リスクを取ってでも、どんな強い相手でも戦ってくれると告発者に思ってもらえれば、情報提供の量は飛躍的に増える。実際に文春リークスへの投稿は2016年以降、大幅に増えました。

    これからの文藝春秋は、雑誌社からオンラインと書籍出版社へと変わろうとしている。
    その歩みが本格的に始まったのが、「2016年の週刊文春」だったのだ。

  • 週刊文春を中心に、文藝春秋社の編集部の歴史を花田紀凱、新谷学という二人の編集者を軸に、多くのインタビューを経て洗い出していく。

    タイトルにもなっている2016年の文春砲と言われる契機になったスクープが印象深いものの、紐解いていけば、疑惑の銃弾やら佐村河内やらもあるし、江川紹子を早々に活用しているなど、色々と興味深い。また甘利金銭スキャンダルなど政治を動かすスクープも出ているというのを改めて感じた。

    花田紀凱も概要的には知っていたが、文藝春秋社での動向が詳しくあり、興味深い。Emmaもあったのは知っていたけど、三浦百恵のエッセイがあったとは?とちょっとびっくりした。

    各雑誌の方向性、週刊文春の中でもそれぞれの班の個性や特徴もおもしろく読めた。そして雑誌の出版が減っていく中、以下にデジタルと結びつくのかという点で、文春砲を契機に週刊文春のブランディングができたことで、可能性が見えてきているというところも、デジタルへの舵きりを余儀なくされている中の方向性という点で興味深かった。

    内部出身の方なので、より深い話を持つことができる反面、評価しすぎな感じもするが、様々な証言をもとにしたことでのリアルな現場の感じがあって、のめり込んで読めた一冊だった。

  • ・昭和、平成から令和にかけて、日本の出来事が文春の歴史とともに振り返えられる。
    ・花田、新谷という世代を超えた2人の編集長の仕事様
    ・野獣に人権なし、最悪事件の実名報道に踏み切る判断
    ・紙雑誌の衰退にともない、デジタルによるコンテンツビジネスの多角化を狙う
    ・仕事が好きな編集長2人の熱い仕事様
    ・テレビや新聞では報道できないことを文春が取り上げる、スクープを毎週連発することで違った景色がみえてくる。
    ・少年Aの直撃取材でみえた反省のない反応。

  • 文藝春秋の3年異動人事は『文藝春秋』編集長というたったひとりのオールマイティプレイヤーを生み出すためのもの | 日刊大衆
    https://taishu.jp/articles/-/93453?page=1

    2016年の週刊文春 柳澤健 | ノンフィクション、学芸 | 光文社
    https://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334952143

  • 非常に面白かった。文藝春秋の歴史と週刊文春の歴史が一望できる本であり、文春砲などのスクープがなぜ生み出されるのかわかる本だった。

  • 信条は「親しき仲にもスキャンダル」。現在の文春天下(?)に導いた新谷氏ら歴代の剛腕編集長を軸に、文春と週刊誌メディアの時代変遷を、これまたOBの柳澤健氏が綿密に濃厚に綴る。新聞・テレビが今や辿り着け無い取材力と(良くも悪くも)忖度しない公開姿勢。彼等にもまた誇りがある。

  • 週刊誌から『スクープ力』が失われている。かつて、吉本興業創業家 vs 現経営陣の双方が週刊誌〈週刊新潮と週刊現代〉を介し、暴露合戦をするという異例の展開が繰り広げられた。怪芸人中田カウスが暗躍したあの一連のお家騒動。あれは2007年のこと。

    今思えば、まだまだ週刊誌が週刊誌然としていた。それが今や現代やポストはスクープに背中を向け、シニアシルバー層向けの読み物が中心となり、週刊朝日は佐野眞一による橋下徹の出自記事掲載陳謝事件以降、牙を抜かれてしまい現在に至る。

    ネット台頭による販売部数の低下は取材費を直撃。週刊誌が本来持つ『深く掘り報ずる−詳報性』を放逐してしまった中でひとり気を吐く週刊文春。まさに太平洋ひとりぼっち状態と言ったら新潮は気を悪くするか−。

    その週刊文春。近年、政治家の金銭スキャンダルやタレントの醜聞スクープを連発。それを指して『文春砲』はまさに言い得て妙。この呼称、元々AKB48のファンの間で使われており、指原莉乃らのスキャンダルを文春が報じたことからネット上で付いたことに由来する。

    このは旺盛なスクープは今に始まったわけでなく'84年 三浦和義『疑惑の銃弾』、‘93年 貴花田・宮沢りえの『世紀の破局』等、世を震撼させたスクープは一貫して変わっていない。

