オレンジだけが果物じゃない (文学の冒険シリーズ)

  • 国書刊行会
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  • Amazon.co.jp ・本 (285ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784336039620

感想・レビュー・書評

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  • まなざしは、距離によって和らげることができる。奇妙な許しの物語。


    著者のデビュー作にして半自伝的作品であるが、そうと知らずに開いても想像力のはばたきに魅せられてしまう。芯から読んでよかったと思える、優れた作品と出会った。ジャネット・ウィンターソンという人は、本物の想像力を持った作家だ。

    孤児だったジャネットを引き取り育てたのは、狂信的なキリスト教に属するご夫婦だった。夫の影はひたすら薄く、主導権を握っているのは妻なのだが、この人、あまりにも強烈なキャラクターを発揮してくれる。
    自分の都合に合わせて小説の結末を変更するほど、一旦決めたことへの入れ込みようが半端じゃない。養女ジャネットの行く末も勝手に定め、いつでもどこでも一方通行で突っ走る姿が鬼気迫る。

    こういう激しい人は、遠くから眺める分には「いいキャラしてる」が、直撃を受けた人が「すごいよね」と笑ってみせるのは、並大抵のことではない。だが、それを可能にするのが文学の力だと信じられるようになったのが、本書から得た大きな収穫だった。著者は、自分の母親の脅威であっても切羽詰った調子にならず、距離を置いてまなざしを和らげるのに成功している。

    ある一件をきっかけに親子関係にひびが入り、娘は自立していくのだが、幾らでもどんよりと重たくすることができるであろうこの話を、独特の明るさで引き上げ、スパイシーに引き締める語りっぷりに魅了された。

    主人公のたくましさに慰められながら知らされるのは、想像の世界には常に自由があるということ。現実の痛みから目をそらさない強靭な精神力も欲しいけど、決定的なダメージを食らう前に、必要とあらば架空の世界に逃避する方法だって用意されているってこと。
    『オレンジだけが果物じゃない』は、ただ傷口をこじ開けて不幸自慢をするのではなく、亀裂に巧みに夢を織り込みながら、回復を図っていく。


     「わたしは生まれてこのかたずっと、世界というのはとても単純明快な理屈のうえに成り立っていて、ちょうど教会をそのまま大きくしたようなものなのだと信じていた。ところが、教会がいつもいつも正しいというわけではないことに、薄々気づいてしまった。これは大問題だった。もっとも、その問題と本当に向き合うことになるのは、まだ何年も先のことだった」

    数年後、この問題と真に向き合った彼女が手に入れた結論は、ファンタジーだった。

    「ひょっとしたら、わたしという人間はどこにもいなくて、無数のかけらたちが、選んだり選ばなかったりしたすべての可能性をそれぞれに生きて、折りにふれてどこかですれ違っているのかもしれない」


    彼女は母から離れて生きながら、同時に母のそばにいることが可能だったのだ。だから、母と娘は特に対立するわけではない。

    本当は、母親は何も変わっていない。ただ、時間が流れただけのこと。かつてはオレンジ一辺倒だったのが「オレンジだけが果物じゃない」と言うようになったのも、彼女の興味がパイナップルに移ったにすぎない。オレンジと言い出したらどこまでもオレンジであり、パイナップルと言い出したらどこまでもパイナップルに入れ込む激しさは不変だ。

    にもかかわらず、ふいに訪れる救い。


    この家のルールにのっとって結ばれた母娘の絆。まったく奇妙な許しの物語である。

  • 久し振りに単行本の翻訳作品を読んだ気がします。

    ホイットブレッド賞を受賞し、BBCでドラマ化もされた本作品。
    奇抜でユーモアに満ちていながら、読者に愛や家族や信仰について考えさせてくれるとっておきの1冊です。

    「ジャネットの心が血を流すたびにあらわれる」不思議な寓話が面白い。輪ゴムでできあがった宮殿に住むテトラヘドロン(四面体)という王様の話と、「完璧」にこだわる王子様のお話が特にお気に入り。

    宗教にどっぷり居れ込むお母さんや初恋相手のメラニーなど、ジャネットの生きる世界は大変個性的で、これが自伝的な作品だというのだからおどろきです。

    文庫化したら、もう1度読み直してみたいな☆

  • 暗い内容なのだけど、合間に挟まれる御伽噺や寓話、シニカルなユーモアで重みを感じさせなかった。
    その分、主人公の悲しみや苦しさが伝わってくる感じがした。

