最後に鴉がやってくる (短篇小説の快楽)

制作 : 関口英子 
  • 国書刊行会
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本棚登録 : 74
レビュー : 8
  • Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784336048431

作品紹介・あらすじ

死にゆく者はあらゆる種類の鳥が飛ぶのを見るだろう――
自身のパルチザン体験や故郷の生活風景を描いた
〈文学の魔術師〉カルヴィーノの輝かしき原点となる
第一短篇集、待望の刊行!

森に現れた少年は射撃の腕をかわれてパルチザン部隊と行動をともにする。やがて、遭遇した敵の兵士に対して少年の銃が狙いを定めたのは……緊張感漂う表題作をはじめ、カルヴィーノ自身のパルチザン体験を元に描いたレジスタンスの物語、少年期をすごした故郷の風景を反映した農民や子供たちの生活スケッチ、戦後の都会を舞台にしたコミカルなピカレスクロマン、軽妙な語り口の風刺的寓話など全23篇を収録。現代イタリア文学を代表する〈文学の魔術師〉が、その若き日々にあふれでる創作意欲を自由かつ繊細に結晶化した、瑞々しい傑作揃いの初期短篇コレクション! シリーズ〈短篇小説の快楽〉全5巻完結

感想・レビュー・書評

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  • 久しぶりにカルヴィーノの物語の森へ遊びに行くと、いつものようにどこからか誘う声が聞こえてきます。うれしくなってその姿を求め森の奥へ奥へと進んでいくと、はて? 目の前には思わぬ世界がひらけてびっくり、その美しさにうっとり、その語りは平穏で易しく楽しい、でも森の中からすんなり帰してはくれない、そんな印象のある手ごわい作家です。

    1969年、本作の第2版が出た際、作者カルヴィーノは注記の中で興味深い3つの分類をしていたよう。まるでヘンゼルが森にまいたパンのように、私にはありがたい道しるべになりました。訳者の解説にも感謝します。

    *レジスタンス(あるいは戦争や暴力)の物語
    *終戦直後のピカレスクな物語
    *少年や動物の登場する物語(子どものころに住んでいたリヴィエラの風景)
    ・その他として高度産業社会の悲哀とあはれを描いた物語(たとえば『マルコヴァルドさん』のような…)。

    なかでも印象的だったのは「三人のうち一人はまだ生きている」。
    捕虜となった兵士3人の数奇な運命。切羽詰まった状況がグロテスクで深刻であればあるほどペーソスまじりの可笑しみさえ沸いてきます。木のてっぺんによじ登ってあたりを見回す男には、森閑とした眺め、澄んだ空気、生命の木のぬくもりを、そして塗炭の苦しみから抜け出たダンテのような解放感が与えられ、私も思わずホッと胸をなでおろしました。でもそれも束の間の安息なのか……。

    「最後に鴉がやってくる」は、少年の銃眼に狙われたあらゆる生命と男の話。鴉は魂を連れ去る不気味な化身のようでもあり、ケルト神話クー・フーリンの壮絶な末期(まつご)に優しく寄り添う鴉のようでもあり、しまいにはそもそも鴉はそこにいたのだろうか? な~んて不思議な時空の広がりを感じます。

    「血とおなじもの」に登場する兄を紹介します。
    「どちらかというと夢想家で、違う惑星からやってきたお客さんのようなところがあった。拳銃に弾をこめることさえできそうになかった。そのくせ民主主義とはなにか、共産主義とはなにかと熱弁をふるい、革命の歴史や独裁者に抵抗する詩をそらんじていた」
    これゃまるで作者カルヴィーノではないですか⁉

    なにが面白いのかって、ほの暗い物語の森の中にはそこかしこにカルヴィーノの姿が見え隠れしていること。その姿は必ずしも人間とは限りません。民話をこよなく愛した彼は、人や動物や昆虫や草木すべての一体性やそれらが無限に変容する可能性を慈しむようで、『変身物語』(オウディウス)のようにあまりにも変幻自在です。物語や寓話の純度が高すぎて一見するとよくわからないのですが、それでも読みながらウォーリーを探せ、ならぬ、あらゆる命に好意の眼差しを向けているカルヴィーノを探せ! そんな遊び心を誘ってくれるカルヴィーノ作品が大好きです。

