古都 (新しい台湾の文学)

著者 :
制作 : 朱 天心  清水 賢一郎 
  • 国書刊行会
3.33
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本棚登録 : 21
レビュー : 5
  • Amazon.co.jp ・本 (324ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784336041333

作品紹介・あらすじ

台北/京都。この双子の都市に刻まれた歴史と記憶。記憶をめぐる作品集。

感想・レビュー・書評

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  • 回想の中に流れる走馬灯。

    新旧の地名が入り混じりながら、著者の追憶を通り過ぎる。
    情景描写が見事で、あたかもそこにあるかのように風景を手に取るように感じられる。
    だが、それほどまでに描写できるのは、実際に登場人物が「今、その場に」いる訳ではなく、記憶を回想しているから事細かに描写できるのだと気がつく。
    歩いていると、「今」注意を向けている方向しか感知できないが、彼女の描写は全てを感知しているかのごとく進んでいく。
    まるで歩いている「私」を映画のように見ているような。

    淡々としている静けさに上手く入り込めずに途中で閉じた。
    更に年を重ねた後ならば、この本の深みに入っていけるのかもしれない。

  • うーん、わたしには合わなかったなー。表題作、羅列される固有名詞を楽しめる人はいいかも。固有名詞羅列系で、しかもそれらを知らなくてもめちゃくちゃ楽しめる作品ってなかなか難しいような気もする。それこそピンチョンとかは分からないままでもそのグルーヴに乗って読むのがひとつの楽しみ方な気もするし…

    記憶だからこそ余計に鮮明に現れてくるというコンセプト(?)はすごく良かったし描写も綺麗だとは思うんだけど。なんかピンと来なかった。

  • 非常に面白かった。ゆっくりゆっくり読んだ。時間が惜しくない読書だったと思う。

    記憶と土地、記憶とモノ、そして記憶と「あなた」の話。
    重層的に、時にゆらぎ、時に混ざり合い、そして時に混在する記憶たち。しかし、それらにもし、「なんの意味もないとしたら」――?

    「だれ」と「どこ」が不明確で、文章自体は非常に読みにくい、というより混乱する。しかし、読んでいて不思議と不快感やいらだちは覚えない。むしろ、時に驚くほど明確で、鮮明で、わかりやすく思えるくらいだ。
    おそらく、その「わかりやすさ」は「言語」だとか「文法」だとかを通して訴えてくるものではないのだろう。規定の文法を通り越し、あるいはそれを離れてばらばらになってもなお、直接訴えてくる「何か」が読み手の胸に伝わってくるのだ。
    それは「記憶」だろうか・・・郷愁? 懐かしさ? それとも、自分が記憶を持っているはずだという、記憶を残しているはずだという、「誰か」であり「どこか」そのものであろうか?

    著者の「アイデンティティ」の書き方が非常に興味深い。
    そもそも私がこの本を手に取ったのは、作家の恩田陸さんが「ひょっとしてこれは私が書いた小説なんじゃないかと本気で思ったほど共感。私が台北に生まれていたらこれを書いていたかも」と言われていたからなのだが、いやはや大げさではなく本当にその通りで、私も驚いてしまった。「もしかして、台北にもう一人恩田さんがいるんじゃないの?」と思ってしまったくらいだ。
    恩田ワールドの「記憶」「ノスタルジー」と言った言葉が放つ匂いが好きなら、この本を読まれることも断然おすすめします。

  • 大学二年生のときに東京の福生で二ヶ月過ごしたとあった。2013/05/10のメモ。2011年のときはこの本を読む器が僕には備わってなかったように思います。今年、もう一度読んでみたいと思います。

  • 台湾の外省人二世の作家である朱天心の作品を読む。この頃に買った本には、彼女のようにアイデンティティの模索というテーマから目を背けることの出来ない作家の本が数冊ある。それは決して偶然ではなく、そのテーマが自分自身にも無関係ではないということに気が付いたゆえに起こったことだ。

    朱天心の描くアイデンティティの在り処は出自ではなく「記憶」ということに深く根ざしている。記憶していることこそ、自分を作り上げている根拠なのだ。その際、記憶という言葉の意味する対象は人間の脳の中にあるだけの曖昧なものとしてではなく、場所、建物などの具体的なモノ、更にはその具体的構築物が担うであろう記憶も包括している(あるいはそれを歴史的意味と呼ぶのかも知れない)、と朱天心は考えているらしい。そして、その具体物と脳細胞の中の記憶との繋がりが、喪失という感覚をより鮮明にしてしまう。記憶の対象となった具体物が失われていく現代台湾の中にあって、モノの喪失(それはつまり自身のアイデンティティの喪失を意味すること)を、その記憶をより色濃く脳細胞にとどめることで食い止めようとする。そこには本省人と外省人という構図も当然のこととして絡んでくるのだろう。この作品でも、その葛藤の様は描かれている。しかし、既に喪失は起きてしまっており、後戻りはできないことも書き手は悟っている。それでも、一時は政治的活動にも手を染めた著者が目を逸らすことのできない変化、そして変化を受け入れてしまえる人々を、静かに、そして批判的にこの作品は描いてもいると言えるだろう。