  • カルト的なキリスト教信者である母親に育てられた少女の半生を描く、ジャネットウィンターソンの
    自伝的小説。

    少女の全宇宙は教会と聖書だ。

    母にほどほどということがない。
    敵か味方か二つにひとつ。
    清いか清くないか二つにひとつ。

    教会的ものさしで世界を二つに分類する母という生き物。

    そしてその母によって徹底的な聖書的英才教育を授けられ
    母のくれたそのものさしを盲目的に信じる娘という生き物。

    二つの生き物は、教会にだけいられるのならそれでよかったのだ。


    しかし娘はやがて教会が全宇宙でないことを知る。
    外と内のかいりに苦悩する小さな心。

    学校に行けば答えがみつかるかも。
    でも自分はみんなと全然違うのだ

    聖書のせりふを唱えてはみんなを怖がらせる。
    教会的作文で先生を怒らせる。
    母に喜ばれそうな聖書のせりふを刺繍しても先生は苦い顔。
    なぜなら『ママへ愛を込めて』と一般的普通の子どもは刺繍するからだ。

    少女にはなにがいけないのかわからない。
    でもきっとなにかがいけないのだ。
    学校ではひとりぼっち。
    でも自分は正しいのだから悲しくなんかない。

    一度だけ学校でどんな目にあっているか母に話したことがある。
    母は言った。
    『選ばれしものは孤独なんだよ』

    やがて母に支配された小さな世界を飛び出しそうと決意する少女…。

    ウィンターソン流の乾いた皮肉の精神が彼女の人生を耐え難い苦難から救っているのかもしれない
    ・・・と思う。
    これほどまでの境遇にも関わらず 少女は一貫してさばさばと強い。
    そしてあきらめにも似た落ち着きさえ感じさせるのだ。

    断ち切ろうとしても決して断ち切ることはできない糸。
    家を出ようが街を出ようが国を出ようが
    糸は見えないところで母と娘をしっかりと繋いでいる。

    本物の家族
    つまり
    椅子とテーブル
    人数分そろったティーカップ

    ただそんなものを夢みても
    ただそれだけを持つことなどできはしない。

    母と娘は見えない糸に繋がれているのだから

    帰ろうと思ったことはないの?。
    愚かな問いだ。
    帰ることならいつも考えている。

    世の中には 食べないケーキは取っておけると思っている人もいる。
    でも取っておいたケーキは腐り それを食べれば命取りになる。

    故郷に帰ることとは腐ったケーキを食べること?
    こちらは変わってゆくのにあちらは変わらない。

    それでも ジャネットは母へのクリスマスプレゼントを手に 腐ったケーキを食べにゆく。

    母への反発と母への愛情に引き裂かれながらも
    罵倒することなく穏やかに
    批判しながらもいたわりをこめて

    母を見つめるその姿勢は
    どうしようもなく引き受けなければならない運命との
    より幸せな付き合い方を私たちに示してくれているような気がする。

    • baronpoupeeさん
      私も今日、この作品を読みました。
      とても共感できる、けれど私には言葉で表現することのできなかったことがまとめられた素敵なレビューでした。
      あ...
      私も今日、この作品を読みました。
      とても共感できる、けれど私には言葉で表現することのできなかったことがまとめられた素敵なレビューでした。
      あまり素敵だったので、思わずコメントしてしまいました☆
      2009/11/08
  • ちょっと、これ超面白いんですけど。おかげさまで夜を徹して読んでしまいました。オヌヌメ!

  • 翻訳の岸本女史の力も大きいと思うけれども、私は好きな作品です。それにしてもイギリス人作家って変わってる…

  • 厳格な母親のせいでキリスト教とプロレスの区別がつかなくなったトゲトゲな女性の一代記。こういう作品ばっかり読まされているせいか、イギリスってのは変態の集まりだと確信しています。

