- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784336070326
作品紹介・あらすじ
2016年に惜しくも逝去した名匠トレヴァー、最後の短篇集がついに登場。妻の死を受け入れられない男と未亡人暮らしを楽しもうとする女、それぞれの人生が交錯する「ミセス・クラスソープ」、一人の男を愛した幼馴染の女二人が再会する「カフェ・ダライアで」、ストーカー話が被害者と加害者の立場から巧みに描かれる「世間話」、記憶障害をもった絵画修復士が町をさまよい一人の娼婦と出会って生まれる奇跡「ジョットの天使たち」など、ストーリーテリングの妙味と人間観察の精細さが頂点に達した全10篇収録。
感想・レビュー・書評
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ウィリアム・トレヴァーの絶筆「ミセス・クラスソープ」を含む、文字通り最後の短篇集。トレヴァーのファンなら誰でもすぐに手に取って読もうとするはずだから、こんな駄文を弄する必要もない。だからといって、初めての読者にぜひ読んでほしいと勧めようとも思わない。多分、とっつきにくいと思うから。はじめてトレヴァーの短篇集を読んだときは、首をひねった覚えがある。それまで読んでいた外国文学と少々趣きがちがったからだ。
派手なところはないが、落ち着いているとも言い難い。ひねった言い回しではないのに、妙にとらえどころがない。一読したところ、書いてあることは理解できるのに、全部わかったとは思えない。つまるところ、自分には合わないのだと思った覚えがある。ところが、それからしばらくして、トレヴァーの別の短篇集を読んでみたところ、これには興趣を覚えた。いったいどういう訳なのか。何冊か読んでから、最初の本を再読したら、初読時とは印象が全然違った。どういうことだろう。
短篇小説の定義を問われ、トレヴァーはこう答えている。
<それは一瞥の芸術だと思います。長篇小説が複雑なルネサンス絵画だとしたら、短篇小説は印象派の絵画です。それは真実の爆発でなければならない。その強さは、絵に盛り込まれたものと同じくらい――それ以上ではないにせよ――そこから削られたものに負っています。短篇小説においては無意味なものを排除することが重要です。ただその一方で、人生はほとんどの部分が無意味なのですけど>
小説の中で、人物の抱える「真実」の爆発する強さが、そこに盛り込まれたものより、そこから削られたものに負う、というのがまさにそれだと思う。ふつうの作家の小説は過不足なく書かれていればいい方で、強さを求めてあれこれと盛り込みすぎるきらいがある。そうする方がいいと思うからだろう。違うのだ。トレヴァーの言う通り「人生はほとんどの部分が無意味」なのだ。でも、人生のほとんどが無意味だなんて誰に分かるだろう。
トレヴァーの作品で主人公をつとめるのは、ほとんどが無名の市井の人々である。そういう人々にとって、ほんとうに意味のある人生の瞬間とは、そう度々あるとも思えない。自分の人生を振り返ってみても、日々はほぼルーティンの繰り返しだ。わざわざ取り出して見せるワンカットなど見つかりそうもない。しかし、誰にだって人生の中で一度くらいは「真実」が爆発する時があるにちがいない。それをどう切り取ってみせるかが短篇小説作家の力量なのだろう。
しかも、盛り込むことにではなく、無意味なものを削ることなくして、トレヴァーの短篇は生まれない。はじめて読んだときに感じた分かり難さは、そこにあった。ここぞという場面に強度を与えるため、トレヴァーはあえて省略する。トレヴァーを読むとは、与えられたものを手がかりに、省略された部分も読むということだ。気楽に構えて読んでなどいられない。うかうかしていると大事な一文を読み落とす危険がある。