    「……老いたラバは鼻面を地面すれすれにつけて、ひたすら歩きながら黒い目隠しで限られた視界の内側で驚嘆にみちたものを観察していた。被弾してひび割れた殻から虹色の粘液を滴らせている蝸牛や、爆撃をくらった巣から白と黒の帯となって卵を抱えて逃げていく蟻たち、ひっこ抜かれて樹木のような奇妙なひげ根を天にさらしている草……」

    鬼才カルヴィーノという大きな彼の中には、いつまでも消えることなく息づいている繊細で遊び好きな小さいカルヴィーノ少年が宿っています。子ども心溢れる物語を創造しながら、気難しい現実世界を大人の目で厳しく見つめます。物語をとおして様々な想いや思索を投げかけながら、カルヴィーノは決して結論めいたことは言いません、森の帰り道も教えてはくれません(笑)。はたと気づけば、作者の姿は森の中にふっつりと消えています。そんな彼の「物語」に託す想いと選び抜かれた美しい言葉の数々、いやあ見事ですね。

    「もしかすると、ごくシンプルな物語の構造を利用して、作者が世の中と自分自身の、とほうにくれるほど不可解なかかわりを描こうとしたのかもしれません。おそらくそうとも言えるでしょう」(『マルコヴァルドさんの四季』)。

  • 巻頭の一篇。もしこの世界がリセットできるものなら、こういうふうに始まるのかもしれない。そんなふうに思わされるほど、天上的で祝祭的な多幸感あふれる一幕劇。タイトルからして「ある日の午後、アダムが」なのだ。でも登場するのはアダムとイブではないし、舞台はエデンの園でもない。イタリア北西部のリグーリア。早朝には洋上にコルシカ島が見える、カルヴィーノ少年が育った土地。だから、人類が楽園を追放された後の話だ。

    ある日の午後、新しい庭師がマリア=ヌンツィアータの前に現れる。半ズボンをはいた少年は長い髪にクロスにした布を巻いていた。名前はリベレーゾ。エスペラント語で「自由」という意味だ。長い髪をした少年の父は菜食主義者のアナキストで、少女はカラブリア人でカトリック。十五歳の少年と十四歳の少女の会話はいまひとつ噛み合わないが、少年は少女にプレゼントがしたい。

    皿洗いをしているマリアに外に出てくるよう誘ったリベレーゾが「いいものあげる」と言って見せるのが蟇蛙。マリアが嫌がると、次々に手から現れるのが、ハナムグリ、カナヘビ、蛙、ヒメアシナシトカゲ、それに金魚。奥様に呼ばれて一度は奥に引っ込んだ後、調理場に戻ってきたマリアがお皿や片手鍋、クリスタル・グラスや盥の中に見つけたのは…。

    楽園にいる間、ヒトと他の生き物に差はなかった。バベルの塔が建設されるまで、世に住む人たちは同じ言葉で話していた。そんなことを思い出させるマリアとリベレーゾのあどけない会話が続く。ベルガモットを育てるくらいしか仕事を知らないマリアと、父の見せてくれる世界を知るリベレーゾがまったく異なる世界に足を置きながら、次第に距離を詰めていくのが、ういういしく期待感に満ちて心躍る。

    このドキドキワクワク感はどこから来るのだろうと考えて、作品の成立した時期に思い至った。イタリア解放後間もない頃に書かれている。パルチザンとして戦闘に加わっていたカルヴィーノにとって戦争が終わったことの喜びはいかほどだったろう。新しい世界への期待、希望といったものが、この作品の背景になっているのではないだろうか。名前も仕事も信じるものも全く異なる二人が、ある日の午後、出会う。その邂逅を小さな生き物たちが祝福する。邪魔する者など誰もいない二人だけの祝祭劇だ。

    後に多様な手法を試すことになるイタロ・カルヴィーノの初期の短篇集。しかし、若書きという印象はまったくない。しっかりした観察にもとづいた自然描写といい、人間を見るときの冷静な視線といい、すでに一家を成している。パヴェーゼの勧めで長編を書くようになるまで、カルヴィーノは短編を書きたいと言っていたそうだ。よく切れるナイフで木の枝をスパッと切り落としたような切り口の鮮やかさが際立つ短編集である。