    朱天心ほど、具体物が失われて逝く様を自分は個人の歴史として持っている訳ではないようにも思うが、自分達の世代もまた彼女と同じように戦後の歴史の中で、自分達のアイデンティティの拠り所というものを必死で探していたように思う。皮肉にも「古都」の中で不変なもののメタファーとして描かれる日本の古都でさえ、全ては変わってしまう。東京周辺の戦火を潜って来た土地においては尚更である。自分達の前には歴史的意味を放つものの存在価値と新しく立ち上がるものの持つ価値とが、最初から混在していた。だから、と単純には言えないだろうけれど、モノに対する喪失感というものを、自分はそれ程寂寥感を持って受け止めていないように思う。あるいはその感覚は、放っておけば荒れ地も再び緑が生い茂る場所となるというこの風土の中で培われた感覚に依るものかも知れない。では、自分達が失ったものは何だろうか。それは「風景」である。自分の記憶は、空き地、田んぼ、雑木林などの風景と強い繋がりを持っている。それらの風景は「整備」され「開発」され、機能的な都市の一部となった。その変化の一部を自分達は眺めてすらいた。いやむしろ、自分達の生活の一部だったとも言えるだろう。その開発という名の変化は、新しい遊び場となり、転入生となり、新しい風景ですらあったのだから。しかし、機能的とは無駄のないということであり、頭だけが考えついた必要性を満たす、という意味でもある。そして、頭の考えた必要十分に身体は収まり切らないのだ。身体の収まり切らない土地に人々は根を下ろせない。一代限りの生活を営むことではない、そこで生と死が繰り返される、というようなことはもはや起こらない。都市の中ですら過疎化は進むのだ。

    本書に収められている「ハンガリー水」という中篇で、朱天心は匂いと記憶の結びつきについて書いている。記憶は頭のものである、と主人公の脳は考えるが、匂いという身体の機能が直接記憶を呼び覚ます様を知って主人公の男は驚く。この描かれ方、そして記憶の対象の失われ方は、自分にとっての「風景」の喪失と同質のものだと感じる。例えば、知らない土地に入って行く。あるいは車でさっと通過するだけでもよい。そこにある水たまりのような池の脇に少女が立つのを見る。その風景が瞬時にして自分達の少年時代の小川での記憶を呼び覚ます。そして自分はその小川が既に失われていることを知っている。その記憶が呼び覚まされたことによって感じる喪失感、それと同じようなものを登場人物は語っているのだなと感じるのだ。先にモノの喪失は寂寥を必ずしも伴わないと書いたけれども、この時感じる喪失感には寂寥感が伴っている。そのことをこの作品を読みながらどうしようもなく感じてしまう。

    表題作でもある「古都」は本書の中では秀逸の作品と見た。多層的、多次元的、そして意味の入れ換えの巧みさ。一つの記憶、一つの物体、あるいは一つの歴史は、何か一つのことだけを意味しない、ということをこの作品は強烈に主張する。歴史の正しさとは何か。それを告発しているように読み取っていくことさえできるだろう。もちろん、台湾における政治活動に手を貸した者として、その作品の中の主張に全く政治的意図はないと言っても聞き入れてもらえる筈はない。読み方によっては、これは強烈な政治的批判と受け取られても仕方のない雰囲気すらある。しかし、この必死の、だが静かなる主張の根源にあるものはゲーム化した政治的理由ではあり得ないことも理解できる。その主張するところ、それは記憶の儚さに向けられた精神の葛藤であると言えると思う。

    「古都」は、過去と現在という時間を越え、京都と台北という場所を越え、蘇る記憶と現実の境を越えて話が進む。その境のなさが読むものに足場を与えることを拒む。そのため、読み始めた瞬間から読者は翻弄され、記憶を掻き乱される。しかしその掻き乱される感じの波にある程度翻弄しつくされると、じっくりと主人公の自分探しの言葉を聞き取ることができるようになる。そして考えさせられる。自分にとっての「故郷」とは何だろうかと。生まれた場所か、育った場所か。あるいは親が生まれた場所なのだろうか、と。台湾との比で言えば、自分達は如何にもはっきりした歴史のある国に生まれているようでいて、その疑問に答えようとする時に自分の感じる戸惑いは、まさに朱天心がこの「古都」で吐露している心情と同一のものであることに気づき、自分の愚鈍さに驚愕する。

    失った風景は戻って来ない。しかし自分達にはまだ失っていない風景も残されている。幸い、拡大再生産の時代は終わった。その風景がこの先変化していく速度は劇的に遅くなるだろう。その風景を守れ、と言っているのではないけれど、その風景を記憶に残す時間が長くなるのはいいことに違いない。自分にとっても、自分とその風景を共有するものにとっても。そして、いつか、その風景に染み込んでいた風の匂いを思い出すに違いない。最後にその匂いを思い出す時、同じような風の吹く場所にいたいものだ、と本書を読みながら強く思わずにはいられなかった。考えてみれば、都市、とは日本の国土の中において何分の一でもない場所のことである。日本にはまだ緑の残る土地が多く残っている。「その時」を迎える時、風の匂いがしないとは限らないだろう。

    人が一つの土地に一生住み着き生涯を全うした時代はいつ終わったのか。そのことに誰もが気づかないフリをして、自分達は風景を変え続けて来た。その変わっていった風景の中で、まさか自分自身のアイデンティティを失くしてしまうとも知らずに。

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