ミステリを読んでいて、ちらっと書かれていたことが大事な謎を解くカギになっていた、と気づかされることがある。再読すると、ちゃんと触れられていて、よく読めば自分にだってわかったはずじゃないか、と思ってしまうが、そうではない。よく読めば分かるが、普通に読んだだけでは分からないように作者は気を配って書いているのだ。トレヴァーの短篇はミステリではないが、書かれていないものが謎のように働くことがあり、最後になってはじめて分かることもある。
「ピアノ教師の生徒」は、素晴らしい芸術家とその人間性の関係を主題に、人は誰しも自分を基準にしてものを見ることから逃れられないという真実を見つめた一篇。足の不自由な男」は、賃仕事を求めて人の寄りつかない一軒家にやってきた二人が豹変した夫人の態度をいぶかしむという「ミステリの味わいがある。「カフェ・ダライアで」は、一人の男をめぐって仲たがいした旧友の女二人。一度ひびの入った関係を修復することの難しさをじっくり見つめている。
「ミスター・レーヴンズウッドを丸め込もうとする話」は、若い女を食事に誘い、自宅に連れ込んだ裕福な銀行の顧客から金をせびろうとする話。高級住宅地まで来てはみたものの女の心は揺れるばかり。「ミセス・クラスソープ」は、妻に先立たれた男と年上の夫を亡くしたばかりの女との出会いとすれちがいを異なる視点で描いてみせる。人生の哀感を抑制の効いた筆致で描き出す。「身元不明の娘」は、不自然な死を遂げた孤独な娘の生活背景が最後の最後まで明かされない、という焦らしの効果を狙った作品。
「世間話」は妻子ある男性に勝手に思いを寄せられて、夫を返せと妻に非難され、困惑する女だが、実は女にも秘められた悲話があった。記憶障害を持つ絵画修復士と娼婦の一夜の出会いの奇跡を描く「ジョットの天使たち」。荒野(ムーア)を舞台に男と女の運命的な出会いと別れを描いた「冬の牧歌(イデイル)」。寄宿学校に入った娘とその父親の物語と役所を早期退職した二人の女の物語が交互に語られ、それが最後に交わることで、娘の出生の謎が明かされるミステリ仕立ての「女たち」、と最後まで、衰えをみせなかったトレヴァーの筆力が窺える、どれも読みごたえのある全十篇。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
短編集。
たとえば街を行き交う人々の中にはこんな人生を送っている人もいるかもしれない、と想像しながら、でも自分の人生とは交わらないだろうな、というぐらいの距離感で見つめているような印象の十篇。
深く入り込みすぎない、全てを語らないことでより伝わってくるものがある。他人の人生が自分の中で静かに広がって、すうっと消えていくような余韻が何とも言えない。
語られないことを想像しながら、もっと詳しく知りたいと思うけれど、しばらくしたらそう思ったことすら忘れてしまいそうな絶妙な後引かなさが不思議だ。
「カフェ・ダライアで」がよかった。
季節の移ろいとともに変化する気持ちに、少しだけ寂しくなる。
「ミセス・クラスソープ」は一番心に残っている。
彼女に何があったのか。彼のように憶測は胸にしまって、いずれ思い出さなくなるだろう。 -
短編小説には大まかに二種あるように思っていて、一種はその作品だけで世界が誕生して完結するもの。
綺麗にオチがつくのは、こちらのタイプのように感じている。
読み終えてすっきりする良さがある。
もう一種は、作品は限られた一部分だけを切り取ったもので、描かれている人の人生も世界も、その前も後もあると強く感じるもの。
あまりすっきりはしない、読み終えた後もあの人はそれからどうするんだろう、と考え続けてしまう。
どちらのタイプも好きなのだけど、アリス・マンローとチェーホフ、特に好きだなと思っている短編作家の作品は割合後者が多いように思う。
初めて読んだトレヴァーもそう。
短い作品なのだけど、その何倍もの人生の重さをずしりと感じた。
今後新しい作品が書かれることがないのが残念だ、これまでの作品も読んでみたい。 -
