リトル・ピープルの時代

著者 :
  • 幻冬舎
3.77
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本棚登録 : 1039
レビュー : 100
  • Amazon.co.jp ・本 (509ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784344020245

作品紹介・あらすじ

この世界は終わらないし、世界の"外部"も存在しない。しかし、それは想像力が働く余地が世界から消えたことを意味しない。私たちは"いま、ここ"に留まったまま、世界を掘り下げ、どこまでも潜り、そして多重化し、拡大することができる。そうすることで、世界を変えていくことができる。リトル・ピープルの時代-それは、革命ではなくハッキングすることで世界を変化させていく"拡張現実の時代"である。"虚構の時代"から"拡張現実の時代"へ。震災後の想像力はこの本からはじまる。

感想・レビュー・書評

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  • 東日本大震災後の世界をどのように捉え変えていくことができるかについて、村上春樹の小説、戦後の特撮ヒーロー、最近のポップカルチャーを素材に論じている。各論が終わるごとにそれまでのまとめが入る、親切な作りの本。

    過去40年間の特撮ヒーローにおける変身と正義の変遷を論じた箇所はとても面白かった。これも一種の集合知なのか、そのときどきの5歳児にウケる(納得できる)世界観が現実世界を如実にすくい上げている。初代ウルトラマンを見ていたおじさんたちと今の子供たちでは、世界の成り立ちが怖いくらい違うのだ。

    拡張現実に向かって想像力を働かせようという提言は、<いま、ここ>に働きかけるという点で、フェアトレや育児サポートの促進などで世の中をよくしようと活動している今の30・20代の動き方を見ていると腑に落ちる。初代ライダー世代はそういう拡張現実的な表現や活動に物足りなさを感じるかもしれないけれど(日経を読むとそんな感じだ)、なんというか、原発が爆発しても終わらない世界にあっても、ゾンビ化しないでみんな生きていけるんだという気分になった。

    しかしわたしもどちらかといえばオールドタイプであり、「キャラ>>物語」なコンテンツはあまり楽しめない。もうそういう脳みそに仕上がっちゃってるから、これから出てくる最先端の「面白いもの」を楽しむことはできないんだろうなあとちょっとさびしくなった。

  • 時代・価値の変化をウルトラマンと平成仮面ライダーで対比させての論評が新鮮。
    筆者が説く”リトル・ピープル”の時代は、<ここではない、どこか>へ連れて行かれることではなく、<いま、ここ>がどこまでも多様化し、そして拡張していくこと。
    さびしくも感じるけど、これが現実なのだろう。
    比較対象となる”ビッグ・ブラザー”としての象徴ウルトラマンで、何故初期ウルトラマン(というか、市川森一脚本)が今でも面白いのかが分かることも出来ます。
    もうひとつの対象、村上春樹について。
    「卵の側に立つ」と断言した違和感は私も少し感じた。本書で著者は壁=システムは私たちの外側ではなく内側にある、システムの外側で壁を破壊する立場には立てないという現実に目をつぶって、自分たちこそが卵と思いこもうとする人々こそ、壁=システムを築き上げた人たちだと論じる。そんな現実に抗ってきた春樹が「壁」と「卵」を性急に分けようとしていることが原因と言っている。言葉の比喩を取っ払って考えても、この意見は正解かと思う。

  • 目次を見れば一目瞭然であるが、村上春樹と、ヒーローのことと、東日本大震災のことが、大きな3本柱である。

    村上春樹の作品は、新刊が出れば気になって多分8割くらいは読んでると思うし、好きか嫌いかと二者択一を迫られれば好きということになるんだと思うし、もちろん現代文学におけるその大きさについて否定するつもりは全くないのだけれど、どこかにひっかかりを覚えていたんである。
    だから、そのひっかかりとは何なのか、を、考えながら読むことになった。

    村上春樹についての考察の中で、「現代的なコミットメントのコストを母=娘的な女性に転嫁するという性暴力的な構造」つまり「ある種のレイプ・ファンタジィ性」に支えられている、という箇所で、ハタと、そうかそれかな、と思い至った。

    きちんと分析できはしないのだけれど、抱き続けてきた違和感は、「なんか男の主人公が得してる小説だな」という感じだったかもしれない。
    だから、なんで(その割に)こんなに女性ファンがいるのかな、という違和感だったのかも。
    (これは明確な答えではないので、これからも村上春樹の作品を読みながら、ひっかかって考えていくしかないんだけれど)

    しかしこれは結局のところ、「父」「父なるもの」論である(だよね?)。
    論なので、好きも嫌いもない。フムフムなるほどね、そういう考えなわけね、それもアリだよね、と頷いたり、うまく頭の中で整理されなければ、なんだかスッキリしないまま唸ってみたりするだけである。