    作家自身が短篇集を主題ごとに三つに分けている。「ひとつ目はレジスタンス(あるいは戦争や暴力)の物語。ふたつ目が終戦直後のピカレスクな物語。三つ目が、少年や動物の多く登場する、リヴィエラ(リグーリア海岸)の風景が顕著なもの」である。「ある日の午後、アダムが」は三つ目に属する。戦争を描いてもカルヴィーノの筆は極端に悲惨なものや醜いものばかりを描かない。対象から距離を置いた視点のとり方が絶妙で、救いようのない状況下でも人物たちは飄々とした軽みを負わされている。

    喜劇的なタッチも特徴で、「犬のように眠る」や「十一月の願いごと」などの作品には、飢えや寒さを頭と体を使って何とかしのいで懸命に生きる人々の姿が軽妙に描かれている。リラとドルの交換で儲けようとアメリカ人水兵が集まる酒場に出向いた妻が男たちに囲まれて出てこられないのを救い出そうとして、夫が駆け回るドタバタ劇を疾走するような笑いで描き切った「ドルと年増の娼婦たち」がおかしい。

    集中、印象が強いのはひとつめの戦争を描いたグループだろう。表題作は銃の腕を見込まれた少年が、パルチザンと行動を共にするうち、勝手に撃つなと言われたのが不服で銃を持ち出し単独行動をする話。少年は好奇心で獲物を決める。野兎や蝸牛のこともあれば、軍服の金ボタンや肩章のこともある。追いつめられたドイツ兵は、少年が頭上高く飛ぶ鴉を撃つ間に逃げようと「あそこに鴉がいるぞ!」と叫ぶが、少年の撃ったのは翼を広げた鷲(紋章)の方だった。戦争を少年のイノセンスで切って見せるところがカルヴィーノらしい。

    一篇一篇味わいの異なる二十三篇。どれから読んでも、どこでやめても構わない。奇妙な味の話もあれば、底知れない怖ろしさを感じる話もある。短篇の良し悪しは、どこで終わるかという点にあると思っている。まだまだ山道が続くと思っていたら、突然足もとの道に先がないのを発見したような、ストンと切って落とされた結末の寄る辺なさを是非ご賞味あれ。

  • カルヴィーノの初めて読む短編集。どのお話も寓話のよう。戦争の影残る話から現代の工場労働者、オフィスとコンピュータの話まであった。登場人物の視点が入れ替わったり、俯瞰で描かれたりする。人間の得体の知れなさが現れた行動を見せる登場人物たち。

  • 『羊飼いは野生の木蔦でおおわれた道伝いに泉のほうへ歩いていき、喉が渇いているわけでもないのに水を飲んた。蛍が現れたかと思うと、ふたたびすっと消えたのが見えた。ずいぶん密集した群れのように見えたけれど、空中で腕をふりまわしても一匹も触れずじまいだった』―『羊飼いとの昼食』

    イタロ・カルヴィーノの新しい翻訳に触れる。「見えない都市」のような空想小説風でもなく「冬の夜ひとりの旅人が」のように複雑な仕掛けのある小説でもない。しかしそこにはやはりイタロ・カルヴィーノ独特の何かがある。むしろ、そのエッセンスがより濃いと感じる程に。

    巻末の解説や翻訳者によるあとがきによれば、この一冊はカルヴィーノの初の短篇集であり実質的なデビュー作である。そこに大袈裟に言えばこの作家の魅力は既に全てあると言ってもいいようにも思う。それは「見えない都市」にも「冬の夜ひとりの旅人が」にも感じた「地」と「図」の関係性のようなもの。特にその構図が一連のパルチザンを巡る短篇の中に見い出せる。

    地は図を必要とし、図も地がなければ存在は希薄となる。陰陽程の対等な関係ではないが、相対的な依存関係に両者はある。敵対する敵と味方。しかし敵とは誰のことなのか、その曖昧さがシニカルにだがコミカルに描かれる。それが善と悪という抽象的観念と多重露出的に投影される。その善悪の捉え方は、あるいは作家自身のパルチザン活動に由来するものか、もしくは科学者一家の中で育った故に育まれた冷静さに由来するものなのか。その判断は研究者に委ねるとして、パルチザン活動がカルヴィーノに書きたいという気持ちを強くさせたのだろうことは、これらの結論めいたものが一切出てこない一連の短篇を読むとひしひしと(恐らくそれを怒りと表現してもいいのかとも思う)感じることが出来る。