    ただ不思議に思うのは、同じメディアでありながら文春はジャニーズ王国の闇に斬り込み、テレビは沈黙。その違いについて、本書にこんな記載がある。日本の新聞やテレビは『権力の監視者』を標榜しつつも実際には極端に臆病で従順。諸外国とは異なり、日本の新聞社とテレビは〈読売新聞と日本テレビ〉といった資本関係でつながる異常な構造を持つ。テレビ局はそもそも許認可事業、規制に弱い。そういう意味では不都合な真実を伝える週刊誌、特にタブーを恐れない〈週刊文春〉は権力者から危険視され敵視され忌避される。

    とは言え文藝春秋は総合出版社。女性誌に文芸分野もありそこには広告主が存在する。にもかかわらず週刊文春編集部は掴んだスクープを会社上層部の政治的判断や大手広告会社からの圧力で差し止めを喰らうことはない。『編集の独立性』が厳然と守られている。むしろ公序良俗に照らす判断の方を大事にする。

    社名の文藝春秋の『文藝」』は文芸作品、『春秋』は日々の出来事が積み重なった年月を指すことから転じて日々の出来事を報ずるジャーナリズムを指している。この『春秋』の中心にあるのが『週刊文春』。

    本書は『週刊文春』の歴代名物編集長 花田紀凱とま新谷学のふたりにフォーカス。 このふたり、週刊誌1号あたり約1億円という発刊経費を毎週使い、勝ち続けてきた人物。ふたりのカリスマ編集長の辣腕ぶりを編集者として身近で見てきた著者がスクープを生む編集部の現場、度々勃発した社内抗争や掲載記事をめぐる訴訟等も余すことなく活写し、現場実況さながらの臨場感が語られている。

    最終章では、デジタルへの挑戦に立ち向かう文藝春秋の葛藤が描かれる。広義ではアナログ vs デジタル、端的に言えばコンテンツメーカー vs プラットフォーマー。現在は『制作側』より『運営側』が主導権を握る時代。編集長の新谷は、現在の出版業のままでは立ち行かなくなると、議論百出を経て『文春オンライン』を立ち上げる。デジタルに移行してもスクープ報道が可能であることを立証。またそのスクープ動画はテレビ局へ有償提供することにより新たな利益を 生み出すことにもなり、見事デジタルシフトを果たす。

    それを可能ならしめたのが、『ベッキーのゲス不倫』を皮切りに『甘利大臣賄賂疑惑』『清原覚醒剤発覚』『宮崎謙介育休不倫』『元少年A直撃取材』『ショーンK経歴詐称』…と文春砲が炸裂した2016年。『衝撃スクープなら文春』というブランディングが一気に進み、デジタルシフトを加速させた。それは、まもなく創業100年を迎える総合出版社にとって次の100年に向け意気揚々と歩み進めたことを物語る。

    本書は『週刊文春』とそれを発行する文藝春秋の歩み、出版メディア史、部員60名を束ねる編集長のリーダーシップ論、スクープを取ることからスクープで稼ぐビジネスへの移行…、昭和平成令和の『春秋』を報じ続けた『週刊文春』の凄みを堪能できる一冊。大河小説を読み切った感さえある超力作。オススメ!

  • 「親しき仲にもスキャンダル」
    それはご自身の雑誌とお身内にもお願いしますよ!

    スポーツ総合誌「ナンバー」と女性誌「CREA」は好きで読んでいたので、その発刊元が文藝春秋だったことは驚きでした。
    しかし最大の驚きは、この本が文藝春秋からではなく、光文社(講談社系の出版社)から発刊されたこと。太っ腹…ですね。

  • 不勉強な部分や、偏った情報がないように調べながら読んだので、めちゃめちゃ時間かかった。
    でもめちゃめちゃ面白かった。
    世代的には芸能スキャンダル誌のイメージが強かった。全然違う。
    もちろん本書籍も一方通行の情報ではあるし、ある程度の脚色もあるかもしれない。
    でもスクープへの熱量は本物であり、その先に、文藝春秋のパーパスが見えた気がしました。

  • 文藝春秋社が良くわかる。
    編集者ってスゲェと思える一冊!

    デジタルシフトの必要性はもっともだが、ちょっと寂しいと思ってしまうのも事実。

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著者プロフィール

1960年東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒。文藝春秋に入社し、「週刊文春」「Sports Graphic Number」編集部等に在籍。2003年に退社後、フリーとして活動を開始。デビュー作『1976年のアントニオ猪木』が話題を呼ぶ。他著に『1993年の女子プロレス』『1985年のクラッシュ・ギャルズ』『日本レスリングの物語』『1964年のジャイアント馬場』『1974年のサマークリスマス』『1984年のUWF』がある。

「2017年 『アリ対猪木』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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