    しかし関係ないけど、最早「サブカルチャー」というのは死語かもしれないなあ。サブじゃないもん、リッパに「センター」張ってるもんなあ。

  •  序章及び第1章で展開される村上春樹の作品分析が圧巻。「国内においてはポップカルチャーとして消費される村上春樹が、なぜ世界文学たり得るのか」という問いからの出発がいい。蓮見重彦、柄谷行人、浅田彰らの村上批判をも切り捨てながら村上春樹の小説の根幹へと迫る姿勢が見事。ビッグブラザー(国家・帝国)に対するディタッチメントから、貨幣と情報のネットワークが支配するリトル・ピープルの時代へのコミットメントへと舵を切る村上春樹の創作の源へと迫っている。「父」へのかかわり方へのこだわりは一体どこからやってくるのかが気になったが、あとがきでその秘密が明かされる。父との確執があり、ペンネームで父の名前を名乗っているという。鋭く時代を読み、村上文学を分析しながらも、自らの体験を背負い込むしかない人間の姿が浮かび上がってきて興味深い。

  • 知らないうちに、仮面ライダーはとんでもないこと になっていた。13人の仮面ライダーたちが殺しあう『仮面ライダー龍騎』、自身にモンスターを憑依させることで4通りの仮面ライダーに変身する『仮面ライダー電王』、主人公が過去9作品の世界を自在に行き来でき、さらにすべての仮面ライダーに自在に変身できる『仮面ライダーディケイド』…。なんと複雑怪奇な「変身」の進化であることか。

    著者渾身の仮面ライダー論は、村上春樹の『1Q84』で登場するリトル・ピープルと接続する。「資本と情報のネットワークの下、リトル・ピープル=小さな父たちがそれぞれの正義を抱えて乱立するこの新しい世界は、仮面ライダー同士のバトルロワイヤルとして私たちの前に登場した」。つまり、独裁者であれ国民国家であれ、何かが正義/悪をわかりやすく体現するような時代は幕を閉じ、複数の小さな正義や悪が衝突しあう時代に移り変わった。村上春樹の諸作品が描き出したこうした変化を、著者は、ウルトラマンと仮面ライダー両シリーズの読み解きを通じて精密に分析するとともに、新たな時代を生き抜く想像力のありかを探索する。

    著者が探り当てた想像力は、「いま、ここ」を多重化する〈拡張現実〉的想像力だ。たとえば、アニメの舞台となった実在の都市をファンたちが訪れる「聖地巡礼」は、その典型例である。閉塞感に包まれた現実は、工夫次第でいかようにも豊かにできるし、変革できる。歴代仮面ライダーの「変身」は、世界を変身させることにもつながっていたのだ。

  • ヒーローものを語る上で不可欠なのが正義と悪。
    圧倒的な正義/悪、勧善懲悪がなくなった作品には、登場人物には「自分が正義として決断した物語にどう責任をとるのか」だけが残される。

    これは誰にも平等に自由が保障されているようで、人を突き放した残酷なルールでもあると思う。
    正義と悪という思想がなくなると、人々の持つものは全て本人の欲望としてとらえられる。

    例えば『仮面ライダー龍騎』は、「生き残った者が願いを叶えられる」という権利を獲得するため13人の仮面ライダーが殺し合う物語。
    主人公の真司の目的はライダー同士のバトルロワイヤルを止めさせることなのに、ゲームを停止させるためにはゲームの参加者としてバトルロワイヤルに加わざるを得ない。

    正義の概念が失われた舞台では「モンスターから人々を守りたい」「殺し合いを止めさせたい」という正しく見える願いも真司の欲望であり、わがままでしかない。
    だから真司はその他大勢の欲望を抱えたライダーと同列に扱われる。

    普通のヒーローは敵を倒しても、それが正義のため、正しいことだからという後ろ盾を持っている。
    でも、『龍騎』においてその後ろ盾は存在せず、真司は「戦いの辛さとか重さとか、そんなのは自分が背負えばいいことなんだ。自分の手を汚さないで誰かを守ろうなんて甘いんだ!」と、自分の正義を自分のわがままとして背負い、戦い、命を落とす。

  • 面白い!! 男の子いないから仮面ライダー系見たことないけど、ちょっと興味深いな。

  • 2012.1記。

    日経の書評欄に掲載されていたのだが、評者の安藤礼二が絶賛。()「2011年がどういう年であったかを考える上で欠かせない書物となるだろう」というくらいの勢いだから只事ではない。

    本書は村上春樹について論じているが文学論ではない。むしろ、大衆から圧倒的に支持されている表現作品一般から現代の思想的課題を読み取ろう、という試み。

    かつて社会には圧倒的な強者(=たとえば国家=「ビッグ・ブラザー」)が存在し、それへの対抗・貢献という形の物語の中で個人は自我を認識したり抑圧されたりしてきた。が、今やネットワークの時代であり、そのような「圧倒的他者」はもはや存在しえず、無数の小さな正義・物語(=「リトル・ピープル」)が乱立する時代となった。

