芸術闘争論

著者 :
  • 幻冬舎
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  • Amazon.co.jp ・本 (292ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784344019126

感想・レビュー・書評

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  • 現代美術展などで、「これ一体何がいいの?何を伝えたいの?」とか一度でも思ったことがある人は、これを読むべき。また、現代美術で世界に勝負したい人の必読書にもなってます(こちらが主)。ニコニコ動画でも同じような内容の授業を視聴できるので、興味があればそちらにも。(内容は本の方が整理されてて分かりやすいです)

  • 感想が頭から漏れてきそうなので、めちゃめちゃな文章になりそうだけど書きとめる。二時間くらいで一気に読み終えた。面白かった。
    はっきり言って芸術だの美術だのに興味は無く、東浩紀を通じて村上隆を知り、何か話題だから読もうと思っただけだった。
    ただ読み進めると、その自分の中にあるアンチ芸術というような思考は、日本における歪んだ自由信奉の裏返しにすぎなかったということがわかった。氏の言うように、まさに現代芸術というのが「ゲーム」であり、スポーツのワンプレーや戦術を読み解くが如くであるのならば、それはとても面白い営みであると思える。
    また美大の在り方について語っていたが、これは何も美大に限定されたことなどでなく、就職活動との接続について悩む一般の大学・教授・学生らとの構図と差異は無いと思われる。
    個人的には自分は純粋に勉学をやっていきたいし、そういう環境が設けられるべきだとも思うが、そこに固執するあまり、非アカデミックな俗世への接続が為されないのは問題であるとも感じる。
    この問題に個人的結論は出ていないが、氏の主張する現在の美大が抱える
    問題とその一つの解決方法が、何かヒントになり得るのではないか。

    以下箇条書き。

    ルイヴィトンと、ゆずの「アゲイン2」のジャケットは村上隆だったのかと今更になって知るなど。
    自分はグロテスクなものが苦手で、「ポリリズム」や「727」の制作過程の写真は結構辛かった。あんまし本論とは関係ない。

  • 自分はアーティストでも何でもないが、大いに刺激を受けた。「自由の履き違え」という村上氏の言葉は個人的に耳が痛い。自分の持つ甘さは全てそこから来ているから。

  • 勝負するためには、フィールドの特性を掴んで、それにいち早く対応するための対策を身につけることが大切。
    「枠がある中で勝負できるかどうか」が、プロフェッショナルとして活動していくための一つの条件なのだろう。
    表に現れたものを表面的に読みとかないようにするのも、表現したり、また、表現されたものを「味わう」為にも必要な心構え。

  • Twitterに勿体ないから読めないという人がいたが、それこそ勿体ない。一刻も早く読むべき。素人が読んでも勉強になる。芸術と金儲けをどうリンクさせるとか、現代芸術とはなにかとか。

  • ネット放送を本に起こしたとかだと思うけど、
    放送から出版に至るまで超高速で、
    文章もその期間に見合った物でもったいなかった。

    ネット放送は生物だからその良さがあって、
    そのままの流れを文章に落としただけじゃあ
    お粗末かと思いましたわたしは。

    けど中に入れ込まれた情報とむらかみたかしの熱意は伝わりましたので☆は3つ。

    最近出版業界がむらかみ氏に対して腰が低くみえるぞ。
    お互いの持ち場をうまいこと生かし合って物をつくらにゃ!

  • 僕は芸術家になろうと思っているわけではないが、僕がやりたい事はある種芸術家になるのと同じなのかもしれない。

    A級の芸術家になるためのイロハが書かれている本書にはヒントがいっぱいある。

    そして、芸術についての知識もちょっと得られる。



    以下は何となく覚えている事なので、
    間違っている可能性もあるが、かいておく。

    ・A級の芸術家になるには、社会にはルールがあって、そのルールに沿った形で作品を作らなければならない。

    ・芸術にはあらゆるコンテクストが含まれていて、それによって評価云々が決まる。

    ・一つに集中するのでなく、マルチプルにはっしんすべき。

  • 現代芸術の観かたがわかったような気分になれる本。興味深い。

  • 前著『芸術起業論』で、日本人が現代美術の世界で身を立てるための戦略論を展開した村上氏ですが、前著が戦略編なら、本書はその実践編とでも言うべきもの。芸術家を目指す若者達に、アートで食べていくための方法を説く、という教育的な内容になっています。

    何かと誤解されがちな村上氏ですが、本書を読むと、芸術にかける情熱とひたむきさ、そして、「世界を変えたい」という想いの強さに胸を打たれます。「闘争論」というタイトル通り、まさに人生を賭けて闘っている村上隆という名の芸術家の「圧力」が行間に充満していて、安易に読み流すことを許さない力が、本書にはあります。

    自由に生きたい、思うように生きたい、というのは、どんな人の心にも潜む願望だと思います。そしてその願望を叶えているように思える職業の代表格が芸術家で、だからこそ、「アーティスト」という職業は、一種、独特の羨望の眼差しをもってみられるのでしょう。