    それが短篇集の中盤に至ると戦後の混乱の中で展開する価値観のすり変わりを中心とした話に変化し、世の中をやや斜に構えて微妙に俯瞰した視点に書き手の立ち位置は移行する。ここには既に馴染みのあるカルヴィーノがいる。

    『あの部屋にある機械が、過去も未来も把握していて、いつか機械だけで会社を動かせるようになることさえ知らなかったのだから。そうなったら、オフィスからは、ちょうど夜の時間みたいに誰もいなくなり、閑散としてしまうだろう』―『経理課の夜』

    そしてこの一文が「柔かい月」のような空想科学小説風の作品へと繋がるのは明らかだ。新しいものは古いものの延長にしか存在しない、そのことをカルヴィーノはよく解っていたのだと思う。「パロマー」の望遠鏡で見透すように。遠い射程は、自分が遠いと思っているだけのこと。その未来は案外近いところに落ちている。

  • 『「地主の目」には、悪態をつきながら小作人をこき使うとはいえ、小作人から彼らの一員とみなされている地主の父と、文句は言わないが余所者として彼らから軽蔑されている息子が対照的に描かれている。」』太宰治を思い出す。

  • 作者の初期短編集。表題作および巻頭2作を読了。
    イタリアの田舎を舞台に少年と少女の、とんちんかんな交流を描いた「ある日の午後、アダムが」
    貧しい生活のなか、柿泥棒をなんとか撃退しようと奮闘する男の姿がなんとも悲しい「裸の枝に訪れた夜明け」
    追い詰められた兵士の恐ろしくも奇妙な最期のとき「最後に鴉がやってくる」

    印象的なのはやはり表題作。
    少年にとって銃は武器ではなく、自分とモノとを遠く隔てる空洞を消滅させる道具でしかない。殺しているという認識がなさそうなところが空恐ろしいです。
    「きっと死にゆく者はあらゆる種類の鳥が飛ぶのを見るものなのだろう」という美しい幻想と共に、痛みもなく静かに死を迎える兵士。
    最後に鴉がやってくる。

  • 「ある日の午後、アダムが」★★★
    「裸の枝に訪れた夜明け」★★★
    「父から子へ」★★★★
    「荒れ地の男」★★★
    「地主の目」★★★
    「なまくら息子たち」★★★
    「羊飼いとの昼食」★★★★
    「バニャスコ兄弟」★★★
    「養蜂箱のある家」★★★
    「血とおなじもの」★★★
    「ベーヴェラ村の飢え」
    「司令部へ」
    「最後に鴉がやってくる」
    「三人のうち一人はまだ生きている」
    「地雷原」
    「食堂で見かけた男女」
    「ドルと年増の娼婦たち」
    「犬のように眠る」
    「十一月の願いごと」
    「裁判官の絞首刑」
    「海に機雷を仕掛けたのは誰?」
    「工場のめんどり」
    「計理課の夜」

  • 流し読みしようと手に取ったものの、魅了された。カルヴィーのがパルチザンとして戦った経験が色濃く反映された短編が多いのだけれど、だんだんと読んでいくうちに作品が祝祭的でユーモラスな雰囲気を帯びてくるのはなぜか。その変化が生々しく感じられ、ふと生きていた若かりしカルヴィーノの、後年の巧みな作品群にはない、未熟であるがゆえに生き生きとした息遣いを感じられた。

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著者プロフィール

1923年キューバ生まれ。両親とともにイタリアに戻り、トリノ大学農学部に入学。43年、反ファシズム運動に参加、パルチザンとなる。47年、その体験を元に長篇『くもの巣の小道』を発表、ネオ・リアリズモ文学の傑作と称される。その前後から雑誌・機関誌に短篇を執筆し、49年短篇集『最後に鴉がやってくる』を刊行。エイナウディ社で編集に携わりつつ作品を発表、一作ごとに主題と方法を変えながら現代イタリア文学の最前線に立ち続ける。主な長篇に『まっぷたつの子爵』(52年)『木のぼり男爵』(57年)『不在の騎士』(59年)『見えない都市』(72年)『冬の夜ひとりの旅人が』(79年)などがある。85年没。

「2018年 『最後に鴉がやってくる』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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