    村上春樹は「1Q84」においてこの時代ならではの物語の構築を試みて失敗したが、商業的要請によって大衆の「気分」にもっとも敏感であるべきテレビ番組、とくにヒーロー番組である「仮面ライダー」が、むしろこれに成功しつつあるのだという。
    うーん・・・「1Q84」は失敗作かもしれないが、それは目指しているものが「時代の描写」ではなく、「時代を超えた普遍性の獲得」にあるからなのではないだろうか・・・というようなことを(ハルキスト(笑)としては)考えなくもない。

    補論の「ダークナイト(バットマン)」分析は本書の主張の裏付けとしても秀逸だし、戦時中の戦意高揚特撮映画を出自に持つ円谷プロが「ウルトラマン」を制作した一方、大映の時代劇チームの「殺陣」のノウハウをつぎ込んだのが(等身大のライダーがショッカーと大立ち回りを演じる)「仮面ライダー」である、といった小ネタの楽しさもある。面白い。

  • 社会
    思索

  • <span style="color:#0000ff;">P102
     (「ビッグブラザー」の与える)大きな物語が衰微して消費社会が浸透し、価値相対主義が前提化すると、そこから解き放たれた人々(リトル・ピープル)は「何が正しいか/価値があるか」わからない宙づり状態に耐えられず「自分の信じたいものを信じる」用になり、その決断を相対化の視線から守るために小さな共同体にひきこもることになる。
     そしてその小さな共同体を護るために病力性を発揮することになる。その端的な例が(略)オウム真理教である。

     (村上春樹は)リトルピープルだけが存在する世界だけに追いつくので精いっぱい</span>

     で、その世界をとらえきれていないとし、ポップカルチャーからウルトラマンと仮面ライダーを引用することで、「リトルピープルだけの世界」を記述しようとする。

    <span style="color:#0000ff;">P355 村上春樹は、ビックブラザー(大きい物語や強大な敵を与えるもの、圧倒的な外部)には誰もなれないことには敏感だったが、(ビック・ブラザーが衰微していく中で)誰もがリトル・ピープルとして機能してしまうことには鈍感だった。
     しかし、虚構の中のヒーロー達はその鈍感さを許されることはなかった。なぜならば、彼らこそが、まさに市場に渦巻く消費者たちの欲望によって、否応なく、父として機能すること=正義という名の暴力を執行することを宿命づけられた存在だからだ。

    (P359)
    「光の国」という絶対的な<外部>から来訪したウルトラマンに対し、カルト的な秘密結社によって昆虫の力を移植された改造人間である仮面ライダーは私たちの世界の<内部>から発生したヒーローだ。そして私たちは、そんな世界の<内部>から湧き上がってくる力を手にすることで、想像力を行使する=「変身」することができるのだ。

    (P380)
     第1章、第2章を通じて、本書はグローバル/ネットワーク化以降=リトル・ピープルの時代における想像力の在り方について論じてきた。それはいい換えれば、私たちにとっての「壁(システム)」が国民国家から貨幣と情報のネットワークに変化したときの虚構の、物語のあり方について考えることでもあったはずだ。世界は一つにつなげられ、<外部>(ここではないどこか)を喪い、<内部>(いま、ここ)だけが存在する。しかし、それは想像力が枯渇したことを意味しない。<いま、ここ>にどこまでも潜り、そこから汲みだされた力で<いま、ここ>を多重化していく想像力の追求こそが、第一章で紹介した村上春樹の挑戦であり、第二章で紹介した仮面ライダーたちの戦いであり、そして本節で紹介したネットワークを背景にしたポップカルチャーの台頭、特におたく文化においては、日本的未成熟というビッグ・ブラザー的な(大きな)物語でなく、「繋がりの社会性」を背景にしたネットワークへのn次創作回路の肥大こそがその創造力の源泉として機能している。
    </span>

    <span style="color:#009900;">P205
     日本のロボットアニメの歴史とは、男性器的なものの軟着陸の歴史でもある。「鉄人28号」や「マジンガーZ」も(祖)父から子への伝言として登場した。国内アニメーションにおける「ロボット」は男の子が「父」から与えられて獲得する巨大な身体として設定され、彼らはその巨大な体を用いて敵と戦っていった=大人社会に参加していった。(略)少年に父親(科学者、もしくは軍事組織の司令官として描かれる)が与える拡張された身体。それが「ロボット」だ。

    P207
     「マジンガーZ」以降のロボット・アニメはリトルピープル的な存在(主人公の少年)がロボットという「依り代」を与えられることでリトル・ピープルのままビッグブラザーを「演じる」ことを可能にしたと言えるだろう。
    </span>

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著者プロフィール

批評家。雑誌『PLANETS』主宰。著書に『ゼロ年 代の想像力』(ハヤカワ文庫)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『日本 文化の論点』(ちくま新書)ほか。

「2014年 『静かなる革命へのブループリント』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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