    でも、一見自由に見える芸術家だって、芸術の世界のルールのもとで生きている。そのルールに従わない限り、勝負さえできないのだから、まずはルールを知り、それに従うことが重要なんだ、というのが村上氏の主張であり、信念です。なのに、芸術家を目指す若者達も、それを導く教師達も、ルールを無視することが自由だと勘違いをしている。それではせっかく技術があっても、使い物にならない。そんな使い物にならない若者を大量生産しているのが今の美術教育だ、と痛烈な教育批判を展開します。

    これは、何も美術業界に限ったことではないでしょう。村上氏は、戦後の日本を「ルールという首輪」をつけられないで育ってしまった「自由という名の野良犬」と揶揄しますが、本当にその通りだと思います。ルールでつながることができないから、彷徨うしかない。「ルールを知り、それに従いながら、使いこなすことではじめて得られる自由がある」はずなのに、ルールを無視すること、或いは日本の中でだけ通用するルールをつくることで、見せかけの自由を謳歌してきた。そういう安易な自由を選択してきてしまったのです。

    「人間があるフォーマットの中でプレイする時に出てくる表現域が期待値を超えた時、それは芸術的な表現である」という村上氏の定義に従えば、ビジネスも含め、人間のあらゆる表現活動は、芸術的になり得る。いや、芸術を目指さなければ嘘です。そのためには、ルールを知ることに加え、ルールに従いながらも、そこを超えてゆく自在さとしたたかさを身につけるための鍛錬をしなければならない。よりよく生きる、とはすべからくそういうことだと思うのです。

    本当の自由を求めて自己や世界と格闘し続ける芸術家の生き様には、よりよく生きるためのヒントが詰まっています。美術に対する素養の有無に関係なく、多くの刺激とエネルギーを与えてくれる一冊ですので、是非、読んでみてください。

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    ▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)

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    昔は「貧しさ」と闘っていました。しかし、今、芸術家たちはお金が流入しすぎて無意味化してしまった資本主義経済と自分たち人間はどうやって接すればいいのかを必死に探しています。芸術家の実践として経済構造にまで迫らないではいられない、それは、ゴッホが自分の耳を削いでまで、死ぬまで、自分の芸術の信念を押し通したのとまったく同じです。

    トレンドは説明できる。マスターピースは時代背景から説明することは可能。だが、今、現在を説明することはできない。まして未来を創造するには実践するしかない。だから、行動するしかないのです。ぼくら芸術家は言葉なんか待っていられない。

    人間があるフォーマットの中でプレイする時に出てくる表現域が期待値を超えた時、それは芸術的な表現であると、言うことができると思います。

    鍛錬とか、繰り返し繰り返し無意味なことをやってその中で、無意味の中から意味を発見するということがもの作りの最初の第一歩なのではないか。

    作品作りは執念の具現化であると、ぼくは個人的に思います。それでしか時代を超えて人間に届くメッセージなどできないではないか。何があっても、現場に立って叫び続けることでしか、執念を固着させられないのです。

    いくらコマーシャルな作品を作っていても、その内容によって純粋性が決まってくる。純粋性とは何かといえば、ものを作る完成度の高さ、ものを作っていく方向性の設定の仕方です。(…)
    純粋性というのは作品を制作する誠意というふうに考えてみてもいい。

    ぼくは、決してギブアップしません。今日の失敗はぼくの失敗ではないと思い込んで、もう一回やればリベンジできるのではないか。そういうネバーギブアップ精神で、次、もうちょっと良くなるにはどうするか。それを毎日毎日、毎日毎日繰り返す。それがぼくにとっての「圧力」です。

    ひと口に、作品を売って「金を儲ける」といいますが、自分の手に持っている職で金を儲けるには種も仕掛けもない。自分の持つ正義への忠誠心に忠実に生き、こつこつとモノを創造し、社会に問い、そしてその問いかけに対しての評価が下る。良い時も悪い時も、自分の正義に忠実であってそれが社会から信用を勝ち得た瞬間しか儲けを手に入れることはできません。

    美大の目指す「自由」というのは無軌道な「自由」であり、その無重力状態を洗脳しているので学生は行き場がないのです。ただ、学生ももともとが「才能のない落ちこぼれ」ですから「苦労は嫌」「考えるの嫌」というのもある。なのに意外とみんなカッコつけていて、下積みは嫌いで理屈をひねり出すんです。それで、使い道のないような人間がどんどん量産されている。

    日本人は、一度お金を払ったら客であるという発想が強すぎて、「教育現場」を造れる大前提がセットされていないことを実感しています。その「客意識」は過剰といってもいい。だから、金を払っている大学生諸君は、お客さんなので学校に誠意を発揮されて当然だと思っている。お客さんである以上、すべての大学生はフラットに平等に扱わなければいけなくて、才能ある学生をつかまえて先生が才能を引き出したりするというのは不公平なわけです。

    作家になっていくには、師――徒弟制度とか、スクール(流派、学派)――、例えばバウハウスとか、こういうところで密着して作家にぴったりついて教育を受けるしか可能性はないと思うからです。なぜか。アートに求められものは何かというと、オリジナリティだからです。オリジナリティを個人の中から引っ張り出すのもこれは才能です。これを自力でやれる人はあまりいないのではないか。