『彼らはどこにいるときでも制度には引っかからないようにした。制度という単語は知らなかったので、そう呼んでいたわけではないけれど、たとえ一時的であってもそいつの中へ迷い込んだり、そいつを受け入れてしまったが最後、自分たちの自由を手放すことになるのがわかっていたからである。さしあたって生き延びさえすれば、未知の生き方にきっとどこかで出会えるだろう、と彼らは考えていた』―『足の不自由な男』
一つひとつ、短いけれど、過不足の無い物語が紡がれている。どの話にも幸福感に満ちた人々は登場せず、主人公たちは秘めた思いに囚われながらも日々の些事に身を委ねている。何故ならそれが生きるということの本質だから。生きるということには大袈裟な目的や意義が必ずしもある訳ではなく、生活を営むこと自体に真剣にならざるを得ないのだから。だが心に刺さった棘の痛みがその必死さで消える訳ではない。そんなごく当たり前のことが短い文章の中にきっちりと書き記されている。大袈裟過ぎず、過分に感傷的にもならず。
だが、そんな人生の本質を取り出してみると、どれもこれも悲哀に満ちた物語となるのは何故だろう。そこに、悲しみこそが人間として最も大切な感情なのだとするウィリアム・トレヴァーの教えがあるように思う。悲しみの中には、絶望があり、怒りがあり、時には良き日々の思い出の余韻すらあるのだ、と。それらはいつか過ぎ去っていくが、悲しみという感情のしこりは無くならないのだ、と。
「長めの訳者あとがき」によれば本書は作家の遺稿を元に編まれたものだという。しかも作家が死後に出版されるべき短篇を自ら選んで残したもののようだとも。そう言われてみれば、死や不在によって封じられ、葬り去られるというのが強過ぎる表現ならば忘れ去られていく、ちょっとした人生の悲しみや秘された事柄が並んでいるようでもある。だとすれば作家には待ち望んでいた読者に対する遺言にも似た思いがあったのだろうと想像を膨らませたくなる。そして、想定された読者をそんな物語を好んで読みたい気分にさせるのは北海の冬の寒さなのだろうか、あるいは老いへの漠然とした思いなのだろうか(だとすれば本書は読者を選ぶことになるだろう)と、ふと思う。 -
トレヴァーの新作はもう読めないのか。RIP。素晴らしい書き手を同時代に読めて幸せだった。
話の芯に辿り着けていないようなもどかしい感じ、ふっと話を”はぐらかされる”感じ、「私は何を読んでいたんだろうか」と戸惑う余白、これが人生を書き、真実を描くトレヴァーのうまさだ。 -
○図書館より。
○サリンジャーやカーヴァーに似た読み口の作家を探していて、トレヴァー作品に行き当たった。彼の作品は何冊か読んできたが、これが一番好きかもしれない。
○装丁のデザインも良い。細いストライプ模様が表紙にも遊び紙にも入っていて、ストイックで整然とした作品世界の雰囲気がにじみ出ている。
○晩年の作品を集めた短編集らしく、作風に円熟が加わり、静かで抑制された作風に磨きがかかっている。 -
タイトルからそういうことか、とは思っていたが2016年に亡くなったアイルランドの短編小説の大家のこれが遺作ということになるらしい。たまたま手にとって見て素晴らしさに魅了され邦訳を片っ端から読んだがついに最後と言われると手に取りたくないような気もしたのだが...。
一般的に短編集となるとこれはちょっと...みたいなのが入っていたりするのが常だけどこの作者に限っては駄作が一つもない。なにか大事件が起こったりするのは稀でどちらかというと日常が淡々と進んでいく中のちょっとした引っかかりみたいなのとか、これはそもそもどういうこと?とちょっとページを戻ったりという感じのものがほとんどなのだけど訳のわからないつまらないものを読まさせられた、という感想を持ったものが一作も記憶にない。これからもしかしたら邦訳されていなかったものが出てきたり未発表の原稿が出てくるのかも知れないし是非そうなってほしい。とにかく一度読んでみてとしか言えないけれど本当に素晴らしい作家。おすすめです。