  • 「さくらんぼの性は」という、現代と歴史、現実と夢、が入り交じったような小節を読んだ後で、同じ作家の「オレンジだけが果物じゃない」を読むと、その穏やか語り口に、少しだけ、驚かされる。穏やか、と言ったけれど、語られている内容は穏やかとはほど遠く、さらにこの本が作家の自伝的小説であると知って、その驚きは大きくなる。翻訳者の岸本佐知子が「ウィンターソンという作家のいちばんの魅力は"からかいの精神"ではないかと思う」と、あとがきで書いているが、確かにそんなニュアンスに溢れている。しかしこの小説の視点は、からかい、をはるかに通り越して、警鐘を打ち鳴らすかのような響きがあると思う。そのことが、勝手に期待していたウィンターソンの風味と違うので驚くのだ。

    からかいの対象となっているのは、単純に言えば「白黒つけたがる精神」である。白黒つけたがる、というのは、結局、自分は正しい立場にいる、という気持ちがどこかにあるからで、例えその判断が、公平な立場から述べているんですよ、と強調されたとしても、白黒をつけられてしまう側にとっては何の違いもありはしない。そのことは、ウィンターソンがやや自虐的にすら聞こえる調子で強調していることではないだろうか。

    白黒をつけたくない、というのが、読み手である自分の目下の信条のようなものなので、この作家の気分は、たちまちのうちに伝染する。ウィンターソンの小説に、とくに岸本佐知子が翻訳者であることから、期待していた内容とは、実際のところややずれているので、読み出す前の気分からすれば、期待外れであったにも拘わらず、この本は思いの他面白かった。面白かったな、とは思うのだけれど、一方で、感化されるということが、実は、白黒付ける、ということの始まりにも繋がっていることに気づいて、はっと、させられもしている。読後の気分では、ウィンターソンに完全になびいており、彼女が言いそうになっている「白黒をつけることは間違っていることです」という言明に頷いている。しかし、その文言自体が逆説的にではあるけれど白黒をつけている精神に、しっかり絡みついているものだ。そして、その精神が、よくよく考えれば小説の中で画かれている、悪魔払い、の精神に繋がっていることに気づかされて、だめだなあ、頭を冷やさなければいけないなあ、という気分になる。

    お話の中に別なお話しが急に挿入され幻惑的な効果を持つ、というのはウィンターソンの特徴だと思うけれど、この本でもとても効果的に使われていると思う。さらに挿入された話が主人公の感情をうまく表現する役割を果たしてもいるのだ。この「オレンジだけが果物じゃない」の中では、アーサー王の時代と思しき時代の架空の話が挿入されている。完璧を追い求める王子、妖術使いの弟子の少女、アーサー王に使える騎士、と3つくらいの話が断片的なお話として挿入される。ウィンターソンはイギリスの作家で、念頭におかれている読者もイギリス人だろうから、この挿入話による主人公の感情の起伏は、より鮮明なのだろうと想像する。もっとも、この辺りの作家と読者の呼吸は、残念ながら文化的背景の異なる島国に暮らす者には想像するしかないわけだけれど。

    しかし、この小説の後味はそれ程よくない。良くないのは何故か。恐らくお話しの裏に見え隠れする私憤が感じられるからではないかと思う。ウィンターソンらしい奇想天外な話の展開で一気に後半まで読んでしまうのだが、最後に、喧嘩別れした筈の母親のもとへ戻ってくるエピソードに至って、おやっ、と感じてしまうのだ。このエピソード自体はとても平和な雰囲気があり、憑き物が落ちたように静かな大人の女性が描かれているのだが、そのことが反って前半の恨みの深さを強調することにもなっている。そして、どちらかといえば、奇想天外な空想のお話、のように読めてしまう筈だった物語が、この妙に日常的なエピソードをもってして現実味を帯びてしまい、そこに作家の私憤のようなものが透けて見える気がしてしまうのだ。ということで、面白いことは面白かったのだが、全速力で壁にぶつかった後のようなじいんとした感覚も覚えている。

    ウィンターソンの2冊の本とも、あり得そうにない逸話に粉飾されてはいるものの、実は彼女自身の来し方を割と率直に書き表しているものなのかも知れない。そう気づくと、急にウィンターソンの無気味さに身が震える思いに駆られる。女の執念というやつだろうか。おーこわ。

著者プロフィール

1959年、イギリス生まれ。福音伝道主義クリスチャンの家庭に養女として迎えられたが、女性との恋愛関係を理由に10代で家を出る。1985年に半自伝的小説『オレンジだけが果物じゃない』で作家デビュー。

「2022年 『フランキスシュタイン ある愛の物語』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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