    自由は無制限に転がっていない。ルールを発見し、その中での自由を獲得することが芸術の歴史です。

    ルールを学びましょう。英語やマナーを学ぶのと同じように勉強したらいいだけなんです。

    A級かB級かの勝負のわかれ目になるのは、
    ①文脈の説明、②理解者の創造、③ネットワーク
    の三つです。

    理解者というのは必ずあらわれます。大事なことは、そのあと信用をどう増やしていくかということです。

    社会と個人と自由と責任。このバランス。芸術家は自分が意図していなくとも文化的な仲介者になってしまうのです。その役目を負わされたとき、きちっとした線引きができていなければ、戸惑い、弱者面をして責任逃れをし、グダグダになって「芸術家はダメだね、やっぱり」と社会的信用を失っていく。自分の自由を主張するだけではダメなのです。

    ぼくが死んでも、芸術は生き残る。そのための準備をし続ける。ただ、作品あるのみ。作品を後世に伝えるために全身全霊を込めて闘う。何時死んでもいいような作品を作る。
    なぜなら、それが芸術家であるぼくの使命だから。あれこれやって、ぜんぜん全体の構想に追いつかない。プロジェクトの引っかかりを解決していく時間の方が、自分の命の時間より長いと負けてしまう。しかし、それでも、ぼくは「美」のために生きたい。命の時間よ、追いついて。

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    ●[2]編集後記

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    日曜日の朝は、よっぼどの荒天でない限り畑仕事をしています。今は春菊や小松菜など葉ものが中心。寒い中、すくすくと育ってくれています。芥子粒みたいな小さな種から、よくもまあ、こんなに繁るものだといつもながら感心します。

    昨日は、妻が風邪気味だったので、一人で畑仕事。誰とも喋らず、黙々と土と緑に向き合っていると、時間を忘れます。亡くなった母が、どんなに嫌なことがあっても畑仕事をしていれば全て忘れられる、と口癖のように言っていたけれど、本当にそうだなあと思います。子育てを終えた後の母の一番の愉しみは畑仕事でしたが、「育てる」というのは、それが子どもであれ、動植物であれ、後進であれ、作品であれ、きっと人間の本質に触れる営みなのでしょう。

    今、畑では間引きが中心です。所狭しと茂った春菊や小松菜の葉を適当に摘んでいくのですが、大きくなったものから摘むというより、どちらかといえば、邪魔になっているものから摘んでいく感じです。環境さえ整えてあげれば、植物は勝手に育っていくのです。

    人もきっと一緒ですね。でも、なかなかそう割り切れないから、人は人を育てることに右往左往してしまうのでしょう。

  • 今年のアートバーセルで見た「私は知らない。私は知ってる」のコンテクストと製作過程が具体的に説明されていた!
    節々の説明に対比や例に出されるジャンルが幅広くて(宮崎駿や村上春樹など)、アンテナの広い人なんだなあと思う。

    ・今、アートの世界で一番力のあるポジションはアドバイザーらしい。フィリップ・セガロとかかな・・?

    ・大きな絵を作る時はスライド・プロジェクターでキャンバスに映して描く、という技法があるらしい。

    >例えば、ぼくが絵を芸術作品にしようとすると、必ずやることがあります。目線の移動をどうやって誘導するかということを計算し始めるわけです。

    ・主張や仮説が主観的すぎて信ぴょう性に欠けることが多かったかもしれない。
    例えば、共産主義国家である中国が資本主義国家と合体して何とも呼べないものになった理由が中国アートの中に見つかると思ってブームになったという仮説とか。

    ・村上隆の作品遍歴
    ポリリズムやランドセルプロジェクト、ちびくろサンボなどの単発的でキャッチーでないコンセプト作品群

    日本のアイコンを作る、という一貫した目的による作品

    ・KaikaiKiki Gallery : ハイ(ブロウ)アート
     Hidari Zingaro : ロウ(ブロウ)アート

    ・現代美術を見る座標軸、つまりルール。
    01構図
    02圧力
    03コンテクスト
    04個性

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著者プロフィール

北海道大学スラブ研究センター教授。1942年長野県生まれ。
上智大学外国語学部ロシア語科卒業。(社)ソ連東欧貿易会ソ連東欧経済研究所調査部長を経て,1994年4月から現職。2000年4月から2002年3月までスラブ研究センター長。
専門分野は旧ソ連のエネルギー経済,ロシア極東経済,日ロ経済関係。
著書・論文には,『めざめるソ連極東』〈共著〉(日本経済評論社,1991年),『ソ連崩壊・どうなるエネルギー戦略』〈共著〉(PHP研究所,1992年),「ロシア石油・天然ガス輸出市場の形成」西村可明編著『旧ソ連・東欧における国際経済関係の新展開』(日本評論社,2000年),「サハリン大陸棚石油・ガス開発にともなう環境問題」(『ロシア研究』日本国際問題研究所,2001年),『サハリン大陸棚石油・ガス開発と環境保全』〈編著〉(北海道大学図書刊行会,2003年)など多数。

「2004年 『北樺太石油コンセッション 1925-1944』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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